第25話 贄の王国 1 

 世界を救う、と青年は言った。


 世界はもう死にかけていた。


 多くの人が傷付いていた。何もうしなわなかった者などいない。


 誰もが心を置き去りにして、過ぎゆく時をただ虚ろに眺めて死を待っていた。


 その者たちの前で、青年は燦然さんぜんと立ち上がった。


 世界はもう死にかけていた。だがまだ死んでしまったわけではない。


 多くの人が傷付いた。何も喪わなかった者などいない。けれど、全てを喪ったわけではない。


 世界をもう一度よみがえらせよう。


 喪失の傷を新しいもので埋めるため、無理やりにでも立ち上がって未来を目指そう。


 青年は皆に手を差し伸べた。


 その姿はあまりにまぶしく輝いていた。


 青年の隣に立って、彼女はその輝きに目を細めた。長く美しい黒髪が風に乗って青年の頬をくすぐった。


「いつか必ず、世界に光を取り戻す。どれほどの時間がかかろうと、どれほどの罪に手を染めようと、必ず。」


 戦って戦って戦って、そして青年は負けた。


 青年が何に負けたのか、それは全く不明瞭だ。


 自分に負けたのだ、と青年は言った。


 世界に負けたのだ、と砂の蜥蜴とかげは言った。


 時に負けたのだ、と白の魔法使いは言った。


 人の愚かさに負けたのだ、と彼女は泣いた。


「嘘吐き」


 そう呟いて彼女は、長い黒髪を切り落とした。


 風に乗った黒髪は騒乱の都の上を流れるうちに炎の中へと消えていった。


 悪名高きにえの王国の滅亡である。



               *



 冷たい川の水で顔を洗った後、ティエラはしばしか細い流れを見つめていた。


 贄の都の付近を流れる大きな川の上流がこの小川だ。あと半日もしないうちに、一行は贄の都に辿り着く。


 柄にもないことに、ティエラは緊張していた。


 いつまでも黙っているわけにはいかないのだ。隠したままにしていても、いずれは法王の口から全てが伝わる。ならば自分から伝えた方が良いに違いない。


 贄の都はその話をするのにうってつけの場所に思えた。もしもそこで話をすることができなければ、ティエラはもう彼らの仲間を名乗ることなどできない。


 話す準備をしておかなければならない。しかし、話すべき記憶は思い出すだけでティエラの感情を不安定に波立たせた。冷静に話をすることができるだろうか。


 問題はもう一つあった。エルバだ。自分に何が起きたのか、彼は未だに理解していない。ティエラにも理解しきれていないところがある。法王からさわりは聞いたのだが、何故白の魔法使いがエルバに剣と魔法を与えたのかが解らない。


 解りたくない、と言うのが正確なところかもしれないが。


 きっとエルバは恨み、憎むだろう。その矛先がティエラに向く可能性も高い。それでも伝えなければならない。それを知らない限り、エルバの軸足はルスに置かれたまま、現実に着くことはないだろう。


