不老翔太郎の乱調

美尾籠ロウ

第1話「学校の怪談」前編

 不老ふろう翔太郎しょうたろうは、今日も欠席だった。

 もう間もなく夏休みだ。午前中だけの短縮授業期間が始まっている。月曜から、不老は学校に来なくなった。やつのことだ。単にサボっているはずがない。風邪を引いているとも思えない。何か事情を背負っているために、学校に来なくなっているはずなのだ。その事情を、やつは一切、ぼくに何も言わないのだ。

 担任の萱場かやば先生も、不老翔太郎の欠席の理由をよく知らないらしかった。「帰りの会」では、萱場先生はぼくにちらっちらっと何度か視線を向けた。ぼくだって不老の生活のすべてを把握しているわけじゃない。どうしてぼくが不老翔太郎の行動について知らなきゃいけない? それに、不老が学校に来ようと来まいと、ぼくにはいっさい関係ない。不老がいないからといって、ぼくが寂しく思うことなど――

 いよいよ明日が終業式、という朝八時二十分だった。この時刻からもうセミたちは鳴いている。うるさいくらいだ。

「不老は来ないのか?」

 正門をくぐるや否や、ぼくに声をかける男子生徒がいた。五分刈りの頭が視界に飛び込んでくる。ぼくよりもさらに小柄、だけどぼくとは違って細身で敏捷、運動が得意な神沢かみさわ雅也まさやだ。口を尖らせるような表情を見せていた。

「不老でもビビることが起こったんだ。今、野球部でヤバイことになってる」

「えっ? どんな事件?」

 神沢雅也は、登校してくるほかの生徒たちを見やりながら、声をひそめた。

「ホントにあるんだ、『ガッコウノカイダン』」

「そりゃ、階段がないと二階に上がれな――」

「先生とかには言わないでよ。グラウンドの端っこにあるじゃん、ニノキン。暗い顔で荷物背負ってるオッサン」

「ニノキン……? あ、オッサンじゃなくて、男の子だけど」

 二宮にのみや尊徳そんとく――二宮金次郎の像のことか。神沢は真面目くさった表情で、うなずいている。

「ニノキンの奴、夜中に動いたんだ。グラウンドを歩き回ってるんだよ」

 ぼくは心のなかで「あちゃあ」とつぶやいた。が、神沢雅也は、すごく真面目な表情だった。

「野球部だけに伝わる秘密なんだ。ほんとは、野球部員以外に話すと、しゃべった人間と、その話を聞いた人間が、呪い殺される……」

 神沢雅也が、ぎろっと上目遣いでぼくをにらんだ。

「またまたぁ」

 ニヤニヤ笑おうと思ったけれど、神沢の深刻な表情を見て声を飲み込んだ。

「あっちだよ、来て」

 正門の両脇には葉が生い茂った桜の木が左右に並んでいる。その左手奥に、ひっそりと二宮金次郎像が建っていた。生徒たちもあまり近づかないような、学校の片隅の片隅だ。ぼく自身、存在だけは知っていたけれど、まじまじと像を見たことはないし、近づいたこともなかった。

 像自体は、身長約一メートル。しかし像とほぼ同じ高さの台座の上に立っているので、地面からは見上げることになる。最近では「歩きながらスマートフォンを操作することを助長する」という、ほんとうかウソかわからない理由で、座って本を読む像もつくられているらしい。が、我が校の二宮金次郎は「たきぎを背負って歩き読書」というクラシックなデザインだ。

「止まれ!」

 像に歩み寄ろうとするぼくに向かって、新たに声をかける者がいた。一組の生徒だ。ほっそりとした体つきに丸刈りの頭、長身で、中学三年生くらいに見える。やたらと目付きが鋭かった。いている半ズボンが、アンバランスだ。野球部の部長であることを思い出した。確か名前は、高見たかみ翔馬しょうまといったはずだ。

