第1話「学校の怪談」後編
「『現場保存して』って言われたけど、そういうわけにいかなかったよ」
「いろんな先生に、早く掃除しろって言われちゃうんだ。しょうがないよ」
「いや、それよりも、どうして先生が……?」
高見がぼくの背後を見やった。
「超常現象とか呪いとかホラーとかスプラッターとか、わたしは超苦手なのよねえ。弱るなぁ」
全然、弱っていない。萱場先生の顔は、とてつもなくうれしそうだ。
ぼくはしゃがみ込み、地面に顔を近づける。今朝には詳しく観ることができなかった足跡を、あらためて観察した。朝には二十個以上もあった足跡が、今では七個しか残っていなかった。スマートフォンを取り出し、できるだけアップでその写真を撮った。左右どちらかは判別しにくかったけれど、七つの足跡には二種類の形があるように見えた。一種類は三つ、もう一種類は四つだけ残されている。三つの足跡のほうが、残り四つよりも少し深く地面にめり込んでいるようだ。しかし四つのほうがサイズが少し大きい。長さがおよそ七センチ。いっぽうの三つは五ミリほど短い。拡大鏡が手元にないのが残念だ。
「まるで探偵みたい。不老君に似てる!」
萱場先生が、脇からよけいなこと言う。
「どう? 何かわかること、あるかな?」
高見翔馬がぼくに歩み寄って来た。
「いやぁ、これは……その、難しい事件だね」
ぼくは曖昧に首を振って、後ずさった。そのときだった。
「足跡を付けた人物は、左足もしくは左手に怪我をしている」
唐突に口を開いたのは、
「へっ? どういうこと?」
思わず振り返り、眼を見開いた。本山理沙子はさらに続けた。
「二宮金次郎がほんとうに深夜に校庭を走り回ったはずはない。ならば、足跡を付けた人物が存在する……」
「えっ、えっ、何言ってんの?」
ぼくは問いかけたが、本山理沙子は早口でまくしたてた。
「その人物とは、親族あるいは近しい人間関係のなかに、私立T高校もしくは県立Z高校、あるいは市立N高校、さもなければJ大学かM大学の現役学生か卒業生がいる可能性が高い……」
「いつそんな推理したのっ?」
ぼくは狼狽して、本山理沙子の両肩をぎゅっと
「放して、
本山理沙子は露骨に嫌そうに口元をゆがめて、ぼくから身を引いた。ぼくは我に返った。「あわわ……」と後ずさる。女子に触れる――肩を摑むなんて、ぼくはなんということをしてしまったのか。ただでさえ暑い日なのに、さらに顔面から火を噴いてしまう。
「つまりその、あわわわ、ほんとにごめんなさい……!」
「理沙子ちゃん、なんでわかったの?」
助け船を出してくれたのは
「今、メッセージが届いたんだよ。わたしのアカウント、マコトさんには教えてないはずなのに……ヤバくない?」
本山理沙子が差し出したスマートフォンの画面には、同じ文言がメッセージとして表示されていた。差出人は、Makoto。
呆れた。と同時に、ちょっとぼくは怖くなった――学校の怪談よりも。
マコトさんは、どれだけ強い力を隠し持っているのだろうか? もしもマコトさんが
ぼくは携帯電話を取り出した。マコトさん宛てにメッセージを打ち込んだ。
――どうして写真だけでわかったんですか? それに、どうやって本山さんのアカウントを知ったんですか?
ほんの十秒後に、返信があった。
――第一の質問の答え。すべての不可能なものを排除したのちに残ったものが、いかに不可能に思えても、それは真実に違いない。そこから推理を始めるべき。それから第二の質問の答え、人のアカを見つけるのが、わたしの特技ってことにしておいてね。
まるで不老のようなことを言う。おまけにハートマークまで付いている。とそのとき、ぼくのスマートフォンが引ったくられた。金銀河だった。怒りに唇をへの字に曲げ、ぼくのスマートフォンに向かって文字を連打する。
――不老君がそこにいるんですね。隠してもムダ。不老君から推理を聞いたんでしょう?
