13 魅入られた少女は

目覚めればそこは、知らない天井だった。


よく物語の冒頭に採用されるようなワンシーンが、まさか自分の身に起こるとは誰が想像できたであろうか。

こんな形で物語の主人公になったような感覚を味わわされても、何も嬉しくない。


そんなことを考えられる程度には私の心は落ち着いている。

それが自分でも信じられなかった。


そこは、古びた洋館の一室であった。


漆塗りの梁、独特なパターンの壁紙、木製の調度品に、黴臭いベッド。

人一人が暮らすには少々大きい一室に、私は寝かされていたようだ。


目覚める前の最後の記憶は一体どんなものだっただろうか。


確か私は、いつも通り真夜中の散歩をして、いつもの公園で、そう。

坂上さんに出逢ったのだ。


彼女に魅入られ、首筋に痛みを感じ刹那、抗えない快感に身を焼かれ、私は意識を失った。


そして、そこからの記憶がない。


当然、こんな洋館に自分で来たような覚えはないし、そもそもこんな場所に来る理由なんて無い筈だ。


それらから自ずと導き出される答えは、ただ一つ。


私はどうやら、誘拐されたようだった。


まさか自分が誘拐されることになるなんて思いもしなかった。


本来もっと慌てて取り乱してもいい状況ではあろうが、なんとなく犯人の目星もついているというか、気を失った前の状況を鑑みれば察しがつくというか、この洋館が何処かということも大体は想像がつく。


結局の所、坂上さんが私をここに連れてきたのであろう。


何のためだとか、どうやってだとか、疑問は尽きないが、それはおそらく間違いないような気がする。


また、この場所も大方、丘の上の屋敷だという線が濃厚だろう。


詰まるところ、あの幽霊屋敷に住んでいたのは坂上さんだったというオチだ。


まるで自分が名探偵にでもなったかのように、全てが線で結ばれる。


「あら詩葉さん、お目覚め?」


ぎぎぎという異音を立て、部屋の扉を開けて誰かが這入ってくる。


「うん、起きたよ。坂上さん」


私の目の前に立っているのは、案の定坂上さん本人だった。


「あんまり驚いてないのね?」


「そうだね。なんでこんなに冷静なのか自分でもよくわからないけど」


いざ、誘拐犯である坂上さんを目の前にしても、不思議と心は凪いだままだった。


どうしてこんなにも、頭がすっきりとしているのだろう。

何故こんなにも、心が晴れ渡っているのだろう。


「それはそうよね。詩葉さんも、私と同じになったんだもの。その感覚はよくわかるわ」


「どういうこと?私をこんな所に連れてきて、一体坂上さんの目的は何なの?」


「言ったでしょ?私なら、貴女の唯一の理解者になってあげられる。貴女の孤独を紛らわせてあげられる…って。だから、これから私と貴女はここで暮らすの」


「ごめん、ちょっと何言ってるかわからないよ」


坂上さんは、紅い瞳でただ笑っている。

彼女の発する言葉はどうにも突飛でその意味を理解することが難しい。


「詩葉さんはずっと一人ぼっちで寂しがっているでしょ?それは私と一緒だから。だから私は貴女を迎え入れたの。私たちだけの世界に。二人きりの楽園へと、ね」


「私は一人ぼっちなんかじゃないし、寂しくもないよ。一体さっきから坂上さんは何を言っているの?」


坂上さんの瞳は、常にここじゃない何処かを見ているような不気味さを湛えている。

彼女の囁く言葉を、理解したくないという気持ちが胸の中で渦巻く。


「私にはわかるのよ、詩葉さんの孤独が手に取るようにわかる。だって貴女、誰のことも信じていないし、誰のことも愛していないでしょ?そりゃそうよね。貴女は周りの人間とは違うんだもの」


誰のことも信じていない?

誰のことも愛していない?

私が周りの人間とは違う?


てんで的外れな彼女の言葉が、やけに耳につく。


「だから、そんなことないって!坂上さんに私の何がわかるっていうの!?」


思わず私は声を荒げて反論してしまう。

どうにも、坂上さんの言葉が私の心を苛立たせていく。


「わかるわ。全部わかる。貴女は、認めたくないだけ。貴女がどうしようもないくらいに隔絶している現実に気付きたくないだけ。自分の心の闇から目を背けて普通のフリをしているだけなんでしょ?私にはその苦しみがわかるから。ねぇ、もう怖くないからね」


手を広げて、艶然と笑う彼女が、どこまでも恐ろしかった。

その紅い瞳を見続けていると、こちらにまで狂気が伝播してくるような、そんなぞわりとする厭な感覚が纏わり付く。


心の闇?

