第1.5話「夏休みの間奏曲、あるいは唇のねじれた先生」

「退屈だ!」

「ちょ……大きな声を出さないでよ、不老ふろう

「実に退屈極まりないじゃないか、御器所ごきそ君」

「学校がないからね」

「君たち小学生がどうやってこれほどまで単調で変化のない夏休みなるものに耐えられるのか、僕は毎年毎年はなはだ疑問に思っているよ!」

「そうかな。宿題だってあるし。っていうか、不老も六年生じゃん」

「宿題! つまらないね」

「不老は苦労したことないの?」

「ないね。そもそも宿題なるものをやったことがない」

「マジかぁ……でもヒマつぶしにはなるんじゃないの? 脳を鍛えることだってできる」

「学校の宿題ごときで鍛えられる単純な脳をお持ちなんだねえ、御器所君は。僕の脳は、もっと深遠な謎を解くためにこそある」

「不老君、謎ならあるよ」

「おや銀河ウナさん、いたのかい?」

「ひどい、さっきからずっといたでしょ? 気づかないって、どんな観察眼してるの?」

「僕は脳内にインプットされる情報の要不要を、無意識的に取捨選択する能力を常に涵養かんようしているんだ」

「それって、わたしの存在は不要だっていう意味? 不老君、ひどい! サイアク!」

「無論、君のこれから発言することは、僕にとって有用な情報かもしれない。傾聴するよ」

「ほんと不老君って最低で腹立つ! もういいよ、御器所君に話すね」

「へ? 僕? あ、ああ、いいけど……どんな謎なの?」

「御器所君にも関わることなんだからね! あずさと連絡取ってないでしょ」

「あ、梓って……本郷ほんごうさんね。あの、えーと、いつだっけ? えーとあのその……一回メールしたけど、えー……」

「あーもうっ、ホントにダメ男! 前にも言わなかったっけ? オトコはマメでないとダメなんだよ」

「あー、えー、うー……なんか、ごめんなさい」

「梓に直接謝りなさいよ。で、『謎』っていうのは、ついこのあいだ梓とも話してたことなんだけど」

「ねえ銀河さん、僕は本郷梓さんのお父上が、御器所君の家族の不倶戴天の敵だということは忘れていない。今ここで話しても大丈夫な『謎』なのかな?」

「ちょ、ちょ、ちょっと不老、ストップ! 不倶戴天の敵ってそんな、いや……」

「大丈夫、梓のお父さんが警察の偉い人だというのは、関係ないから。そんなことよりも今、いちばん大きな謎っていうのは、梓やわたしの塾の先生が、夏季講習でわたしたちに『嫌がらせ』してくることだよ。先生はわたしたちに『謎』を出すの。で、わたしたちがいつも解けないから、ニヤニヤ唇をねじっていやぁな感じの笑い顔を見せて馬鹿にしてくるんだよ。ほんとあの先生、腹が立つ!」

「ほう、先生からの挑戦状というわけか。それはそれで面白そうだ。御器所君、安心したまえ」

「また出たよ、『たまえ』って……」

「二人ともちゃんと聞きなさい! 梓とわたしが通ってる塾の先生のなかで、いちばん厳しい算数のベテランの先生がいるの。五十過ぎで、以前はどこかの高校の先生をやってたそうなんだけど、何年か前に辞めて塾の先生に転職した、っていう先生。教えてくれる内容はとっても難しいけど、解説がていねいな授業をしてくれて、うちの塾のなかではカリスマ教師みたいに言われてる」

「ふむ、悪い先生ではないようだが?」

「その先生は、前回の授業の最後で出した宿題を、次の時間に一人だけ生徒を指名して、答えさせるの。教室の前のホワイトボードを使って、その問題をクラス全員の前で解かせる。もしも解けなかったら、あとで居残りをさせられる」

「ふーん、それって、塾ならよくあることなの?」

「わたしたちが行ってる塾は、とても授業のレベルが高くて、とっても厳しいんだ。みんな居残りを恐れてるの」

「銀河さん、算数の先生が出す問題が『謎』だというのかい? はっ! これはこれは僕もずいぶんと低く見られたものだよ。受験勉強なるものは、特定の思考パターンを確立すれば、いかに凡庸な脳の持ち主であっても解答に到達できてしまうじゃないか。僕の出る幕はないようだ」