少しして、返信があった。それを見た金銀河の表情がぱっと赤く染まったのが、隣にいるぼくにも見て取れた。
「マコトって人も、不老君も、ほんっとに腹が立つ!」
放り投げるように返して寄越したスマートフォンの画面には、こう表示されていた。
――銀河ちゃんの気持ち、よくわかる。「自分こそがいちばんショウちゃんを理解してる」って思いたいのよね。その乙女心、超カワイイ! 大丈夫、わたしはゼッタイに銀河ちゃんの恋敵にならないから。嫉妬になんか、あなたのエネルギーを使わないでね。
「ああ、マコトって人、大っ嫌い!」
金銀河は両の手に拳を握り、ぷりぷりしながら離れて行った。
ふと気づくと、すぐ隣で萱場先生が画面を覗き込んでいた。
「ふーん、そうだったんだぁ。気づかなかったなぁ、担任ともあろうわたしが」
萱場先生はにんまりと微笑んでいる。
「それより、この足跡はいったいどうやってできたんだ? 不老の推理は?」
高見翔馬は、ぼくたちのあいだのやり取りに怪訝そうだった。腕組みをして首をかしげながら、本山理沙子に歩み寄った。
「さっきの推理をもう一度聞かせてくれる?」
「えっ? 推理って……えーと」
本山理沙子がなぜか妙に慌て始めた。そしてどういうわけか柄にもなく、おそるおそるといった様子で、携帯電話の画面を高見翔馬に見せていた。
「あーあ、なんか怪奇現象とか、つまんないわ」
気づくと、いつの間にか神沢雅也がちょっと不機嫌な面持ちで、竹箒を片手にぼくのすぐ隣に立っていた。
「つまらなくないよ。まだ全然謎が解けてない」
ぼくは神沢に答えた。
「高見、怖くないみたいだ」
「部長だから、責任感があるじゃないの? それに、謎解きが楽しそう」
神沢雅也は口先を尖らせるような表情で、高見翔馬に声をかけた。
「なあ部長。石灰、掃除しちゃっていい?」
「ああ、しかたない」
高見はさすが野球部長らしく、てきぱきと後輩たちに指示をした。そしてぼくへ歩み寄って来ると、ぐいと顔を近づけてきた。彼はぼくの耳に囁いた。
「今夜、ニノキンを見張る。一緒に来てくれるね?」
二宮金次郎像が夜中に校庭を走り回るなんて、バカバカし過ぎて笑い飛ばしたい。けれど高見翔馬の大真面目な眼を見ると、断ることはできなかった。
その夜、十時――ぼくは小学校の正門で高見と合流した。
それだけじゃなかった。
「よくおうちの人、許してくれたね」
ぼくが言うと、眼の前の
「わたしはちゃんと両親に信用されてるからね。それに、先生だっているから安心。ね、
「なんでそうなるかなぁ……」
ぼくはため息をついた。どういうわけか、金銀河だけじゃなく、本山理沙子と
「痒いよぉ。ズボンの上から刺して来る。虫除けスプレーしたのに!」
長袖長ズボンの完全防備の服装だが、人一倍、蚊に好かれているようだった。
この時刻だというのに、クマゼミがまだ鳴いている。空気はじめじめと重い。今夜もまた熱帯夜だ。
「で、どこで二宮金次郎を見張るの?」
ぼくが高見に訊くと、萱場先生が「ダメダメ」と頭を振った。
「校内に入るのは禁止。防犯装置が作動して、警備会社と警察に連絡されます」
「あっちの駐車場の前、ちょうどニノキンを見張れる場所があるんだ」
高見に先導されて、ぼくたちは学校の脇へ回り込んだ。片側一車線の道路を挟んで向かいにコインパーキングがあり、確かにそこからは生け垣の隙間越しに二宮金次郎像を覗き見ることができた。
「ねえ、何時に二宮金次郎が動き出すの?」
金銀河が訊ねる。
「それを調べるんだよ」
高見翔馬が答えると、金銀河は呆れ顔になった。
「ええっ? じゃあそれまで蚊に刺されながらずーっと待ってるの?」
「わたしはちょっとワクワクするな」
