15 その微笑みは満月の…

少女は幼い頃から気弱な子だった。


いつも人から一歩離れたところでぽつんと一人きりでいることが多かったし、そもそも人と一緒にいることが苦手な子だった。


同年代の子供たちにはどうしても心を開くことが出来ず、誰かといることが不安で仕方がない。


それを心配してくれる大人たちは自分よりもずっと大きく威圧的で、不気味に優しく見つめられることが恐怖にしかなりえなかった。


誰かの前で声を発することはとても難しく、何より人の目を見て話すことが怖かったから、滅多に言葉を発することも出来ない。


幼いながらにして、果たして自分と周りの人間たちは同じ生き物なのか疑問に思うことが多々あり、もしかしたら自分の本当にいるべき世界とはここではないのではないかと考え始めることは彼女にとってあまりに容易であった。


それでも、彼女は両親と一緒にいる時だけは心からの安堵を感じられた。


優しくて、いつも笑っている母。

寡黙ながらに、目一杯愛情を注いでくれる父。


仲の良い両親の腕の中に抱きしめられることが、少女にとってこれ以上ない幸福だった。


外の世界はとても怖いけれど、両親がいるからなんとか生きていける。


明日が来ることが、いずれ確実にやってくる死というものが怖くて仕方がないけれど、両親がいれば大丈夫。


小さな心はいつも家族への愛情で救済されており、彼女の世界の全ては両親と一緒にいることだけだった。


年齢を重ね、小学校、中学校と進級していっても、少女の感じる他人への恐怖心は深く増すばかりであった。


次第に彼女は誰かに見つめられるだけでもおぞましいほどの恐怖を感じるようになり、常にその視線は足下を見るばかりであった。


しかし彼女は、残酷なことにも生まれ持った美貌を隠すことは出来なかった。


誰よりも美しく成長してしまったことが、彼女の人間嫌いを加速させてしまったことは間違いない。


少女がただそこにいるだけで周囲の興味を惹いてしまう。


彼女の周りには男女問わず彼女に興味をもった者が集まってきてしまうが、彼女はそれに上手く対処することが出来ない。


可愛いくせに、誰ともまともに関わろうとしない変わり者。


そんな彼女が、周囲から疎ましく思われることは必定だったのかもしれない。


人と出来るだけ関わりたくない彼女の元にはそれをよく思わない人間たちがわらわらと集まり、取って代わるように彼女を誹り始めた。


毎日毎日囁かれる陰惨な言葉。


耳を塞ごうにも余りに多くの罵詈雑言を投げかけられ、どんどん彼女の心は塞いでいった。


それに反するようにどんどん彼女の両親への依存は強まっていく。


両親からの愛を深く求めるようになり、常に母か父の傍にいないと心が引き裂かれるような思いを感じてしまうようになった。


両親だけが、彼女の生きる意味だった。


両親に心配をかけたくないから、どんなに辛くても頑張って学校にだけは通うようにした。


日々虐められても、なんとか堪えて、平然に努めた。


だがしかし、そんな彼女を追い詰めるように彼女の父が病に倒れる。


もともと身体の弱い家系の生まれであった父は、若くして大病を患ってしまった。


入院している父の看病をするため、母は家にいることが少なくなり、自ずと少女は一人でいることが多くなる。


鬱々と沈んでいく心。


何のために生きているのかわからなくなってくる。


いや、そもそも自分が生きていることに喜びを感じたことがあっただろうか?


生きることはあまりに苦しい。


人間の中で生きることは、とても怖い。


でもそれ以上に死ぬ方がずっと怖い。


彼女の思考の殆どを消極的な感情が占めるようになる。


そして、彼女の父が闘病の末にあまりにあっけなく亡くなってしまったことが、決定的に彼女の人格を破壊する引き金になる。


父を日夜看病し続けた母は、その喪失感から心を病んでしまった。


優しく笑っていた表情は、つねに虚ろに中空を見つめるだけになったし、少女が傍にいることを認識することさえ難しくなっていった。


少女を抱きしめてくれた温かな身体もやがてやせ細り、その腕は骨と皮しかないほどまでになった。


それでも、少女は母が生きてくれていることが最後の救いだった。


もう一度こちらを向いて微笑んでくれることを夢見て、ただ母の傍に寄り添い続けた。


しかし、母は完全に心を壊し、精神病院に収容されることが決まった。


そのようにして、少女は完全に一人ぼっちになった。


耐えきれぬ孤独が、彼女を永遠に責め続ける。


どうして私はこの世界に一人ぼっちなのだろうか?