「不老は一緒か?」

 高見野球部長はぼくの顔を覗き込んだ。

「あ、いや、不老は休みだけど」

 高見の頬の辺りがぴくっと動いた。

「像に近づき過ぎるないほうがいいよ。不老に証人になってもらおうと思ってたんだけど、困ったな」

 高見翔馬が深刻な面持ちで言うと、あとを引き取るように神沢が続けた。

「『野球部の呪い』は、ほんとうだったんだよ」

「呪いって、二宮金次郎が走るってこと?」

 高見翔馬はうなずくと、ぼくを手招きした。おそるおそる歩み寄ると、高見は、ぐいっとぼくの耳に顔を近づけ、ささやき声で言った。

「最近、噂があるのを知ってるか? 夜中に、子どもの哀しそうな泣き声が聞こえるんだ」

「え……泣き声?」

 ぼくは、急に寒気を感じた。

「甲高くてか弱くて、助けを求めるような弱い声が、グラウンドのあちこちから聞こえるらしい」

「泣き声って、誰の……?」

「それはきっと、この学校に昔から伝わる呪いに関係がある。今から、五十年以上昔のことらしい――そうだよな?」

 高見が訊くと、神沢は何度も「うんうん」とうなずいた。

 この小学校が創立されたまさに一年目の出来事だという。

 高度成長期と呼ばれる当時に新設されたのが、ぼくたちの通うこの小学校だった。当時は、住宅もまた建設ラッシュで、街の中心部には学校を作るだけの広い土地がなかった。そのために、中心からやや離れたこの場所が新たに切り拓かれ、ぼくたちの小学校が建設された。

 なぜ、これだけの広さの土地が使われずに荒れ地となっていたのか――実はここは、江戸時代に刑場として使われていたというのだ。打ち首やはりつけ獄門ごくもんの刑が、まさにこの運動場のどこかで行われていた。さらに処刑された罪人――そのなかには無実の人たちも多く含まれていたという――の遺体が埋葬された墓地もまた、ここにあった。小学校建設にあたって、罪人たちを祀る墓石は移動された。しかし、地中の遺体はそのまま、上に土を盛って小学校が建設されたという。

「そ、そうだったんだ……」

 声の震えを押し隠して、眼の前のグラウンドを見やった。毎日ぼくも踏んでいる、この足下あしもとに――いやいや、そんなこと考えたくない。慌てて首を振った。

「事件が起きたのは、学校創立一年目の、ちょうど今頃だったらしい」

 高見は辺りをうかがうようにして、内緒話をするかのような小声で言った。

 学校創立一年目に野球部は創設された。その一学期の終業式の後に、事件は起きたという。

 野球部は午後から練習を行なった。翌日から夏休みで、一週間は練習がない。練習が終わったあとの夕方になって、野球部員たちはなぜかかくれんぼをすることになった。そのなかに四年生の新入野球部員、二宮君という生徒がいた。二宮君は、体育器具庫に隠れた。その当時、体育器具庫は今とは場所が異なり、もっと南側の正門寄り、ちょうど現在、二宮金次郎像が建っている辺りにあったという。

 二宮君は体育倉庫の中で、ずっと誰かが見つけに来るのを待っていた。しかし、誰も来なかった。いっぽう野球部の生徒たちも二宮君を探したが、いっこうに見つからない。「たぶん一人で先に帰ったんだろう」と考え、野球部員たちも探すことをやめ、めいめいが帰路に就いた。

 しかし二宮君は、帰宅していなかった。夜になって両親が学校へ問い合わせ、先生たち総出で校内をくまなく探した。が、結局見つけることはできなかった。

 二宮君が発見されたのは、それから一ヶ月以上経った、二学期の始業式当日だった。体育倉庫のいちばん奥に、二宮君はうずくまっていた――やせ衰え、枯れ枝のようになった腕を伸ばし、細い指先は中空を摑み、苦悶に顔をゆがめ、なかばミイラ化した屍体として。もはや空洞となった両方の眼窩は、校舎のあるほうをにらみつけていたという。