そう言ったのは本山理沙子だ。理科室でポルターガイスト現象に二度も出くわして心底おびえていたのに、今は妙にうきうきしているようだ。女子の気持ちは理解できない。
「ほんとうなら、小学生がこんな時刻に出歩いちゃいけないのよ。困ったわねえ。お巡りさんが来たら叱られちゃう。どうしようかなぁ」
萱場先生は言うが、そんなに困っているようには見えなかった。
と、そのときだった。ぼくたちの背後から音もなく黒塗りのワゴン車が滑るように近づいてきた。本山理沙子が「ひっ」と声を上げた。ウィンドウにはすべてスモークが貼られている。
「ま、マコトさん……?」
金銀河が声を漏らした。
昨日、マコトさんのところへ連れて行ったSUV車にもよく似ている。が、そうではないことに、ぼくは気づいていた。内心で「あちゃあ」とつぶやいた。
ぼくたちの前でワゴン車は停車し、電動スライド・ドアが開いた。
「どうぞお乗り下さい」
運転席の巨漢がスキンヘッドをこちらにめぐらせて、静かに言った。
「わざわざ来てくれなくてよかったのに」
ぼくが言うと、スキンヘッドの下の両眼が小動物のようにかわいらしくほころんだ――〈
「いえ、お坊ちゃんにもしものことがあったらいけないっすからっ!」
「大げさだなぁ」
「うちの若いもん、みんなでお守りしておるっす」
「みんな?」
気づかなかった。周りを見回すと、確かに前にも後ろにも、数ブロック離れたところに黒塗りのドイツ車が路上駐車されている。
「マジかぁ……」
〈御器所組〉の若い衆が総出でぼくたちを見守っているというのか。なんてこった。うちの組はそんなに暇なのか。
ぼくがワゴン車に乗り込むと、すぐさま金銀河もあとに続いた。が、高見翔馬は、おそるおそる訊いた。
「大丈夫……なのかな?」
本山理沙子も警戒心をむき出しにして、高見の背後に身を寄せていた。
萱場先生はというと、眼をきょろきょろさせて、キヨさんに会釈した。
「お邪魔しまーす」
「どうぞどうぞ! いやあ、お坊ちゃん、先生ってこんなにお綺麗な人だったんすね! どうして教えてくれなかったんすか!」
キヨさんが顔を上気させている。
「えーと、こちらが萱場先生。こっちはうちの……若い衆のキヨさんです」
萱場先生が乗り込むのを合図に、おそるおそる高見翔馬と本山理沙子もワゴンに乗り込んだ。最後に、金銀河がぼくにギロッときつい視線を向けてから、ワゴン車に乗り込む。
「ここならエアコン効いてるし、蚊に刺されなくていいわぁ」
萱場先生は後部座席によりかかって、まるで自宅のソファであるかのように、すっかりくつろでいた。萱場先生の適応能力は傑出している――「図太い」とも言うけれど。
「ニノキンが動き出すなら、やっぱり真夜中の十二時かな?」
高見はさっそくウィンドウ越しに学校を見やっていた。
「草木も眠る丑三つ時っていうじゃん? それって二時とか三時頃でしょ?」
金銀河が口を挟む。
「そんなに待たされるの? もう寝る時間なんだけど」
ぼくは言ったが、完全に黙殺された。あくびを噛み殺す。
キヨさんは浮き立った様子で言った。
「じゃ、みなさんでゲームでもしますか。今あるのは、花札かトランプか――」
「花札はやめとこう!」
ぼくは言った。トランプだって、ポーカーやブラックジャックは禁止だ――組内ならいいけど。
「なんか……楽しくなってきたかも」
ためらいがちに微笑んで本山理沙子が高見翔馬に言った。高見はちょっと困ったような面持ちで「そうだね」と応答した。
萱場先生が身を乗り出す。
「じゃあ、大富豪やろっか!」
なんて大人げないのか。けれどぼく以外のみんなが賛成の声を上げた。
いつの間にか怪奇現象の調査が「お泊まり会」になってしまったようだ。
いったいぜんたい、どういうことだ?
