第26話 贄の王国 2 

 気が付けば、エルバはいだ湖の上に一人佇たたずんでいた。


 白い花をつけた白い木が冷たく湖面を囲んでいる。


 澄み渡った湖のはるか深い水底みなぞこには緑色の輝きが渦を巻いていた。


 渦の中心に、怪物に踏み潰されんとするエルバたちの姿が滲んでいる。


 湖の底から白いものが浮かび上がる。


 エルバは妙に静かな心でそれを見つめていた。


 白の魔法使いが湖面を通過すると、それに追従するように水が盛り上がり、空中に優美な椅子を織り上げた。


 水の椅子に腰かけて、白い魔法使いは色のない瞳でエルバを見下ろし、からかうように問いかけた。これで終わりか、と。


 エルバは答えなかった。


 あと一秒もしないうちにお前たちは皆、あれに踏み潰されるだろう。白の魔法使いは笑みを含んだ声で言う。この幕引きで、構わないのか?


「良いわけがない。」


 エルバは答えた。


「こんな結末で、良いわけがない!」


 そうだろう、そうだろう。白の魔法使いは頷いた。だがもう遅い。願いは使い果たされた。


「あのヒトハミを倒して僕らを助けてくださいと願ったら、あなたは叶えてくれますか?」


 エルバが問うと、白の魔法使いは目を細めた。湖の底で揺蕩たゆたう流れがその瞳に映り込んで緑に輝く。完璧なまでの美を表するその顔は、見知った人のそれとよく似ていた。


 できるよ。白の魔法使いは事も無げに言った。


「では――」


 だが、やる必要がない。エルバの言葉を制するように、白の魔法使いは冷然と告げる。


 願いも祈りも世に溢れている。誰もが身勝手に祈り、願い、一つの望みすら聞き届けられずに朽ちてゆく。君は三つも願いを叶えたではないか。


「三つが三つ、緊急避難ではありませんか! 数に入りませんよ!」


 白の魔法使いの目が赤い光を帯び、硬質な眼光で以てエルバを射竦めた。


 もはや意地さえ張れなくなったか。無力。無能。役立たず。白の魔法使いの加護がなければ人並みの力すらないくせに。熱く静かに、彼は言う。


 延々と紡がれる罵詈雑言を、エルバは黙って受け止めた。白の魔法使いはひとしきりエルバを罵ると、ふと眼光を和らげて口元に優しげな笑みを浮かべた。


 いいだろう。最期まで君を庇護してやろうではないか。君の仲間たちの命をもって、君を助けてやろう。君は英雄としてカテドラルに戻り、安泰の内に一生を終えるだろう。


「違う。仲間を助けて下さい!」


 願いにはにえが必要だ。白の魔法使いは意地の悪い声でそう言った。


 仲間を贄に差し出すのなら君を助ける。だが、仲間までも助けるならば、一体何を差し出すのだ?


「……なんでも差し出しますよ。僕に所有権のあるもの全て、あなたに差し上げます!」


 エルバは叫んだ。


 命でも? 白の魔法使いは問うた。


 エルバは歯を食いしばって頷いた。


 瞬間、体から力が抜ける。何か大切なものが零れ落ちていくような空虚な感覚がエルバを襲った。恐怖が心を満たす。すぐ傍にある虚無の底知れない冷たさに、忌避感が突沸とっぷつする。


 馬鹿な話だ、と白の魔法使いは呟いた。


 仲間たちはどうせ死ぬ。せめて自分だけ助かる選択肢を躊躇ためらう必要はない。撤回てっかいするなら今のうちだ。


 這いよる死に恐怖し震えるエルバの心に、心地よい声で紡がれた甘い言葉が滑り込む。


 不思議と心は動かなかった。逃げようとする弱い心を、何かが重く繋ぎ留めて逃がそうとしないのだ。


「仲間を助けて下さい。お願いします。」


 エルバは上ずった声でそう言った。


 足がひどく震えている。


 血流が滞っているのか、手足の先が冷たくなり、頭がくらくらと揺れていた。それなのに目頭だけが熱い。心臓が存在を主張するように、早く大きく脈打った。


 白の魔法使いは色の消えた目でじっとエルバを見つめていた。やがて溜息を一つこぼして、静かに言った。


 あの日から君は、多くのものを失い続けた。純真さはその最たるものだろう。君は他人を信じなくなり、そんな自分を恥じている。


 だが、君は気づいているだろうか。君の願いは三つが三つ、そして四つ目に至るまで、他人のためのものだった。聞き届けられなかった願いも含めて五つ、君は他人のために願った。


