第22話 霧の国ルス 

 さかのぼること、およそ百年。


 滅びゆく世界の片隅で、砂の蜥蜴とかげは夕日を眺めていた。


 白の魔法使いもまた夕日に視線を注いでいる。全ての光を弾くがごとき銀の髪も、色彩の定まらない双眼も、夕日と同じ色に染まっていた。


「かくして世界は滅ぶのですね。仕方のないことです。これは人々の選択の果てに行き着いた結末なのだから。粛々しゅくしゅくと受け入れましょう。」


 白の魔法使いは視線を砂の蜥蜴へと転じ、受け入れるのか、と問うた。


 彼の頭髪は赤から銀へのグラデーションをていし、目は黄昏たそがれと夜とを同時に映した。


「私も色々と努力はしたのですよ。式を弄って栽培可能な穀物をつくりましたが、これはむしろまずかった。共栄帯きょうえいたいと言う腹案もあるのですが、これはただ人類滅亡の速度を緩めるだけで、結果は何も変わりません。いずれは滅びる。結局、私には根本的に問題を解決する案は浮かびませんでした。」


 砂の蜥蜴は己の無力さを嘲弄ちょうろうする。


「ヒトハミを改良してエネルギータンクにする試みもしたのですが、手の付けられない化け物になってしまいました。まあ、エネルギータンクにはなっていますが、あれはむしろ滅亡を助長しているようなところがありますね。……え? ああ、私にはもうどうしようもなかったので誰も訪れない場所に封じました。余裕のある時に討伐隊を派遣しますよ。当分は貯蓄させておきましょう。」


 無責任な奴だな、と白の魔法使いは呆れたように言った。彼は続けて言う。実は腹案があるのだ、と。


「腹案?」


 世界をつくる。


 少しの時間を置いて、白の魔法使いはそう答えた。



               *



 ルスはおよそ百年前、白い人によって創られた世界なのだという。


 白い人に導かれた人々が訪れた時、ルスは豊かな土と清浄なる水と一面の緑に恵まれた、美しい場所だったのだそうだ。


 この土地で栄えるよう人々に言い置いて、白い人は眠りについた。


 この記述は今となってはただの神話であり、フィクションであるとされている。当然のことだった。


 開闢かいびゃく以来、文明は発展に次ぐ発展をげ、人の数は増え続けた。科学が未知を既知きちへと塗り替える度、神の領域は擦り減ってゆく。


 創世神話を歴史的事実として扱うことができる時代を、人類は駆け足で通り過ぎた。霧に閉ざされた狭い世界は、ほんの数十年で文明に呑み込まれた。


 今やルスの土地は殆どが混凝土コンクリィトによって舗装ほそうされている。


 背の高いビルを乱造して土地の面積を広げることで、人々は辛うじて住む場所を確保していた。


 人口密度の生み出す問題は枚挙まいきょにいとまがない。一方で世界の人口は減少を始めつつある。世間は人口過密状態と少子高齢化を同時に嘆いていた。


 世界の中央には天を突くまでに高い山がそびえ立っていた。


 最古の歴史書にいわく、そこは白い人がす霊山であるという。太古からある信仰故に、山は現在に至るも開発されぬまま残っていた。


 時の内閣はこの山を切り開くことを宣言。根強い反対意見はあったものの、大多数がこれに賛同した。


 土地不足は深刻極まり、あらゆる問題の根源にあるとさえ目されていた。文明の発展、経済の拡大、人口増加政策。いずれにおいてもこの山のために無駄にしている面積を有効活用できたなら、大きな改善が見込まれるであろう。