そう考えることが多くなった。


私は、周りの人間と違っているのだろうか?


ひょっとしたら、私は人間ではないのかもしれない。


私は人間ではないから、人間社会でずっと一人ぼっちなのだ。


私は人間ではないから、この世界に孤独なのだ。


私は、人間ではないから。


そうだ、私が人間たちと共にいられないのは、私が人間ではないからなのだ。


私はきっと、あんなに醜い人間たちとは違う、もっと高貴で優れた生き物なのだろう。


それなら私は一体、何なのだろうか?


以前、物語の中で瀟洒な屋敷に住まう怪異のことを読んだことがある。


この広い屋敷でただ一人暮らす私は、ひょっとしたらあの怪異なのかもしれない。


そう、それは人の血を吸う、夜に舞う美しい怪異。


私はきっと、人間ではなく……。


そして、彼女は強く願ってしまった。


それは永遠の命への羨望であり、耐えがたい孤独からの逃避。


星に願いを…。


『私が、吸血鬼でありますように』



坂上さんの口から語られるのは、あまりにも悲しい過去だった。


上手く人と関わることが出来ずにいた彼女が感じた孤独感と絶望、そして強い喪失感。


彼女の心を歪ませるだけの説得力が確かにそこには存在していた。


「それで、私は、詩葉さんに…出逢いました……」


さっきまでの吸血鬼だった時の余裕綽々なしゃべり方とは全く違う、自信なさげな声で坂上さんは精一杯に訥々と言葉を紡ぐ。


私の知っていた坂上さんは、本来こんな風な雰囲気だった。


「詩葉さんは…他の人間とは違って…私に、心から優しく…笑いかけてくれた」


だから、私の事だけは怖くなかったのだと、彼女は言う。


「お友達になるのは…すごく、怖かったけど…精一杯…頑張りました」


一緒に何度か彼女とお昼ご飯を食べたことが思い出される。

あの時の彼女は、精一杯に私と友達になろうと頑張ってくれていたらしい。


「だけど…私も、身体があまり強くないから…学校を…お休みしがちになって…」


彼女も、彼女のお父さん同様、あまり身体が強くなかった。

それで彼女はしばらく学校を休んでいたようだ。


「ずっと…一人で引き籠もることが増えて。だけど、ある日突然…身体の調子が良くなっていました」


不思議なことに、ある夜を境に、彼女の体調はとても良くなったという。

日がな一日ベッドで過ごすことの多かった彼女が、嘘のように元気になった。

だがその代わりに、


「お外に出ようと、思ったら…身体が燃え始めて…すぐに家の中に戻ったから問題はなかった…けど」


体調が良くなった代わりに、今度はお日様の下に出ることが出来なくなった。

陽射しを浴びるだけで、身体が燃え盛るようになってしまった。


そして彼女は気付いたのだ。


「私は、本当に…吸血鬼になってしまったんだと…」


彼女の抱えていた、自らが吸血鬼であればいいのにという強い願い。

それが何故だか突然にして叶ってしまった。


「試しに夜、外に出てみたら…人間の血が吸いたいということに気付きました。そして…何人かの人を襲って…」


その時はただ、欲望の赴くままに何人かの人の血を吸った。

それは食事の一環であり、吸われた側を吸血鬼にするような強制力はなかったようだ。


おそらく、その時のことが噂になり、丘の上の屋敷に吸血鬼が住んでいるなどということが人々に伝わったのだろう。


「次第に吸血のコツも、わかってきて…相手を吸血鬼化させることができるかもしれないと…思いました」


そして、彼女が真っ先に考えたのが、私を吸血鬼にしてしまおうという事だったらしい。

彼女は、彼女自身の孤独を和らげるために、私という新たな依存先を求めた。


「詩葉さんが真夜中に時々お散歩しているのは…知っていました。私も時々夜中に出歩いていたから……」