「おいおい、朝っぱらから自分の美貌に見蕩みとれてんのかい?」


 ゴートがティエラの上流にしゃがみこんだ。


「身支度をするなら下流でやりたまえ。」


 ティエラが剣呑けんのんな声で言うと、ゴートは肩を竦めて場所を変えた。


 ティエラはじっと水面に視線を落とす。水の流れ、水底に張り付く藻類、光の反射。ティエラの目には全て明らかだが、それがゴートにどう映っているのかは解らない。


「私はそんなに美しいかね?」


 無性に腹が立って、ティエラはゴートに噛みついた。


「ああ、まあ……。いつまでも眺めていたいくらいには。」


 軽薄な声でゴートは言った。彼の内側で、源素が奇妙な律動を刻んでいる。


「なあ、この旅が終わったら、あんたはどうするんだい? もしよければ、オレと――」


「ほざけ。」


 俄かに湧き立った怒りを、ティエラはそっくり言葉にした。


「はは! コワいコワい。美人が台無しだぜ。」


 ゴートは肩をすくめると、乱暴な手付きで顔を洗い始めた。


 飄々ひょうひょうとした態度と裏腹に、彼の内心がひどく荒れているのを、ティエラの目は正確に映していた。


 ティエラは少し後悔した。ティエラの感情がさざめき立っているのは、必ずしも彼の責任ではないのだ。


「自分の顔の造形など見たこともないさ。君からどのように見えているのか、私にはよく解らない。」


 ティエラはぼそりと呟いた。ゴートは水の滴る顔を上げて、怪訝けげんの色を浮かべる。


「ああ、そういや、鏡とか水面に映る像は左右反転してるしな。まあ、そんなのは誰でも同じだって。結局、人間同士解り合うなんて無理ってこった。相手に自分がどう見えているのかすら、オレらにゃ解らねえんだからよ。」


 ゴートは投げやりに言うと、小川の流れに顔を浸けた。彼の吐息の塊が水面へと立ち昇る様を、ティエラは苦々しく見つめた。


「知っているよ、そんなことは……」


 呟きの生んだ空気の振動は、呼気の泡の弾ける音にかき消されて、ゴートの耳に届くことなく消えた。



               *



 贄の都を視認した時、フューレンプレアが感嘆かんたんの吐息を漏らしたのがエルバにははっきりと伝わった。


 彼女だけではない。ゴートもマッドパピーも、ティエラですらも驚きを隠し切れていなかった。


 贄の都は緑に埋もれていたのである。


 道を舗装する煉瓦の隙間と言う隙間から苔が盛り上がり、草が顔を出している。


 建物の壁もみっちりと苔に覆われていて、それを土台にした植物が重力に逆らい幹を九十度曲げて、空に葉を広げている。


 建物の屋根の上に積もった土から生えた木は、太く長い根を建物に食い込ませ、傾いた状態で不動の姿勢を保っている。


 足を踏み出す度に、盛り上がった苔に足が埋もれる。歩いてきた道を振り返れば、苔は踏まれたことにもめげずに再び盛り上がっていた。


 建物という建物が、緑に侵食されている。


「すごい……!」


 フューレンプレアの声は彼女の心が浮き立っている様子を如実にょじつに表していた。


「ああ。……確かに、すごいな。」


 ゴートもまた圧倒されているらしかった。


「これが、これが植物? うわあ、不思議! サンプルを採っておかなくっちゃ!」


 マッドパピーはそこら中を走り回っていた。オオアシの片割れ、ニトに満載まんさいした計測機器を片っ端から引っ張り出して、様々な数値を測定している。


 ニトは迷惑そうに長い尾を振った。


「何か、妙だ……」


 ティエラが足を止める。彼女だけが、この街に足を踏み入れて以来ずっと浮かない顔をしていた。


「源素が、濃すぎる……」


 突如、地面が大きく揺れた。苔に覆われた地面が脈打ち、こずえが不吉に音を立てた。


「な、何ですか?」


 フューレンプレアが悲鳴に近い声を上げた。地面が五人と二匹を囲むように持ち上がり、押し寄せて来る。


「ああ、驚かないでね。」


 マッドパピーは計器をのぞき込んで、困ったように笑った。


「多分だけど、この緑、丸ごと一体のヒトハミだよ……」


 直後、緑が濁流だくりゅうとなって彼らを包み込んだ。


「これが、法王様の仰っていたヒトハミの王……イミル?」


 フューレンプレアが即座に守護しゅごを展開する。辛うじて五人と二匹は死を免れた。


「オオアシの荷を外せ! 二人ずつ騎乗して、私に付いて来い!」


 ティエラは早口で指示を出した。ゴートはすぐさま荷を固定している紐を切断し、乱暴にオルの荷をき散らした。


「エルバ、乗れ!」


 ゴートに言われて、エルバはオルに飛び乗った。絶妙に固定されたくらが余計な力を吸収して揺れる。


「プレアさん!」


 エルバはフューレンプレアに手を差し伸べた。フューレンプレアは首を横に振る。


「私が集中力を切らすと、守護が……」


「いいから乗れ!」


 ゴートの叫びはフューレンプレアに向けられたものであると同時に、ニトの載せていた計測機器を乱暴に放り出されて抗議の声を上げるマッドパピーに向けられたものでもあった。