 エルバはこの行きづまった世界の中流家庭に生を受けた。


 霊山のふもとのマンションに父母と妹、そして犬と共に暮らす、何の変哲もないルスの若者だった。


 これと言って誇るべきものを持たず、また何事にもこだわりの薄いエルバであったが、隣に暮らす幼馴染は変わり者だった。


 彼女は霊山の自然をこよなく愛し、ことあるごとに霊山へと出かけた。女子一人で山に入るのは親に禁じられてしまったからと、エルバは度々たびたびこれに付き合わされた。


 霊山を開拓することが決まると、彼女はこれに断固反対し、霊山に通い詰めるようになった。山に残る貴重な自然を記録して発表するのだと意気込いきごんでいた。


「皆、全然解っていないのよ。どれだけ貴重な宝物を手放そうとしているのか。」


 彼女はもどかしげにエルバに語った。


「ここはこんなに綺麗なのに……」


 湿り気を帯びた剥き出しの腐葉土は、一歩踏み入れば沈み込んで足の形の小さな水たまりを形成する。


 積もった落ち葉の下には数限りない小生命がひしめいている。石に、落ち葉に、あるいは動物の糞にまで苔が着生し、瑞々しい緑色を発色していた。


 巨大な木の根が大地を這いまわり、それに見合う巨大な木がじれた幹を空へと伸ばし、所狭しと枝葉を広げている。


 木々の作る影に覆われた地面には木漏れ日を求める下草が伸び、新芽が密やかに顔を出す。


 倒れて腐れた木の幹は様々な生命のとなっていた。軽く押すと形が崩れ、中からカブトムシやカミキリムシの幼虫が顔を出す。転がしてみれば、隠れていたムカデにヤスデ、小さなトカゲが逃げ出してゆく。


 切り株は未だ生命を保ち、根元からひこばえが空に向けて幹を伸ばしていた。


「ね? 素敵でしょ?」


「いや、虫が多いだけだし。」


 顔に寄って来るアブのたぐいを追い払いながらエルバは答えた。エルバからしてみればあって当たり前で、無くなっても困らない森でしかない。幼馴染は呆れたように溜息ためいきいた。


 石で整備された参道が、川に沿って山の奥へと伸びている。轟々ごうごうと流れる川の飛沫しぶきが参道の石をつやめかせていた。石には苔が繁茂していて、鮮やな緑の輝きで川の流れを彩っている。


「川ってどこに流れていくんだろうね?」


 幼馴染はふと思いついたように呟いた。


「馬鹿だなあ。川は世界の果てまで流れていくと霧になるのさ。常識だよ。」


 エルバは答えた。世界を覆う霧の壁は、そうしてできているのである。


「ううん、納得いかなあい。」


 幼馴染は唇を突き出して不満げにする。エルバは取り合わなかった。滑って転ばないように、大方の注意は足元に向けざるを得ないのである。


 参道を構成する石は中心がわずかにへこんでいた。滑りやすい場所では、凹面おうめんはくっきりと人の足の形状をしている。かつてここを通った多くの人が足を滑らせて参道を削り、石に足跡を残したのだろう。


「この参道って、山頂までは通じてないよなあ。」


 エルバは幼馴染に問いかけた。


「うん、通じてないよ。なんか唐突に途切れちゃう。山頂まで行く道って、この霊山にはないんじゃない? 山頂は神域。人が足を踏み入れて良いのは参道の終わりまでだって、誰かが言っていたような……。」


 そう言えばそんなことを聞いた気もする。人垣ひとがきを作って工事を妨害している宗教家たちが声高に主張していたのかもしれない。いずれにせよ、ただのオカルトだ。


「私、山頂まで行ったことないわ。エルバはある?」


「ないね。」


 しかし当然、山頂はすで踏破とうはされている。ルスにおいて人類未踏の地はもう存在しないのだ。


 流れの急な場所のそばには、小さく深い穴がいくつも開いていた。


 いつも同じ場所に落ちる水滴が、長い年月のうちに岩を削ったのだ。そこに溜まった僅かな水の底に、カエルの幼生が暮らしている。底に溜まった藻を栄養源に、尾が消え手足が生えるまでの時間を耐えるのだろう。


