第1話「学校の怪談」中編
そのあとのことは、よく覚えていない。
呼吸困難になりながら、昇降口から真夏の太陽の下へ一気に駆け抜け、正門から路上へと飛び出した。
と、そのときに、ぼくのズボンの中で何かが震え出した。ぼくはまたもや「きゃっ!」と
携帯電話が振動していたのだった。この二人も女子っぽい悲鳴を上げたりするんだな、へんなことを思いながらスマートフォンの画面を見た。発信者は「あの女性」という表示。
「もしもし」
警戒しつつスマートフォンに向かって言う。
「ハジメ君、あの男と会ったそうね」
聞き覚えのある、少し低めで大人っぽい――たぶん「色っぽい」と言うのだろう――声が、前置きなく尋ねてきた。
「えーと、不老は今いないんですけど」
以前に二度ほど電話をかけてきた女性だった。
「知ってるわよ、ショウちゃんはさっきまでここにいたから」
「へえっ? 不老と一緒なんですか? 不老はそこで何してるんですか? っていうか、不老とどんな関係で、何者なんですか?」
ぼくの
「さすがショウちゃんの伝記作家さんね。ショウちゃんのこと、いつも気づかってくれてありがと」
「伝記作家とかいうのは、不老が勝手に言ってるだけで、あの、その……」
「ねえハジメ君、あの男に近づいちゃダメ。あの男は危険よ。深入りしちゃいけないわ」
鼓膜が喜ぶような、軽やかでかわいらしく、優しげで
「あの男って……?」
「ついさっき会ったでしょ、ラブホで」
「
ぼくが言うと、スマートフォンの向こうで小さなため息が聞こえた。
「なるほどぉ、ハジメ君は、わたしが思ってたよりも知りすぎてるのね」
「え、あの――」
唐突に、電話が切れた。
「誰から、
金銀河がとがめるような視線を向けた。
が、ぼくが返事をしようとした二秒後だ。ぼくたちの眼の前に、音もなく滑り込むように、一台の黒塗りの大きなSUV車が現れて停車した。フロント・グリルには十文字のエンブレムがあしらわれている。アメリカ車だ。ウィンドウにはスモークがかかっていて、車内の様子はうかがえなかった。電動のサイド・ドアが、静かに開かれた。
助手席には、黒いスーツを着た若い女の人が座っていた。化粧っ気は少なくて、若い。まるで大学生くらいに見える。もう一人の運転者のほうは、こちらを振り向こうとすらしなかったけれど、その後頭部はロングヘアの女性のものだった。
「えっと……あなたがマコトさん、ですか?」
女の人は、静かにかぶりを振った。
「あの方がお待ちです。どうぞ」
招じ入れられるがままに、SUV車の後部座席におそるおそる乗り込んだ。が、次の瞬間に金銀河と本山理沙子も滑り込むように乗り込んで来て、ぼくをぐいとシートの端へと押し込んだ。
「ちょ……」
ぼくは、女子との物理的な接触に慣れていない。大いに焦った。
「不老君に会わせてくれるんでしょ? 早く車を出して下さい」
金銀河は黒いスーツの女性に向かって、早口に言った。女の人は、うっすらと優しい笑みを浮かべたままだった。
ぼくだって〈御器所組〉組長の長男である。いろいろな「その筋の人」たちのあいだで生まれ育っているから、いろいろな「眼」を見たことがある。
すぐ隣の女の人の眼は、間違いなくカタギのものではなかった。その女の人が、ルーム・ミラー越しに運転席の女性へ無言で合図した。
SUV車が急発進する。
車は二十分ほど走り、市外に出た。車窓から見える景色には緑が増えた。古く、歴史のありそうな住宅が並ぶ地域を通り過ぎ、SUV車は長い塀に沿って走り始めた。
――これはまずいぞ。
ぼくは思った。長くて高い塀の醸し出す空気は、限りなくぼくの家を思わせた。まさか、同業者なのだろうか。それは困る。この辺りに、うちの傘下の組事務所はなかったはずだ。〈御器所組〉組長の長男として、許可もアポもなくよそのシマを訪れるのは、ひじょうにマズい。