「だから、あの夜に、私を襲ったんだね」


「うん……そうです。思ったよりも簡単にできた」


坂上さんは、実際のところ、幽霊屋敷と噂されるあの丘の上の屋敷に暮らしていたらしい。


あのおぞましい屋敷の中で、一人孤独に暮らしていた。


一度は私をそこに運んだものの、その後、新しい生活を始めるには新天地がいいと、彼女の両親の所有物であったこの森の中の別荘へとやって来た。


「ここなら誰にも見つからず…ひっそりと暮らせると思いました…」


「実際、この場所を見つけるまではとても苦労したのですよ」


私が真夜中の散歩に出かけてから、朝になっても帰らなかったことに、コメットちゃんとお姉ちゃんは酷く心配してくれたらしい。


「丘の上の屋敷を訪れたばかりでしたから、そこが妖しいだろうと侵入しても誰もいなかったのです。そこから、改変の軌跡をなんとか辿っていろんなところを調べて、ようやくこの屋敷に辿り着いたのですよ」


「コメットちゃんの力を使ってひとっ飛び。お姉ちゃんおしっこチビるかと思ったわ」


そして、彼女たちがこの屋敷に降り立ったのが、ついさっきのこと。


私がいなくなってから約一日の時が流れていたようだ。


「坂上さんが、うたちゃんのことを好きになってしまったことはよくわかったわ。誘拐したくなるほどに、うたちゃんが可愛いのもよくわかる。貴女が孤独で仕方がなかったのもね…。でも、貴女がやったことは、決して許されることではないわ」


お姉ちゃんは、とても真剣な声色で坂上さんに語りかける。


「好きな人のことを、無理矢理に自分の都合の良いように変えて、一方的な愛情を押しつける。それは人だとか吸血鬼だとか関係なく、あまりに歪んでいる」


だけれど、その声はとても優しく、温かく。


「自分の気持ちなんて、どれだけ語ったってなかなか伝わらないものよ。毎日好きって言っても、その想いのほんの一部だって伝わらないんだもの。貴女がやるべきだったのは、まずうたちゃんに自分を理解してもらうように努力を続けることだったのよ」


うっすらと涙さえ浮かべながら、お姉ちゃんは坂上さんに想いを説く。


「貴女がしたことは間違っていた。だけどこれからやり直せるわ。だって貴女、本当は化け物なんかじゃないんだもの。温かな血が通った、人間でしょう?」


お姉ちゃんが優しく、坂上さんの手を握る。

その手つきは、まるで慈母のように柔らかな慈しみを湛えていて。


「ごめん…なさい…」


坂上さんは、大粒の涙を溢していた。

頬を濡らす一筋の雫が、銀色の月明かりを反射させる。


「それを言うのは、私にじゃないでしょう?」


坂上さんがそうっと、私の方を振り向く。


「詩葉さん、本当にごめんなさい……貴女に、とても怖い想いをさせてしまいました…許して貰えないかも…しれない…けど」


涙を溢しながら言葉を紡ぐ坂上さんは、決して吸血鬼などではなく、ただの一人の孤独な女の子だった。


「誰かに一緒にいて欲しかった。私を愛して欲しかった。一人じゃないと言って欲しかった。ただ…それだけだったのに…私には友達の作り方も…恋人の作り方も…何も…わからなかった…。どうやって人と関わったらいいのか…わからなかったの。ごめんなさい…ごめんなさい……」


人付き合いが苦手で、人との接し方がわからなくて、自分が人間じゃなければとさえ願ってしまった不器用な少女。


だけれど本当はきっと、彼女は誰かに愛されたくて仕方がなかったのだろう。


そんな不器用な愛情を伝える方法を、彼女はちょっと間違えてしまっただけ。

ただそれだけのことだったのだ。


「私は別に、気にしてないよ。コメットちゃんの力で人間に戻れたわけだし。確かに全身が燃えて灰になりかけた時は凄くびっくりしたけど、こうして何事もなく話せてるし問題ないんじゃないかな?」