「違うよ、不老君! 確かに算数の問題だったら、苦労すれば誰にだって解けるよ。そうじゃなくて、生徒の指名のしかたが『謎』なんだよ」

「つまり、次に誰が当たるかわからないということだね?」

「正確に言うと、生徒の当てかたは、完全にランダム。その先生は塾の教室に、一冊まるまる『円周率』が百万桁も書かれた本を毎回持ってきてるんだ」

「えーと、エンシューリツって……3・14でしょ。一冊の本ってどういうこと?」

「御器所君、3・14はあくまでも有効数字三桁で四捨五入して丸めた数値に過ぎない。実際には無限につづく無理数だということくらい、一般常識として知っておくべきだろう」

「ぐぬぬ……」

「塾の先生はね、難しい宿題の問題を出したあと、授業時間の最後に、円周率が百万桁まで載っているだけの『πパイ』って本を取り出すの。そして、そのページをぱらぱらっとランダムに開いて、適当に数字を二つ選ぶんだ」

「確かにその方法であれば、限りなく人間的作為を排除した、不規則な乱数を生成できるようだ」

「うん。塾のクラスはちょうど三十一人で、そうやって作った二桁の数字が、次の時間に宿題を答える生徒の受講者番号になるんだ。たとえば、1と5なら15番の生徒、0と2なら受講生番号2番の生徒が、次の授業で、みんなの前で答えさせられる」

「しかし、それは先生が作り出した偶然にもとづく乱数であり、論理的に推理すべき『謎』でも何でもない」

「もうっ、不老君、話は最後まで聞きなさいよ。その算数の先生はそうやって授業の最後に次の生徒の番号を決めるけど、それを生徒には直接言わないんだよ」

「っていうことは、次の授業で、はじめて『自分が答えるんだ』ってわかるわけなんだね?」

「それが……違うんだ。先生は、授業の最後の最後に、ヒントを出してるって言ってる」

「ほほう、どんなヒントを?」

「先生が『ヒント』だと言ってるんだけど、それが何か、誰にもわからない……それこそが『謎』なの。先生からわたしたちに挑戦状が出されたのに、いまだに誰一人、それが解けない。悔しいよ」

「ふーむ、これは興味をそそられる謎だね。しかし、今の話を聞いただけでは、あまりにも手がかりが少なすぎる」

「ぼくたち、その先生の授業を受けてるわけじゃないから、推理なんかできるはずないじゃん」

「御器所君、君はイマジネーションに欠けるねえ。数多くの探偵小説を読んでいるんじゃないのかい? ならばそこで養われた物語読解力を発揮すべきじゃないのかね? ねえ銀河さん、その先生の授業は、どのようにして終わるのかな? できるだけ具体的に、教えてくれたまえ」

「もう『くれたまえ』は勘弁してくれえ……」

「再現と言っても、何もすることなんてないよ。『π』の本を取り出して、教卓の上で適当なページを開いて……」

「もっと具体的に!」

「具体的に? えーっと……左手で本をページを持って、パラパラってめくりながら、右手に持ったボールペンを、トンってページに刺すだけ」

「ふむ、そこに作為の入る余地はなきにしもあらずだ。熟練したマジシャンならば、特定のページを開き、特定の数字を選ぶことができるかもしれない。それから?」

「えー……いつも先生はそこでいつも『お待ちかねの宿題担当が決まりました』って唇をねじって、ニヤニヤしながら言う。みんな緊張してるけど、男子なんかはふざけて声を上げるかな」

「幼児的な小六男子たちの発言などどうでもいい。先生の行動の詳細を具体的に記述してくれたまえ、細大漏らさずに」

「そうね、先生はそこでいつも本を閉じて、一回、教室を見回すんだ。なんだか、勝ち誇ったみたいな目線で、唇をねじった表情でわたしたちをジロジロと見回しながら、うなずいてる」