SUV車は正門の前に停まった。後部座席でぼくは身構えたが、出迎えてくる「若い衆」たちの姿はなかった。けれど、複数の監視カメラがぼくたちを見守っていることは、皮膚感覚としてわかった。
ぼくたちは車を降り、助手席の黒いスーツの女性に先導されて、敷地内に入った。
広く、手入れされた庭だった。自分で言うのもなんだけれど、我が家もかなり広くて立派だと思う。けれど、ここはさらに規模が大きく、また歴史が古そうだった。古風な広い日本庭園にもっとも目立つのは、立派な松の木だ。その脇、学校のプールほどもある池にはモダンな橋が架かっていた。その向こうにケヤキの木に囲まれて、朱色の壁が鮮やかな和洋折衷三階建ての館が建っていた。
広い玄関の前に来ると、若い女性が小声で言った。
「一階では決して口を開かぬよう。おしゃべりは一切禁止です」
長い廊下を何度か曲がった末、ぼくたちが招じ入れられたのは、二十畳はあろうかという豪華な洋風の大広間だった。まるで明治時代のような部屋で――と形容すればいいんだろうか。ぼくには明治時代的なものがよくわからないけれど――大理石の床に、天井からはシャンデリアが三つも下がっていた。大きな窓からは明るい外光が入っている。室内のそこここに安楽椅子が五つあり、それぞれの椅子には若い女性が座っていた。女の人たちはそれぞれ思い思いに、本を読んでいたり、うたた寝をしていたり、ヘッドフォンで音楽を聴いていたり、編み物をしたりしている。中には、膝の上に赤ちゃんを抱いている女の人もいた。ぼくたちが部屋に入っても、その誰一人、こちらを向くことはなかった。そして、まったく声を発することもなかった。しんと静まり返っている。
黒いスーツの女の人に無言で促されて部屋を通り抜け、奥の黒い木製のドアをくぐり、ぼくたちは急な階段で二階に上がった。そこは、一階とはうって変わって和風のつくりだった。廊下の窓にはめられたガラスからは、広い日本庭園の光景が少し波打って見える。昔ながらの
若い女性は無言のまま廊下を進み、いちばん奥の
「御器所のおぼっちゃんと、お友だちをお連れいたしました」
女性が襖の向こうに声をかけた。
「お入りなさい」
軟らかい声が室内から聞こえた。女性は廊下に膝を付き、襖を開いた。
そこは十二畳ほどの和室だった。歴史のありそうな金屏風の前、分厚い紫色の座布団の上に、和服の女性が足を崩して座っていた。淡い桃色の花をあしらった着物に、鮮やかな朱色の帯。
「やっと会えたわね、ハジメ君」
和服美人が、微笑んで唇を開いた。
「えーと、その、あのぉ……どーも
答えた瞬間に、左腕に痛みが走った。
「あなたが、マコトさんなんですね。不老君はどこにいるんですか?」
和服の美人は眼を伏せ、片手で口を覆って「くくくっ」と笑い声を漏らした。
ぼくの十一年強の人生ではじめて見る、可憐で美しい表情だった。心臓から体の奥のほうへ向かって、きゅーっと締め付けられるような、甘いような苦しいような感じを覚えた。
「あなたが
「あ、あの、勝手に来ちゃったんですけど、も、も、
本山理沙子が、がらにもなく顔を真っ赤に染めて、どもりどもり答えた。またしてもマコトさんは「くくくっ」と笑った。
「はじめまして、理沙子ちゃん。メジャー・デビューする前からの〈ガールズ・オン・ザ・ラン〉のファンなのね。昨日のコンサートは楽しかった?」
「はい、とっても楽しかったで……えっ? な、な、なんでわかったんですか?」
ぎょっとしたのは、本山理沙子だけではない。ぼくも、大いに面食らった。
〈ガールズ・オン・ザ・ラン〉というのは、男子からも女子からも人気の女性アイドル・グループだ。本山理沙子に、アイドル・ファンのイメージはまったくなかったけれど。
和服美人は、またも口を覆って小さく笑い声を漏らし、そしてじっと本山理沙子を見返して、言った。
