第23話 緋色の時

 両ペアが台に着く。

 さてさて最終セットだ。


 会場の2階席からの観戦に卓球という競技は向いていない。

 球が小さく、そして速い。

 遠くからでは球が見えないこともあるだろう。

 それでも、経験者であればラケットの振りからおおよその球の軌道も分かる。

 しかしながら、この大会は卓球の素人である保護者だってやってくるのだ。


「あれっ、まだ続くのかい? さっき緋色は勝ったよね」

「もう、パパったら。今2対2だから次が最後のゲームよ。それにしても緋色ったらあんなに卓球が上手になったのね」

「僕も本当に驚いているよ! 緋色が自分から何かをやりたいと言い出すのは初めてだったからただ嬉しいって気持ちだったけど、まさかこんなに上達するとはね」

「パパは知らないわよね。緋色はとっても頑張っていたのよ。部活がない日も練習したりしていたもの」

「そんなに打ち込めるものが見つかるなんて……ああ、緋色……」

「ちょっとパパ泣かないで。ほら、はじまるわよ」


 俺の隣でいかにも温厚そうな夫婦が話している。

 間違いなく内原さんの保護者の方だろう。

 俺が長中の先輩だったことを明かしたら、きっと2人は驚く。

 だけど、そんなことはしない。


 そんなことをすれば見逃してしまうかもしれない。

 内原緋色という選手が再び開花する瞬間を。


 思えば俺は、あの日から彼女のことばかり考えていた。


 *


 台に着くなり、金町さんは屈伸をする。

 何回か屈伸をした後、彼女はその反動で高く飛び跳ねた。

 そして、金町さんはラケットをこちらに向けて宣言した。


「紡金、待たせたわね。戻ってきたわよ」

「戻っちゃったか。できればお引き取り願いたいんだけどなー」

「それはできないわ。私は今日……紡金に勝つためにここにいるんだもの」

「やってみなよ。私は強いよ。この場にいる誰よりも」


 やりとりが終わると、審判が私たちを交互に見て確認をとる。

 そして、球を紡金ちゃんに渡し、試合開始の声を上げた。


「ラブオール!」


 紡金ちゃんはサーブのモーションに入る。

 ボールを手の平に乗せて、ラケットの裏が相手に見えるようにして手前に構えた。

 放たれたサーブはロングの下回転。

 3セット目は一度も持ち上げることのできなかった紡金ちゃんの最も基本的なサーブ。


 4セット目と同じようにツッツキに逃げるかと思い、私は意識を前陣に持っていく。

 しかし、金町さんの構えは一切逃げる選択をとっていなかった。

 2球目攻撃で仕留める気だ……!


 私は一歩下がる。

 いくら体力が回復していると言っても、1セット目ほどの速度はないはず!

 下回転へのドライブでこのままフォアクロスに厳しいコースは難しい。

 返球位置を予想してバック寄りに構えていたのだが……風が吹いた。


 金町さんから打ち出された球は、私のバックを穿つ。

 ブロックのためにラケットを置いてはいたのだけど、彼女のドライブは容易にそれをすり抜けていった。


 <0ー1>


 ドライブを打った体制をもとに戻す。

 彼女の宣言通り、彼女は──彼女の『疾風』は戻ってきた。

 ニヤリと口角を上げるそれは、今のは挨拶代わりだとでも言いたげな表情だった。

 紡金ちゃんは何も言わない。


 2球目のサーブ。

 紡金ちゃんは次にショートの下回転。

 これなら2球目で打たれる心配はない。


 金町さんはドライブ姿勢でいたのをすぐに切り替えでフォア側キツ目のコースにストップ。

 しかし、それは私も読めていたのでしっかり反応しバックストレートへロングのツッツキ。

 下回転のボールに対して小春ちゃんがバック面──粒高ラバーでカットした。

 回転を逆にして返す性質のある粒高ラバーから放たれたそれはナックル性質のボール。

 確かに打ちにくい球ではあるが、紡金ちゃんが打てない球ではない!