 他人を信じられないと言いながら、君は他人のために願いを消費した。数に入らぬ緊急避難が聞いて呆れる。君は心からの願いで他者を救ったのだ。


 己の命を惜しみ、無様に震え、死に怯え、それでも他人のために己の命を差し出すその姿。なんと異常で愚かで、美しいのだろう。眩しすぎて、見ていられない。


 白の魔法使いが指を鳴らした。瞬間、エルバは浮遊感に襲われた。


 湖面こめんが本来の性質を思い出したようにエルバの足を支えるのを止め、さらには渦を巻いてエルバを水底へと引きずり込む。


 沈みゆくエルバを見送る白の魔法使いの目には色もなければ温度もない。


 自分でやりなさい。君にはもうその力があるはずだから。


 突き放すような優しい言葉が、エルバの脳にゆっくりと染み渡った。



               *



 目を開く。


 空を覆う巨大な脚が落ちて来る。


 エルバは白い木々に囲まれた湖のように凪いだ気持ちでそれを見上げた。


 視界の全てを埋め尽くす圧倒的な質量は、触れぬうちから体を圧迫した。


 刹那せつなのはずの時間は奇妙に間延びして、エルバの頭上に留まっている。圧縮された時間の中で、エルバはゆっくりと剣を振り上げる。


 右目が燃えるように熱い。眼球に去来きょらいした確信を携えて、エルバは白枝の剣を掲げた。


 呼吸が体全体に行き渡り、意識が筋繊維きんせんいと絡み合う。軟弱な情けは深く沈み込み、仲間に向けた利己心が静かに心を満たす。未来を掴み、手繰り寄せる。眼球の内側に世界の全てが広がっていた。


 止めていた呼気を吐き出すと同時、エルバは剣を振り下ろした。


 この旅で学んだ全てを乗せた、稚拙な一撃。


 空が開けた。


 頭上に迫っていた怪物の脚が消え去り、雲の浮かぶ青空が見えた。瞬きの内に雲さえ消えて、頭上の空域だけにぽっかりと青い空が浮かんだ。


 怪物の残滓ざんしが緑の帯となって空に広がる。


 眼球の中で荒れ狂っていた熱が、急激に冷めてゆく。熱とともに何かが溶けて脳から剥がれ落ちるような喪失感がエルバを襲った。目の前が白く染まり、平衡感覚が失われる。


「え?」


 事態が呑み込めず自失していたフューレンプレアは、エルバが倒れる音で我に返った。


「エルバ?」


 フューレンプレアはエルバのかたわらに屈む。反射的な動きだった。ゴートとマッドパピーは未だ忘我ぼうがから回復せず、雲の代わりに緑光の川が横たわる空を見上げている。


 フューレンプレアは必死にエルバの名を呼んで肩をたたいた。エルバは眠っているように安らかに目を閉じていた。


「ティ、ティエラ!」


 フューレンプレアは反射的にティエラの姿を探した。だが、彼女はいない。


 フューレンプレアの声が、ゴートの時間を再起動させた。


「すまん。あとは任せる。」


 ゴートはフューレンプレアに一言残して、怪物からがれ落ちた植物の残骸ざんがいへと向けて駆け出した。


「ゴート、待って! ど、どうしましょう? どうしましょう? マッドパピー!」


 フューレンプレアはすっかり動揺していたが、自分が冷静でないことを把握できるだけの冷静さと、誰か冷静な者の判断を仰いだ方が良いという判断力を残していた。


 しかし、最後に頼ったマッドパピーは、彼女とはまた違う方向に動転していた。


「何だ、今の! どういうこと? とにかく数字を集めなきゃ! エルバ君? いいよ、そんなの放っておいて計測だ! とりあえず、まだ使える計測器を拾って来なくっちゃあ!」


 半狂乱のマッドパピーを見て、フューレンプレアの気分は急激に落ち着きを取り戻した。


 フューレンプレアはすべきことを整理する。仲間の無事と、安全の確認。


 エルバは呼吸も脈も落ち着いている。本当に眠っているだけのようだった。


「ティエラは……」


 と呟いて、フューレンプレアはふと気が付いた。ゴートはティエラを探しに行ったのだ。


 一度立ち上がって周囲を見回し、とりあえずの安全を確認すると、フューレンプレアは再びエルバの傍らに膝を着いた。


「エルバ、大丈夫ですか? しっかりしてください。」


 初めて会った時も、こんな風に体を揺さぶって、必死に言葉をかけた。あの時もエルバは本当にボロボロで、こんな風にゆっくりと目を開いた。片方の目は夜空のようで、もう片方の目は虹のような色をしていた。くるりくるりと色を変える、不思議な目。


