第92話 優しい彼女
西城さんの家を後にして、俺と浜屋は二人並んで駅へと歩いていた。
ふと空を見上げると、夜空は薄い雲に覆われているが、時々雲の隙間から漆黒の夜空が顔を窺わせていた。
その時、何やら視線を感じて顔を横へと向けると、浜屋がもの言いたげな瞳で俺を見つけていた。
「美月ちゃんと、随分仲がいいみたいだね」
浜屋は、何やら含みのある声で言ってくる。それに対して、俺は平静を装って言葉を返す。
「まあ、いつも一緒に授業受けてるからな」
「本当にそれだけ?」
「……どういうことだ?」
意味ありげな視線を向けてくる浜屋に、俺は言葉の続きを目だけで促すと、浜屋はふっと息を吐いて言葉を続ける。
「なんか、友達以上の関係に私には見えるけど?」
そう言ってきた浜屋に対して、俺はふっと鼻で笑う。
「そんなんじゃないよ……ホント、そんなものじゃない」
俺と西城さんの関係は、修復しつつ新たな関係性を模索している最中。その状態を何という言葉で表せばいいのか、俺は知らない。友達と表していいのかどうかさえ分からない。
「でも、今の羽山を見てると、なんか少し遠慮してるように見えるなぁー」
「……そうか?」
俺が再び尋ねると、浜屋は前を見据えてどこか遠くを見て口を開く。
「なんか、踏み入れちゃいけないような壁があるように感じる」
「……」
俺は、浜屋に返す言葉を失った。
それを図星と捉えたのか、浜屋は俺の方を向き、優しい微笑みで言ってくる。
「もっとガツガツ行っていいと思うけどなぁー」
「それは……」
西城さんに踏み込んでいく。浜屋がどういう意図で踏み込んでいけと言っているのかは分からない。けれど、必然的にそれは、西城さんの身近に降っている問題にも関わることになってくるはずだ。
「別に、深く考える必要ないんじゃない? ストレートに気持ちを直接伝えることも、時には必要だよ?」
浜屋が言っていることはもっともだ。
俺はおそらく、西城さんに女性として何かしら他の人とは違う感情を持っている。だが、それが自分が頭で感じているものと同じなのか、わかりかねている。
だから俺は、浜屋に違う質問をすることにした。
「浜屋はさ、もし好きになった人が、何か重大な秘密の問題を抱えてたら、どうする?」
いきなり的を得ない質問に、浜屋は少々理解しあぐねていたが、必死に何かひねり出そうと、顎に人差し指を当てて上を向いた。
「うーん、そうだなぁ……」
暫く呻った後、はっと何か思いついたように、人差し指を顎から離して、そのまま人差し指を立てながら答える。
「私が困っていた問題を羽山が解決してくれたみたいに、私も一生懸命頑張るかな!」
俺が浜屋のスランプを解決してあげた問題を引き合いに出して当然のように言ってきたので、思わず顔を背けてしまう。
「いやっ……そういうことじゃなくてだな。もっと根本的というか……その……一人の力じゃ助けられないような大きな問題ってことで……」
「それでも変わらないんじゃないかな」
「えっ?」
「私に問題の大きさは関係ない。多分、好きになった人がどんな大きな問題を抱えていたとしても、助けてあげたいって思うし、支えてあげたいなって思う。たとえそれが、かなわない夢だとしても、嫌われる原因となったとしても」
浜屋は真剣な表情でどこか遠くの自分を見据えるようにして口にした。
「……それって、すごくつらくないか?」
浜屋は雲のかかっている空を見上げる。
「……うん、辛いね。でも、恋ってさ。そういうのを乗り越えてこそ、本物なんじゃないかって私は思うんだ」
どこか未来の自分を見るかのように、薄い雲がかかった見えない未来を見据えるような彼女の姿に、俺は目を奪われてしまう。
浜屋はニコっと微笑んで、俺の方へ向き直る。
「だから、羽山も西城さんの事、もっと知って関わって一緒にもがいていいと思うよ」
その浜屋の言葉に、きっと嘘はないのだろう。
だからこそ、俺の心の中で問うのだ。それが、俺と西城さんが目指している、本物の形であるのかということを。
それを考えれば考えるほど、俺はもがいて、苦しんで。そして……自分を嫌いになる。
◇
羽山たちが返った後、私は美月ちの家でお泊り会をしていた。
今キッチンでは、美月ちが遅い夕食を作ってくれていた。
こうして美月ちの家に泊るのも、新歓で酔いつぶれて眠ってしまった時以来だ。
あの時も、朝起きた私に、美味しいみそ汁を美月ちが用意してくれたっけ。
そんなことを思い出していると、レンシレンジのタイマー音が鳴り、美月ちがてきぱきと調理の準備を整えていく。
しばらくすると、ミトンで鍋を持った美月ちが、机の元へと向かってきた。
「お待たせー、ちょっと熱いかもしれないけど」
「うわぁ……!」
私は、思わず感嘆の声を上げる。
鍋の中には、美味しそうなクリームシチューが湯気を立てていた。
机の上に鍋を置き、美月ちはレンジの中からトースターモードで焼き上げた食パンを大きな皿にのせていく。
深皿が二つと、スプーンが机の上に用意されて、美月ちがこんがりと焼けた食パンをもって席へと着いた。
「それじゃあ、食べよっか」
「うん!」
お互いに手を合わせていただきますの挨拶をする。
おたまで深皿に熱々のクリームシチューを掬い、焼き立ての食パンを一つ手に持ってちぎる。
ちぎったパンを、そのままクリームシチューの中に漬けて、それを口元へと持っていき、二回ほどふーっと冷ましてから口の中へと放り込む。
カリっとしたパンの歯ごたえと、クリームシチューのクリーミーな味わいが口の中へと広がり、ほんのりと香るパンの香ばしい香りが口の中から鼻まで充満する。
「んー美味しいぃー」
「よかったぁ……お口に合って」
ほっと胸を撫でおろす美月ち。
美月ちが作る料理は、多分何でもおいしくできるんじゃないかと思う。それくらい、彼女の手料理は優しさと愛情を感じる。
「美月ちはいつも料理作るの?」
「ちゃんとしたものはあんまり作らないけど、一応自炊はしてるよ」
「そっか、凄いなぁ。私だったら三日で諦める自信があるよ」
元々、実家暮らしで料理自体あまりしないので、私にはできっこない。
やっぱり、やおやおは美月ちみたいな、家庭的な女の子が好みなのかな?