「行くよ悠里!」


 バッククロスへと流れる小春ちゃんのカットを紡金ちゃんはフォアクロスへと返球。

 金町さんレベルのスピードドライブは低く台を走っていく。

 完全に決まると確信できる一撃だった。

 しかし、今の金町さんはもう誰にも止めることができない。

 巧みなフットワークと尋常ならぬ体捌き。

 踊るように舞うように、風と一体化した彼女は即座にドライブの通路へと動き、バックドライブで返球してきた。


 ラケットに当てることはできたが、金町さんの球威に押されてコントロールできない。


 <0ー2>


 圧倒的だ……紡金ちゃんのドライブすら容易く返球してくる。

 今の金町さんは1セット目と比較してなんら遜色ない。

 むしろ、今の方が彼女は強く、輝いていた。

 きっと今こそが彼女の黄金期なんだと思う。


「ごめん紡金ちゃん」

「いや、大丈夫。次は取られない球を打つよ」


 紡金ちゃんはボールを拾うと相手に渡した。

 サーブ権が相手に移る。


 金町さんのサーブ権。

 体力が完全に戻った彼女だったが、構えはしゃがみ込みのそれではなかった。

 1セット目、私はほとんど金町さんのしゃがみ込みが取れなかったからそれはありがたい。

 しかし、しゃがみ込みを使わないということは裏を返せば、使わなくても勝てるという意思表示でもある。

 私がこの場で1番弱い選手という揺るぎない事実を突きつけられているようで、少し悔しかった。


 巻き込みサーブから放たれたのはおそらく……横回転だ!


 球のインパクト時にラケットが立っているのを確認して、私はそう判断する。

 私はバック面──表ソフトで弾くようにしてバックストレートへ返球。

 速度のある返球だったが、小春ちゃんは容易にカットしてくる。

 しかし、そのバックカットはラケットに引っかかった。


 <1ー2>


 小春ちゃんはラケットを一瞬チラリと見る。

 ミスした時の卓球あるあるだ。私もよくする。

 今のは単純にラバーの相性だ。

 表ソフトはナックルが出しやすく、粒高はナックルが少し苦手。

 これまで一度もミスしてこなかったのに、ここに来てミスしたということは小春ちゃんも少し疲れがきているのかもしれない。


 彼女は4セット目、金町さんが本来使う体力を全て肩代わりしていたに等しい。

 それでも、疲労度でいえば、私や紡金ちゃんの方が上だろう。


 私はツーっと流れてきた汗を左手で拭った。



 次のサーブも同じく巻き込みサーブだった。

 インパクトの瞬間を見定めて……今回も横回転だ。

 何度も同じ手が効く相手だとは思ってない。

 だけど、横回転サーブに対して私ができるのは表ソフトでのプッシュだけだ。


 バックストレートへと押し出されたナックル性質のボールを小春ちゃんがカット。

 低い軌道を描いてそれはこちらのコートへと戻ってくる。

 今度は返球されてしまった。


 下回転はほとんどかかっていない。

 紡金ちゃんは力強いスイングでパワードライブ。

 回転量の高いそのドライブに対しても金町さんの戦術は変わらない。

 彼女の必殺技はひたすらにスピードドライブ。

 その一本だけで、オールラウンダーの紡金ちゃんに並ぼうとしている。


 紡金ちゃんのドライブの回転を封殺し、完全に自分の球として彼女の手から放たれた。


 私のスマッシュなんかよりも全然速い。速すぎる。

 だけど今回の私は少し違かった。正確に言えば紡金ちゃんの球が良かった。

 回転の強い球を無理やり被せるようにして打った金町さんの球はバックに来るという確信が私の中であったのだ。

 バックで待ち受けていた私の元へ、スピードドライブが舞い込んでくる。

 次は……当てる!


 一瞬のうちに思考が巡る。集中力が極限まで高まり、身体が加速するような感覚に陥った。


「返る……ッ!」


 溢れた言葉通り、私のラケットに確かな感触が伝わる。

 回転が強くかかっているわけではない。

 スピードドライブのブロック練習はこの日のためにたくさんしてきたんだ!