コメットちゃんの改変能力により(光に包まれたことがそうだったらしい)、私たちは吸血鬼から元通り人間に戻れている。


怖い思いは確かにしたけれど、結果的に何も失った訳じゃないんだから問題はない。

…色んな意味で。


お人好しが過ぎるかもしれないと自分でも思う。


もしコメットちゃんがいなかったら、お姉ちゃんが助けに来てくれなかったら、私は本当に吸血鬼として、永遠の時を生きることになっていたのかもしれない。

想像しただけどもぞっとする、つい先ほどまで辿るかもしれなかった未来。


彼女がしたことは、私の未来全てを閉ざすかもしれなかった行為。

それは愛情を求める代価としては余りに重すぎる。


彼女を恨むべきなのかもしれない。

彼女を憎むべきなのかもしれない。

今後一切、彼女と関わるべきではないのかもしれない。


この出来事を一つの過去として処理して、私は私たちの日常に帰るべきなのかもしれない。


だけど、私は、坂上さんのの痛みを知ってしまった。

彼女の喪失を、苦しみを、知ってしまったのだ。


「私はね、毎日を穏やかに、ただ何事もなく過ごせればそれだけで幸せだって思うの。変わった事なんてなくても、お姉ちゃんや、有栖ちゃん、それにコメットちゃんなんかとただ一緒に過ごせるだけで、他には何にも必要ないって思えるぐらいにさ」


幼い頃に両親を失ったからこそ、私は誰かと一緒にいられるということの幸福を知っている。

それが当たり前のことではなく、これ以上ないほどの奇跡なのだということを知っている。


「だからね、坂上さんにも、その笑えるくらい退屈な幸せを知って貰いたいって思うんだ」


坂上さんも、失う辛さを知っているんだ。

その喪失感を、絶望を、悲しみを、嫌と言うほどに知っている。


彼女はきっと私自身なのだ。

彼女は、人と一緒にいられることの幸せを失ってしまった私なのだ。


確かに彼女の言っていたとおり、私と坂上さんは、これ以上ないくらいに似ていたのだ。


だから私は、そんな彼女を救ってあげたいと願ってしまった。

彼女を孤独の淵から引き上げてあげたいと、そう願ってしまったのだ。


「私と、友達になろうよ、小夜ちゃん?」


私を見つける彼女の瞳は、酷く震えていて弱々しく、今すぐにでも崩れてしまうような危うさを孕んでいて。


「いいの…?私、詩葉さんに…酷いことしてしまったのに…どうして…?どうして…?」


涙を流しながら、彼女は戸惑っている。


「友達になるのに、理由なんていらないよ。ただ私が小夜ちゃんと仲良くしたいと思った。それだけじゃだめかな?」


「でも私これまで友達なんていなかったから…どうしたらいいのかわからない…よ?すごく迷惑…かけてしまったのに…何でそんなに優しいの…?」


他人のことを上手く信じられなかった彼女にとって、優しさというものはひょっとしたら受け入れ難いものなのかもしれない。


でも私は、もう決めてしまったのだ。


彼女の友達になるのだと。


「今はまだ、簡単に信じられないかもしれないし、友達といて何をすればいいのかわからないかもしれない。人と関わるのが怖いのかもしれない。でも、それで良いんだよ。少しずつ、知っていけばいい。私と一緒に、友達のなり方を学んでいこうよ。それとも、私とじゃ、嫌?」


「ううん…そんなことない…!詩葉さんとが…いい…。嬉しい…嬉しい……!」


小夜ちゃんはまたぽろぽろと、涙を溢す。

その涙は、先ほどまでとは違う、温かい色彩を纏っていて、私はそれがとても美しいと感じる。


だから私は、小夜ちゃんのことをぎゅっと抱きしめる。


肩を振るわせながら、私の腕の中で小夜ちゃんは声を上げて泣いた。

まるでこれまで抱えてきた苦しみを洗い流すように、たっぷりと時間をかけて、彼女は泣き続けた。


その涙の温かさをきっと私は忘れはしないだろう。


彼女の苦しみが全部わかるだなんて思わない。

彼女がこれまで抱いた悲しい気持ちの全てを知っているだなんて思わない。

彼女の失ったものの重みをまるごと理解出来るだなんて思わない。


だけど、これから彼女が歩むべき幸せな道筋だけは、なんとなく想像できるのだ。


私の隣でいつか、彼女が素直に心から笑う事が出来る日のことを想像してしまうのは、まだ些か気が早いだろうか?


「それじゃあ、よろしくね」


しばらくして私は、泣き止んだ小夜ちゃんの前にそっと手を差し出す。


それを小夜ちゃんの手が、恐る恐る握る。


それはただ温かく、かすかに震える、ただ小さな少女の手の平で。


「よろしく…お願いします…!」


そう言って微笑む彼女の笑顔は、夜空に優しく輝く満月のようだった。

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うぃしゃぽなすた! 上野ハオコ @eichanidfi

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