12 その瞳は紅い月のようで
紅い月が低い空に輝く、不気味な夜だった。
生理的嫌悪感を感じさせる月。
いつもは銀色の光で私たちを照らしてくれている筈の優しい隣人が、まるで別人に変わってしまったかのような紅い狂気を孕んだ月。
家を出て、空を見上げた時に感じた厭な気持ちは、外出を控えるようにと自分自身に待ったをかける。
動物的勘のようなものが警鐘を鳴らしている気がする。
見慣れない月に違和感を覚える心が危険信号を送っている。
それでも私は私の平穏な日常を遂行するために、今日も真夜中の散歩に出かける。
たかだか月が不気味なくらいで趣味に耽ることを躊躇する必要が何処にあるだろうか?
私の感じている恐怖心なんていうものは、何もない暗闇にびくびくする子供の防衛本能のようなものに過ぎない。
紅い月なんて珍しいものでもない。
ただ月が低いところにあるから大気の影響で紅く見える。
それだけのことなのだとどこかで耳にした記憶がある。
きっと物知りの有栖ちゃんなんかが教えてくれたのだろう。
不吉な事の前兆だとか、地震の予兆だとか、色んな謂われはあるがそれらはあくまで迷信に過ぎないのだ。
…でもやっぱり、月が紅く輝く理由を知っていたとしても、身体にべったりと纏わり付く厭な感覚からは逃れられない。
自ずと思い出すのは、放課後にコメットちゃんと訪れた屋敷のことだ。
幽霊屋敷と呼ばれる、古びた洋館。
そこには人か吸血鬼か、何者かが確かに潜んでいるという。
果たして、この紅い月を背景にあの洋館を目にしたらどれだけ絵になるだろうか。
冒涜的で悪魔的で陰惨な絵画のような景色がそこには広がるだろう。
想像しただけでも身震いしてしまう。
厭な想像が脳裏に張り付いている時ほど、些細な物音や感覚の変化に鋭敏になる。
虫の鳴き声や風の音は酷く不気味に感じられるし、暗闇の深淵からこちらを見つめている影があるのではないかという想像にかられる。
あの曲がり角を曲がった先に、ひょっとしたら幽霊が立っているかもしれない、だとか、とつぜん後ろから怪異に襲われるかもしれない、だとか、ありもしない妄想が頭の中を駆け巡り、どんどん胸の中の恐怖心が膨らんでいく。
自然と私は、いつもより明るい道を選んで歩いていた。
街灯の明るい光さえも、暗闇を作るための舞台装置になる。
その暗闇の奥に潜む、自らの恐怖心を見ないふりをしながら、今日もお気に入りの公園へと向かうのだ。
今日は調子も悪いしもう帰ろうかな、何となく気乗りがしないし帰っても良いんじゃないかなと、弱気な自分が帰宅するという選択肢を幾度なく取ろうとするが、ただムキになって意地を張っている自分自身がいつもの公園へと向かう足を止めようとはしない。
怖がる事なんてないのだ、どんなに不気味な月が空に昇ろうと、恐怖心が胸の奥に渦巻こうと、それらは現実の私に干渉してくることなどない。
実際に怖い目に遭う事なんてない。
いつも通りにただ、お気に入りの公園へ向かって、星空を見上げるだけ。
流れ星でも流れた時のために願い事を考えておこうか。
自分の心を落ち着かせるように楽しいことを想像するのもいいかもしれない。
無理矢理に自分を奮い立たせようとしても、一度芽生えた恐怖というものはなかなかに消えてはくれない。
私という人間は、お調子者でお気楽者の筈なのに、こういうところで酷く小心者なのだ。
自らの恐怖心がどこに由来するものかなんて分かっていても、恐怖するものなんてどこにもないのだと分かっていても、怖いものは怖い。
どうして人間は暗闇を怖がるのか。
そこに幽霊や怪異がいるから?
否、断じて否だ。
そもそも私は幽霊なんて信じていないし、怪異の類いがいるとも信じていない。
それらの存在に恐怖する心は持ち合わせていなくても、暗闇はただ怖いのだ。
きっとそれは人間の生物的、根源的な恐怖。
暗闇は、暗闇だから怖いのだ。
いつもならば真夜中の散歩はあんなにも楽しいのに、暗闇に親近感さえ湧くというのに、空に浮かぶ紅い月を見ただけでこんなにも私は簡単に恐怖心に負けてしまう。
もっと強い女の子になりたいなぁなんて思ったり。
そういえば、コメットちゃん、怪異の類いは実在するとか言っていたよなぁ。
丘の上の館に吸血鬼がいるなんていう噂もあるわけだし。
確か噂では吸血鬼は処女の生き血を啜りに現れるんだよな。
それって、完全無欠のど処女の私にとっては凄く危ないってことなんじゃないか。
吸血鬼が処女を狙うって言うのはどうしてだろう?
