スキダアイシテルソノコトバ

影月 潤

スキダアイシテルソノコトバ

「ねえ、愛してるって言ってみて」

 奈々が突然そんなことを言った。俺は思わず、口にしていたコーヒーを吹き出す。

「はあ?」

 自分でもよくわからない表情で奈々の顔を見る。奈々はきょとんとした表情で俺を見つめ、首を傾げていた。

「だから、愛してるって、私に言ってみて」

「なんでだよ」

 口元を拭いながら訊ねる。それは当然の質問だと思った。

 なにせ俺たちはそういう関係ではない。むしろその逆で、俺の記憶が正しければ奈々の恋愛相談に乗っているだけのはずだ。

 それがどうしてそんな歯の浮くようなセリフをこいつに言わないといけないのか。考えれば考えるほど訳がわからない。

「うーん、なんでだろ」

 奈々は自分で口にしておいて、指を口元へとやって考えるような仕草をする。

「なんかさ、変な感じがするんだ」

 ほんのわずかな時間考えてから奈々が口にした言葉は、これまたよくわからないものだった。

「好きとか、愛してるとか、それって、やっぱり好きな人に言われたりするとドキドキするものなんだよね?」

「……そうじゃないのか?」

 他に答えようがない。

「私、どっかおかしいのかな」

 また考える仕草をする。人差し指だけを立てて口に当てるその仕草は、小学生の頃からずっと変わらない彼女の癖だ。

「モトヤにたまーに言われるんだけどさ、なんていうんだろ、なんも感じないっていうか、ふーんって思っちゃうっていうか、感動がないんだよね」

 真顔でとんでもないことを言う。

「それはお前、」

 一瞬言うべきか迷った。そもそも、モトヤと上手くいかないということが今日の相談内容だったはずだ。

「好きじゃないんじゃないか?」

 でも口にした。口にしておいて、俺の言葉はなんとなく冷たい感じがした。

「やっぱしそうなのかな」

 それでも奈々は素直にその言葉を飲み込んだ。まるで、自分でもそうじゃないかと感じていたかのようだった。

「でも、嫌いって訳じゃないんだよ。会えないと寂しいし、会いたくなるし、話とかしてると時間忘れるし」

 微妙なことを口にする。

「でもなんか、好きだー、とか、愛してるー、とか言われても、なんとなくその言葉を深く理解して飲み込めないような感じがする」

 しかし続けて言った言葉は何というか、普通じゃ理解できないような言葉だと思った。

「だからあんたが言ってよ」

「だから、じゃないよ。どういう流れだよ」

 缶の底に残ったコーヒーをほぼ真上を向くような形で口へと流し込み、俺は答えた。

「あんたが私にそういうこと言ったら、なんか感じるかもしれないでしょ? もし何も感じなかったら私は単なる不感症で、ドキっとしたらモトヤとは別れる」

「それは……」

 奈々は一体俺に何を求めているのだろうか。

「ドキっとしたらモトヤと別れて、そんで俺とでも付き合うつもりか?」

 お互いに変なことを言っているのがわかる。少しだけ目線を反らしながら、俺はそう口にした。

「なんであんたと」

 ある意味では正しい返答がすぐさま出て来た。

「とりあえず言ってみてよ。聞いてから考えるから」

 何とも言えない。結局、こいつが何をしたいのかわからない。

 それでも俺に対してものすごく大きなものを求めていて、さながらとんでもない罰ゲームにでも巻き込まれたみたいだ。

「愛してる」

 だから目線を反らしたまま、そっけない態度でしかも早口で言った。

 それは思ったよりも勇気のある行為で、勢いで口にしては見たものの言ってからかなり後悔し、顔の温度が上がって目を合わせられなくなってほんの少しだけ顔を動かして奈々から俺の顔が見えないようにしようとしたが、