 病院で解剖された結果、二宮君の死因が判明した。餓死だった。しかし、奇妙なことがあった。死亡推定時刻は、かくれんぼをしたわずか数時間後、終業式の夜だったのだ……。

 ぼくは唾を飲み込もうとしたけれど、舌と喉が固まっていた。懸命に動揺を隠しつつ口角を上げて、形ばかりの笑みを作った。

「何を、やるつもりなの?」

 高見は、いっそうぼくの耳に顔を近づけた。高見の息づかいを耳の穴に感じて、くすぐったいくらいだ。

「今夜、こいつがほんとうに動くか調べる。明日の朝、不老にもここに来るよう伝えておいてよ、御器所ごきその親友なんだろう?」

「いやぁ、親友ってわけじゃないし、明日、不老が来るかどうかわからないけど……まあ、もしも会ったら伝えるよ」

「それからもう一つ!」

 脇から神沢が小さな身を乗り出した。

「不老以外の誰にも、この話はしちゃだめだよ。もしも誰かにこの話を漏らしたら、呪われるから……」

 上目遣いの神沢はひときわ声を低めた。


 暑い教室で、子犬のようにハァハァと舌を出して呼吸し、なんとか三時間の授業を受け流した。ぼくのようないわゆる「ぽっちゃり」には、夏は地獄だ。

 しかし、食欲はいたって旺盛である。ちゃんと、腹は減る。ぐうぐうと不満の声を上げる腹を抱えながら、昇降口に向かった。自分の靴に向かって手を伸ばしたとき、背中をぱちーん、と叩かれた。

「今日も来なかったね、不老君」

 キム銀河ウナが笑顔でぼくを見下ろしている。

「痛いんだけど!」

 そうは言ったけれど、相手が金銀河なんだから、決して嫌ではない。いや、だからといって、もっと叩いて欲しいわけじゃないけれど。いや、ほんとうに。

「とっとと一人で夏休みを先取りしようっていうわけなんだ、あいつは」

「冷たいんだね、御器所ごきそ君って」

 思いがけず、冷やかな声が帰って来た。外気は三十五度近いというのに、ぼくの背筋は確実に二十度以上冷えた。

「あ、不老のこと、心配してないわけじゃないっていうか、あいつのことだから心配しなくてもいいっていうか――」

 なぜぼくは、こんなにしどろもどろにならなきゃいけない?

「しかたないから、御器所君に言うけど」

 金銀河は、ぼくのすぐ脇に歩み寄ってきた。心拍数と血圧が急上昇した。

「不老君って、こないだの話を調べてるから、学校休んでるの? 違うでしょ?」

「えーと、こないだの話って……なんだっけ?」

 金銀河が大げさにため息をついた。

「うわ、とことん冷たいんだ」

「そ、そんなに冷たくないよ、ぼくは……」

 ぼくの嘆きが聞こえなかったのか、金銀河は続けた。

「真相解明を不老君に頼れないなら、わたしたちで調査すべきじゃない?」

 まったく話が見えない。

「確かに、一度だけの過ちってことは考えられなくもない。男と女の間だからね、昔はきっといろいろあったはず」

「えーと、男と女……」

「でもすぐにまたほかの男とくっつくなんて、絶対にありえないでしょ?」

 金銀河は、これ以上ないくらいの険しい目線をぼくに突き刺した。

「あのぉ、なんか、ごめん……」

 つい謝ってしまう。

「不老君がいなくたって、わたしにもプロファイリングできるよ。今日の二時間目の算数の時間、文章題を覚えてる? 『ホテルの客の54%が男性でした。男性客は何人でしょう』っていう問題」

「えー、あったような……気がするかも」

「あのときの萱場先生は、明らかに『ホテル』という単語を口にするのをためらってた。一瞬、舌が滑らかに動かずに、口ごもってたでしょ。つまり!」

 不意に強い口調で金銀河は言い、ぼくの顔の前に、まっすぐに伸ばした右の人差し指を突きつけた。まるで不老翔太郎みたいだ。

「萱場先生は、まだ『ホテル』にこだわってるってこと。アレは『一回だけの過ち』ってわけじゃなかったってことじゃない?」

「えーと、ホテル……あ、ホテルって、あのホテル!」

 鈍感なぼくも、ようやく思い出した。

 先週、キム銀河ウナが目撃したのだ。萱場かやば先生が平針ひらばり左京さきょうとホテルに入る場面を。

 ショッキングな証言ではあった。ホテルと言っても、無論、普通に旅行で宿泊するためのホテルじゃない。もっと特別な、大人たちだけのための「ホテル」だ。

 金銀河の見間違いだと、ぼくは今でも信じている。

 平針左京は、自称「探偵」だ。この男は、何年も前から萱場先生とは、単なる「元カレ」以上の関係があるらしい。平針左京は今、何らかの理由で萱場先生を追いかけて――いや、つきまとっていた。が、それはストーカー的な執着とは違うらしい。萱場先生とはもっと深い因縁があるはずだ。