で――ぼくは二ゲームで二回とも大貧民になった。みんなの勝ち誇った笑顔が憎らしい。三回目のカードを配り終えたときだった。
「お坊ちゃん、あそこ!」
唐突にキヨさんが鋭い声を上げ、リア・ウィンドウの向こうを指さした。
学校の敷地内に人影があった。北校舎のいちばん東側、ちょうど給食室の前辺りに、うっすらと街灯に照らされた、うごめく細長い影が見えた。
「ニノキン……?」
高見翔馬が息を飲み込んだ。ぼくは運転席のキヨさんの背後を振り返った。
「いや、違うよ」
フロント・ウィンドウ越し、生け垣の向こうの二宮金次郎像は、台座の上に立って微動だにせず、手にした本を読み続けている。
ぼくたちは一斉にワゴン車を飛び出した。
北校舎には、北門のほうが近い。ぼくたちは深夜の道路を走った。
北門の前には、ぼくたちを邪魔するかのように一台のRV車が路上駐車されていた。門はもちろん
「静かにっ!」
金銀河が、不意に鋭く声を発した。
そのときだった。確かに、聞こえた――かすかな
「やだ……そこ理科室じゃん」
本山理沙子があえぐように言い、高見の隣に身を寄せた。
ふたたび、声が聞こえた。さきほどよりやや大きかった。切なく、哀しげで、何かを訴えるような泣き声――ぞぞぞっ、と寒気がぼくの背骨を走る。
次の瞬間だった。視界の片隅で何かが動いた。
いったい、ぼくのなかのどこにそんな勇気が潜んでいたのかわからない。とにかく一瞬後、ぼくは無我夢中でダッシュしていた。
フェンスの向こう、給食配膳室の向かいで、黒い影が素早く動いた。
「と、と、止まれっ!」
ぼくは裏返った声で叫んだ。
細長く黒い影は止まろうとしなかった。それどころかその影は、身軽にひらりとフェンスを乗り越えた。そして、ぼくに向かって近づいて来る。
「ひいっ!」
腰の力が抜け、なまぬるいアスファルトの上にへたり込んだ。もしかして、少し漏らしてしまったかもしれない――ほんの少しだけだけど。
細長く黒い影はぼくの前に立ちはだかった。そのままぼくを見下ろす。
「気持ちのいい夜だね、御器所君」
十二分に馴染みのある声が言った。
「みんなもおそろいのようだが、大声を出したら近所迷惑だ。学校にクレームが来るのは、萱場先生もお望みではないだろう」
自分の聴覚を疑った。こんなに冷たくて鋭く、皮肉な声を出せる人間は、全世界でたった一人しかいない。
「不老、どこ行ってたんだよ! ぼくたち、たいへんな目に
ぼくはあえぎあえぎ、やっとの思いで声を放った。
高見翔馬も不老に駆け寄り、嬉しそうにその肩をぽんぽんと叩いた。
「久しぶりじゃないか、不老! 謎が解けたってことなのか?」
「しーっ、深夜であることをお忘れなく。それに、僕たちのせいで、出るに出られず困っている人がいるよ」
そのとき、本山理沙子が短く「この自動車って!」と声を上げた。
「ああ、理沙子さんなら、よく知っているはずだね、この車のバンパーには――」
不老が言いかけたとき、ぼくたちの背後で短い「うはあっ!」と短く鋭い声が聞こえた。大きな影と、少し小さな細い影が揉みあっている。
振り返ると、キヨさんが細い人影の腰のまわし――ではなくベルトを
「お、降ろして……」
細身の人影はあえぎあえぎ言った。キヨさんは、軽々と人影を路上に放り出した――決まり手は「吊り落とし」。さすが、元力士だ。
アスファルトの上に腰から叩きつけられた人影は、体を丸めて何かを守るように抱きかかえていた。
短く声を漏らしたのは、本山理沙子だった。
「
「痛たたた……」
「何やってらっしゃるんですか、こんな時間に、こんなところで!」
「はあ、弱りました……」
築地先生は胸元に右腕で箱のようなものを抱えたまま、左手でしきりに頭を掻いている。こんなに焦っている
「あまり強く抱き締めないほうがいいですよ。息が苦しいんじゃありませんか? 小さな箱に二匹も押し込められていては、酸欠になってしまう」
不老翔太郎が築地先生に歩み寄りながら、静かに言った。
築地先生は諦めたように、箱をそっと路上に置いた。蓋が内側から開かれると、小さな生き物が頭を出した。黒い頭が一つ、そして、茶と白の二色の頭が一つ。それぞれが小刻みにぷるぷると震えている。驚くほど小さな子猫たちが「ぴい、ぴい」と、はかなげな声で鳴いていた。