「あはははははははっ!」

 奈々の失礼な笑い声に俺はすぐさま反応してしまった。

「何で笑うんだよ!」

 奈々は心底おかしそうにお腹を抱えて大笑いしている。足をバタバタさせて地面を叩き、首を振りながら笑っているその姿はどこかネジでも外れたおもちゃのロボットのようだ。

「はははは……あー、お腹痛いあっはっはっはっは」

 笑われるのは嫌な気分だったがひとつだけありがたかったことがある。顔を見られないですんだ。

「はー。でも、モトヤともなんていうか違うね。何も感じない訳じゃない。面白かった」

「お前人を笑いものにするためにそんなこと頼んだのかよ」

 缶を傾ける。しかしもう中身は残ってなくて、底の方の苦い一滴だけが口の中へと入ってきた。

「ふー。でもこれが普通なのかな」

 ひとしきり笑ってから奈々は息を吐いてこちらを向いた。

「やっぱり、なんらかの感情は持つべきなんだよね」

 変なことを真顔で言う。こいつの頭の中はいったいどうなっているのか、気になる。

「あんなこと言って『面白かった』って言われるのは恥だと思わないか」

「いいじゃない。そんなこといってくれる人多分他にいないし」

 どういう論理展開かそんな馬鹿なことを言う。俺はなんとも言えず、ただ息を吐いた。

「……ただの言葉。それ以外のなんでもない」

 突然奈々が細い目をしてそう口にした。

「『好き』も、『愛してる』も、単なる言葉にしか過ぎないよ。それは確かに意味を持っているけど、その意味を正確に実行できる人ってどのくらいいるのかな」

 その言葉は奇妙な音で俺の胸に響いた気がした。

「……結構いるだろ」

 俺はただその言葉を否定したかっただけなのかもしれない。真っ先にその言葉が出てきたが、その理由を俺は後から考えることになったから、変な間が出来てしまった。

「でないと、結婚する人なんて滅多にいないぞ」

 その言葉にはいくつかの嘘もある気がした。結婚して失敗している人だってたくさんいる。

「そっか」

 でも奈々はそんなこと言わないで素直に俺の言葉を受け入れてくれた。それがなんだか嬉しくもあって、悲しくもあった。

 ――俺は何を考えてるんだか。

「モトヤは……」

 奈々が立ち上がって口を開いた。夜空に浮かぶ星と奈々の姿が被り、まるで奈々が光っているようにも見えた。

「私のことが好き」

 その言葉は誰に向けられた言葉だったのか、俺にはわからなかった。

「その言葉だけを聞いて、感情を理解しようとしない、私が悪いのかな」

 わずかに俯くように下を向いて彼女は口にした。普段の奈々からは考えられないような、沈んだ表情だった。

「よし」

 しかしその珍しい表情は一瞬で消えた。そこにいたのはいつも通り、無駄に明るくいつも笑顔で場を盛り上げる奈々だった。

「モトヤに会ってくる」

 彼女はよく通る声でそう口にした。

「それで確かめる。言葉の奥にあるもの、見えるかもしれないから」

 振り返ったその姿は本当にいつもの彼女の姿で、まるでほんの少し前までの沈んだ姿が偽者ではないかというくらい晴れ晴れとしていた。

「ごめんね、こんな時間に呼び出して」

「いいよ別に」

 彼女は今にでも飛び出しそうな勢いだ。なんとなく、足が弾んでいる。

 だから俺はそっけないことだけを言って、彼女を早く立ち去らせるよう、彼女に向けて腕を振った。

「じゃあな」

「うん」

 その意図を理解してくれたのか、奈々は跳ねるような駆け足で走り出す。しかし、数歩進んだところで立ち止まり、振り返った。

「あんたの『愛してる』は、優しかったよ」

 その言葉は俺の耳にまっすぐ入ってきたが、全くもって意味が理解できないから結局なんの反応も出来ずに、ただ、軽く手を振ってその場を去る奈々を黙って見送ることしかできなかった。

「……面白かったんじゃないのか」

 奈々が見えなくなってからそう呟く。なんとなく嫌な気分になって缶を傾けるが、やはりもう中身は全部飲み干してしまっている。缶の底の苦い一滴が、また口に入ってきただけで終わった。

「言葉の奥ね」

 言葉には意味がある。理由がある。それすら理解しないで音だけを聞けば、言葉に意味なんて必要ないんじゃないかと思う。

 でもその意味を理解し相手に伝えることが出来れば、それはとても温かなものとなって体全体を包み込ませることが出来る。

「無理だろうな。あいつには」

 ――そう考えると、俺はそういう風に口にするしかなかった。

 でないと大笑いなんてしないはずだ。だって、そうだろう?

「馬っ鹿みてー」

 自分に対してそう言った。なんだか口の中が苦い。見栄を張ってブラックの缶コーヒーなんて買うからだ。

 俺はゆっくりと立ち上がってケツをほろった。帰ってからミルクのたっぷり入った甘いコーヒーを飲もうと思った。

 俺にはそれが似合うと思う。カッコ悪い。

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