 ゴートがマッドパピーをニトに乗せて自身も綱を取り、ティエラがフューレンプレアを抱え上げてオルの鞍に押し込むのと同時に、守護が破れた。


「来い!」


 ティエラは僅かに残された空間を駆け抜ける。エルバは必死にオオアシをってその後ろに食らいつく。


 凄まじい勢いで背後に流れ去ってゆく景色の中、オルの走る邪魔になるものは不思議と意識に引っ掛かる。そのことごとくを避けた自分の集中力にエルバは驚いた。


 四方八方から伸びる緑の腕を、ティエラは素早くかわし、あるいは切り裂いて進む。フューレンプレアの撃ち出した炎が彼女を援護する。閉じる穴の口を延々えんえんい潜る。


 緑のトンネルから出ると、まぶしい光が目を焼いた。エルバの目がくらんだ瞬間、オルがバランスを崩した。浮遊感に襲われる中、オルの巨大な脚が苔の中に沈み込んでいるのをエルバは見た。


 固いものがぶつかるような音がした。フューレンプレアがまとった守護が地面に激突した音だった。


 フューレンプレアはよろめきながらも大過たいかなく着地し、エルバは接地直前にティエラにすくい上げられた。


「オ、オルが……」


 三半規管さんはんきかんへのダメージを隠し切れず、エルバは座り込む。


 オルは埋もれた足を引き抜こうと暴れている。長い尾を振り回しているので、迂闊うかつに近付けそうになかった。


「オオアシはヒトハミの捕食対象じゃないから、大丈夫だよ。」


 マッドパピーは呑気な声でそう言った。


「大丈夫ではありません。あんなに暴れては体を傷めるかもしれません。なにより、怖がっています!」


 フューレンプレアはふらつきつつ立ち上がる。


「え? ダメ?」


 マッドパピーは不思議そうに首を傾げた。


「エルバ、剣貸せ。」


 ゴートが差し出した手に、エルバは白枝の剣を渡した。エルバの平衡感覚はまだ戻っていなかった。


 ゴートは苔の生えた地面の動きを注視しつつ、拘束されたオルの足に近付く。


 ずるり、と地面が動いた。


 オルの足がますます深く沈み、イミルの体の中心へと引きずり込まれる。


「あれ? もしかして、オオアシを捕食しようとしていないかい?」


 マッドパピーが興味津々に身を乗り出した。


「ゴート君! どうなるか見たいから、そのままにして!」


 マッドパピーの非道な要求をゴートは省みなかった。


 白枝の剣に地面が断ち切られ、オルの足が自由になった。


 瞬間、イミルは形を変え、巨大な手のような構造を形成した。


 オルは体勢を立て直すなり逃げ去り、ゴートは緑の指の抱擁ほうようかろうじて逃れ、転がるようにエルバたちのそばに戻ってきた。


「オル、逃げちゃいました……」


「恩返しとか、そんなことにはならんわな。……それより、何なんだ、コレ。」


 ゴートは荒い呼吸を整えつつ呟いた。


「ヒトハミなのは間違いないね。ただ、こんなのが自然にできるとは思えないなあ。ヒトハミはある程度源素げんそを吸収すると他のヒトハミに食べられてしまうはず。ただ、例外はある。」


 言われずとも、エルバたちはその例外を知っていた。他でもないマッドパピーが作り出していた巨大なヒトハミ。


「これはキメラちゃんよりすさまじいけどね!」


 マッドパピーが言ううちに、苔の大地が再び盛り上がり、エルバたちに向けて崩れ落ちて来る。


「納得できねえ! これのどこがヒトハミだ!」


「納得しなくてもいいから動け!」


 逃げまどいながら喚くゴートに、ティエラが冷静な助言を送る。


「ヒトハミって動物型のイメージがあるからねえ! これって一体何の形なのかな? そもそも一個体と言っていいのかな? 疑問が尽きないや!」


 いつの間にかマッドパピーはエルバたちよりもはるか後方に退避して、呑気にヒトハミの論評をしていた。


「これほどまでに成長するってことは、キメラ一号よりよほど長く生きているに違いない! すると、例のヒトハミの大絶滅を超えて生きていることになるね。これはまた、どういうことかな? ティエラちゃん、ディスカッションしようよ!」