「白い人って、いるのかしら?」


「いや、いたら参道がすたれたりしてないって。」


 エルバは少し呆れて答えた。


 記録によれば、参道の終わりから少し進めば唐突に木が途切れ、岩ばかりの景色が開けるらしい。


 そこには背の高い木は生えない。そのせいか珍しい植物が多数生育し、花畑を形成しているという。


「それはそれで不思議な景色なんでしょうね。あの世、みたいな。」


「変なこと言うなよ。」


 二人は参道をさらに奥へと進む。草と土の香りがむせかえるようで、山特有の湿った冷たい空気が心地よい。


 幼馴染の気持ちもエルバには理解できる。原生林はもはやここにしか残っていないのだ。潰してしまえば、二度と戻っては来ない。勿体ないとは思う。


 幼馴染が足を止めた。


 参道が途切れている。


 ここは人の世と神の世の境界。そう思うせいか、空気が張り詰めているような気がする。


「よっと。」


 幼馴染はその境界を気安く乗り越えて見せた。


「お、おい。」


 エルバは慌てて彼女の後を追う。


 参道の縁を踏み越えた瞬間、肌に触れる空気の質が変化したように思われた。


 硬質なまでに冷たく、苦しいくらいに澄んでいる。


「見てエルバ。あそこ。」


 幼馴染が示した先には、道があった。


 実際には木々の密度の悪戯で開けているように見えるだけであって、何ら周囲と変わりない景色のはずだ。だが、エルバたちには何故だか道としか見えなかった。


「行ってみよう!」


「待てよ、もう帰ろう。」


 エルバは元気よく進もうとする幼馴染の腕をつかんだ。幼馴染は不思議そうに振り返る。


「どうして? 門限までまだあるじゃない。」


「いや、なんとなく……。」


 幼馴染は呆れたように溜息を吐いた。


「もしかして、あんた、本当にオカルト信じてるの?」


「いや、全く信じていない。そうじゃなくって……」


 そうじゃなければなんだというのだろう。そう自問して、エルバは気が付いた。


 自分は今、紛れもなくオカルトに怯えているのだ。


「呆れた。いいわよ。一人でも行くし。」


 幼馴染は迷いなく道の奥へと足を進める。彼女の背中が遠ざかるのに伴って、エルバはどんどん心細くなった。


「解ったよ、もう!」


 理解できない不安を必死に振り払って、エルバは幼馴染の後を追った。



               *



 あの時無理矢理むりやりにでも彼女を引き留めて帰っていれば、何かが違ったのでしょうか。


 僕はあの時、平凡な日常からはみ出してしまったのでしょうか。


 エルバはそう回顧かいこする。


 ティエラは何も答えてはくれなかった。



               *



 奇妙な道を辿って歩くうち、気が付けば周囲に満ちていた生命の気配は消え失せていた。


 白々とした岩が地面を覆い、その隙間からは硬質こうしつな光をたたえた白い草が顔をのぞかせている。


「なるほどね。さっきエルバが説明してくれた通りだわ。お花畑はどこかしら?」


 はしゃぐ幼馴染と対照的に、エルバはすくんでいた。


 伝え聞いた山頂の様子とは、どこか違っているように思われたのである。この景色には色がない。それこそ常世とこよのものではないような……。


 足を踏み出した拍子に白い小石が斜面を転がり落ちた。


 高く澄んだ衝突音が不気味に木霊こだまする。それを目で追ううち、エルバは石の転がる先が見えないことに気が付いた。


 いつしか周囲は濃い霧に覆われていて、視界が極端に悪くなっていた。奇妙な感覚だった。自分が認識している範囲以外に世界が存在しないような気がしてくる。


「もうやめよう。ほら、帰ろう!」


 半ば懇願こんがんするようにエルバは幼馴染に言って、彼女に駆け寄った。彼女の手を掴んだ瞬間、突如として周囲の霧が散る。


 広大な湖が広がっていた。いだ水面みなもはどこまでも続いていて、それが世界の全てであるかのようだった。


 湖上こじょうには白い木が林立りんりつしている。


 木々は土に根を下ろすのと同じように、水に根を下ろしている。


 水はどこまでも澄み渡っていて、はるかな深部まで光を通している。それでもなお、底が見えない。湖底は無辺むへんの宇宙であり、緑の輝きが渦を巻いている。


 耳が痛いほどの静寂せいじゃくがその場所を支配していた。


 エルバが足を踏み出すと、何かが砕ける涼やかな音が空間に溶けた。


 足元には折れた白い枝が敷き詰められていて、エルバの重心が前後するたびに高くはかなげな音を立てた。


「あれ、何だろう?」


 幼馴染は身を乗り出して湖底を覗く。


 水底で渦を巻く緑色の光がり集まって、何かを形作ろうとしていた。輝く糸はもつれ合いながら湖面こめんへと上昇し、水面から出ると同時に人の姿を織り上げた。


 柔らかな銀髪が光を弾いて輝いた。長い睫毛まつげの奥の瞳もまた、光に応じて色を変える。


