第12話 緋色の音
(点数表示は<緋色ー藤代>です)
それからの試合内容は、ほとんど覚えていなかった。
頭の中で、他校の生徒の言葉が反芻している。
『今年で最後なのに可哀想』
『3年生が下手ってこと?』
『調子が悪いんじゃない?』
『なにそれ。なおさら、可哀想』
消えない。彼女たちの言葉が、頭から離れなかった。
手足は、もう自分のものではないかのように重たかった。
「イレブンシックス!ゲームトゥ、藤代紫!」
審判の声で現実に戻される。
いつのまにか負けていた。
得点板を見ると、そこには<6-11>という試合の結果が示されていた。
あれから、1点も取れなかったんだ。
初めて藤代先輩と試合した時のことがフラッシュバックする。
私は、彼女から一点も取ることができなかった。
それが……普通なんだ
タオルを回収して、休憩。
スポーツドリンクすら喉を通さないほどに、気分は重かった。
自コートに戻ろうとしたところで、紡金ちゃんが後ろにいたことに気づいた。
いつからだろう。試合観られてたかもしれない……
今の私は、紡金ちゃんに向ける顔がない。
彼女のために頑張ると言っておきながら、私は一人で折れてしまっているんだから。
「緋色ちゃんお疲れー。観てたよ」
「……観てたんだ。ご、ごめんね……私……もう…………えっ!?」
不意に頬っぺたを掴まれた。
ひんやりとした手に、飛び跳ねる。
「ちょっと、何するの紡金ちゃん。ビックリしたよ」
「だって、緋色ちゃん思い詰めてるようだったからさ。それより、目を閉じて」
「ええっ……うん。分かった」
紡金ちゃんの手が目の上にかけられる。
ちょっとドキッとする。
「よしよし。会場の様子はわかる?」
「ええっと……ピンポン球の跳ねる音がするよ。それに……応援の声がする」
「音はそうだね。それじゃあ、何が見える?」
「何がって……目を閉じてるから何にも見えないよ」
「それは嘘。緋色ちゃんはこう見えてるはずだよ。『周りは敵だらけ。藤代先輩の応援をする人ばかりで、私なんかが勝っていい雰囲気じゃない』」
「えっ、それは……」
正解だ。他人事だというのに、紡金ちゃんは見事に当てて見せた。
「でも! それは本当のことなんだよ! 私はまだ1年生。相手は3年生。藤代先輩は、この大会で負けたらもう終わりなの! 私なんかが勝っていいわけない! みんな、そう思ってるの!」
「そうかな? 私にはそう思えないけど」
「そうだよ! それに……私、不格好だし、きっと笑われてる。身の丈に合わないことをしてるって」
「それは絶対無い。それに、緋色ちゃんは可愛いよ」
紡金ちゃんはそこまで話すと、目を覆っていた手を外してくれる。
光を遮っていたから、見える景色は先ほどに比べて幾分眩しく感じた。
「緋色ちゃんは悪い意味で周りを見過ぎだよ。周りに影響を受けすぎてる。今この瞬間だって、会場の罵倒に流されて自分の勝ちをないがしろにしようとしている」
「それは……」
「緋色ちゃんは緋色ちゃんだよ。もっと、自分を信じてあげて」
クルリと、身体を回転させられる。
そして、私の背中を紡金ちゃんが勢い良く叩いた。
「行ってこい! 今日の緋色ちゃんは、私の仇を討ってくれるスーパーヒーローだ!」
一歩、足が前に出る。
瞬間見える世界が一変した。
向かいの通路に、牛久先輩含めて何人かの長門中学の生徒がいた。
石岡さんも岩間さんもタオルを持って、遠巻きに応援してくれていた。
コートに立つと藤代が、汚い笑みを浮かべていた。
もう抵抗する牙は折られたと確信し、勢いづいている。
でもそれは違う。
私はもう……迷わない。
大きく深呼吸し、瞳を閉じた。
光が失われ、段々と会場の音が遠くに聞こえる。
反対に強く、強く響くものがあった。
ドクン……ドクンッ…………
私の中で、緋色の音がなっている。
溶け込むように生きてきた私の中には、これでもかと主張の強い私がいた。目を閉じればわかる。私を感じる。ここには私しかいない。曖昧になった境界は一度強固に形を保ったあと、解放される。私が、外へと流れ出す。何者でもなかった私は、今なら何にでもなれる気がした。
瞳が、髪が、緋色に染まる。頬は淡く色付き、肌は真っ白な絹のように繊細で瑞々しい。ウィンクすれば惚れ惚れするほどの愛くるしさに頭がくらくらする。これが私。これが私なんだ。
「何突っ立ってんだよ根暗女。キモいんだよ!」
「キモくなんかない!」
自分が人にどう見られてるかなんて、考えたらそんなの大概絶望的だよ。
だから、せめて私だけでも最高に愛せる私をイメージしてあげなくちゃ。
大切なのは自分が何を信じるか!
