2 いつもと同じ朝
「うたちゃ~ん」
私を呼ぶ声が聞こえる。
「お~い、うたちゃん。今日もお寝坊さんなのかな?」
この声は、そう。
「あんまりお寝坊さんだとお姉ちゃん、布団に潜り込んじゃうわよ~」
寝ぼけた頭に反響する、気の抜けたような声。
この声は紛れもない、私のお姉ちゃんの声だ。
「う~ん、起きる。起きるから待って~」
私はそう返事をすると重たい目をこすり、大きく欠伸をする。
半覚醒状態の脳味噌に酸素が行き渡り、少しずつ曖昧な意識が水面へと浮上してくる。
これはいつもと同じ朝。
お姉ちゃんが優しく起こしてくれる一日の始まりだ。
「昨日も遅くまで出歩いてたんでしょ。女の子一人じゃ危ないっていつも言ってるじゃない」
そんなお姉ちゃんのお小言もいつもの風景。
「へへへ。だって真夜中のお散歩楽しいんだもん」
「へへへ。じゃないわよ。もう~」
そう言って頬を膨らませるお姉ちゃんは今日も可愛い。
長い黒髪を背中まで伸ばした、私の双子の姉、美歌子(みかこ)お姉ちゃん。
学校の制服に身を包み、その上からひよこ柄の可愛らしいエプロンを付けているその姿は、良いお嫁さんになりそうランキング堂々の一位(私調べ)に輝くくらい決まっている。
「朝ご飯もお弁当ももう出来てるから、すぐに着替えちゃってね」
「うん、今日もありがとお姉ちゃん。大好き」
私よりも早起きして料理に勤しんでくれるお姉ちゃんには感謝の念しかない。
私のお姉ちゃんは朝イチから最高だ。
ありがたやありがたや。
「大好きだなんてそんな…もっと言って…!」
私の大好きという一言に、お姉ちゃんは両手を頬に当て、幸せそうに悶えている。
「あ、お姉ちゃんが着替えさせてあげようか?うたちゃんのかわいいパジャマをゆ~っくり脱がせて下着姿をじっくり堪能したあとにまたゆ~っくり時間かけて制服着させてあ・げ・る♡胸とかお腹とかお尻とかに手が当たっちゃってもそれは不可抗力だから決していやらしい意図があるわけじゃないんだからね!」
前言撤回。
私のお姉ちゃんは朝イチからサイコだ。
そんなお姉ちゃんを横目に、私は壁に掛かったハンガーから学校の制服を取り外し、素早くそれへと着替える。
ねっとりとした視線とやや荒い息づかいが近くから感じられたのがちょっと怖かったが、気にしないことにしよう。
「昨日さ、彗星を見たの。でっかいやつ」
自室からリビングへ向かい、いまだ湯気の上がる朝食が並ぶ食卓につく。
「彗星?へぇ、それは珍しいわね。そんなのが見られるなんて誰か言ってたかしら?」
「ううん、多分誰も話題にしてなかったと思う。私もそんなの知らなかったからびっくりしちゃったよ」
いただきますと手を合わせ、こんがり焼けたキツネ色のトーストに手を伸ばす。
「あんなに綺麗で凄い彗星なんてなかなか見られないと思うよ。青い光がぐーんって夜空に尾を引いてさ。夢みたいな景色に思わず見入っちゃった」
もぐもぐとスクランブルエッグやベーコンを咀嚼。
塩加減が絶妙で美味しい。
「そんなに綺麗だったの?夢じゃなくて?」
「夢じゃないよ。確かにこの目で見たもん。お姉ちゃんにも見せてあげたかった。実に惜しい」
コップに並々注がれた牛乳をごくりと一気に流し込む。
「ご馳走様。今日も美味しかったよ、お姉ちゃん」
「はいはい、お粗末様」
お姉ちゃんは私の食べ終わった食器を素早く台所へと下げ、流れるようにお皿洗いを始める。
全く出来たお姉ちゃんだなぁと関心しながら私は、
「お姉ちゃんはさ、何か願い事ってある?」
鼻歌交じりにスポンジを動かすお姉ちゃんの背中に声をかける。
「願い事?いきなりどうして?」
ちらりとこちらに振り返るお姉ちゃん。
「彗星もさ、一種の流れ星みたいなものじゃない」
「え?彗星と流れ星はまた全然違うものだと思うわよ」
彗星は太陽系の小天体、流れ星はただの塵。
その違いくらいは知っているつもり。
たぶんおそらくメイビー。
「まあまあ、細かいことは気にしないで気楽にいこー気楽に」
「別にいいけれど。それで?」
