故人の面影

 以前勤めていた職場に、頭上をヘリコプターや飛行機が飛んでいると「監視されている」と言っている人がいた。私とは親子ほども歳の離れた女性で、そういう言動を他の従業員からは精神病だとか認知症だとか影で言われていた。なんならイライラした拍子に面と向かって本人に言い放つ人もいた。冷静に考えずとも地獄だ。最初にその人と仕事をすることになった日の朝も「おかしな人だけど、一応仕事はできるから」というよく分からないアドバイスを受けた。はぁ、と返事にもならないような返事をした気がする。

 実際「ああやって人の生活をのぞき見して何が楽しいんだろう」「いい加減放っておいてほしい」呆れたように苦笑しながら頭上を飛ぶヘリコプターを見上げて言う以外は基本的にごく普通の人だった。少々無神経なきらいはあっただろうか。よくある、結婚願望はあるのか、とかいうような迷惑な質問は時折された。真面目に答えても二日後には忘れてしまうような人だったので、こちらも最後の方は真面目に答えていなかった覚えがある。しかしながら彼女はなぜか私を気に入って良くしてくれたし、上司も彼女の相手はある程度私にさせておけばいい、というような姿勢を取っていた。正直どうかと思うが、私も下手に苦手な人と組まされるよりはマシ、ということで何も言わなかった。

 そんな最中、二人で外回りの仕事をしていた際、昼食のときにその人の家に招かれたことがある。彼女が普段、配偶者と二人の子供と共にそこで暮らしているその家で食事をするのは、なんだか勝手に他人のテリトリーを侵害している気分になるので一度は断ったのだが、いいからいいから、と言われて結局上がり込んで彼女の作った前日の夕食の残りをいただくことになった。昼食代が浮くことの方が当時の私にとっては大切なことだった。ここで私は食わず嫌いをしていたアスパラガスを克服することになる。

 ちゃっかり食後のコーヒーまでいただいていたとき、彼女に歳を聞かれた。また結婚願望の有無でも聞かれるだろうかと思ったのもつかの間、正直に答えると目を丸くして次は生まれた年、次に月、最後に日を順番に尋ねられた。

「私ね、子供が二人いるって言ったでしょう。高校生と中学生。でも、本当はもう一人いたの。一人目の子はね、私が目を離したときにお風呂場で溺れちゃってね。」

 だんだんと小さくなっていく声に、いつもどおり曖昧な相づちを打つ。

「あなたと生まれた年と月が一緒なの。」

 目を潤ませて彼女は私の手を握った。私は不思議な偶然があるものですね、と軽く手を握り返した。とうとう泣き出してしまったその人はしばらく泣き止まなかった。そうして生活感のある静かなマンションの一室に彼女の嗚咽とごめんね、と誰に対してか分からない謝罪が響く時間が過ぎた。昼休憩の時間はとっくに過ぎていたけれど、それを監視する人も叱責する人もいないのでそのままでいた。傲慢にも、その人をかわいそうにと哀れむ気持ちがあった。

「ごめんね。もし生きていれば……あなたくらいになっていたのかと思ったら……。」

 どうかお気になさらず、と言って手を放した。その日、彼女はいつもよりもぼうっとしていたが、ヘリコプターの飛ぶ音が聞こえるとすぐに反応して恨めしそうにするのはやはり変わらなかった。そんな彼女はあの日以降、私が退職する日まで亡くなった子供の話をすることは一切なかったけれど、私の誕生日にはお菓子をわざわざ買ってきてくれた。前述のとおりよほど重要なことでなければ人の話は二日後には忘れてしまうようなあの人の中で、私の誕生日はそういう位置づけにあったらしい。そこに多少の居心地の悪さに似た気持ちはあるけれど、少しでも、少しずつでも、ヘリコプターが気にならなくなるといいと思った。


 当然のことだが、私とその人は少しも似ていない。正反対ということもないけれど、顔を見て他人だとわかる程度には似ていない。だから彼女が私に何を見たのかは実際私にはよく分からない。誕生日の近いだけの全くの他人。似ていて背丈くらいだろう。そこに故人の面影などあるはずもない。

 ところで、私は母と祖父と曾祖母によく似ている。間違い無く脈々と受け継がれてきたとわかるほど似ている。これがなんと、顔だけではなく手まで似ている。祖父が亡くなった後しばらくした頃、私がまだ短大生の頃に母の肩を揉んだ。別に小遣いをせびったわけではない。ただ凝ったから揉んでくれと言われて揉んだ。その時、母は感嘆の声をあげて少し涙ぐんだ。

「あんたの手、おじいちゃんそっくり。肩に載せた時の感じが一緒だ。あぁそうだ、そうだったなぁ……。」

 ふとしたとき、前の職場にいたあの人の涙と、母の感想を思い出す。どちらにしても不思議なことがあるものだ。誰かの面影を重ねられることは、私にとって好ましいか好ましくないかと言われれば、少しばかり好ましくない。ただ、私の手を通して誰かの心が少し和らぐ瞬間があるのなら、それは悪くないのかもしれない。

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八割方、ニートとして暮らしている。 村瀬ナツメ @natsume001

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