「今日の私は世界で一番カッコ可愛いッ!!」
あなたは何も見えてない。ここには教室の端で縮こまってる子も、ドジで鈍間で嘲笑されてばかりの子もいない。
ここには意地悪なあなた、そして、あなたを倒すカッコ可愛い女の子がいるだけだ。
*
タオルで汗を拭きながら、内原さんと藤代の試合に向かった。
早くしなければ、試合を見逃してしまうかもしれない。
彼女たちが試合をしているコートはすぐに分かった。
長門中のジャージを着た生徒が集まっている。
そして何より、遠くからでも感じるこの緊張感。『黄金の世代』がいた。
「やあ、君も来ていたんだね」
「あっ、張替先輩。お疲れ様ですー。試合の方はどうでしたか?」
「初戦は勝ったよ。シードだから2回戦だけどね。君もだろう?」
「私はシードじゃないですよ。1年生ですから。まあ2回戦は勝ちましたけど。それより、試合をみましょう」
内原さんと藤代の試合は白熱していた。
彼女たちの試合は、他の試合に比べて幾分派手ということもあり長中以外の生徒で見学している生徒も多かった。
スコアボードは<6−4>内原さんがリードしている。
俺は、驚きが隠せなかった。
藤代は練習こそしていないが、弱い選手じゃないはずだ。
彼女は1年生。まだ1年生だぞ。
それに、俺の知る限り内原さんは初心者だったはずだ。
内原さんには卓球に打ち込む強い意志があり、だから強くなる資質があると感じていた。
しかし、彼女の成長は早すぎる。
その要因は彼女のプレーを観てハッキリした。
「常盤さん、君だね。内原さんを指導したのは」
「そうですよ。よく分かりましたね」
「そりゃあ分かるさ。彼女のプレーを見れば! あれは君の小学校の頃にソックリじゃあないか」
途端に、常盤さんは怪訝な表情を浮かべた。
「そう…………なんですよね」
彼女も内原さんの成長に驚いているのか?