思い出すのは、夏休みに言った免許合宿での出来事。
あの時以来、私とやおやおはうわべだけの関係性を続けている。
私が覚悟を決めて踏み込んだ行為を、やおやおはするっと避けていった。
それが、私との関係性をこれ以上発展させることはないのだと、やおやおが言っているかのように……
そして、最終日にばったりとコンビニで出会った美月ちの姿を、どこか愁いを含んだ表情で姿が見えなくなるまで見つめていたやおやおの姿を目の当たりにして、美月ちには、私とやおやおにはない関係性を持っていることに気づいてしまった。
それから、何度も諦めよう諦めようと思っても、その思いは膨らむばかり、そりゃそうだ。前からずっと、抱え込んでいた気持ちだもん。そう簡単に諦めがつくわけがない。
しかし、どこかでけじめを付けなくてはならないと、ずっと思っていた。けれど、そのタイミングを、私は逸脱している。
「愛奈ちゃん、どうしたの?」
ふと我に返ると、美月ちが心配した様子でこちらを見つけていた。
あぁ……彼女はなんて優しい女の子なのだろう。こうして、やおやおのことで悩んでいる私にさえ、手を差し伸べてくれる。
私にはそんなことできない。全部ほしくて、多分その子のことも憎んじゃって、助けることすら出来ない。私はずるい女なんだ。本当は悪い女の子なんだ。
だから、私は私のまま、悪い女のままで最後までやり遂げさせてもらう。
「美月ち……ちょっといいかな?」
「ん、何?」
私の神妙な面持ちを察したのか、美月ちも真剣な表情を向けてくる。
そして、私は歯を食いしばりながら、つっかえつっかえしながら息を吐いただけの消え入りそうな声で言い放った。
「私……羽山に告白しようと思うんだけど、いいかな?」
そう私が告げた瞬間、彼女の表情が一瞬固まった。しかし、すぐにぱっと柔らかな笑みを浮かべて言ってくる。
「いいんじゃん! 羽山くんもきっと愛奈ちゃんなら喜んでくれると思うよ!」
嘘、絶対そんなことやおやおは思わない。むしろ、告白されたら困ったような表情を浮かべるに決まっている。
そんな羽山の表情を頭の中からかき消すように、私は別のことを口にする。
「美月ちは、本当にそれでいいの? 私が付き合っちゃって本当にいいの?」
私が少し怒気を強めて言うような感じになってしまうと、美月ちはどこか愁いを帯びたような表情を一瞬浮かべるが、すぐにまた優しい眼差しを私に向けてくる。
「いいとか悪いとか、そんなの私が決める立場じゃないよ。恋愛は自由! 誰を好きになったっていいんだから! だから、頑張ってね」
あぁ……やっぱり彼女は、他の子にも気を使える優しい女の子だ。
私にはかなわない。
「……うん、頑張る」
そう一言、ぼそっとした声で頷くことしか、私にはできなかった。
「あっ! そうそう、そう言えば思い出したんだけどさ、今度の撮影でねっ……」
美月ちは、この話はもう終わりだというように話題をすぐに切り替えてしまった。
私は、その会話に相槌を打ちながら、シチューをスプーンですくって口に流し込む。
美月ちは、恐らくやおやおに対して何か思う所があるのだろう。けれど、それを表に見せることは一切せず、私に寄り添って励ましてくれさえする。
彼女が何を思っているのかは私には分からない。けれど、彼女がそう押してくれるなら、私は最後まで私らしく、悪い女のままで自分を貫かさせてもらうことにする。
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