苦しみ?


そんなもの何一つだって私の中には存在しない。


私はただ、お姉ちゃんや有栖ちゃんと一緒に平穏無事な日々を送れるだけで幸せなのだ。

ただそれだけで、満たされているのだ。


その幸せを乱そうとするのは、坂上さんの方だ。


訳の分からない言葉で私を勝手に不幸な女の子に貶めようとしている。


「っ!」


気付けば私は、坂上さんの頬を強かに打っていた。


自分でも、自分のしたことを信じられない。

人の頬を打つなんて、これまでに一度もしたことがなかったのに。


「大丈夫よ、私はそんな貴女も受け入れてあげるから」


見透かしたような紅い瞳が、怖い。

私の心の中を無遠慮に覗き見るような彼女の視線が、胸をざわつかせる。


「わ、私、もう帰るから!」


私は坂上さんの横をすり抜け、彼女のやって来た扉から廊下へと駆け出す。


「ちょっと、待って!」


制止する坂上さんの声が聞こえるが、形振り構ってはいられない。


私はただがむしゃらに、屋敷の出口を見つけるために走り回る。


ただ一秒でも早くこの場から、坂上さんから逃げたかった。

出来るだけ早く、逃げ出したかった。


長い廊下、曲がり角を何回か曲がり、やがて階段へと辿り着く。

駆け下りた先には踊り場、さらにその先には玄関と思しき大きな扉が見える。


ここが私の推測通り丘の上の屋敷だとするならば、一度ここを出てしまえば自宅へ帰ることも容易であろう。


幸いなことに、坂上さんも追いついて来られていないようだ。


このまま、この扉を開けて……


「え?」


そこに広がっていた風景は、想像していたものとはまるで違っていて。


「そんな」


そこは丘の上の屋敷などではなく、私の眼前には全く見ず知らずの深い深い森がただ広がっているのみだった。


鬱蒼とした深い森の中、ただ開けた広場のような場所に、この屋敷は建っているらしい。


どう見たって、私の街とはかけ離れた景観に、思わず言葉を失う。


これじゃあ、帰り道なんて到底分からない。

スマホやタブレットなどの情報端末も地図やコンパスなども勿論持ち合わせていないし、そもそも電波が通るかも妖しい森の中、一体どうやって帰り道を探せば良いのだろうか。


先ほどまでは感じていなかった絶望感が、一気にやって来る。

名状しがたい暗い感情が、大波となって去来する。


私はこの場所から、逃げ出すことは出来ないのだろうか?


「詩葉さん、戻って来て!外は危ないわ!この屋敷にいればずっと私が守ってあげるから!」


後ろから、ようやく追いついてきた坂上さんの声が聞こえる。

彼女の声が何だか恐ろしくて、私は身を固くしてしまう。


「来ないで…私は帰るんだから…」


庇の影から、思わず、陽の光の下へと飛び出す。


「詩葉さん、ダメ!」


坂上さんの叫び声が、弾ける。


鼓膜を劈くような絶叫。


何故そんなに、叫んでいるのだろう。

何がそんなに、苦しいのだろう。

どうして、彼女はあんなに凄惨な叫び声を上げているのだろう。


……いや、叫んでいるのは、苦しんでいるのは、私の方だ。


どうして、どうして、どうして?


どうして私はこんなにも叫んでいるのか?


わからない。


どうして私はこんなにも苦しいのか?


わからない。


どうして、私の身体が、燃え盛っているのか?


わからない。


「ああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」


絶叫。

絶叫からの絶叫。


私は、身を業火で焼かれる苦しみに叫び声をあげる。


苦しい、痛い、熱い、苦しい、痛い、熱い、助けて。

ただそれの繰り返し。


全身から炎が立ち上り、私の身体を焼き尽くしていく。

痛みを直接神経に流し込まれているような、壮絶な苦しみが全身を包み込む。


どうして私の身体が燃え盛っているのか、全く理解が追いつかない。


ただ陽の光のもとに踏み出しただけ。

それだけで何故、こんな地獄の苦しみを味わわなければいけないのだろうか。


強すぎる火の手に、呼吸をすることも叶わない。


その熱さに、強烈な痛みに耐えきれず、地べたを転がり回る。


助けて、助けて、助けて、助けて、助けて!