「そっか、その、うなずく様子に『ヒント』が隠されてるんじゃないの?」

「ほほう、どんなヒントだい、御器所君?」

「いや……それは、よくわからないけど、たとえば……えーと、たとえば……そうそう、次に当てる予定の生徒にだけ二回うなずくとか……ウィンクするとか?」

「それはありえないよ。だって、前回の授業ではわたしが当てられたけど、その前の授業の最後では、先生と眼があうことすらなかったもん」

「ではやはり、二桁の受講者番号を『ヒント』として伝えている、と考えたほうがよさそうだ。それで、先生はクラスのみんなをニヤニヤと見回したあと、すぐに教室から出て行ってしまうわけではないだろう?」

「いや、すぐに出て行っちゃうよ……いつも、わざとらしくみんなに向かって大げさにヘンな敬礼とかしておどけて、教室から出てっちゃう。最初のうちは、愉快な先生なのかと思ったけど、だんだんみんなも先生のおどけた姿に腹が立って来てるみたい――わたしもね」

「全然ヒント出す気ないじゃん」

「しーっ、御器所君、ちょっと口をつぐんでいてくれたまえ」

「へ? くれたまえって……」

「ねえ銀河さん、ひとつ君は実に奇妙な発言をしたね?」

「えっ? 奇妙? わたし何も言ってないけど」

「いいや、君は普通ならば常識的に決して発しない言葉を、つい数分前に口にしていた」

「不老、何言ってんの? 今は塾の先生の謎を解くんじゃないの?」

「銀河さん、君の通っている塾のクラスの生徒は三十一名、そうだね?」

「うん、そうだけど」

「銀河さん、君はこう言ったんだよ、『ちょうど三十一人』と」

「言ったかな……うん、言ったかもしれない」

「なぜ『ちょうど三十一人』なのかな?」

「えっ? どういうこと?」

「中途半端な『三十一人』がなぜ『ちょうど』なのだろう?」

「確かにそうね……わたしが、ホントにそう言ったの?」

「間違いなく言ったね。御器所君、覚えているだろう?」

「えーと……そうだっけ? うん、言ってたような気がするような……気がする」

「それはきっと、誰かが――ほぼ間違いなくくだんの先生が『ちょうど三十一人』という表現を使用し、それが銀河さんの記憶にこびりついていたからではないのかな? だからこそ、無意識的に『ちょうど三十一人』という表現が口をついて出てしまったんだよ」

「その先生のラッキー・ナンバーが31だったとかいうこと?」

「御器所君、ちょっと黙っていてくれないか。論理的思考の邪魔だ」

「ひどいなぁ……」

「ねえ銀河さん、君の受講生番号は何番だい?」

「わたし? えーっと、6番だけど。だから、先生が『π』の本で当てた番号は『06』」

「その日の授業の最後で、先生とは眼が合わなかったんだね。その代わりに、先生は何かヒントとなるサインを送ったはずだ。算数の先生は教室を出て行くとき『ヘンな敬礼』をすると言っていたね。どんな敬礼だろう?」

「そんなの……覚えてるかなあ? たぶんわたしのときは、今までいちばんふつうの敬礼というか、Vサインだった気がするな」

「Vサイン……! なるほど、そうだったのか!」

「へ? 不老、何かわかったの?」

「Vサインこそが、銀河さんの番号なのさ!」

「えーと、不老? 全然わかんないだけど」

「ああ御器所君、君の感想などどうでもいいさ。間違いなく、確かにクラスの生徒が『ちょうど三十一人』でよかったんだよ! これがもし三十二人であったなら、先生はほかのヒントを考える必要があった」

「不老君、どうして三十一人が特別な数字なの?」

「それは、31が、片手で数えられる最大の数だからさ」

「へ? 何言ってんの? 片手なら、5までしか……」

「既成概念の牢獄に囚われたままの君は、いつまでたっても陳腐な推理しかできないねえ、御器所君」

「はいはい、すみませんね」

「二進法さ」

「ニシンホー?」

「そう、二進法を使えば、片手でちょうど三十一まで数えることができる」

「全っ然、わかんないんだけど、不老。いや確かに『二進法』って言葉は聞いたことあるけど、どうやって数字を片手で表すんだよ?」

「いいかい、我々がふだん使用しているのは十進法だ。それは御器所君でも知っているだろう。アラビア数字を並べて表記するのが一般的だ。漢数字でもローマ数字でもいいのだが、数学的演算のためにすぐれているのは、やはりアラビア数字による表記だろうね。一の位、十の位、百の位、千の位……と数字をならべて表記することにより、いかなる自然数も表記できるし、加減乗除いかなる演算に関しても計算を楽に行うことができる」