「萱場先生には、きっと何か考えがあるはず。ずるずると昔の男との関係を引きずったりするような人じゃないもん」

「ムカシノオトコ……」

 ぼくが懸命に理解しようとしているのに、金銀河は冷たく言い放った。

「あーもうっ、これだからお子様は!」

 そう言われても、ぼくだって金銀河と同じ小学六年生なんだけど。

「不老君みたいな冷たい人は、萱場先生を見捨てるかもしれない。でも、御器所君はそんなことしないないよね?」

 金銀河は、ぐいと顔を近づけて来た。焦る。大いに焦る。顔が真っ赤になっていることがバレていないことを願いつつ「あの、その、もちろん……」と、しどろもどろに答えることしかできなかった。

「何もしないなんて耐えられないよ。直接、現場をあたってみるっきゃない」

 そう言うや否や、金銀河はぼくの二の腕をぐいっと摑んだ。

「現場? どこ行くの?」

「決まってるでしょ、ホテル!」

「ホテルって、あのホテル?」

 本気なのか? いや、金銀河には本気しかない。


 歩いて二十分ほどかけ、金銀河が目撃したというホテルの近くまで来てしまった。〈HOTELホテル SILVERシルバー BLAZEブレイズ〉と壁に貼られていなければ、小洒落こじゃれたマンションのように見える。その看板も黒地に白の文字で描かれていて、シックだ。けれどすぐ脇に「平日ご休憩フルタイム5000円」などの表示があって、ここがホテル――それも「ご休憩」がある類のホテルであることを思い出させた。

 一階は駐車スペースになっているが、ダーク・グリーンの暖簾のれんのようなカーテンのようなものがぶら下がっていて、内部をうかがうことができなかった。ホテルの前は一方通行の道路で、周辺はごくふつうの住宅地だ。結構、車通りも多い。ぼくたちが隠れて張り込む場所などなかった。

 向かいのコインパーキングに設置された自動販売機の脇で、ぼくと金銀河は顔を見合わせていた。凶暴な太陽光線が、ぼくたちに降り注いでいる。セミたちは全力で鳴きわめいている。これでは、熱中症でぶっ倒れてしまいそうだ。

「ぼくたち、不審に思われるよね」

 自販機で売られている商品のなかもっとも甘いピーチ味乳酸菌飲料を一気に飲み干して、ぼくは金銀河に尋ねた。飲んだそばから水分が汗として蒸発しそうだ。

「そうね、だったら行動あるのみ」

 金銀河はずかずかとホテルの駐車スペースへと早足で進んだ。

「へっ? まずくない?」

 ぼくの声を聞こうともせず、金銀河は駐車スペースの目隠しになっているダーク・グリーンのゴム製暖簾をまくり上げ、顔を突っ込んだ。なんという大胆さか。

 金銀河はささやき声で言った。

「萱場先生のバイク、ある? 平針のバイクは赤かったよね」

「ちょ、ちょっと待った。マズいよ、誰か来たら言い訳できな――」

 言葉を飲み込んだ。真っ赤な大型バイクが、駐車スペースのもっとも奥に停まっているのが見えたからだ。排気量1000ccはあろうという、大型の外国製バイクだ。

 その瞬間だった。電子的なリズムが鳴った。コンクリートの駐車スペースに響き渡り、その電気仕掛けの木琴のようなメロディが、必要以上に大きく響き渡った。金銀河の携帯電話が着信を受けたのだ。