「理沙子ちゃん、あなたは左足首に二本のミサンガを着けているわね。それは〈ガールズ・オン・ザ・ラン〉公式グッズよね。そのうちの一本は、四年前のコンサート・ツアーのグッズ。ほどけかけているところから見て、その当時に足首に着けたものね。理沙子ちゃんは、一昨年にメジャー・デビューする前から、四年以上もファンだということがわかったわ。そしてもう一本は、今回のツアーの最新グッズ。でも四年前のミサンガのほうには、最近できた小さな赤茶色の染みが見えるわ。昨日コンサートが開催された〈リバーサイド・ホール〉の前では水道工事が行われていて、そんな色の赤土がむき出しになってる。昨日のコンサートに行ったときに付いてしまった染みに違いない。ね? 初歩的なことでしょ?」
ぼくたちは三人とも、しばし口をあんぐりと開けて、何も言えずにいた。
「さて、あなたたちの心配していることはよくわかるわ。でもね、ショウちゃんはわたしたちの調査のために、大事な任務を果たしているの」
「任務? マコトさんってまさか、スパイとか何か……」
ぼくが言うと、マコトさんはまたもや口元を覆ってころころと笑ったが、すぐに真顔に戻った。
「そうかもね。ハジメ君、銀河ちゃん、平針左京にこれ以上近づいてはいけないわ。あの男の背後には、あなたたちの手出しできない大きな存在がある。あなたたちをそこに巻き込むわけにいかないのよ」
「不老君は、巻き込まれてもいいって言うんですか!」
金銀河が突っかかった。
「ショウちゃんはべつ。彼は志願してくれたの。あなたたちを――」
「
出し抜けに口を挟んだのは、本山理沙子だった。
「ええっ?」
ぼくと金銀河は同時に
「どういうことなの、理沙子ちゃん」
金銀河がうろたえている。
「ごめん、話すタイミングがなかったから」
本山理沙子がうつむくと、マコトさんが優しく口を開いた。
「
そう言ってマコトさんは、顔の前で両手の指先を合わせた。その姿は、不老翔太郎そっくりだった。
「今日、理科室に行ったのは、築地先生が不倫しているのを目撃しちゃったからなの」
予想外のワードが飛び込んできて、ぼくの脳内は処理が追いつかなかった。
「続けて、理沙子ちゃん」
マコトさんがうながす。
「一昨日、塾の授業のあと、ママの車で家に帰る途中のことです。道路工事してて、いつもは通らない道に
「ホテルって〈
金銀河が訊ねると、本山理沙子はあいまいに首を振った。
「ごめん、あんまり覚えてない。わたし、築地先生の車を知ってるんだ。ブルーのRV車で左後ろのバンパーに傷があって、見間違うはずがない。で……その助手席に乗っている人が見えた」
「それが、萱場先生だったのね」
マコトさんが静かに言う。
ぼくは混乱した。
萱場先生が、平針左京に続いて今度は真面目のカタマリのような「住職」こと築地先生と、あんなホテルに行くなんて。
「築地先生は二年二組の担任。そして理科部の顧問でもある。五年前に、当時勤務していた小学校の同僚の先生と結婚して、三歳になる娘さんが一人いる」
マコトさんはすらすらと言ってのけた。
「ど、どうやって推理したんですか」
ぼくが訊くと、マコトさんは「くくくっ」と笑った。
「ショウちゃんの学校のことは、一通り調べてあるのよ。興味深いわね。実に面白いわ」
次の瞬間、本山理沙子が少し震えるような声で訴えた。
「面白いことなんて、全然ないです! だって築地先生のいる理科室では、恐ろしい超常現象が起こるんだから!」
「わたしたち全員も体験したんです!」
金銀河もまた応戦するように言う。
「えーと……えー……怖かったです」
ぼくもかろうじて言葉を吐き出す。
マコトさんが、右の眉だけを器用に吊り上げた。ますます不老そっくりだ。
「さすが御器所君たちね! 面白い事件を『持ってる』! ショウちゃんが御器所君にベタ惚れの理由がよくわかるわ!」
「いやその、ベタ惚れとかそういう関係じゃなくて……」
異様にぼくの顔が熱くなるのはどういうわけだ?