そもそも吸血鬼の伝承に処女しか狙わないっていう記述なんてあっただろうか?
中には偏食家や美食家の吸血鬼もいるだろうし、やっぱり味に問題があるのかなぁ。
処女の血って美味しいんだろうか?
私にとって一番身近な処女の、有栖ちゃんの白くて細い首筋を思い浮かべてみる。
確かにあのうなじから肩口にかけての綺麗なラインはとっても魅力的だよなぁ。
思わず噛みつきたくなってしまう気持ちもわからいでもない。
それで啜った血が甘美な味なのだとしたら、そりゃもうメロメロになるってやつかもしれない。
今度有栖ちゃんに血を吸わせて貰えないか頼んでみようかな。
いや、でも、乙女の柔肌に傷をつけるのは少々憚られるなぁ。
そもそも有栖ちゃんにちょっとでも痛い思いをさせるのだと思えば、私にそんなことはできない。
有栖ちゃんに血を吸わせて貰うのは諦めよう。
…馬鹿らしいことを考えていたら、いつの間にか私の心の中を支配していた恐怖心も薄らいでいった。
有栖ちゃんありがとう。
やっぱり持つべきものは可愛くて処女の幼馴染みだよね。
処女は関係ないか。
考えに没頭しているうちに、私のお気に入りの公園が近づいてくる。
恐怖心も殆どなくなり、いつものお散歩気分が漸く戻ってくる。
さっきまで不気味に聞こえていた虫の声にも風情を感じるようになったし、街灯の作る陰影も趣を感じるようになってくる。
やっぱりどうして、真夜中の世界というものは私の心を癒やしてくれる。
そんな幸せを感じながら、公園の入り口に立つ。
今日も一人きり、貸し切りの私だけの箱庭がそこには存在する。
……筈だった。
だがしかし、そこには、不気味な紅い月がよく見える開けた空の下には、ぞっとするような美貌の少女が、ただ立ち尽くしていた。
紅い月が浮かび上がらせるシルエット。
暗闇に佇む少女は、艶然と微笑んでいる。
夜の闇を切り取ったような黒く長い髪と、血の色を想起させる真っ赤な瞳。
肌は何処までも透き通って青白く、見に纏った瀟洒なゴシックドレスはその美しさを引き立たせている。
「ご機嫌よう、待っていたのよ?峯崎詩葉さん」
何故目の前の少女は私の名前を知っているのか、そんな疑問が脳味噌を駆け巡る。
夜闇に目を凝らし、よくよく観察してみるとそれは見知った顔であることに気がつく。
「坂上さん?同じクラスの坂上さんだよね?」
彼女の名前は坂上小夜(さかがみさよ)さん。
私と同じ、二年A組の生徒である。
こんな真夜中に、こんな公園で、何故クラスメイトが私を待っていたのか。
ますます理解出来ない状況に、私の頭は混乱する。
「ええ、そうよ。覚えていてくれたんだぁ。とっても嬉しい」
紅い瞳を細めて、彼女は笑う。
それはまるで真紅の三日月のようで、ぞっとする美しさで輝いている。
「そりゃあ覚えているよ、クラスメイトじゃない。どうして、坂上さんはこんなところにいるの?私が言えた事じゃないけど、こんな時間に女の子が一人で出歩いたら危ないよ?」
全く人のことを言えた立場ではないが、常識的に考えて深夜に女の子が一人で出歩くなんていう状況は普通ではない。
全く人のことを言えた立場ではないが!
「心配してくれるのね?ふふふ」
艶やかな唇に人差し指を添えて微笑む姿が、やけに色っぽい。
記憶の中の坂上さんは、もっと控えめでどちらかといえば目立たない生徒だ。
彼女は果たして、こんな女の子だっただろうか?