本山理沙子と金銀河の女子二人が「カワイイ!」とハモって同時に声を上げた。子猫たちに駆け寄る。
ぼくも子猫を抱っこしたかったかったけれど我慢した。が、高見翔馬はぼくの脇をすり抜け、屈託ない笑顔で子猫たちに駆け寄っていた。
なんだか、損した気分だ。
「理科準備室で子猫を飼うために努力をされたのはわかります。しかし、隠れてやるべきではありませんでしたね」
不老は冷ややかに言った。
「不老君の推理力の噂は聞いていたけれど、ここまでお見通しとは……」
築地先生は深々と頭を下げた。やっぱり「住職」っぽい。
「銀河さんの撮った理科準備室の写真を拝見しました」
「え? どうやって?」
ぼくが訊くと、不老は片方の眉を吊り上げた。
「銀河さんが送ってくれたのさ。知らなかったのかい?」
当の金銀河は、一瞬ぎょっとした表情になると、つっかかるように言った。
「わたしはマコトって人に送っただけ! なんで不老君がその写真を見れたの?」
「だったら、当然、僕だって見ることができるさ」
こともなげに答えた不老に対し、金銀河はさらに不愉快そうな表情になった。不老は続けた。
「冷蔵庫の脇にゴミ箱が写っていました。そこに捨てられていたのは、猫用ミルクの空き箱。猫は乳糖分解酵素ラクターゼをあまり持たないため、市販の人間用牛乳を与えてはいけない……なんてことは、御器所君は当然知っているだろうね?」
「え? う、うん、まあね」
嘘だった。猫専用のミルクがあることなんて、今はじめて知った。
築地先生は、突然ぼくたちに向かってもう一度深々と頭を下げた。
「教師たる者がルールを破ってしまって、申し訳ないです。先週のある朝、学校へ出勤する途中で、路上にボール箱が放置されているのを見つけたんですよ。信号待ちをしていたら、そのボール箱のなかから猫が顔を出すのが見えて、無視するのも忍びなく、そのまま学校へ連れて出勤しました。うちのマンションはペット禁止だし、娘はアトピーなので連れ帰るわけに行かない。苦肉の策として準備室で育てることにしたんです」
そのとき、高見翔馬が短く「はっ」と息を漏らした。
「じゃあ、校舎から聞こえた赤ちゃんの泣き声って……」
「そのとおり、高見君。子猫たちの鳴き声だったのさ」
不老が冷静に答えた。
萱場先生が、ため息交じりに築地先生を見上げた。
「どうして相談してくださらなかったんですか?」
「はあ……萱場先生、代わりにこの子たちを引き取っていただけますか?」
「うちもマンションなので……いや、そうじゃなくて、わたしに子猫のこと話してくれる機会が、いくらでもあったじゃないですか」
「いやその……自分でなんとか対処しなければ、と思って、逆に隠すことばかり考えてました。お恥ずかしい」
築地先生が焦って「しゅん」としている姿なんて今まで見たことがなかった。
「銀河さん、君はあまり猫に触らないほうがいいんじゃないかな?」
不老はためらうことなく二人称代名詞として「君」を使った。ぼくには真似できない。
「そうだった。猫アレルギーだってこと、すぐ忘れちゃうんだよね」
と返事するや否や、金銀河は「くしゅん」とかわいらしいくしゃみをした。その瞬間に、ぼくの脳内で、今朝の理科準備室内の様子が甦った。金銀河が鼻を鳴らすような音を確かに立てていた。あれは、アレルギーの症状が出ていたのだ。
理科準備室――はっとした。
「ちょっと待って。人体模型が襲いかかってきたとか、本山さんが体験したポルターガイスト現象って、もしかしたら……築地先生がやったの?」
ぼくが訊くと、不老は冷ややかに右眉を上げた。
「それ以外に考えられないだろう。同じことを何度も言わせないでくれたまえ。不可能なものを排除して、あとに何が残ろうとも、いかにありえなさそうなものであろうと、それが真実なのさ」
築地先生はますますしゅんとして、坊主頭を手で掻いている。
「ほんとうに申し訳ないです。ちょっとだけ驚かせて、理科準備室から離れていて欲しかったので……」
「やっぱりあのときも、先生は準備室にいたんだ!」
本山理沙子が、両腕で黒猫と茶トラの猫を抱きかかえて立ち上がった。
「『超常現象』ってどうやって起こしたの?」