 そして背後から、何者かが、来た。

「ここは、ランドセルを背負って来る場所ではないはずだがね、お二方ふたかた?」

 物静かな声だったが、ぼくは間違いなく十五センチは跳び上がった。体重が軽かったら、あと二十センチは高く跳んだはずだ。

 金銀河は身軽だった。つむじ風を巻き起こして身をひるがえした。ぼくの二の腕をぎゅっと摑み、駐車スペースから引っ張り出し、駆け出そうとした。

 けれど残念ながら、悔しいことに、ぼくが鈍重すぎた。両脚がもつれて、こんがらかる。無様に、どっさーっと焼け付くアスファルトの上にうつ伏せにこけた。

「おやおや」

 ひどく冷静な声が、近づいてくる。

 まさか、と思った。全身からバカみたいに汗が噴き出した。いや、いつだってぼくは、夏場には汗みどろになんだけど。

「まさかこんなところで再会するとはね」

 ぼくたちを見下ろしているのは、平針ひらばり左京さきょうにほかならなかった。日本人離れした長身ちょうしん痩躯そうくに長い手脚。肩までの髪はゆるやかにウェーヴがかかっている。黒いTシャツからは鍛えた腕の筋肉がむき出しになっている。

千種ちぐさはいないよ。まだ学校じゃないのかい?」

 すぐさま、金銀河が突っかかった。

れしく先生のことをそんなふうに呼ばないでください! どうしてこんなところをうろついているんですか? 萱場先生を傷つけないで下さい!」

「やれやれ、たいへんな言われようだ。千種と俺は、君たちが生まれる前からのつきあいだぜ。俺が彼女をどう呼ぼうが、君たちに非難されるわれはない。それよりも――確か、金銀河ちゃんだったね――君のスマホが鳴っていたんじゃないかな? 授業が終わってさして何時間も経っていないのに、あえてメールやソーシャル・ネットワーキング・サービスを利用せず、電話をかけてきた。ならば何かしら切迫した要件が、相手にはあるのではないかな」

 まるで不老のような口調で言う。

 金銀河はしぶしぶスマートフォンをチェックし始めた。

「あのぉ……萱場先生とこのホテルに来たのは本当なんですか?」

 ぼくが尋ねると、平針はぷっと噴き出した。

「Oops! 単刀直入だね。心配無用だ。彼女をだましたわけでもないし、むりやり連れてきたわけでもない。俺と千種の思いは同じなんだ」

「じゃ、ほんとに萱場先生とつきあって――」

 言いかけたとき、金銀河の声が割り込んだ。

「たいへん! 学校で事件があったみたい! 早く戻らないと!」

「事件って、何?」

理沙子りさこちゃんが、学校で恐ろしい体験をしたんだって!」

「少年探偵君の姿が今日は見えないようだが、君たちだけで事件は解決できるのかな?」

 切迫した金銀河の表情を見ながら、平針左京は面白がるように言った。

「黙ってなさい! あんたには関係ない!」

 金銀河が一喝した。

「ヒュー、怖い怖い。さすが千種の教え子だな」

 わざとらしく肩をすくめて見せる平針左京に背を向けて、ぼくたちは学校に向かって駆け出した。


 息も絶え絶えで、ぼくは学校に着いた。全身汗みずくで、心臓は爆発しそうだった。息もできない。炎天下で全力疾走などするものじゃない。

「み、水……死ぬ……」

 単語しか発することができない。

 野良犬のように、校舎の前の水道から直接水を飲んだ。その間に、「理沙子りさこちゃん」こと本山もとやま理沙子が、金銀河と並んで歩み寄ってきた。

 本山理沙子は、百六十センチを越える長身でショートカット。スキニーなジーンズをはいた脚は、めったやたらと長い。足首に虹色のミサンガを着けているのが見えた。これまでに会話をしたことはなかった。一見して「スポーツ万能、元気満タン、超ポジティヴ」的な生徒だ。そういう子は、そもそも根本的にぼくとは縁がない、というか、ぼくのほうからなるべく近寄らないようにしている。もっとも、ほとんどすべての女子に、ぼくが近寄ることはないんだけれど。