「今忙しい! 後にしてくれ!」


 ティエラは伸縮するイミルの拳をひらひらかわしながら最前線に留まっていた。


 源素に引き付けられるという性質は立派に残っていると見えて、イミルの攻撃はティエラに集中している。彼女よりも後方にいる限り、エルバたちは比較的安全だった。


 ティエラは紙一重で攻撃を躱し続けた。


 彼女の目はイミルの体内の源素の流れを捉えている。そのため、実動以前に動きを見ることができた。そして同時に、イミルの源素の流れが世界から全く独立していることも看破かんぱしていた。


 万物は源素の流れの一部であり、常に源素が流入し、また流出する動的平衡どうてきへいこう状態を維持している。だが個は世界と繋がっているわけではない。その間には膜があり、個と世界を分けている。


 だがヒトハミはその膜を持たない。彼らは世界と繋がっていて、個を持ち得ない。源素の濃縮が過ぎて滞留し、疑似的な個を得る個体もまれに存在するが、そうなる前に他のヒトハミに食われて間引かれるのが普通だった。


 だがイミルは世界との間に紛れもない膜を持っていて、完全なる個を確立していた。それでいてヒトハミとしての性質を有して貪食どんしょくを続け、凄まじい量の源素を濃縮している。


 ティエラの脳裏に、かつての同志の薄ら笑いが閃いた。


 ティエラはすでに理解していた。あの男がエルバたちをこの場所に遣わしたのは、この異常なヒトハミを始末させようとしてのことだったのだろう。人為的に作られたらしい、このヒトハミを。


「あの野郎……!」


 ティエラは小声で毒吐どくづいた。


 まんまとあの男に乗せられたようだ。


 エルバたちが十分に離れたのを確認すると、ティエラは一足飛びにエルバたちの元まで後退した。


「参ったな。ああも肥大化していると、非力な私では決め手に欠ける……。」


 ティエラは苦い声で言ったが、マッドパピーはごく気楽な様子だった。


「問題ないさ! エルバ君、あの特別な嘆願術たんがんじゅつで、ドカンとやっちゃってよ! 僕のキメラ二号のように! 僕の、可愛いかった、キメラ二号のように!」


 マッドパピーにそう言われて、エルバは驚いた。


「し、知っていたんですか?」


 降り注ぐ瓦礫がれきを守護の力をもって払い除け、キメラ二号を焼き払ったのが自分であることを、エルバは隠してきたつもりだった。


 少なくともゴートとマッドパピーには。


「知っていたともさ。むしろ、どうして気付かないと思っていたのか解らないねえ!」


「お前ら嘘が下手すぎだって、何度言ったら解るんだ。」


 ゴートが呆れた様子で息を吐いた。エルバは赤面する。自分が隠しているつもりだったことが実は見抜かれていたというのは、思いのほか恥ずかしいことだった。


「ではエルバ、奴を――」


「無理です。」


 エルバは答えた。


「あれは嘆願術じゃありません。僕にもよく解っていませんが、三つの願いを叶えるとあいつは僕に言いました。既に三つ、叶えてしまっています。」


 後ろ暗い気分でエルバは言った。ティエラにも、フューレンプレアにさえも、エルバは全ての情報を明かしていなかったのである。


「え? あいつ? 三つ?」


 フューレンプレアはエルバの奇跡が有限だと知らなかった。


「だって君、まだ二つしか……」


 ティエラはエルバの奇跡が使い果たされていることを知らなかった。


「まだティエラさんに出会う前ですよ。僕は一つ目の願いで、ヒトハミを絶滅させました。」


 ゴートが絶句し、マッドパピーがひっくり返らんばかりにのけぞった。


 誰にも全てを伝えていなかった。結局のところ、エルバは誰のことも信じていなかったのだ。


「だから、僕には何もできません……」


 ずっと仲間たちに庇われ助けられてここまで来たくせに、仲間のことを疑うばかりで、いざという時には役に立たない。自分の無価値さにし潰されそうになる。仲間たちからの罵詈雑言に備えて、エルバは唇を噛んだ。