ぼくの問いに、不老はさらに右眉を上げた。
「これは僕の推測に過ぎないが――小型のウェブ・カメラを理科室にセットして、誰かが入室するのを築地先生はモニターしていたんじゃないかな。いっぽう、棚にマナー・モードにした携帯電話を置き、その上にビーカーや試験管などのガラス器具をセットした不安定な台を置く。理沙子さんが理科室に入ってくるのに気づいた築地先生は、準備室からその携帯電話にコールする。携帯電話が振動し、その上の器具が暴れ出す。ポルターガイスト現象の出来上がりさ」
「先生、ひどーい!」
本山理沙子が口を尖らせた。築地先生がますます激しく頭を掻いた。
「人体模型が襲いかかってきたのは?」
ぼくが勢い込んで訊けば、不老は呆れたような面持ちで肩をすくめた。
「御器所君、事実を歪曲してはいけない。人体模型は襲いかかってなどいない。人体模型は、人間の上半身をほぼ等身大に再現したトルソー型で、各内臓パーツが取り外しできるタイプだ。それが収められているガラスケースは、ガラス戸がガタついて不安定。一度、内臓を全部取り出してその奥にチャック式のビニール・バッグを入れる。その袋に長いゴムチューブをつなぎ、そのチューブは扉の隙間を通って理科準備室内の器具に接続させる。空気を抜いてしぼませたビニール・バッグの上に内臓パーツをふたたび収める――という仕掛けなど、容易に思いつくはずだがね」
「いやいや、思いつかないよ!」
ぼくはつぶやいた。すぐ隣の築地先生はというと、さらに顔を赤くして頭をがりがり掻いている。
「御器所君、君はちゃんと理科の授業を受けていないようだねえ。例えば、チューブをつないだ丸底フラスコに塩酸を入れ、そこへアルミニウム片を加えればいい」
「えーと……何が起こるんだっけ?」
すると本山理沙子が割り込んできた。
「水素が発生するの! 同時に塩化アルミニウムも生成されるけど」
「お見事、理沙子さん。さすが理科部だ。発生した水素によって袋が一気に膨らみ、袋に押されて人体模型の内臓パーツが飛び出す。ケースのガラス戸は内側から少し押されただけで一気に開いた、というわけさ。事件が奇怪に見えれば見えるほど、解明してみれば不思議ではないんだよ」
不老が得意げに言うと、築地先生が控え目に口を挟んだ。
「アルミニウムじゃなくて、石灰石を使うことも考えましたよ。塩酸と反応させて二酸化炭素を発生させるっていう方法をね。水素は、万が一引火してしまったら危険なので。でもやっぱり、塩酸そのものが劇薬だから、それを使わずに気体を発生させる方法を……」
「もしかして、ドライアイス?」
本山理沙子が身を乗り出すようにした。築地先生は、少しうれしそうにうなずいた。
「その通り! ドライアイスを水に入れて、二酸化炭素を発生させたんです。ドライアイスは、学校の近くのお店でアイスクリームを買って、袋に入れてもらいました。新聞紙でぐるぐる巻きにして、クーラーボックスに入れれば、ある程度保存できるんです。それでも一晩経つとすべて気化してなくなってしまうので、毎日毎日アイスクリームを買いました。毎日お店に来るので、店員さんとはすっかり顔馴染みになっちゃったなぁ」
本山理沙子の推理を聴いた築地先生は、嬉しそうだった。
「それじゃ、夜中に走るニノキンも、正体は築地先生だったの?」
ぼくが言うと、不老は吹き出した。
「御器所君! 君のそのイノセンスは、実に貴重だよ! 久しぶりにこちらに帰って来てつくづく感じる。君はほんとうに
褒められていない気がしたけれど、少なくとも悪い心持ちはしなかった。
「さ、夜も遅いからもう帰りましょう。築地先生、もう二度と理科室でホラーな実験なんかしないでくださいね」
萱場先生が、子どもを叱るように言った。いつもはぼーっとして頼りなさげな萱場先生だったけれど、今日はしっかり者の頼れる先生に見えた。明日は雪が降るかもしれない。
「はあ、もうしません」
築地先生は、叱られた子どものように、ますます身を縮めた。きっと明日は吹雪だ。
「でも、猫ちゃんたち、どうしようかなぁ」
萱場先生が、期待感を込めてぼくたちを見回した。
雪は降らなかった。
朝八時には、気温はすでに三十度を超えた。予報では最高気温三十六度だという。地球は、ぼくを殺す気か?