「さて、話を聞かせてくれるかしら、超常現象について」
マコトさんは、うれしげに両手をこすりあわせた――まるで不老翔太郎のように。
ぼくと金銀河と本山理沙子の三人で、理科室での体験談をできるだけ詳細にマコトさんに伝えた。話しながら、薄れかけていた恐怖心がまたぞわぞわと背筋を駆け上がってくるのを感じた。それは、金銀河も本山理沙子もまた同様のようだった。ぼくたち三人とも、顔から血の気が引いてしまった。
ぼくたちの話が終わると、マコトさんは本山理沙子に顔を向けた。
「ねえ理沙子ちゃん、ひとつ大事なことを訊くわ。この数日、もしかしたら数週間、理科部の生徒が理科準備室に、あるいはひょっとして理科室自体に入ることは禁止されてたんじゃない?」
「あ、はい、築地先生が、理科準備室の模様替えをしてるとかで、先週の初めから、準備室に入れなくなりました」
「ちょうどその頃から、赤ちゃんの泣き声みたいな音を聞いたという生徒が、出始めたんでしょうね?」
本山理沙子はうなずく。
ぼくは、はっと思い出して顔を上げ、会話に割り込んだ。
「朝練やってる野球部でも、泣き声が聞こえるって噂になってるんです。
ぼくは身を乗り出した。きょとんとした表情のマコトさんに、ぼくは野球部長の高見から聞いた話を、できるだけ詳細に伝えた。
「二宮金次郎像が、走る?」
そう言うや否や、マコトさんは両手で口を押さえ、何度もうなずいた。
「実に面白いわ! 極めてオーセンティックでクラシカルな怪異譚が、現代の小学校においてなお流布され続けているという事実は、民俗学的、考現学的研究の対象に値するわね!」
「面白がらないでください!」
金銀河が突っかかった。
マコトさんは優しい笑みを浮かべながらうなずき、そして言った。
「いかなる出来事の連続であっても、人間の智恵によって説明できないものなどないのよ」
「でも、築地先生と萱場先生と平針左京は――」
いいかけた金銀河を、マコトさんは手を振って制止した。
「いいこと? ちゃんと事実関係は整理しないといけないわ。一つ、築地先生と萱場先生がラブホテル〈SILVER BLAZE〉から出てくる瞬間が目撃された件。一つ、平針左京が今日〈SILVER BLAZE〉に現れた件。一つ、築地先生が顧問を務める理科室で人体模型が動いた件。一つ、二宮金次郎像が深夜に走り回るという件。それらはべつべつに考えるべきだわ」
「でも、みんな築地先生が関わってるんじゃないですか」
ぼくが問うと、マコトさんは軟らかく微笑んだ。
「ショウちゃんもあなたに言わなかったかしら? 探偵術においてもっとも大切なのは、多くの事実の中から、何が付随的で、何が本質的であるかを認識すること。さもないと、あなたのエネルギーと集中力は、浪費されるばかりで集中することはできなくなるわよ」
そう言うとマコトさんは、手をぼくたちのほうへ差し伸べた。ぼくがそっと近づくと、どこからともなく、たちどころに三枚のピンク色のカードがその細い指先の間に現れた。
「これが今の連絡先。必ずしも返事できないかもしれないけれど」