そんなことを考えている間にも、内原さんのドライブが藤代のバックを打ち抜いた。フォア側からバック側、つまりストレートに走るドライブが打てる1年生は、男子でもかなり稀だ。
技術もそうだが、彼女が自分から攻め込んでいる姿をみて、俺は胸が熱くなる。
「なあ、常盤さん。中学女子の市内大会は面白いと思わないか?」
「そうですか? 打てる子と打てない子のレベルの差が激しいですし、私はそう思わないですね」
「だからこそ、だよ」
「ん? どういうことです?」
「本来、女子だって男子と同じように1年生の頃からバシバシドライブが打てるはずだと思わないか? 内原さんのようにね」
「緋色ちゃんは特別上手いですけど」
俺は苦笑いで返す。確かに内原さんは特別上手くなった。
何事にも例外がある。
「現実を見れば、市内大会の女子の試合は大抵ツッツキラリーだ。それはなんでだと思う?」
「えー、みんながそうだから、ですかね」
「俺もそうだと思っているよ。だから、闘志を剥き出しにドライブを打つようなことはしない」
俺は額の汗を拭って続けた。
「きっと、卓球という競技をきっと勘違いしているんだ。卓球はただ根気比べするだけの競技じゃない。本当なら、卓球はもっと心が躍り、血が沸き立つような熱い競技なんだ。だからツッツキラリー……つまり部活に流れる雰囲気を壊してでも勝利を求める姿勢見せる女の子に俺はとても尊敬している」
「先輩、そんなこと考えながら私たちのこと見てたんですかー。歪んでるー」
「歪んでない。俺はいつでも真っ直ぐだ。真っ直ぐで熱苦しく、もちろん……熱い展開が大好きだ」
俺は手に持ったタオルを強く握り、得点板を見た。
「見てくれ常盤さん。彼女は今、ただの女の子から卓球選手になろうとしているよ」
そこにが<10−8>という得点が示されている。
内原さんのマッチポイントだ。
「きっと彼女の熱は、波打ち広がっていく。これ以上に熱い話があるか? ここは……卓球選手の生まれる場所だ」
俺は、小さい彼女の背中から止めどなく溢れる熱量を感じ、否応にも胸が熱くなった。
さあ、決めてくれ。
君が卓球選手になるその瞬間を、俺は絶対に見逃したりしない。
*
不思議と緋色の身体はイメージ通りに動いていた。
思い浮かべるプレーは、もちろん紡金ちゃん。
緋色のサーブ権。
彼女のサーブは、もう何度も何度も見てきている。
妄想の中なら何度だって、緋色は紡金ちゃんになっていた。
左手にボールを乗せて前傾姿勢。
ピンと張ったその腕を高く挙げる。
ボールは少し手前に上げる。
左足を一歩後ろへ、同時に身体を起こして、目はボールを追う。
ラケットは胸の前でスイングの準備。
ボールがゆっくりと落ちてくる。
それに合わせて膝を落としながら、一瞬上にラケットを振り、その反動を使って下回転をかけた。
紡金ちゃんみたいに触れた瞬間落ちるような強烈な下回転はかけられないと思う。
それでも緋色が出せる最強の下回転はこれしかない。
サーブはバック前へと着地する。
回転がかかっていることを彼女も分かっているらしい。
ラケットの面がこれまでで一番上を向いている。
ツッツキは緋色のフォア側ロングへ。
下回転のかかったボールをドライブで返せたことなんて一度もない。
でも、今この瞬間は絶対に打てるという確信があった。
だって今日の私は……大切な友達のために頑張るスーパーヒーローなんだから!
相手のボールは絶好球。紡金ちゃんにとっては絶好球。
彼女のプレーを思い出せ!そして重ねろ!
理想と現実の境目は曖昧に、腕の振り方ラケットの角度は正確に。
大きく右足でタメを作り、腕に力を込める。
振りの基本は敬礼をするように。
最初に教えてもらったその言葉の通り、緋色は掬い上げるようにボールを擦った。
強烈な上回転がかかったボールは藤代のフォア側へ走っていく。
ドライブを打った後、体勢が崩れた。カウンターされれば終わる。
緋色の出せる最強のボールに、彼女はみごとに反応してきた。
ブロックの姿勢に入り、面をしっかりと作る。
しかし、ラケットに当たった瞬間、ボールは高く上方へ。
回転量を見誤った彼女は顔を歪める。
それでも、強打のしにくいバック側に返球してきたのは彼女の才能だろう。
今からフォア側に回り込むのには時間が足りない。
バック側にボールが来るのを確認し、ラケットを身体の内側へしまい込む。
一度しか見ていないから、出来るかは心配だった。
でも、あのシーンを緋色は何度も、何度も頭の中で再生している。
緋色はあの一撃で、完全に変わってしまったのだから。
緋色の人生はどうしようもなくうまく行かなくて。
いつ諦めるか、どう納得するか……やめ時ばかり気にしてて。
そんなダメな緋色をやっつけてくれた、あの一撃で……私は勝つ!!