昨夜は結局四時間くらいしか眠れなかったので、とてつもなく眠い。立ったまま、
午前八時三十分、小学校の正門前では、試合に向かう野球部の生徒が集まり始めていた。白いマイクロバスがすぐそばに路上駐車されている。高見翔馬が四年生の部員たちにてきぱきと指示を出して、グローブやバット、大型の水筒などをマイクロバスに積み込んでいた。彼もぼくたちと同様に、数時間しか寝ていないはずだ。
「高見君、さすが部長だね」
金銀河があくび交じりに言った。
「彼、野球部のことになると、一気にスイッチが入るんだよね」
本山理沙子は、とても嬉しそうに満面の笑顔だった。
どうして女子二人が今ここにいるのか、ぼくにはさっぱりわからない。不老とぼくだけのはずだったけれど。
「昨夜、二宮金次郎像は走らなかった」
唐突に、ぼくの隣で不老翔太郎は言った。
ちょうど彼の脇を通り抜けようとした小柄な野球部員が、びくっとして足を止めた。神沢雅也だった。
「不老じゃん。本気でニノキンの事件を調べてるわけ?」
神沢がいつものようなおちゃらけた様子で言うと、不老はぴくりと右眉を動かした。
「無論、本気で調べたさ。もう二度と超常現象など起こらない。赤ちゃんの泣き声も聞こえないし、二宮金次郎が走ることもない」
「へえ、よかったじゃん」
歩き去ろうとした神沢雅也の背中に、不老は言った。
「もっとも熱心に超常現象の謎を言い立てていた君が、なぜこうも早く興味を失うことができるのかな」
「はあ? べつに熱心ってわけじゃなかったし」
「今の時代、インターネットで検索すればすぐに歴史などわかる。しかし僕はちゃんと一次資料に当たったよ。僕らの小学校が建っているこの土地は、かつて刑場でも何でもなく、水田と森林に過ぎなかった。僕は図書館で古地図を調べたし、証拠史料も出すことができる。同窓会名簿にあたった結果、二宮君などという野球部員も存在しなかった。当然『野球部の呪い』など、口から出まかせの作り話に過ぎない。しかし高見君は、君が予期していたほど怖がらなかったね。それは君にとって意外だったろうし、あまつさえ、彼がその謎の検証を始めようとしたときには、さぞや
「ん? 何言ってんの、この人?」
神沢雅也はぼくの顔を見上げて、首をかしげた。無視して不老は続けた。
「君にはお姉さんがいるね、神沢君」
「は? いるけど?」
「君のお姉さんは、県立Z高校出身で今はM大学文学部二年生。高校時代に弓道部に入ったことをきっかけに現在まで弓道を続けている。現在は三段。次の昇段試験で四段を目指している」
「はあっ? だから何なんだよ!」
神沢は怒った甲高い口調で突っかかった。ぼく自身も、不老が何を言い出すのかわからず、うろたえながら二人の顔を交互に見た。
「
「草鞋?」
ぼくと金銀河と本山理沙子は、同時にハモって声を上げた。
「石灰の上に付けられた足跡は、たいへんにリアルな草鞋の形だった。弓道で使われている道具としての草鞋を使ったんだよ。『まぐすね』とも呼ばれている。
ぼくは、マコトさんが本山理沙子に送ってきたメールを思い出していた。
「じゃ、左手とか左足に怪我してるの?」
神沢はぷいっと顔を背けた。
「ああ、そうだよ、ちょっと前に、スライディングで左手をひねっちゃった。だから今日の練習試合も下級生たちと一緒に補欠だよ」
「しかし、それは高見君のせいではない」
不老の声は冷静だった。
「だいたい、高見って頼りないんだよな。今までの部長と違って、優しすぎるっていうか、ナヨナヨしすぎっていうか……女みたい。オカマっぽいんだ!」
神沢は吐き出すように言った。
「それって悪いこと?」
ぼくは言った。
「はあ? キモイだろ! だから、女みたいなあいつをビビらせようと思ったんだ。『野球部の呪い』とか、ウケるだろ? あいつマジで信じてやんの。笑えるだろ?」
神沢は笑って見せたけれど、ぼくの気持ちはどんどん冷えていった。
金銀河が静かに言った。
「笑えないよ、全っ然。高見君は野球部員みんなのことを気づかっているからこそ、『超常現象』の謎を解明しようと考えたんじゃない?」
さらにその隣から、本山理沙子がぐいっと神沢雅也をにらみつけた。
「そうだよ。それにほら、高見君って、後輩からすごく慕われてるじゃん。とってもいい部長だと思う。わたしね、高見君のこと尊敬してるよ」