ピンク色の名詞には、そっけなく「Makoto」という名と連絡先のアルファベットの文字列だけが書かれていた。ぼくたち三人は、ためらいがちにピンク色の名詞を受け取った。
「ひとつだけ言えるわ。あなたたちの担任の萱場先生は、怪奇現象に関わってはいない。いえ、そもそも怪奇現象や学校の怪談なんて存在しないのよ」
マコトさんが立ち上がると、黒いスーツの女性がいつの間にかぼくたちの前に現れた。そして、ぼくたちは体よく追い出されるような格好になってしまった。
「ちょっと待って! マコトさん、不老君とどんな関係なんですか?」
部屋からつまみ出されかけながら、金銀河が訴えた。
マコトさんの返答は、あまりにも予想外だった。
「あれ? ショウちゃんから聞いてないの? 困ったわねえ。次はちゃんと教えるように、ショウちゃんに言っておくわね」
「次って……?」
否応なしにぼくたちは黒いSUV車に押し込められ、ドアが閉ざされた。
翌日、終業式の朝――校門をくぐると異変に気づいた。
「こっちに来てくれるかい」
いきなりぼくの二の腕を摑んだのは、野球部の
「あれを見てよ」
息を飲み込んだ。異様な光景が広がっていた。二宮金次郎像の周囲が真っ白に染まっている。
「昨日の部活のあと、俺たちで石灰を撒いたんだ。もしもニノキンがほんとうに歩き出すんなら、その証拠が残るようにね。それよりも、気づいた?」
おそるおそる島のように拡がる石灰に近づいた。異様なものが眼に飛び込んできた。ぼくは「ひゃっ!」と叫んで、跳び上がってしまった。昨日と今日とで、ぼくは何度跳び上がる羽目になっただろうか?
小さな足跡が点々と並んでいた。その数は二十以上あるだろう。とても小さく、十センチ程度だった。細かく編み込まれた横縞模様がくっきりと浮かんでいた——人間のものよりもはるかに小さな、
すでに朝から気温は三十度を超え、セミがかしましく鳴いていたけれど、ぼくの背筋はゾッと冷たくなった。
「今朝、朝イチで来たら、これだよ。この状況から、何かわかるかい?」
高見がぐっとぼくに顔を近づけてきた。
「ええっとニノキン……金次郎像は、この台座から降りて、運動場に向かって歩き出して、また戻ってきた……ってことかな」
高見は、さらにぼくの頬に顔を寄せて、ささやくように言う。
「確かに、この足跡からはそう見える。不老なら、どう推理するだろう?」
「いや、不老は来ないよ。学校よりも大事な何かがあるんだって」
ぼくは答えた。
不老翔太郎なしで、どうやってこの謎を解いたらいいのだろう。
おそるおそる、携帯電話のカメラで小さな草鞋の足跡をいろいろな角度から撮影した。二宮金次郎全身が入るアングルから、足跡一個のアップまで。それが何の役に立つか、わからなかったけれど。足跡は全部で二十三個。大きさは約十センチ。左のほうが五ミリばかり小さいかもしれない。二宮金次郎像は、台座から降りてまっすぐグラウンドへ向かい、また戻ってきたように見える。しかし、楕円形の足跡からは、前後の区別がはっきりとはつかなかった。
どうすべきかちょっと悩んだが、ぼくは携帯電話にメッセージを打ち込んだ。
――御器所です。本当に二宮金次郎が走ったんでしょうか?