 そんな本山理沙子が、顔を青ざめさせ、両眼も涙で潤んでいるようだった。

「理沙子ちゃん、もう一度わたしたちに詳しく話してくれる?」

 金銀河がやさしく言うと、本山理沙子はぼくに眼をやった。

「あ、不老がいないけど……なんかごめん」

 ぼくが言うと、金銀河が怖い表情をぼくに向けた。

「御器所君が謝ることなんてない! ねえ、理科室で何かを見たんだよね」

「そう、理科準備室で……おそろしいことが起こったんだ。今でも自分の体験が信じられないけど、ホントにあったんだよ、『学校の怪談』が!」

「学校の怪談?」

 ぼくは思わず身を乗り出した。

 本山理沙子は一度つばを飲み込み、声を低めて話し始めた。

「わたし、理科部に入ってるじゃん。顧問の築地つきじ先生に……ちょっと大事な話があって、放課後に理科室に行ったんだ」

 見るからにスポーツ・ウーマンといった様子の本山理沙子が、オタクの集まりと噂される理科部所属だとは、ちょっと意外だった。

「築地先生って、いつも職員室じゃなくて、理科準備室にこもってることが多いんだ。だから行ってみたんだけど……」

 築地先生は、五分刈りで長身、いつも白衣を着ている。二年生の担任だ。ぼくたち生徒に対して必ず敬語で話し、決して激昂げっこうして怒ったりしない。かといって生徒たちからあなどられたりすることはなくて、人気のある先生の一人だ。先生というよりはむしろ、お坊さんのような雰囲気だ。実際、一部の生徒たちは「築地和尚おしょう」とか「住職じゅうしょく」なんて呼んでいた。

「授業終わったばっかりだったけど、みんなが帰っちゃったあとで、校舎には人がいなくて、しーんとしてた。けど、まだ全然昼間だし、明るいし、平気だと思ってたんだけど……」

「理沙子ちゃん、何を見たの?」

 金銀河が、心配げに本山理沙子の肩に手をそっと置いた。すると、この暑さの中、本山理沙子はぶるっとその肩を震わせた。

「ほんとうなんだから! 眼の前で起こったんだから! 理科準備室に行くには、理科室を通り抜けないといけないじゃん? 理科室の鍵が開いてたから、中に入ったんだ。なんか準備室のほうからかすかに物音みたいなのが聞こえて、築地先生がいるんだな、と思ったけど――笑わないでよ――理科室ってちょっと薄暗くて、ひんやりしてて、ちょっと怖くなっちゃった。でも気を取り直して準備室に向かって『築地先生』って呼んだの。そしたら物音が消えた。急に静まりかえったんだ……」

「で、何が起きたの?」

 金銀河が本山理沙子の肩を、力づけるようにぐっと摑んだ。本山理沙子は、金銀河に向かって潤んだ眼を向け、決心したように一度うなずいた。

「怖いとか思うのってヘンじゃん? 普通に『築地先生、いますか?』って呼びかけて、準備室に近づいた……」

 本山理沙子は、おそるおそる理科室の机の間を歩いて、いちばん奥の準備室の扉に、近づいたのだそうだ。理科室の後ろ側、準備室へと続く扉の隣には、ガラスケースの中に入った、身長一メートルほどの人体模型が立っていた。間の抜けた顔で、肺や心臓や腸をむき出しにしている。その隣には、ぼくたちの背丈よりも高い棚が並んでいる。そこにはガラス製の実験器具がずらりと並んでいた。

「そのときに聞こえたんだ……小さな、小さな声……」

 ぼくの背骨に沿って、凍りつくほど冷たい毛虫がぞわぞわぞわ……と這い上がるような感覚があった。

「もしかしてそれって、甲高い泣き声だったりする……?」

 ぼくはあえぎあえぎ訊いた。今朝、野球部の高見たかみ翔馬しょうま部長が語った話を思い出していた。思わず膝の力が抜けそうになる。

「そう。まるで『助けて』って言ってるみたいな、すすり泣くみたいな、赤ちゃんの声みたいな……実は理科部のあいだで、こないだから半分冗談で噂になってたんだよ。赤ちゃんの声を聞いた子がいるって。でも、聞き間違いだって自分に言い聞かせて、準備室に近づいた。そしたら……そうしたら……」

「何……?」

 金銀河がささやき声で訊く。

「いきなりガチャガチャガチャガチャって!」

 正直に白状する。ぼくはその瞬間に「きゃっ」と叫んで跳び上がった。

 理科室の棚の中で、ビーカー、試験管、メスシリンダー、その他の実験器具が一斉に震え出し、ぶつかりあい、暴れ出したというのだ!