本山理沙子はマイクロバスのほうを見やった。高見が四年生の野球部員と笑いあっていた。ぼくは運動部など大嫌いで絶対に願い下げだと思っている。けれど、高見翔馬みたいな部長がいる運動部だったら、少しだけ参加してもいいような気がした。
唐突に神沢雅也は甲高い声を上げた。
「へえーっ、本山って、オトコオンナが好きなんだ。オカマが好きなんだ! キモっ! みんなに言いふらしてやろう、おまえらラブラブだって、言いふらしてやろう!」
神沢雅也は、マイクロバスに向かって駆け出した。
「ほんと……最低……!」
本山理沙子が声を漏らした。両手で拳を握りしめ、噛み締めた唇の隙間からようやく絞り出すような声だった。
どうしても我慢できなくなった。神沢の背中に向かって、ぼくは言った。
「言えばいいよ!」
びくっと神沢雅也の動きが止まった。
「いくらでも言えばいい。けれど、うちの組がずっと神沢を見てるよ。朝も昼も夜も、学校にいるときも、寝てるあいだも、ずーっと、うちの組――〈
神沢の背中がぴくりと動いた。
ぼくは一度息を吸い、そして言った。
「覚悟ができてるなら、言いたいことをいくらでも言えばいいよ。忘れてるかもしれないけど……ぼくは〈御器所組〉組長の息子だ。ぼくは、人の気持ちを傷つけて喜ぶ人間を許せない」
神沢雅也の顔が一瞬だけこわばった。が、すぐにそれを打ち消す薄い笑いが浮かんだ。
「なーにマジになってんの? バカじゃね?」
神沢は言い捨てた。そしてきびすを返すと、こちらを振り返ることなく、駆け出した。マイクロバスの周りに集まる野球部員のなかに入って行った。
「御器所君、君のやりかたには、僕はまったく賛成できない」
不老は静かにぼくに歩み寄ってきた。
「うん、全然正しくなかった。ごめん、つい興奮しちゃった」
一気に恥ずかしくなった。暑さとは違う汗がぼくの額から吹き出し、顎へとしたたり落ちるのを感じた。
野球部員を乗せたマイクロバスが走り出し、ぼくたちの脇をすり抜けて行った。
「わたし、わかってるから」
出し抜けに本山理沙子が口を開いた。
「何のこと、理沙子ちゃん?」
金銀河が訊くと、本山理沙子は哀しげな面持ちで、ほとんど囁き声で答えた。
「わたしにはわかってる。高見君って、好きな人がいるんだよね。だからわたしの出る幕なんかないって、わかってる」
「そんなことないって! 高見君だってきっと理沙子ちゃんの気持ち――」
「ダメなんだよ!」
本山理沙子は、何かを決心した表情だった。
「彼の思い、気づいたもん。高見君の好きな人って……不老君なんだね!」
不老は左の眉をぴくりと上げた。
「でもね、気持ちの整理がついた。よかったと思う」
本山理沙子は顔を上げた。どこか安心したような、吹っ切れたような面持ちだった。その両眼は潤んでいたけれど。
「でも、よかったよ! 新しい家族ができたし、今回の事件に出会ったこと、ほんとによかったと思ってる」
二匹の子猫は、本山理沙子が引き取ることになったのだった。
不老を見やると、その左の眉はますます上がり、真夏の青くてまぶしい空のどこかに眼をやっていた。
「まだひとつだけ解けてない謎があるんじゃない?」
不意に、金銀河が口を開いた。
「へっ? 何?」
ぼくは裏返った声を上げてしまった。が、ぼくを無視して金銀河は続けた。
「不老君、マコトさんといったいどんな関係なの?」
不老はというと、きょとんとして眼を丸くした。
「聞いてないのかい? 僕は、不老マコトの弟だよ」
一瞬、いや二瞬や三瞬以上の沈黙が落ちた。舌が口蓋にぺったりと貼り付いてしまう。今度はぼくたちが眼を丸く見開く番だった。
「えええっ! あの人が、不老のお姉さん……全然似てないじゃないか!」
「どうして怒るんだい、御器所君? 顔立ちなど、生物学的形質のごく一部に過ぎない。そもそも、誰が姉だと言った?」
「どういう意味?」
ぼくと金銀河が、ほぼ同時にハモるように訊いた。
その後に続いた不老翔太郎の返答は、ぼくと金銀河の度肝を抜いた。
「不老
「へえっ?」
その言葉が意味することを脳味噌が理解するまで、しばらく時間を必要とした。
その間、かしましいセミの声だけが、ぼくたちの頭上から降り注いでいた。
「不老翔太郎の乱調」第一話「学校の怪談」了
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