居合斬りの如き一閃。
表ソフト特有の滑るように低い打球が、藤代のバックを穿った。
会場の音が消える。
一拍置いて割れるような歓声が私を包んだ。
……………………なんて、もちろんそんなことない。
全部、私の妄想だ。
でも……
スコアボードの<11−8>という数字。
これは紛れもない……私が勝ち取った事実だった。
「イレブンエイト。マッチ、内原!」
審判の言葉を聞いて、膝が笑う。
全身から力が抜けていくのが分かった。
視界がぼやけている。
会場の白とオレンジの照明の光が眩しかった。
仰向けのまま、紡金ちゃんに手を伸ばし、彼女が手を握る。
安心した私は、そのまま眠りについてしまうのであった。
***
「文字と数は足し算できないんだぞー。ここ注意なー」
そう言って先生は、黒板に大きく『注意』と書く。
黒板の通りにそれを写していると、前の席から小さく折りたたまれた紙が回ってきた。
前の席の岩間さんからだ。
『今日一緒に部活に行きませんか?』
藤代の命令で私を除け者にことを気にしているのかもしれない。語尾が丁寧系だ。
部活のお誘いをしてくれるなんて紡金ちゃん以外では初めてだから小踊りしたくなるくらい嬉しい。
だって、クラスにお友達ができたってことだよ!
0人だった友達が今では3人にまで増えたのだから感動ものかも。
岩間さん達が私を無視しなくなったことで分かる通り、私と藤代とのいざこざは解決した。
市内大会での結果は私の勝利。
藤代は、ちゃんと紡金ちゃんに謝ってくれたらしい。
『らしい』としたのは、私自身が謝ってるところを見てないからだったりする。
実は、藤代との試合が終わった後、炎がスッと消えるように眠りについてしまったのだ。
たぶん、前日までの練習の疲れが残っていたんだと思う。
本当だったら、紡金ちゃんの試合を見たかったのになぁ。
それに、張替先輩の試合だって……見てみたかった。
大会の結果だけど、女子の方は紡金ちゃんの優勝で幕を閉じたのだそう。
しかも、全試合ラブゲーム……つまり1点も取らせないでの優勝だ。
話によれば、紡金ちゃんは小学校の頃の大会では全国ベスト8とかなんとかだそうで、それはそうなるなぁという感想だった。
そういえば、紡金ちゃんには小学校の頃に卓球の上手なお友達がいたって張替先輩が言っていたっけ。
その子が、もし普通に中学校に上がってきていたら、大会の結果は変わったのかもしれない。
もちろん、紡金ちゃんの優勝は心配してないよ。
全部ラブゲームじゃなくなったかもって話だけどね。
男子の大会は張替先輩が優勝したみたいで嬉しい反面、優勝の瞬間を見逃したことで何日か引きずった。
どうして肝心なときに寝ちゃってるの私……
キーンコーンカーンコーン
チャイムが鳴り、授業が終わる。
今日か先生達が早くから会議があるみたいで、帰りの会がない。
つまり、今日はこのまま部活動。
先生と入れ違いに、彼女はやってきた。
私の……大切な友達。
「内原さん一緒に……」
「緋色ちゃん部活行こ! 今日から学校の台が使えるんだって!」
岩間さんの言葉を食い気味に紡金ちゃんが私に駆け寄る。
同じことを考えていたのかと、2人は顔を見合わせて笑い合っていた。
左胸に手を当てる。
ドクン、ドクンと心臓の音がはっきりと聞こえた。
空気のように生きてきた私だけど、それはもう違う。
……私は今、ここにいる。
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