「ポ、ポルターガイスト……?」

 金銀河も息を飲み込んでいる。

「全力で理科室から逃げ出して、銀河に電話したんだよ!」

 ますますぼくの背筋は冷え上がった。

「理沙子ちゃん、それって、今からどのくらい前に起きたの?」

「たぶん三十分前くらい、かな……?」

「じゃあ、まだ何か手がかりが残っているかも」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って。理科室に行くの?」

 あわててぼくは口を挟んだ。

「あたりまえでしょ! 謎を解くんだから!」

 金銀河ににらまれ、ぼくは縮み上がった。


 理科室と理科準備室は、北校舎一階の東の端にある。廊下はひんやりとしていて、真夏であることを忘れそうだった。生徒の姿はないし、職員室からも離れている。階段を挟んでさらに奥には給食室配膳室と給食室がある。が、今は短縮授業期間中で――ぼくにとっては、実に残念すぎることだけど――給食がない。給食室と配膳室は施錠され、明かりも点いていなかった。

「聞こえた?」

 唐突に、金銀河が歩みを止めた。

「な、な、何?」

 思わずぼくの声は裏返る。

「なんか……小さな声みたいなの。理科室か、あっちの給食室のほうから」

「ま、ま、ま、まさか……」

 ぼくの舌は乾ききっていた。

「わたしも聞こえた……準備室で聞いたのと、同じかも……」

 本山理沙子も、恐ろしいことを言い出す。

「い、いやぁ……それって、鳥とかじゃないのかなぁ。あ、ネズミが這い回ってるのかな? は、はは……」

 ぼくは無理に笑おうとした。が、口が固まってしまっている。

 それでも金銀河と本山理沙子は、歩みを止めることなくどんどんと廊下を進んだ。どうして女子はこんなに強いのか。

 理科室の扉は開いていた。本山理沙子が飛び出したときのままなのだろう。長身の女子二人が先にためらうことなく室内に入り、へっぴり腰のぼくが後に続いた。

 日当たりが悪く、薄暗い。

 奥の棚の隣に、人影のようなものが見えて、一瞬ぎょっとした。ガラスのケースに収められた、ほぼ等身大の人体模型だった。ぎょろりとした眼で中空をにらみ、薄く笑みを浮かべているように見える。気味が悪い。さらに不気味なのは胴体だ。人体模型なのだから当然だが、プラスチック製の内蔵がむき出しになっている。心臓、肺、胃、肝臓……それぞれが赤やオレンジや青で色分けされている。中途半端にリアルで、それがまたグロテスクだ。ぼくは眼をそらせた。

 ぼくたちは一言も声を発しなかった。耳を澄ましてみたけれど、泣き声は聞こえない。ゆっくりとした足取りで、周囲を見回しながら、ぼくたちは理科室後ろの棚へ歩み寄った。棚の中には、ビーカー、試験管、集気瓶、ピペットにメスシリンダーなど、ガラス製の器具が整然と並んでいた。乱れた形跡はない。ぼくたちはしばし立ち止まって棚を見上げた。まるまる一分ほどたったけれど、暴れ回る気配はなかった。

 なんとなく三人同時にうなずきあい、準備室へとつながる扉へと歩み寄った。

 そのときだった。

 あり得ないことが起きた。

 ガタガタ……とガラスが振動する音が聞こえた。棚の実験器具じゃない。

 次の瞬間だった。

 何かが弾けるような音。

 ガラス戸が開いたのだ。振り返る――人体模型だ。揺れている。がくがくと身を震わせている。まるで苦しんでいるかのように。その頭がこちらにのけぞったように見えた。ぎょろりとした眼がぼくをにらんだ。悲鳴――誰があげたのか。ぼくかもしれない。さらに揺れた。

 そして、襲いかかって来た!


不老翔太郎の乱調・第一話「学校の怪談」中編へつづく

 肺が、心臓が、膵臓が、肝臓が、腸が、人体模型の臓物が、一斉にぼくたちに向かって襲いかかって来たのだ!


「学校の怪談」中編へつづく

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