「私、詩葉さんとずっとお話ししたかったのよ?最近ずっと、会えていなかったから」
「確かに最近ずっと、お休みしてるもんね」
坂上さんはここ最近ずっと、学校を休んでいる。
彼女は病弱な体質だと聞いていたし、休んでいる理由は体調不良だと思っていたけれど、目の前の彼女の様子を見ていると特別体調が悪そうには見えなかった。
「それで、その、私を待っていてくれたってのは、どういうことなのかな?私が真夜中によくこの公園に来るってお話ししたことあったっけ?」
坂上さんとは、何度かお昼ご飯を一緒に食べたり、行事の時にちょっと会話したくらいなもので、そこまで親しい仲ではない。
勿論クラスメイトの一人として、それなりに良好な関係を築けてはいたと思うが、こんなふうに私が真夜中に散歩をしていることを話したりしたような覚えはない。
「私もよく、深夜にお散歩するから。何度か詩葉さんを見かけたことがあったの」
「そうなんだ。そしたら話しかけてくれたらよかったのに」
「そうね、それでもあの頃の私はまだ……だったから」
肝心なところがイマイチ聞き取れない。
彼女は何と言ったのだろう。
「とにかく、ずっとずっと詩葉さんとはお話ししたかったのよ?こんな綺麗な月の日に会えて私とっても嬉しい」
不気味な紅い月を、綺麗だと彼女は言う。
そういう価値観も、あっていいとは思うが、私にはこの月の良さというものはどうしてもわからない。
「さあ、いつものようにブランコに座って。ここでたくさんお話しをしましょう?」
「う、うん。わかったよ」
促されるまま、いつものようにブランコに座る。
私の身体には些か小さな遊具。
握った鎖がやけにひんやりとする。
続いて坂上さんも、私の隣のブランコに腰掛ける。
「詩葉さんは、夜って好き?私はとっても好きなの」
浮かされたように、まるで好きな人のことを語るかのように。
「暗闇は全てを隠してくれるし、大嫌いな自分がここいてもいいんだって思わせてくれるの。月はいつでも見守ってくれるし、私を迫害する人間たちは誰もいない。自由な、私だけの世界が真夜中には広がっているわ」
一方的に、まくして立てるように。
「第一、あの忌々しい太陽の下で生きなきゃいけないなんて誰が決めたのかしら?全く理解に苦しむわ。穢い人間たちが、穢い人間たちなりの価値観で蠢く世界で日々を暮らさなきゃいけない。誰しもが他人の事を憎んで、貶して、妬んで、嫌って、恨んでいるのにそれを隠して表面だけ繕って生きてる。そのくせ影では自分より弱い者を迫害して脆弱な自尊心を可愛がっている。みんな自分が狂っていることに気がついている筈なのに見ないふりして自分の正当性だけを主張して、理解出来ない価値観を排除しようと躍起になる。他人を貶めることだけを考えて生き、他人の不幸を至上の喜びとする。他人の価値を下げて相対的に自分自身の価値を上げようと、誰しもが他人の揚足取りに夢中になる。やっていることはてんで動物以下のくせに万物の霊長だとか嘯きふんぞり返っている。その実ただ機械に使われているだけなのにあたかも自分が有能な人間であるかのように振る舞って傲慢に鼻を伸ばす。他人に認められたいが為だけに何かを為し、他人に目を向けられもしないと卑屈に罵詈雑言を垂れ流す。生きていたって無駄なのにさも自分たちの命に価値があるかのように語り、無い権利に縋って甘い水を啜ろうとする。人の幸せを見下し、自分の不幸せを自慢する。自分では何も行動しないのに悲惨な現状を嘆き、他人に責任を擦り付ける。何もしてないのに何かをした気になって他人の財産を搾取する。他者の人格を否定することで悦に浸っている。……そんなの絶対におかしいわ。ねぇ、詩葉さんもそう思うでしょ?」
私を見つめる彼女の瞳は、夜闇の中月明かりを反射する真紅に煌めく宝石のようで、そこに感情を映してはいなかった。
ただただ無機質な色彩。
全ての感情を殺して、虚無を湛えている。
暗澹たる夜闇に這いつくばる狂気の紅。
月狂いという言葉がこれ程までに似合う瞳を、私はこれまでに見たことがない。
「私ね、詩葉さんとはもっと仲良くなれる気がするの」
「ど、どうしてそう思うのかな?」
坂上さんの纏う雰囲気に気圧されて、私はそう答えることしか出来ない。
全身の毛が逆立ち、心臓が早鐘を打つ。
今夜の彼女からは、関わってはいけないオーラがこれでもかと滲み出ている。
「だって、詩葉さんって一人ぼっちじゃない?それって私と一緒だなって思うの」