 人の形で表現し得る美を極めたような超常的な美が全貌ぜんぼうを表すと同時に、白い木々は白い花を弾けさせた。


 エルバは一瞬、状況の異様さを忘れて超常の美に見蕩みとれた。


 いつしか霧は白い炎となって、密やかに燃え広がっていた。


「きれい……」


 幼馴染が呆けたような声を上げて、湖に一歩を踏み出した。


 すとん、と。何の抵抗もなく、幼馴染の体は湖に沈んだ。エルバは幼馴染の名を叫んで手を伸ばす。足の下で白い枝が砕ける音が響いた。エルバの手は虚しく水を掻いた。


 空気中の自由落下と変わらぬ速度で、幼馴染は落ちて行った。


 一斉に咲き、一斉に散り始めた白い花が水面に降り注ぐ。


 落ちてゆく幼馴染の姿は、白い花のしかばねに埋もれて見えなくなった。伸ばした手が掴んだ虚無の感触が、ただ冷たく確かだった。


 エルバは懸命に幼馴染の名を叫んで、降り積もる花弁はなびらき分け続けた。


 白い炎が内へ外へと広がってゆく。エルバもまた、炎に包まれていた。エルバは花を掘るのを止める。


 自分が燃えていることははっきりと解るのに、熱を感じない。代わりに奇妙な幻影を見た。


 エルバは何度も何度も白い炎に焼かれて消えるのだ。己が燃え、家族が燃え、親しい人が燃え、家が燃え、職場が燃え、学校が燃え、何もかもが燃え、最後には自分自身が燃えて消える様を、刹那せつなの時間に幾度いくどとなく体験した。


 痛くも熱くもなく、ただ突然訪れた理不尽な災厄への負の感情に溺れながら、何度でも消えていく。


 花の屍で舗装ほそうされた湖の上に陽炎かげろうのようにたたずむ白い人は、美しい七色の瞳でエルバを見つめている。


 不意に、エルバの中に猛烈な憎しみが去来きょらいした。何故かエルバは白い人が憎かった。


 冷たい手をきつく握りしめて、ありったけの憎しみを込めた視線を白い人に向ける。この憎しみさえも、最後には燃え尽きるのだろうか。


 エルバの視線を受けて、白い人は端然たんぜんと笑った。


 彼が白い木の枝を手折ると、高く澄んだ音が空気を裂いた。白い木の枝は彼の手の中で見る間に優美な純白の剣へと形を変えた。


 君にこれを与えよう。


 白い人は悪意に満ちた優しい声でそのようなことを言った。くるくると色を変える目の片方を手で隠して、剣をエルバに差し出した。


 三度だけ、いかなる願いも叶えてあげよう。その目で世界を見ておいで。裁定さいていを下すまでの間、君は白の魔法使いの加護を受けるだろう。


 白い人が言い終えると、花弁に埋め尽くされた水面が彼の足元を中心に渦を巻き始めた。


 白い人は渦の中に沈む。


 世界を包んだ白い炎も、散り続ける白い花も、渦に吸い込まれて消えて行く。


 エルバだけを置き去りにして、何もかもが消えてしまった。


 エルバの手の中に残ったのは、白木の枝からつくられた一振りの剣、ただそれだけだった。



               *


「それきり気絶して、気が付いたらカテドラルから東へ数日の場所にいたというわけです。」


 エルバが語り終えても、ティエラは口を開かなかった。静寂が二人の間に根を下ろす。


 緑色に輝く瞳は闇に沈んだ湖に向けられて微動だにせず、じっと思考にふけっているように見えた。


 エルバの体温がすっかり風にさらわれてしまった頃になって、ティエラはようやく口を開いた。


「すまない。」


 彼女が口にしたのは謝罪の言葉だった。エルバは意味をとらえかねた。何か説明がなされるのかと待ってみるが、ティエラはそれきり黙ってしまった。闇夜に浮かぶ白い顔には深い苦悩がたたえられている。


「どうしてあなたが謝るのですか?」


 奇妙な後ろ暗さに背中を押されて、エルバは問いかけた。ティエラは困ったように視線を暗闇の中に泳がせて、やがて首を横に振った。


「説明しにくいな。」


 ティエラは苦笑する。


「君はこことは思えないどこかからやって来た。ヒトハミを獣同然に傷つける力を持っている。そして、白の魔法使いと同じ色を持つ片方の目と、三つの願い……。」


 ティエラはそこで言葉を切った。


「少し時間をくれないか? 私も混乱している。精神面でもそうだし、情報に思考が追い付いていない部分もある。整理が出来たら、きっと君に話すから。」


 うまい具合に乗せられて、情報を聞き出されただけなのではないかと疑う一方で、エルバはティエラの言葉から喜ばしい情報を掘り出した。


「時間をくれ、と言うことはつまり……」


「ああ。明日からもよろしく頼むよ、エルバ。」


 ティエラは少し寂しそうに微笑んで、エルバに手を差し出した。


「こちらこそ。」


 エルバはティエラの手を取った。


 強靭きょうじんな彼女の手は、思いのほか繊細で柔らかかった。


 彼女が儚く弱々しい存在であるように感じたのは、きっと気のせいだったろう。

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