そして、写真とともにマコトさんへ送信した。
「どうしたの?」
いきなり背中を「ぱちーん!」叩かれた。その音は鮮やかに校庭に響き渡った。
「痛いよっ!」
跳び上がった。金銀河が怪訝そうな表情で、二宮金次郎像とその周囲を見回していた。
「何なのこれ? 誰がやったの?」
「二宮金次郎」
「はあ?」
「えーと、石灰をまいたのは、野球部。で、歩き回ったのが、二宮金次郎」
「まさかそれ、本気で信じてるわけじゃないでしょうね」
「観察しているんだよ、見るだけでなくてね」
「まるで不老君みたいなこと言うじゃない? そんなことより、理科室に一緒に来て。理沙子ちゃんはもう待ってる」
「へ? 理科室?」
「朝イチで築地先生に直接ぶつかってみる。怖いの? べつにいいよ、怖いならわたしたちだけで謎を解くから。どうせ不老君は今日も来ないんだろうし」
「いや、怖くない……こともない……かもしれないけど」
「高見君、御器所君を借りるね」
金銀河はぼくの腕を摑んで強引に引っ張った。ぼくは呆気にとられた高見翔馬に向かって「現場保存しといて!」と声を上げるのが精一杯だった。
ぼくと金銀河は、理科室の前の廊下で本山理沙子と合流した。
そっと扉を開いて耳を澄ました。物音は聞こえない。ぼくたちは、理科室内へ足を踏み入れた。なんだか、悪いことをしているような気がする。
ぼくは「ひぇっ」と息を飲み込んだ。人が立っている——ように見えたけれど、それは準備室へつながる扉の棚の脇に立っている、例の人体模型だった。ガラスケースのなかに、ひっそりと収まっている。棚のガラス器具類もまた、静かに整然と並んでいる。まるで、昨日の怪異が白日夢だったかのようだ。
「あはは、築地先生は留守みたいだね。まだ来てないのかなぁ」
空元気を出して、ぼくは笑った。
「ふーん、やっぱり怖いんだ。なら、ここで待ってていいよ」
金銀河は真顔で言う。その隣で本山理沙子もうなずいている。
ぼくが深々とため息をつくあいだに、二人の女子はずんずんと理科室の奥に入って行った。慌てて追いかける。
おっかなびっくり、準備室につながる扉の前に到達した。
「
本山理沙子が呼びかけた。返事はなかった。泣き声も聞こえない。ビーカーや試験管は踊らないし、人体模型も襲ってこない。
金銀河が扉に手を掛けた瞬間だった。
「誰ですか?」
「きゃっ」
背後からの声に、ぼくは跳び上がった。昨日今日と跳び上がりすぎて、足の筋肉がつりそうだ。
背後の入り口に、築地先生が立っていた。いつものような白衣姿。両手で包み込むように、飲み物の入った紙コップを持っている。まるで托鉢僧のようなシルエットだった。さすが「住職」である。
「先生! 探してたんだよ!」
本山理沙子が駆け寄ると、築地先生は眼を丸くして、後ずさった。
「どうしたの? もうすぐチャイムが鳴るから、早く教室に行かないと」
落ち着いて飄々とした口振りが、ますます「住職」っぽい。
「築地先生は、ここで起きた超常現象に気づいてないんですか?」
「ええっ、超常現象? 穏やかじゃないですねえ。ああ、もしかしたら昨日、人体模型が倒れていたことかなあ? たまにあるんですよ、安定が悪いのか、何かの衝撃で、すぐ倒れてしまう」
「そんな倒れ方じゃないよ! ケースから飛び出してきたんだって! わたしたちに襲いかかって来たんだから!」
本山理沙子は訴えかけたが、築地先生が何を考えているか、その表情からは読み取れなかった。
「それだけじゃないよ。わたしが一人のときも、急にガタガタ物が動き出して、ポラロイド……じゃなくてナントカ現象が起きたの!」
「ポルターガイスト現象」
金銀河が口を挟む。
築地先生の返答は、とても冷静だった。
「触ってもいないのに、家具やなんかが動き出す、という超常現象のことだね。それはきっと、学校裏の車道をダンプカーが走ったときの振動でしょう。『共振』とか『共鳴』という現象を知らないかな? 物質にはそれぞれ固有振動数というものがある。同じ振動数を外部から受けると、その物質も、触っていないのに自然に振動を始めます――」
築地先生は理科の先生らしく解説した。が、納得できるはずがない。