「私が、一人ぼっち?私には、幼馴染みも、家族もいるよ?」
有栖ちゃんにお姉ちゃん、今はそれにコメットちゃんもいる。
彼女が言うように、決して一人ぼっちなんてことはない筈だ。
「そういうことじゃなくてぇ。もっと根源的なことよ。本当は、わかっているんじゃないの?」
見透かすような紅い瞳が、私の心を串刺しにする。
彼女の言っていることがイマイチよくわからない。
「ふふふ、いいわ。詩葉さんは、とっても優しくて良い子だものね」
坂上さんの細い指が、私に向かって伸びてくる。
やがてその指は、私の髪を撫でつけ、そのまま下顎を伝い、唇へと触れる。
嫌な筈なのに、身動きが取れない。
まるで捕食者に睨まれたように身が竦んでしまう。
「可愛い。食べちゃいたいくらいに、ね」
彼女は、私の耳元で囁く。
その吐息は背筋を凍らせ、ゾッとする程に甘美な響きを持って鼓膜を振るわせる。
「本当は、詩葉さんも酷く孤独なのでしょう?私には分かるわ。きっとその痛みは私にしかわからない。私は、貴女と同じなのよ?」
まるで言い聞かせるかのように、どこまでも優しく、だけれど怜悧に、耳元を擽る。
「この世界が、厭になったこと、あるでしょ?何処かここじゃないところに逃げたくなったこと、あるでしょ?貴女の瞳は、そういう色を湛えている。だから私は、貴女のことがとても気に入ったのよ」
蠱惑的に耳朶を刺激する声は、どうしてか、私の脳味噌を蕩かしていく。
彼女の言葉が、徐々に浸透していく感覚。
「私なら、貴女の唯一の理解者になってあげられる。貴女の孤独を紛らわせてあげられる。だから、ねえ、一緒においで?」
何かに操られかのような、催眠にでもかけられたかのような、とろんとした微睡み。
「さあ、頷いて?」
私は、彼女の言うがままに、こくりと頷いてしまう。
それが、致命的な間違いだと気付けるだけの思考力が、残されていなかった。
「良い子ね。それじゃあ、頂きます」
首筋に、甘い甘い痛みを感じた。
まるでそこから直接快楽を注ぎ込まれているかのような感覚。
身体が熱くなり、頬が上気していく。
胸の奥がきゅんと締め付けられ、頭がぼおっと真っ白に、真っ白になっていく。
お腹の奥、下腹部が、疼く、疼く、疼く。
今すぐに、この火照りを鎮めたい。
誰かに触って欲しい。
私の胸を、腹を、腰を、花弁を、めちゃくちゃに掻き抱いて欲しい。
淫らな思考が、頭の中を満たしていく。
全身に行き渡る血液がまるで媚薬にでもなってしまったかのように、鼓動と共に、ドクンドクンと体中が敏感になっていく。
夜風が肌を撫でるだけで、気持ちいい。
まるで身体が自分のものではなくなってしまったかのように、意識とは裏腹に快楽を求め始める。
「一体…何をしたの……?」
吐息混じりに、そう問いかけることしかできない。
次第に、体中が桃色の靄に包まれていく。
手が、腕が、肩が、胸が、お腹が、背中が、お尻が、太ももが、ふくらはぎが、足が、全身が、大事なところが、とても気持ち良い。
頭から、足の先まで、抑えられない快楽の波が満ちては引いてを繰り返す。
「気持ちいい?気持ちいいよね?」
坂上さんの声が、甘く甘く脳味噌に響く。
耳の中で反響して、跳ね返って、増幅、感度を上げていく。
「これ…止めて……!」
今までに感じたことのない強烈な快感に翻弄されていく。
ただただ、熱く火照る身体を持て余し、身じろぎするしかない。
全身から汗が噴き出す。
少しずつ快楽に身体を作り替えられていくような感覚。
お腹の奥から、脳味噌まで何かが駆け上がる。
押し寄せてくる快楽の波に、逆らえない。
抵抗するのも馬鹿らしくなるほどに、全身を破壊的に陵辱していく。
「だめ、何か来る…!あっ…あっ……!」
やがて訪れる、暴虐的な快楽の濁流。
何かがパチンと弾ける音と、全身をがくがくと震わせる甘い稲妻。
いつまでも、収まらない、収まることを知らない快感。
背徳的で、甘美な果実を無理矢理に味わわされ、支配されていく。
「やめて、もうやめて……」
自然と頬を涙が伝う。
それ程までに恐ろしい快楽が、全身を這い回り、舐り、弄ぶ。
私の身体そのものが、私の知らない何かで埋め尽くされ、全てが塗りつぶされていく。
……次第に波は引いて…。
「お休みなさい」
最後に聞こえたのは、彼女の優しい囁き声。
脳味噌を振るわせる、甘美な水音。
そして私は、意識を手放した。
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