「あら?」


 薄く開いたエルバの目は、どちらも同じ、綺麗な夜空の色だった。


 茫洋ぼうようとした目にやがて光が宿り、焦点を結ぶ。何度か瞬きをして、エルバはのろのろと起き上った。


「……プレアさん?」


 エルバは自分の右目をごしごし擦る。寝ぼけたような表情はすぐに消え、慌てたように身を起こす。滑らかな動きを見て、フューレンプレアはまた安堵した。


「よかった。怪我はありませんか?」


 フューレンプレアに問われて、エルバは自分の体を確認する。何かが抜け落ちたような気怠さがまとわりついているが、傷らしきものはない。


「大丈夫そうです。」


 正直に答えると、フューレンプレアは深く安堵あんどの息をいた。


「良かった……。本当に良かった。」


 エルバはそっと空を見上げた。緑の光の筋が揺らぎながら果てへと続いている。フューレンプレアはエルバの視線を追って、空にせせらぐ緑の川を視界に収めた。幻想的な光景が、旅の終わりを告げていた。


「……本当にあなたが救世主だったのですね。」


 エルバは右の目を押さえた。あの瞬間に訪れた、世界の全てが見えるような万能感。あれは危機にひんしたエルバの感覚が受容力と集中力を極限まで拡大した結果だったのか、それとも……。


「違うんじゃないですかね。」


 エルバは小さな声で呟いた。フューレンプレアはきょとんとした顔でエルバを振り返る。 


「他の人たちは、無事ですか?」


 エルバは曖昧に笑って話を逸らした。


「ゴートがティエラを探しに行っています。マッドパピーはそこに――」


 と指で示して、フューレンプレアはマッドパピーがいなくなっていることに気が付いた。恐らく計測器を回収しに贄の都に戻ったのだろう。フューレンプレアは呆れて溜息を吐いた。