 表ソフトでドライブを受け止めた私は、そのまま相手のフォア側へのカウンター。

 ただのブロックがカウンターとして成立してしまうほどに、彼女の球は強力だった。

 何ならこれで決まるという淡い気持ちが浮かんだが、私の球を受けるのは只今小春ちゃん。

「受け」に関してこの場で最も優秀なカットマンがこの程度の球を返せないわけがなかった。


 小春ちゃんは完全な体勢でフォアカット。

 ブチギレているのは私でも分かった。

 かなりいいカットが入ってしまった。

 彼女のカットにより試合のテンポが崩れる。

 強い下回転に対して、流石の紡金ちゃんも先ほどと同じような速く強い回転の球を打つのは難しい。

 若干持ち上げ気味にパワードライブ。


 普通のカットマン相手であれば、このまま再びバックカットからのラリーが続き、根気比べへと移行する。

 しかし、これはダブルス。

 紡金ちゃんの球を打つのは、この場で最速の少女だった。


 パワードライブをものともせずに、金町さんは回り込むようにしてバック側からフォアドライブ。

 台から逸れるようにして放たれたドライブに私は触れることができなかった。


 <1ー3>


「しゃああっ!!!!」


 金町さんは左拳を握り叫ぶ。

 強い。呆れてしまうほどに、彼女は強かった。


 紡金ちゃんを横目で見ると、彼女はとても辛そうだった。

 彼女は今戦っている。きっと、金町悠里という選手の他にも、常盤紡金という選手とも。

 紡金ちゃんは強い。だけど、彼女の心はそこまで強くはないのだと、そばにいて感じた。


「紡金ちゃん、まだ大丈夫。まだ大丈夫だから」

「もちろん。私は……まだ諦めてない」


 声に覇気がない。

 きっと、彼女はもう諦めかけている。


 私のサーブ権になる。

 サーブを受けるのは小春ちゃんであるため、基本的にはレシーブミスはあり得ない。

 つまり、サーブミスをしないことが1番の目標だ。

 1番安定している下回転のロングサーブを打つと、小春ちゃんはそれをフォアカット。

 返ってきたボールを3球目攻撃で紡金ちゃんはフォア側にドライブ。

 当然金町さんはその球に追いつき、もはやスマッシュ気味に強引に台にぶち込んできた。

 しかし、コースが甘い。

 たまたま球の着地点にいた私はバック面で沈めるようにブロック。

 私のブロックはストレートに敵のバック側へと飛び、小春ちゃんがそれをバックカットした。

 球はフワリとした軌道で私たちのコートへ。

 表ソフトでのブロックはナックル性質になりやすく、それが功を奏して彼女のカットがブレた。

 よし、これはアウトだ……と思った。きっと紡金ちゃんも思っていた。


 しかし、小春ちゃんの球はギリギリのところで台に当たる──いわゆるエッジボールとなったのだ。

 ネットインに比べ、エッジボールはされてしまえば対処のしようがない。


 <1ー4>


 礼儀として、小春ちゃんは「すいません!」と謝罪する。

 ネットインも、エッジボールも卓球をやる上では普通に起きることだ。

 気に留めていても仕方がない。

 運が悪いと割り切るしかない。

 それでも、ここでのエッジボールは紡金ちゃんの心を折るのに十分な威力を持っていた。


 エッジボールで飛んでいった球を拾いに行く紡金ちゃん。

 返ってきた彼女の手は、小刻みに震えていた。


「紡金ちゃん、手が……」

「えっ?」


 言われて初めて自覚したらしい。

 彼女は自分の手が震えていることに気づくと、歯を食いしばった。

 ここまで追い詰められた彼女を見るのは初めてだった。

 まずい。何か手を打たなければ……


 そんなことを考えながら、私は再びロングに下回転サービス。

 小春ちゃんのフワリと浮いたカットに対して、紡金ちゃんはドライブを打とうとする。

 しかし、回転を定め損なったのか紡金ちゃんの球がネットを越えることはなかった。


 <1ー5>


 審判がペラリと得点板を捲る。

 そのまま進行しようとしたところで、小春ちゃんが何やら審判に話しかけた。

 審判はハッとした表情ですぐに得点板をひっくり返すと、声高に宣言した。


「コートチェンジ!」


 シングルスでも、ダブルスでもフルセットに持ち込んだときコートチェンジというものがあるのを忘れていた。

 そして、ダブルスのコートチェンジはシングルスに比べて特殊だ。

 シングルスではコートチェンジするだけなのだが、ダブルスではサーブの順番も変化する。

 つまり、次の回から私は金町さんの球ではなく、小春ちゃんの球を受けることになるのだ。