「不老君、脱線してない?」

「いや、僕はいつだって脱線などしないさ。いいかい、銀河さん? 二進法で数字を表記するためには、0と1のみの数字を使う。たとえば、十進法における1は二進法でも1。だが、十進法の2は二進法では『10』になる。3は『11』、4は『100』……」

「うーん、よくわからないなぁ」

「そんなことないよ、御器所君。わたしも塾の授業で習ったよ。二進法だけじゃなくって、どんな『N進法』でも、数字を表すことができるんだよね」

「さすが銀河さんだ! その通りさ。二進法で表記するのは、一の位、二の位、四、すなわち二の二乗の位、次は二の三乗、つまり八の位……となる」

「えー、まったく意味不明なんだけど」

「たとえば7という数字を考えようか。7は、4(すなわち2の二乗)が一つ、2が一つ、1が一つからできている。したがって二進法では『111』と表せる」

「あのぉ、まだよくわかんないけど、それが塾の先生の『敬礼』と何の関係があるんだ?」

「ここまで言ったら君にも理解できるかと思っていたんけどねえ、御器所君。片手の五本の指をそれぞれの桁に対応させるのさ」

「不老君、わたし、わかった気がするよ! つまり親指が一の位、人差し指が二の位、中指が四の位……ってことでしょ! 『1』ならその指を立てて、『0』ならその対応する指を折り曲げる……」

「素晴らしい! ならばもう銀河さんにはすべてお見通しだね!」

「えーと、ぼくには、まだよくわかんないけど……」

「わたしはもうわかるよ。いい? わたしの出席番号は6番。6=4+2。つまり二進法で表すと、四の位が1、二の位が1、一の位が0――つまり『110』になる。で、それぞれの桁を指に対応させると、親指は曲げて、人差し指と中指だけを伸ばす――」

「あ、それってVサインだ!」

「ようやく理解が追いついたようだね、御器所君! 二進法を使うならば、『一の位』の親指から、『十六の位』の小指まで使用することによって、31までの数字を片手で表現できるのさ」

「ううむ、難しいなぁ。たとえば……『25』だったら、どうやって表すの?」

「十進法における『25』は……25=16+8+1、すなわち2の四乗が一つと、2の三乗が一つと1から成る。したがって二進法で表記するならば『11001』になるね。それぞれの指に対応させるならば、小指と薬指と親指を立てて、中指と人差し指は折り曲げることになる」

「ちょっと……手が痛いなぁ」

「そっかぁ、なるほど。全部の指を伸ばした『パー』で表せるのが、最大の数字の31。だから1から31までの全部の数字を表せるはずだけど、なかには手で表現するのが難しい数字もあるわね」

「銀河さん、梓さんの受講生番号はいくつだい?」

「えーと、確か『11』って言ってたと思う」

「はっ、それはまた実に面白いね! ねえ御器所君、やってみたまえ!」

「へ? また『たまえ』か……11っていうと、えーと、えーと……」

「御器所君、簡単じゃないの。11=8+2+1。つまり二進法で表すと『1011』でしょ」

「えーと、えーと……難しいなぁ」

「不老君、ありがとう。これであの唇のねじれた先生の挑戦状に、受けて立つことができるよ!」

「ふむ、実に初歩的な謎に過ぎなかったがね。算数の先生が算数の知識を利用して挑戦するなど、たいへん凡庸な行動だと言わざるを得ないね」

「偉そうだった先生の唇が、まっすぐになるかもね。ちょっと御器所君、何やってるの?」

「えーと、11を手で表そうとしてるんだけど……」

「まだわからない? 二進法の『1011』だから、親指と中指と薬指を立てるんでしょ」

「うわあっ、痛てててっ……指……った!」

「唇のねじれた先生も、梓さんは指名したくないだろうね」


第1.5話「夏休みの間奏曲、あるいは唇のねじれた先生」完

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