「だからね、でっかい流れ星みたいな彗星に願いを叶えたらとんでもない願い事が叶うような気がする訳ですよ私は。お姉ちゃんなら何を願うかなぁなんて思って」
「うたちゃんはメルヘンで可愛いわね」
「うるさい」
昨晩見た巨大彗星。
とても綺麗で壮大だった天体ショウはきっと、一生のうちに何度も出会えるものではないだろう。
何十年何百年単位が一瞬になり得る宇宙スケールの出来事は、そもそも出会えた事自体が奇跡みたいなものだ。
だからこそ、昨日そんな奇跡のような彗星を見られた私は、瞬きの邂逅に願い事を託す気持ちになった。
滅多に出会えない事象に出会えた奇跡がそのまま願い事に繋がっているような気がして。
あの彗星が私の願い事を叶えてくれるような気がして。
「願い事かぁ。う~ん、うたちゃんと結婚したい、とか?」
「ちょっと目が本気だから怖い」
「本気も本気。大真面目よ。私は姉妹の壁も性別の壁も越えたいと常々日頃から考えているわ」
「お姉ちゃんのことは好きだけど流石にそれはドン引きかな」
真っ直ぐな目でトンチキなことを言うお姉ちゃんに、思わず冷たい視線を向けてしまう。
「そんな目で見られたらちょっとゾクゾクしちゃう」
「お姉ちゃんがどんどん変態になっていくよ…」
頬を赤らめて悶え始めたお姉ちゃん。
肉親が狂気に染まっていく様を目の当たりにして私はただただ悲しみを胸に湛える他無い。
昔は純真無垢で優しくてなんでもやってくれる理想のお姉ちゃんだったのに、いつから彼女は変態シスコン狂に成り下がってしまったのだろう。
何が彼女を変えてしまったのだろう。
私がお姉ちゃんに甘え過ぎたのがいけなかったのだろうか。
人と人との繋がりが希薄な時代がお姉ちゃんをそうさせてしまったのだろうか。
愛に飢えた彼女が愛を向けられるのが私ただ一人だったのがいけなかったのか。
まあ、結局私も、そんなお姉ちゃんの重たい愛情が、私だけに向けられる偏執的な愛がちょっと心地いいなと思ってしまうのだから似たようなものかもしれない。
「まったく、冗談よ。お姉ちゃんジョークよ」
「ほんとに?それならいいんだけど」
冗談に聞こえない声音と表情だったからやっぱり少し不安だけど。
「願い事ねぇ…」
手際よくお皿洗いを終えたお姉ちゃんはタオルで手を拭いた後、暫しの間頤に人差し指を当て、真剣に考えてくれている様子。
「あんまり普段からお願い事なんて考えないから、すぐには浮かばないわね」
あっけらかんとお姉ちゃんはそう答えてみせた。
「でもまあ、結局こうしてうたちゃんと二人暮らせることが一番の幸せな訳だから、ずっと一緒にいられたらいいなって思うわ。それが私のお願い事かしらね」
少し儚げに、お姉ちゃんは笑った。
家族と一緒にいられること。
姉妹仲良く暮らせること。
当たり前のようでそれがどれだけ幸せなことなのか痛いほどに知っているからこそ、お姉ちゃんの言葉がじわりと胸に染みた。
この胸に疼く痛みは、喪失の痛み。
失って初めて気付く、大切なものの重み。
「お父さんもお母さんも、天国に行っちゃって、今は私たち二人きりだもの。お願いだからうたちゃんは、お姉ちゃんから離れないでね」
私たちの両親は、私たちが幼い頃に交通事故で亡くなった。
引き取ってくれるような親戚もおらず、それからずっと孤独に暮らしてきた。
どうしようもなく悲しくて、寂しかったけど、支えてくれる人たちがいたからどうにか生きて来られた。
「大丈夫。私はお姉ちゃんの傍にいるよ」
「ええ、約束よ」
自然に私たちは、手を取り合っていた。
そこにある温もりに触れたくて。
いつ消えてしまうかもわからない絆を確かめたくて。
お姉ちゃんの温かい手は、少し震えていた。
きっと私の手も、少しだけ。
「そういううたちゃんは、どんなことをお願いしたの?」
悲しい雰囲気をかき消すように、お姉ちゃんは満面の笑みで。
「私?私はね…」
私があの時願ったのは……
夜空を流れ往く美しい彗星に掲げた私の願い事は。
……一体、何だったのだろう。
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