 これは私たちにとって、敗北を意味している。


 内原緋色はカット打ちが出来ない。


 純然たる事実として、これはあった。


「紡金ちゃん、行こう」

「う、うん。そうだね」


 台の下に引っ掛けていたタオルを取ると、私たちは歩き出す。

 汗を拭きながら移動していると、金町さんが呼吸を整えながら話しかけてきた。


「……手は抜かないわ。覚悟しなさい、紡金」

「…………」


 紡金ちゃんは何も言い返さない。

 言い返せなかった、が正しいかもしれない。

 そういう精神状態じゃなかったのだ。

 紡金ちゃんの代わりに、私は口を開いた。


「金町さんはどうしてそんなに紡金ちゃんに勝ちたいんですか」

「……あんたには関係ない」

「関係なくないです。私は、紡金ちゃんのペアだから」


 そういうと、金町さんは途端に不機嫌そうな顔をした。

 紡金ちゃんの横にいるのが私であるという事実が、癪に触るんだと思う。

 そのまま、私たちはすれ違う。

 すれ違った後、私の背中に返答は投げかけられた。


「紡金の側にいるためよ」


 短く簡潔に、彼女はそう言った。

 その返答を私は予想していなかった。

 ライバルだからとかありきたりなものが返ってくるものだとばかり思っていたから。

 彼女は、彼女たちはどうしてこんなにも歪んでいるんだ。


 かたや負ければ卓球をやめるだ、かたや好きな人の側にいるために自分の力を示したいだ……


 2人はどうしようもなく互いを意識していて、意識しすぎていて。

 間に入っていける人なんて、誰もいない。

 友達だと思っていた私でさも、紡金ちゃんを説得できなかった。

 だからきっと、金町さんの方を説得することもできないんだと思う。


 私は部外者だ。

 だけど、私は紡金ちゃんの友達なんだ。

 彼女の我を通すために、私ができることなんて……ひとつしかない。

 結果がどうなるかなんて、大概絶望的だよ。

 私の人生はどうしようもなく上手くいかなくて、やめ時ばかり気にしてて……それでも今日は、この一瞬は最高の結果を信じ抜け。

 内原緋色の力を……私が1番知っている。

 私にできるたったひとつのことは……


「紡金ちゃん、待たせちゃってごめんね。私はもう……大丈夫」


 私はゆっくりと目を閉じて、深く息をする。

 会場の音が段々と小さくなっていく。

 深い海に沈んだような静けさが心地いい。

 私の体と意識はつぼみのように小さくなり、それは一気に花開く。

 解き放たれた妄想の世界は、ついに私の世界を覆い尽くした。

 瞳が、髪が、緋色に染まる。

 頬は淡く色付き、肌は真っ白な絹のように繊細で瑞々しい。

 ウィンクすれば惚れ惚れするほどの愛くるしさに頭がくらくらする。

 紛れもなく内原緋色は思い描く最高の美少女になっていた。


 緋色は左手をゆっくりと上げる。

 そして、その手を隣の紡金ちゃんの手に重ねた。


「反撃開始だよ……!」

「緋色ちゃん……入れたんだね」


 手を重ねる2人を見て、金町さんはギロリと緋色を睨んでいた。



 ***



 コートチェンジをして彼女が深呼吸した数秒後には、コートの雰囲気は変わっていた。

 いや、コートというより、緋色ちゃんというのが正しいかもしれない。


「反撃開始だよ……!」


 私の隣に立つ臆病な少女は、すでにその面影を失っている。

 間違いない。

 2年前の市内大会での緋色ちゃんが戻ってきた。


「緋色ちゃん……入れたんだね──同化トランスに」


 緋色ちゃんはどこを見ているのかはっきりしない、虚な目で頷いた。

 市内大会、県地区大会、県大会と入ることがなかった彼女の最終形態。

 夢見がちな緋色ちゃんが妄想と現実の境界を曖昧にしてしまうという私には理解できない領域の話。

 ただひとつわかっていることがあるとするのならば……こうなった緋色ちゃんは強いということだ。


「うん。こうなったはいいけど、状況が絶望的なのは変わりないよ。次の回から、緋色がカットボールを打つことになるから」

「緋色ちゃんはカットボール打てないもんね。でも、私になりきれば打てるんじゃないの?」

「もしかしたら打てるかもしれないけど、多分打てないと思う。小春ちゃんの切れたカットは物真似で打てるような球じゃなさそう」

「じゃあ他に策があるんだよね?」


 緋色ちゃんはコクリと頭を下げる。

 彼女は気づいていないかもしれないが、緋色ちゃんは戦略を立てるのが上手だ。

 本人に言ったら怒られるだろうから言えないけど、緋色ちゃんの卓球の技術はあまり褒められたものじゃない。


