北陸地方、蟹の話

私は今福井県の温泉旅館で出稼ぎアルバイトをしている。

出稼ぎを決意した理由も福井を選んだ理由も語るには及ばないしこの駄文を読んでいるような暇な諸兄に私の口から逐一説明をするのは野暮というものだろう。

自由に想像してくれて構わない。

兎にも角にも私は今現在福井県の温泉旅館で住み込みで働いている。

そしてまたこの旅館というものが馬鹿みたいにデカい。

なんでもオーナーが戦前は内務省におり、戦後は経営コンサルタントで一儲け。

部屋の数は100をゆうに超えているし館内には朝夜問わず悠々と鯉が泳いでいる始末。

こっちは朝夜働いているのに、だ。

湯治の効果もあるのか手や顔に包帯を巻いた人もちらほら見かける。

都会から離れた田舎ということもあり従業員の人柄も鯉が泳ぐ池の水面も穏やかなもので、20代後半にもなってアルバイトをしているようなうだつの上がらない私にも優しく笑顔で接してくれていた。

いた、のだ。

私が蟹酢をこぼすまでは。

初冬の北陸地方であるため夕食のバイキングには大量の蟹が並ぶ。

死んだ蟹が。

心の弱い蟹が見れば卒倒間違いなしの蟹の死体の山の傍には勿論"蟹酢"が申し訳なさそうに鎮座しており黄土色の絵の具が如く容赦なく消費されていく。

それを補充するのも仕事のうちである為、蟹に群がる蟹食いニンゲンの山を掻き分けこう発言するのである。

「蟹酢通ります」

勿論私自身は蟹酢ではないがそんな些細な日本語の機微など、蟹を前にした蟹食いニンゲンにとっては風の前の塵に同じである。

吹けば飛ぶような私と蟹酢の奇妙なアベックを快く厨房まで通してくれる。

「すみません、蟹酢はどこですか?」

「そのみりんの一升瓶。重いで気をつけるんよ」

「ありがとうございます」

ピチョン。

溢れた。

感情かと思った。

しかしながら溢れたのは蟹酢であった。

私は蟹酢をこぼしてしまったのだ、福井県で。

恐る恐る背後を振り返る私の目と鼻の先に蟹の様に顔を真っ赤にした板長が立っていた。

私が京都駅なら板長は京都タワーといったところか。

そのクリスマスシーズン京都タワーの様な真っ赤な板長は声を震わせお決まりのあのセリフを言うのである。

「蟹酢1滴、血の1滴」

泣いて謝る私の声は無数の蟹食いニンゲンにかき消され、配膳ワゴンに縛られて処置室へ連れて行かる。

こぼした蟹酢と同量の血を抜かれるのである。

薄れゆく意識の中で私は福井へ来たことを心から後悔した。

就職していれば、地元から出なければ、100万円で売れるブルーアイズホワイトドラゴンにダメ元で応募していれば。

ジャラジャラと重硬い骨の様なものがぶつかり合う音で目が覚めた。

どうやら処置室で気を失っていたらしい。

じんわりと視界を取り戻し、次なる拷問に身構える私の目に4人の男が一心不乱に雀牌をかき混ぜている姿が映った。

どうやら福井県では血と同価値の蟹酢を賭けて夜な夜な麻雀大会が開かれているそうである。

そう、その名も「蟹酢麻雀(かにずまーじゃん)」

今夜もまた欲にまみれた蟹酢が流れる。

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