「僕たちもティエラさんを探しに行きましょう。」


 エルバは素早く立ち上がると、贄の都跡地へと駆けてゆく。その足取りはことのほかしっかりしていた。フューレンプレアはまた安堵した。




 二人が贄の都の入り口に到達した時には、ティエラはすでにゴートとマッドパピーに救出されていた。マッドパピーが拾い集めた計器を起動して彼女の位置を特定したのである。


 ゴートに抱えられた彼女は、無残な姿になっていた。皮膚は衣装と共に引き裂かれ、左腕は半ばちぎれてぶら下がっている。


 それでも彼女は生きていた。


「ティエラ……」


 フューレンプレアは青ざめる。


「す、すぐに治療を――」


「……ああ。」


 緑に輝く目をエルバに向けて、彼女は穏やかに口を開いた。


「それが君の本当の目なのだね。あいつの目よりずっといい。」


 エルバが何かを言いかけた時、マッドパピーが奇声を上げた。


「まずい! ヒトハミが大挙してやって来る! きっとイミルのせいで流れが荒れてるんだ! どこか屋内に隠れた方がいいよ!」


 フューレンプレア達は年月に朽ち、イミルの巨体によって崩れた街を見回した。ほとんどの家が破壊されていて、身を守るのには適さない。丁寧に物色する時間もなかった。


王城おうじょうに……」


 ティエラは苦しげな呼吸の合間に呟いた。


「でかい建物は勧めないぜ。構造を把握できねえから、どこからヒトハミが入り込むか……」


 ゴートが切羽詰まったように答えた。


「小部屋が多いし、廊下の造りは十分に複雑だ。……上層階なら安全だろう。連れて行って欲しいんだ。私を、王城まで……」


 ティエラの声はとても静かだったが、有無を言わさぬ響きがあった。この時、誰もが心のどこかで悟ってしまった。


 きっと彼女と共にカテドラルへ戻ることはできないのだ、と。



               *



 王城は荘厳そうごんではあったが装飾は控えめで、質素と言っても良い造りだった。足を踏み入れて、エルバは大いに戸惑った。


 民を虐げた王の居城と言う情報と現在の廃墟がどうにも結びつかない。


 もっと怨念に塗れたおどろおどろしい建物を想像していた。しかしその建物は、年月の経過により風化しているだけの、ただの廃墟だった。


 天窓から差し込む光が降り積もった年月を燦然さんぜんと輝かせていた。


 この建物からは暗い歴史の臭いがしない。石と石の継ぎ目からは温かいものさえ感じられた。


 開けているのだ。自然光をふんだんに取り入れ、風通しも良い。


「ヒトハミが植物を食べてる……」


 二階の廊下の片側に並ぶ大きな窓から外を見て、マッドパピーが呟いた。フューレンプレアは物悲しい表情で、群がるヒトハミに食い散らされる植物を見つめていた。


「入り込んできませんかね……」


 エルバは不安を口にする。開放感あふれる建物故に、ヒトハミの侵入は容易に思われた。


「まあ、大丈夫だとは思うぜ。断言はできねえが。」


 自分たちの歩いて来た道筋を振り返ってゴートは言った。


「問題は帰りだ。すっかり囲まれちまったからな。脱出するのが多少手間だぜ。」


「それなら問題ないはずです。イミルを倒したのですから、ヒトハミは消えるはず、です。」


 フューレンプレアは中途半端な笑顔でそう言った。自分自身に言い聞かせているようだった。


 ティエラは薄く開いた目で王城の様子を見つめている。時折、か細い声で道を指示した。


「悪いね。」


 静かな謝罪は、自身を運ぶゴートへと向けられたものだった。


「軽いぜ。」


 ゴートは奇妙に抑えた声で答えた。だろうね、とティエラは苦笑した。


 マッドパピーははぐれない程度の自由さで王城を動き回っていた。


「ここは書庫だったのかな?」


 足を止めて覗き込んだのは随分と中が広い、窓のない部屋だった。沢山の棚が倒れて折り重なり、降り積もる年月の中に沈んでいる。


 数冊の本がほこりと一体になって床に散らばっているだけで、広い書庫を埋めるほどの本は見当たらなかった。


「分断の王は焚書ふんしょも行っていますから……。」


 フューレンプレアは険しい表情をして腕をさすった。この王城が世界の中心に座した時代が歴史を分断したのだと、彼女は教えられてきたのである。


「どうだろう?」


 マッドパピーは埃を舞い上げながら部屋に踏み込むと、床に転がった本をそうっと拾い上げた。表紙をめくると複数のページが脱落して床に戻った。


「確かに本はない。けれど、本以外のものを置いた様子もない。変だよ。」


「……昔、ここには本がずらりと並んでいたよ。」


 ティエラがそっと呟いた。


「当時は紙の本なんて時代遅れだった。だが、時代の流れと共に記録媒体を介して本を読むための技術が廃れていった。あの人はその流れに先んじて、紙の本を集めた。君たちの言う歴史の分断を防ぐためだったのだろうな……。」


「ティエラ?」


 フューレンプレアは目を丸くしてティエラを見た。


「……行こう。もう少しだ。」


 ティエラは皆を促しつつ、茫洋とした目を周囲に向ける。彼女の緑色の目は堆積した時を見透かしてどこか遠くを見つめているようだった。




 ティエラの案内に従って辿たどり着いたのは、恐ろしく広く、天井の高い部屋だった。


 部屋の二面は高さと広さを存分に活用した大窓になっていて、崩れた廃墟はいきょの街が見渡せた。


 かつては美しい織物のカーテンに縁どられたガラス窓だったのだろう。空から注ぐ光を受ける窓から美しい都が見渡せたのではないか、とエルバは思った。


 今は無残に割れて朽ちたガラスに、砂埃すなぼこりで化粧されたぼろ布が貼り付いただけの、寒々しい窓になっている。


 ぼろぼろの絨毯が伸びる先に、床がやや高くなった場所があった。高床の上には立派な椅子が二脚。うち一脚は半壊状態で転がされていた。


 その二脚よりも手前側、高床の下にもう二脚の椅子が置かれている。入り口からは高床の下の二脚が高床の上の二脚を挟む形で並んでいるように見えた。


「……ああ、帰って来た。」


 ティエラが呟いた。


「二度と戻ってくるつもりはなかったのに。」


 ティエラはゴートの胸を押して、降ろすように促した。


 彼女は這うように部屋を横切って、高床の上へと辿り着くと、倒れた椅子を苦労して立て直した。誰も手伝おうとしなかった。何故だか手を出してはいけないような気がした。


 背もたれが折れた椅子をあるべき位置に戻すと、ティエラはその傍らにある、もともと倒れていなかった方の椅子に腰を下ろして、深い息を吐いた。


「……懐かしいな。こころざしを同じくする者たちがこの場に集まり、未来を誓い合った。……二百年も前のことだ。そして百年前、私はここで彼らと別れた。一人きりになって、ずっと彷徨さまよっていた。」


 独り言のようにティエラは言う。エルバたちはただ黙って、彼女の言葉の意味をし量っていた。


 ティエラはふと我に返ったようにエルバたちに目をやって、静かな声でこう言った。


「私はティエラ。かつてこの地を統治し、今は分断の王と呼ばれる男の、妻だった。」

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