「のんびり構えている場合ではなさそうだ。」


 ティエラがイミルの巨体を振り仰いだ。この短時間に、それは著しい変化を開始していた。


「ど、どうして急に?」


 フューレンプレアが上ずった声で言う。


「まあ、外敵にしろ獲物にしろ、変化するのに他者は重要な要素だからねえ。僕らが原因なんじゃない?」


 マッドパピーはどこか皮肉を含んだ声で言った。


 イミルは次々と形を変えるうち、動物的な構造を再現しつつあった。


 オオアシの脚に似ている。そう思って、エルバはゾッとした。


 これは歩き出そうとしているのではないか?


「ここで倒さねば大変なことになりそうだが……手段がないな。何か思い付くか?」


 ティエラはエルバを除いた三人に視線を向ける。


「ふむふむ……。」


 マッドパピーはもったいぶった動作で、手の中に残った唯一の観測機器を緑の大地に向けた。源素を可視化する機器である。


「ヒトハミって、動物に似た姿をしているようでいて実は動物と全く違う。形ばかりの目や耳があっても、それから得られる情報を伝達し処理する器官が存在しない。だから視覚や聴覚が働いていない。ところがキメラちゃんは視覚や聴覚を発達させた。成長と共に複雑さを増して、普通のヒトハミにはない、ハリボテじゃあない器官を生み出した。」


 マッドパピーは計器を覗き込みながら、訥々とつとつと舌を動かした。


「やがてその特殊な器官がキメラちゃんの源素の流れの中心になっていった。人間で言うと、脳さ。そこを攻撃したらいいんじゃないかな。」


 なるほど、と呟いてティエラは目をすがめた。


「ちなみに、どこですか?」


 フューレンプレアが問うと、マッドパピーは一点を指さした。


 距離が離れている上に対象は動いている。増してマッドパピーの指がぷるぷる動いて定まらないので、どこを示しているのか解らなかった。


「私が突いてみよう。」


 ティエラが進み出た。


「場所、解るの?」


「ああ。見えている。」


 ティエラの目が怪しく輝いた。


「いくらあんたでも、大丈夫かい?」


 ゴートの懸念に、ティエラは気楽そうに肩を竦めて見せた。


「絶対に大丈夫、とはとても言えないな。プレア、強化を。」


 フューレンプレアは硬い表情で頷いて、ティエラの言葉に従った。ティエラは一度深呼吸をすると、唐突にエルバを振り返った。


「君に話さなければならないことを、私はまだ話していない。あれを倒したら必ず話す。話したいんだ、私の口から。だから……」


 ティエラはエルバの右頬に手を添えて、右の目を親指でそっとなぞった。


「どうか、誰も死なせないでくれ……。」


 懇願するようにティエラは言った。凛と強い彼女に隠れていた弱い彼女が顔を覗かせる。


 その対象が自分ではないことを、エルバは何故か知っていた。


「お前、そこにいるんだろう?」


 彼女の目はエルバをとらえているけれど、何か違うものを見ていた。


「ティエラさん?」


 既にティエラは決然とした強さをみなぎらせて身をひるがえしていた。


 その華奢きゃしゃな背中は最前までの弱々しさが嘘のように、堂々としている。


 颯爽さっそうとした後姿を見て、エルバは奇妙な焦燥しょうそうに襲われた。行かないでくれと叫びそうになるが、もう声は届かない。


 身体強化の嘆願術を受けたティエラは彼女を包み込むイミルの指の間をすり抜け、巨躯きょくの上を駆ける。イミルの身体はグニャグニャと体の形を変えてティエラの疾走を妨げる。