「ここから紡金ちゃんはカットマンになって欲しい。カットボールをバックサイドに返せば、粒高の小春ちゃんは切れたカットで返せない──つまり、私が決められる」

「ちょっと、今からカットマンしろって……遊びの中で少しやったことがあるくらいなんだけど」

「そう。紡金ちゃんならできるかと思ったのだけど……」

「待って」


 私は次の案を考えようとする緋色ちゃんの言葉を遮って、そう言った。

 別にできないわけじゃない。

 今は自信がないだけだ。

 私は昔から新しい技術はすぐ覚えられた。

 だからこそ、私は……卓球という競技に才能を持っていると感じたのだから。


 新しい技術を習得するなんて、いつぶりだろう。

 久しぶりの感覚に、私の手は震えていた。

 これは恐怖によるものではない。

 スコアは<1ー5>

 こんな絶望的状況だというのに、私はどうしてこんなにも……ワクワクしてしまっているのだろうか。


「ははは……無茶言うね、緋色ちゃん。一球ちょうだい。それだけあれば……覚えられる」




 ***



 最終セット、コートチェンジを終えた後にそれは突如として訪れた。

 会場には一度に20余りの試合が行われている。

 彼女たちのコートに注目している人はそういないだろう。

 だとするならば、この会場の人たちは少々損をしていると言わざるをえない。

 今、彼女たちのコートでは非常に面白いことが起きている。

 最終セットに来て、1人の選手はまるで別の選手になったかのように雰囲気が変貌し、もう1人の選手は突然戦型を変えてきたのだ。


 実を言えば、俺はこの会場に内原さんを見に来た。

 2年前の彼女の試合を俺は忘れることができないのだからこれは当然だろう。

 しかし、どうやら俺は思ったより運がいいらしい。

 まさか小学校時代に常盤さんが言われていた特異な能力──『黄金器』と呼ばれるものまで目の当たりにできるとは。


 小学校時代、常盤紡金という選手は圧倒的な力を誇っていた。

 単純な技術の高さもさることながら、彼女の強さはその対応力にあった。

 彼女はコーチから言われた戦術を、ものの数分でものにしてしまう。

 簡単に言ってしまえば、彼女は一般人に1ヶ月の練習が必要な技術を1分で覚えてしまうのだ。

 それほどまでに、常盤さんの卓球センスはズバ抜けている。


 小学校を最後に、彼女の『黄金器』と呼ばれる試合中の戦型変化は見れなくなったというが、まさか今ここで見れるとは。


 コートチェンジを境に、常盤紡金はカットマンになった。

 その意図は分からないが、彼女はカットマンになったのだ。

 立ち位置を1、2歩後ろにし、金町悠里──『疾風』と言われた圧倒的なドライブマンの球を完全にいなしていた。

 カットボールは常に敵の厳しいバックコースへと向かい、帰ってきたナックル性質の球を内原さんが相手の届かないコースへと返球する。

 これだけで、完全に相手の攻めと守りを崩していた。


 俺はベンチにいるわけじゃあないから、2人がどんなやりとりをして、この戦術に至ったのか分からない。

 会場の2回席から分かることといえば、2人が<1ー5>の絶望的な状況から、追い上げ、追い越していく──その怪奇な現象だけだ。

 その奇跡のような光景に、俺の心は踊り、魅了されていた。



 ***



 トランス状態になった緋色ちゃんは本当に人が変わったかのようにプレーしていた。

 これまで3球目攻撃なんてまともに決まったことはなかったはずなのに、今の彼女は多少回転が強いカットですらドライブでの返球ができるほどに成長している。


「緋色の調子は結構いい。フォア側に強めのカウンターでも大丈夫だよ、紡金ちゃん」

「了解。カットばかりは私の性に合わないって、思ってたところなんだ」


 私は肩をぐるりと回すと、久しぶりに打てる強打に胸を高鳴らせた。


「紡金ちゃん、ごめんね」


 彼女はボソッと呟いた。


「ごめんって、何が?」

「緋色がもっと強かったら、この試合だってこんなに苦戦してないと思って」


 彼女は確かに弱い。

 シングルスをすれば、100回戦って100回私が勝つだろう。


「だから紡金ちゃん、緋色は強くなるよ。今日より明日。明日より明後日……でも河川敷で誓った時とは……少し違うんだ」


 しかし、内原緋色という選手は……決して歩みを止めることはない。


「練習相手になれるくらいじゃない。今度は……隣で戦えるくらいに強くなって見せる……!」


 彼女の胸に灯る火を目の当たりにし、ゾクゾクとした感覚が全身を駆け巡る。


 そうだ……そうだよ!