「先生、準備室を見せていただけませんか?」
金銀河が少し怒ったような口調で、それでも感情を抑えて訊ねた。
築地先生は表情を変えず「いいですよ」とうなずいた。そしてためらくことなく準備室に向かい、扉を開いた。
ぼくたち三人も、築地先生の肩越しに覗き込む。
準備室は、意外にがらんとしていた。エアコンが効いていて、ひんやりとしている。いちばん奥にはデスクが鎮座していた。ノートパソコンが開いたまま置かれ、その脇には、うずたかく書類が積み重なっている。けれど書類の角はきっちりと揃えられていて、決して散らかった様子には見えない。
デスクの脇には、小さな1ドアの冷蔵庫がちょこんと座っていた。その上にはお盆が置かれ、シャーレ、
ぼくの隣で金銀河が、かすかにくんくんと鼻を鳴らすような音を立てていた。風邪だろうか。確かに、この部屋のエアコンは少々効きすぎている。ぼくの腕にも少し鳥肌が立っていた。
「先生は、泣き声を聞いたことはないですか? 生徒たちのあいだで噂になっているんです」
金銀河が鼻をすすりながら訊ねた。築地先生はぴくりと眉を動かした。
「それは、どんな声?」
「赤ちゃんの泣き声のような……哀しげな声で、理沙子ちゃんは聞いてます」
「うん、か弱くて、今にも消えそうな頼りない声だった」
「朝練やってる野球部の部員も、聞いてるみたいです」
ぼくも付け加えた。
「何かほかの音を聞き間違えたんだと思う。虫の声、鳥の声、学校の近所で飼われている犬の吠え声……」
築地先生が静かに答えるのと同時に、チャイムが鳴った。あと五分で朝の会が始まってしまう。
「写真、撮ってもいいですか?」
金銀河が訊ねると、築地先生は一瞬戸惑った様子だったが「構いませんよ」と微笑んだ。金銀河はスマートフォンのカメラで、何枚か準備室の写真を撮った。
「さ、急いで教室に行きましょう」
築地先生は言った。相変わらず築地先生の表情から読み取れるものはなかった。ぼくたちは、築地先生と一緒に理科室を出た。
担任の二年二組の教室へ向かう築地先生と、渡り廊下で別れ際に本山理沙子が一言、ぼくたちが言えなかったことを言い放った。
「先生って、萱場先生とつきあってるの?」
その声は廊下に反響した。
築地先生は一瞬動きを止めた。そして、ゆっくりとぼくたちへ振り向いた。
「それをいつか誰かに指摘されるんじゃないか、と思ってましたよ。本山さん、本気で信じてる?」
本山理沙子は、歯を食いしばるような面持ちで、首を左右に振った。築地先生は静かに続けた。
「萱場先生は、ほんとうにいい先生です。君たちは何か誤解をしているかもしれないけれど、想像している以上に、生徒思いの素晴らしい先生ですよ」
言葉を見失って立ち尽くすぼくたちを置いて、築地先生は渡り廊下を足早に二年二組の教室へ向かって行った。
「では、みなさんお待ちかねの――通知表を配りまーす!」
と萱場先生が言えば、生徒たちはお約束のように一斉に「えええーっ!」と声を上げた。
「みんな、いいリアクション。いい生徒を持って幸せだなぁ」
残念ながら、ぼくは声は上げられなかった。半ば伝統芸能と化した慣習に従わないといけないという無言の同調圧力は、どうしても好きになれない。
萱場先生は、昨日とまったく変わりなかった。地味な紺色のパンツに、この暑さだというのに長袖の水色のシャツ。髪はいつも通りにぼさぼさ。化粧っ気は限りなくゼロに近い。終業式の今日もまた寝坊したのだろうか。のんびりとした口調もまた、いつもの萱場先生のものだ。
とても、次から次に違う男性をホテルに連れ込む人には見えない。
もらった通知表の成績は、五年生の頃とそんなに変わらなかった――見事に可もなく不可もなく、「普通」「並」といった程度だ。
「じゃあみんな、怪我なく事故なく、小学校最後の夏休みを精一杯楽しく過ごして下さいね」
最後に萱場先生は教室内を見回し、クラス全員に言った。
そうか、もう「小学校最後の夏休み」になってしまうのか。不意に、淋しさと不安がない交ぜになった冷たい手のひらが、ぼくの首筋をなでたような気がした。