焼け爛れた喉から出るのは地を這いつくばる叫び声だけ。


手足から徐々に、崩れ落ちていく。

炭化した肉が焦げ落ち、灰になっていく。


自分の身体が、消し炭になっていく恐怖と、思い出したようにやって来るこの世のものとは思えない苦しみ。


誰かが、呼んでいる気がする。

必死に何かを叫んでいる気がする。


そんな暇があるのなら、お願い、助けて。

私をこの苦しみから救って。


痛いの、苦しいの、熱いの、怖いの。

お願い、今すぐに私を救って。


痛みと恐怖に、正気が完全に消失する。


ただ感覚だけになる。

苦しみだけになる。


このまま私の命が潰えてしまうのだと、本能的に理解する。


何もわからぬまま、苦しみだけに翻弄され、燃え盛っていく。

私の命の炎が、着実に消えていく。


「詩葉さん!」


燃え盛る私の横で、もう一つの炎が上がる。


その炎は懸命に、私を引き摺っていく。


「今、助けてあげるから!」


その炎は、叫び声を上げながら、頭と胴体だけで炎を上げる私だったものを強く抱きしめる。


「あと、ちょっと!」


燃え盛り、引き摺られ、苦しみ悶え、引き摺られ。


そして気がついた時には、私の身体は屋敷の中に横たえられていた。


先ほどまでの苦しみが嘘だったように、燃え盛っていたことは夢だったかのように、私は茫洋と横たわっていた。


炭化した筈の皮膚は元通り、いつもの私の身体そのもので。

焼け落ちた筈の手足はきちんとそこに存在して、確かにその感覚を感じる。


「ごめんなさい、詩葉さん!とても怖い思いをさせてしまって…!」


私のすぐ横に佇む少女は、大粒の涙を流していた。


「助けて、くれたの?」


ぽつりと、声が出る。

焼け爛れていたと思った喉も、まるで何事もなかったように。


「違うわ!きちんと私が説明していなかったから!私のせいだから!」


尚も坂上さんは、滂沱に震えていて。


「詩葉さん、貴女は吸血鬼になったの」


呟くように、囁くように。


「だから、陽の光を浴びるとあんな風に燃え盛って灰になってしまう……本当にごめんなさい。先にきちんと説明しておくべきだったわ」


紅い瞳から、熱い涙を流し。


「おめでとう、詩葉さん。貴女はもう一人じゃない」


とても嬉しそうに彼女は、笑っていた。

その笑みには、先ほどまでの狂気は一切感じられず、心からの祝福が内包されているようだった。


「私が、吸血鬼に?」


「そうよ。私が昨晩、詩葉さんの血を吸ったから、貴女は吸血鬼になった。とても単純なこと」


「坂上さんは、吸血鬼なの?」


「ええ」


頭の中が混乱して、思うように思考を巡らすことが出来ない。


普通のクラスメイトだと思っていた坂上さんが実は吸血鬼で、彼女に血を吸われた私も吸血鬼になってしまった?


理解しようとしても、頭が断固としてそれを拒否する。


「吃驚しているのね?でも、じきに慣れるから。吸血鬼の世界は、人間なんて比べものにならない程に素晴らしいものだから。きっとすぐに詩葉さんも気に入るわ」


一体私は、どうしたらいいのだろう。


わからない、何もわからない。


突然に吸血鬼になってしまったと言われ、強制的に昼間の世界で生きる権利を奪われてしまった。


普通の女の子として、お姉ちゃんや有栖ちゃんと一緒に平穏無事な日常を送ることは、もう叶わないだろうか?


そう考えただけで、止めどなく涙が溢れてくる。

次から次へと、熱い奔流となって、感情が溢れ出てくる。


怖くて、怖くて仕方が無い。

悲しくて、悲しくて仕方が無い。


もう二度と、普通の人間として幸せを享受することは、出来ないのだろうか?