 それでこそ緋色ちゃんだよ!

 燃えたぎる赤き炎に見え隠れする黄金色。


 永劫未完の凡人。


 いつだってそうだったじゃないか。

 私の後ろには強者でなくとも、歩みを止めず私を脅かす者がいる。

 緋色ちゃんは言葉にせずとも伝えている──私に成長しろと。

 成長しなければならない。

 私自身のために。

 そして緋色ちゃんの手に届かない黄金でいるために!


 私はラケットをギュッと握る。

 中1の頃先輩にラケットを折られて買い替えた私のラケット。

 あれから2年経った。

 たった2年だというのに、私のラケットには血と汗が染み込んでいる。

 強くなっていないなんてそんなのは嘘だ。

 私はこんなにも頑張っている。

 私はこんなにも……卓球が大好きだ!



 ***



 セットカウントは2ー2……つまり最終セット。

 審判が持つ得点板は<10ー9>を示していた。

 緋色たちのマッチポイントだ。


 金町さんのサーブ。

 後がない彼女は、ついにしゃがみ込みサーブを解禁してきた。

 しかし、今の紡金ちゃんはカットマン。

 回転量が高いサーブであっても多少の誤魔化しが効く。

 さらにいうならば、紡金ちゃんの球を返球するのもカットマン。

 多少緩い球でも、許される現状がそこにはあった。

 紡金ちゃんのバックカットを、小春ちゃんは同じようにバックカットで返す。

 下回転でバックを攻め続けた結果、小春ちゃんは裏ソフトに持ち替えてのカットをするように切り替えてきた

 今回は、裏ソフトでのカット。

 つまり、下回転は切れている。

 フォア側に流れるゆったりとした球に対して、私は膝を曲げ、ラケットを下げて構えた。

 存分に力を溜め、紡金ちゃんならこうやって打つという妄想を現実に重ねて球を打ち出した。


 小春ちゃん、金町さんはともにバック側にいることは俯瞰して分かっていた。

 緋色のドライブが小春ちゃんの胸を貫くように走っていく。

 大きな体が仇になった。これで決まったという確信があった。

 しかし、不意に彼女の巨体が視界から消える。

 彼女は後ろに立つ相方を信じて膝を折ってしゃがんだのだ。


 紡金ちゃんを模倣した緋色のドライブに、金町さんは食らいつく。セットの終わりで体力が完全に落ち切った彼女だったが、火事場の馬鹿力というのだろうか?

 ここにきて全盛期の力でカウンタードライブを放って来た。

 球はバックサイドからこちらのバックサイドへとクロスで走っていく。

 カットマンと化した紡金ちゃんはすぐにバックカットの姿勢に入った。

 コートチェンジから、すでに11点以上も紡金ちゃんはカットマンをしている。

 それだけあれば、彼女はもう県大会レベルのカットマンだ。


 紡金ちゃんはなんとかカットで金町さんのカウンターを受け止める。

 バック側に送られてきた球だったが、ここ1番で小春ちゃんは賭けに出てきた。

 ここで落とせば試合には負ける。

 しかし、それでも彼女はそれを安定のカットではなく、強打で返してきた。

 心が強いなんてもんじゃない。

 肝が据わりすぎていて、怖くなるほどの一撃だった。

 これで2年生なのだから、恐ろしい。

 しかし、今日の私は……もっと強い!

 思わず、口角が上がってしまった。


 バック側に来ると読み切った私の体はすでにそこにあり、スマッシュの構えに入っていた。

 ここで確実に決める。

 裏ソフトから表ソフトへとラケットをくるりと回した。


 未だ黄金には届かない。

 ただ必死に手を伸ばし、もがき、あらがい、黄金になりきれずとも燃えろ。

 真っ赤に染まった私の中には、黄金に触れる何かがあるはずだから。

 それがきっと私の起源なんだ。

 私は今、きっと緋色の時を生きている


 内原緋色の放ったフォアハンドスマッシュは、金町さんのフォアサイドを貫くのだった。

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