「ねえねえ、どうしてティエラちゃん、あんなに真直ぐ目標に向かえるの? 彼女、源素の流れとか見えてるの? 誰か知ってる?」


 マッドパピーはいついかなる時も好奇心に忠実である。その好奇心に付き合う余裕は誰にもなかった。


「来るぞ!」


 ゴートが鋭く警戒を促した。エルバたちとて安全ではないのである。緑の大地が体の形を変え、腕のような構造物をフューレンプレアへと向けて伸ばす。


「強化の嘆願術の元を断とうとしているのかな? 状況を観察して、対応する知恵を持っているっていうこと? ねえ、あれってそういう行動だと思う? ねえ、ねえ、どう思う?」


「うるせえ、黙ってろ!」


 ゴートはマッドパピーを押しのけて前に出て、皮袋から取り出した源素の塊を地面にいた。イミルは戸惑ったように動きを鈍らせる。


「エルバ!」


 ゴートの声に、エルバは反射的に応じた。ゴートが差し出した白枝の剣を受け取って踏み込み、大地の腕に斬り付ける。


 剣は不条理な切れ味を発揮し、刃の届くはずのない距離までも不可視ふかしの圧で以て切断した。切り落とされた大地の腕は霞となって消えてゆく。


 ゴートがエルバにガッツポーズを送る。エルバは想定外の切れ味に目を丸くする。


「ティエラ、行けえ!」


 ティエラはその目でイミルの身体の中心点を見定めていた。


 マッドパピーが指摘するまで気付かなかったが、それは紛れもなく弱点だ。


 強化された身体能力に任せてのたうつ巨躯の上を飛ぶように駆け、行く手を阻む体を切り裂く。いつしかいばらのような植物がティエラを囲んでいた。この短時間に、緑の大地は状況に最適化した形態を探して変化している。


 特殊な視覚の生み出す先見と運動能力を最大限に駆使して、植物にあるまじき鋭敏な動きで行く手を阻もうとする茨をいなし続ける。極限まで高めた集中力は、短時間でティエラの精神を削り取った。


「く!」


 あと一歩のところで、ティエラは茨に足を取られた。


 バランスを崩しつつも、ティエラは槍を投擲とうてきした。


 槍は鋭く直線を描き、狙い違わぬ位置に突き刺さった。イミルは動きを止めなかった。


 茨のつたが次々とティエラの体にまとわりつき、身動きを封じる。


 体中の皮膚に棘が食い込み、締め上げられた骨がきしんだ。血と共に熱が流れ出し、体の表面に広がって冷めてゆく。


「ティエラ!」


 ゴートが焦燥の声を上げる。


「そこが、中心だ……!」


 その言葉を最後に、ティエラの姿は茨に呑み込まれて消えた。


 エルバは双眼を見開いて息を呑んだ。フューレンプレアは動じない。即座に灼熱しゃくねつの火炎を撃ち出した。


 イミルの体を問答無用に溶かして炎が走る。突き立ったままのティエラの槍へ到達し、緑の大地の体を見事に焼き切った。


「やった!」


 しかし緑の大地は倒れなかった。ティエラを閉じ込めた茨の檻も健在で、ますます固く引き締められている。


「そ、そんな……」


 フューレンプレアは青ざめる。


「惜しい……。ちょびっとズレたみたい。」


 これまでどんな危機にも動じなかったマッドパピーの上擦うわずった声が、エルバたちに絶望感を植え付けた。


 イミルはついにオオアシの巨大な脚を一対完成させ、それを以て贄の都から体を引きはがし、全身を持ち上げた。


 体毛のごとく着生した木々が次々とがれて落ちる。


 巨大な脚が踏み出した一歩は広く大地を揺るがした。


 その巨躯がただ歩くだけで、エルバたちは立っていられなくなった。


 地面に這いつくばったまま、エルバはし掛かって来る巨体を呆然と見上げた。

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