自分の身体が人間ではなく、吸血鬼そのものに変質してしまっていること。

頭では理解出来なくても、身体が理解してしまっている。

陽射しの元で身体が炎に包まれたことが何よりの証拠だ。


そして、心の中に沸々と湧き上がる強い欲求がそれら全てを否応無しに肯定する。


私の身体は、どうしようもない程に、血を欲しているのだ。


「お願い、私を元に戻して……」


泣きじゃくりながら、懇願する。


吸血鬼なんて、厭だ。

普通じゃいられないなんて、厭だ。


こんな強引に身体を作り替えられて、吸血鬼として一生を過ごすことを押しつけられても、そんなもの受け入れられる筈がない。


「お願いだから、坂上さん…!」


「ごめんなさいね。一度吸血鬼になってしまった以上、もう元には戻れないわ。私にもどうすることも出来ない」


それは、死刑宣告だった。


「大丈夫。人間になんて戻る必要ないわ。この屋敷で永遠に、私と暮らしましょう?」


坂上さんの瞳は、どうしようもない程に真っ直ぐで、彼女の意志が揺るぎないものであることを確認させられる。


「どうして、私なの?こんな、酷い、酷いよ…」


「詩葉さん、いつか私に話してくれたでしょ?覚えていないの?」


「覚えていないよ。何のことなの?坂上さんが言ってること、ずっとわからない」


私が一人ぼっちだと、彼女は言う。

どうして、そんな風に彼女は思うのだろう。

彼女の勘違いで、私は吸血鬼にされてしまったとでも言うのか。


「詩葉さん、ご両親がいないんでしょう。事故で亡くしてしまったって、教えてくれたわよね。そして、貴女は一人ぼっちこの世界に残されてしまったことを嘆いていると、悲しんでいると言っていた」


確かに、私の両親が亡くなっているということは彼女に話したかもしれない。

特別隠すことでもないし、友人やクラスメイトは大抵知っていることだ。


「私も、お父様を亡くして、お母様も続けて……だから、貴女の気持ちがよくわかった。一人ぼっちの悲しみが、苦しいほどに伝わってきたの」


坂上さんも、両親を亡くしている。

その事は今初めて知った。


お互い両親を亡くしているからこそ、彼女は私に親近感を覚えたとでも言うのか。

そんなの歪んでいる。

あまりに歪みきっている。


「私と詩葉さん、ただ一つ違っていたことは、私は吸血鬼で貴女が人間だということだけ。私が人間世界の中で生きられないことは仕方ない。でも、貴女が人間として人間社会の中で一人ぼっちだということが、私にとってあまりにも不憫に思えたのよ」


うっとりとした表情で、彼女は、


「だから、ずーっと、貴女を吸血鬼にしてあげたかったの。そうしたら、私と一緒に永遠の時を生きられる。貴女の孤独を癒やしてあげられる。もう一人ぼっちじゃないって抱きしめてあげられる」


彼女は、歪みきった価値観で、私の中に彼女自身を見出したのだろう。

両親を失っているというただ一つの共通点でもって、私を勝手に可哀想な子に仕立て上げ、一人ぼっちの孤独な女の子として認識した。


だから、彼女は私を吸血鬼にした。


「わかった、わかったよ。私と坂上さんは絶対に理解しあえないってことがわかった」


「いいえ、そんなことはないわ。詩葉さん、今はただ突然のことに驚いて気が動転しているだけよ。私の言っていることを理解するだけの時間はたっぷりあるわ。それこそ、永遠にね」


彼女の紅い瞳は、果たして私を見ていたのか。

それとも、彼女自身を見ていたのだろうか。


どちらにせよ、彼女は私のことをこれっぽっちも理解しようとはしていないのだろう。

彼女の価値基準で勝手に私のことをわかったような気になって、その歪んだ像を無理矢理に私に押しつけた。


これ以上彼女と会話をすることも、言葉を発することさえも無意味に思えてくる。


何もかもが喪失感の中に埋没し、ただただ無気力な微睡みが襲う。


「心苦しいけど、また外に出られたら大変だからね。詩葉さんがきちんとわかるまで、これ、付けさせて貰うわね」


私は無抵抗のまま、首輪と手枷、足枷を付けられる。

やけに優しい手つきが、癪に障る。


暗く冷たい部屋に鎖で繋がれ、私は、完全に囚われの身になった。


私は何をするでもなくただ目を瞑り、ゆっくりと時間が過ぎていくことを感じる。


永遠に。

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