ホームルームが終わると、ほとんどの生徒が、一分たりとも教室にいたくないかのように――一秒たりとも夏休みを無駄づかいしたくないかのように――駆け出して行った。けれど一人だけ逆方向に――教壇に向かって進む生徒がいた。
「先生、一昨日の夕方、どこにいましたか?」
金銀河がダイレクトに問いかけた。萱場先生は一瞬固まった。
なんという大胆なアプローチをしてしまうのか、とぼくが頭を掻きむしっていると、その脇を通り過ぎて金銀河に寄り添ったのは、本山理沙子だ。
「あらぁ、どうしてそんなことを
萱場先生が笑顔のまま訊き返した。
「質問に質問で返すのは、ズルイです」
まっすぐに萱場先生の顔を見つめる金銀河の姿は、ずいぶんと大人びて見えた。ここに
ぼくには、不老翔太郎の代役は務まらない。悔しいけれど。
「もう一つ、訊きたいことがあります。先生は、今でも平針左京さんとつきあってるんですか?」
金銀河の問いかけに対して、萱場先生は一瞬だけ哀しげな表情を見せた。が、それはほんのつかの間で、すぐさま普段通りののんびりとした笑顔に戻った。
「どうしたの? 今日はずいぶんと
いつもどおりに、ふわふわと頼りない返事だ。
「じゃあ……」
金銀河は一度言葉を切り、教室を振り返った。まだ数人の生徒が残っている。金銀河は声をひそめると、じっと萱場先生を見つめた。すると、金銀河の代わりに、本山理沙子がささやき声で言った。
「築地先生とは、つきあってないんですか?」
一瞬の沈黙のあとに、萱場先生はぷっと吹き出し、爆笑し始めた。
「やだなぁ、女性誌とかネットのヘンなサイトの読み過ぎ! っていうか、まだちょっと、あなたたちには早いんじゃないかなぁ? おかしな誤解をしたら、築地先生にも失礼です」
「誤解なんてしてないです。わたし……わたし、見たんです!」
本山理沙子が、顎を突き出し、力を絞るように言った。
萱場先生は両手の拳を腰に置くと、ふうっとため息をついた。
「本山さん、何か誤解をしてるようね。確かに一昨日、築地先生と一緒に車で学区内をあちこち移動してました。大事な用事があったから」
「大事な用事が、
金銀河は食い下がった。
が、萱場先生は頬を膨らまして「ぷぷふっ」と吹き出した。こう言ってはいけないかもしれないけど、すごく間抜けな表情だった。
「逢い引き! クラシックな単語を使うのねえ。もちろん、『あいびき』って、牛と豚のミンチのことじゃないよね。わたしが築地先生と一緒にいたのは、学校の用事のため――詳しいことは生徒のプライバシーに関わるので言えません。ちゃんと校務主任の
金銀河も本山理沙子も、そしてぼくも、喉元を棒で突かれたみたいに返答に困った。
「うわっ、惜しい! そこが甘いところねえ。不老君がお母さんの家から帰ってきたら、推理法を訊いてみるといいわよ」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待った! 不老がどこに?」
ぼくは焦って割り込んだ。ついついため口を発してしまう。
「あれれえ? 御器所君ともあろう人が聞いてないの? 不老君の……えーと、なんだっけ? 『親愛なる伝記作家』じゃないの?」
聞いてない。まったくの初耳だ。不老のお母さんだって? 確かにぼくは、不老翔太郎の家のことを何も知らない。そもそも一学期に不老が引っ越してきてから、一度もやつの家に行ったことはなかった。不老のお母さんにも会ったことはない。
「不老のお母さんの家って――」
訊ねようとしたときだった。教室の後ろの扉から、
「おい御器所、部長が呼んでる。『野球部の呪い』の謎を……あっ、先生がいた!」
しまった、といった面持ちで首をすくめているのは神沢雅也だった。
「いちゃ悪いかしら? 神沢君、『呪い』なんて怖いこと言わないで。わたし、そういうホラーな話は苦手なの!」
萱場先生は言ったが、その表情には満面の笑みが浮かんでいて、はち切れんばかりの好奇心に満たされていることに、ぼくは気づいた――不老でなくてもわかるくらいだ。
「不老翔太郎の乱調」第一話「学校の怪談」後編へつづく
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