第20話 湖上都市ヘリオ 2
ヘリオの街に広がる店には、物欲を刺激するものが無数に
気が付けば、フューレンプレアは露店で購入した食べ物を両手一杯に抱えていた。
旅の中で行う料理は食べ物が害にならないための最低限の処理だった。栄養補給に意識を向けることさえ難しい。空腹を紛らわせるために胃に食糧を詰めるだけ。
そんな食事に慣れた体に、丁寧な味付けが染み渡る。入り口付近に食べ物屋が
ふと、フューレンプレアは露店の一つに目を留めた。古い生活用品が並ぶ店の一角に、可愛らしい髪留めが陳列されている。
フューレンプレアは自分の髪にそっと指を入れる。幼い頃に法王からもらって以来いつも着けていた花の髪留めは、アリスネストで失くしてしまった。枯れ果てた大地の赤い土を焼いて作った、小さな白い花の髪留め。植物が絶えて久しいこの世界で暮らす人々の憧憬を形としたもの。
商品の一つを手に取って、フューレンプレアは溜息を零した。欲しくないと言えば嘘になる。けれど、身を飾るどころか食べることにすら事欠く人々の方が圧倒的に多いこの世界で、その人々を護る任を負う自分がこんなものを購入して良いのだろうか?
「買わないのか?」
突然声をかけられて、フューレンプレアは慌てて商品を元の場所に戻した。
「ティエラ、法王さまとのお話は終わったのですか?」
「ああ、終わった。君たちと同行して欲しいと頼まれたよ。」
ティエラの答えに、フューレンプレアはパッと顔を輝かせた。
「では、ご一緒してくださるのですか?」
「決めかねている。」
ティエラの答えは素っ気ない。フューレンプレアは頬を膨らませた。
「どうしてですか?」
「奴が君たちを贄の都に向かわせる理由が、結局解らなくてね。」
ティエラの答えに、フューレンプレアは首を傾げた。
「ですからそれは、世界にかけられた呪いを解くためですよ。」
フューレンプレアの答えに、ティエラは苦笑で応じた。
「他の連中は?」
「それぞれ好きに街を見て回っていますよ。」
そっか、とティエラは呟いた。
「いずれにせよ、出発は明日以降だろう? 私は街の外で待つとするよ。」
「え? 待って下さい!」
去ろうとするティエラをフューレンプレアは呼び止めた。
「どうして外で待つのです?」
「だって君、私がここにいてはヒトハミが集まってしまう。」
フューレンプレアは目を見張る。
ティエラはずっと一人ぼっちだったのだろうか。ヒトハミを集めてしまうことを恐れて、人と共にいることさえ避けて来たのか。あの苦しい旅路が、彼女にとっては終わらない日常なのか。
フューレンプレアはティエラの手を握った。彼女の手は冷たかった。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。ここはヘリオ。街の防衛はしっかりしています。ヒトハミは入って来ませんよ。ゆっくりお買い物をしましょう。」
フューレンプレアは素早く食べ物屋台を見つけ出し、ティエラの手を引いて行く。
「いや、君、そうは言っても……」
「大丈夫ですよ!」
フューレンプレアはティエラを安心させようと精一杯に笑う。
「ティエラはもう少し、楽しく生きることを覚えてもいいと思います。」
ティエラは虚を突かれたようにフューレンプレアを見つめた。
「楽しくって……。そんなことを言われても……」
「楽しく生きて良いんです。」
この街の人たちは皆希望に満ちていて、どこか楽観的に構えている。物質的にも精神的にも、豊かに暮らしているように見える。
カテドラルとはまた異なる豊かさだ。世界中がこの二都市のように豊かになればいい。ヒトハミさえいなくなれば、そう難しいことではないはずだ。そうしたら、フューレンプレアも毎日おいしいものを食べて、心置きなくおしゃれができる。ティエラは放浪する必要もなくなって、危険からも孤独からも解放される。
ヒトハミさえいなくなれば、何もかもが好転するはず。
絶対に呪いを解いてみせる。温度を分け合う手の感触に、フューレンプレアは改めて誓った。
「コゥジはあるのかな。」
諦めたようにティエラは言った。
「この街のコゥジの
フューレンプレアは笑顔で答えた。
*
エルバは悩んでいた。彼は露店に並ぶ花の形をした髪飾りを前に、既に四半時ほど考え込んでいる。
フューレンプレアはアリスネストで髪飾りをなくして随分落ち込んでいた。髪に触れる度に彼女の表情が切なげに曇るのに、エルバは気が付いていた。
同じような髪飾りが陳列されているのを見て、足に根が生えてしまったのである。
淡い色合いの髪飾りが、彼女にはよく似合うだろう。色々なデザインがあるが、失くしたものに準ずるならば花が良い。白い花には抵抗があるので、買うなら桃色か水色か……。
一通り検討してから、エルバは重大なことに思い至った。
金がない。
あるにはあるが、それは法王から旅費として受け取ったものである。宿や食事、その他旅の装備の費用に充てるのは良いとしても、流石に髪飾りを買うわけにはいかない。
エルバは恨めしい気分で値札を見つめた。
「兄ちゃん、さっきからずっとそれ見てるね。欲しいのかい?」
突如店の主人に声をかけられて、エルバは面食らった。
「いえ、あの! すいません。お金がありません。」
「じゃあ働きな。日暮れまで店の手伝いしてくれたら無料でくれてやるよ。兄ちゃん、文字が読めて数も数えられるんだろ?」
驚いている間にあれよあれよと話が進む。気が付けばエルバは店頭に立ってくるくると働いていた。
客が探している商品を一緒に探し、会計をして、
「あんた引き算ができるんだねえ。」
店主が感心したように言った。
「普通は出来るでしょう。」
「いや、できねえよ?」
店主にぽかんとした表情を向けられて、エルバは慌てた。すっかり自分の感覚でものを言ってしまったが、教育制度が整っているとは思われない、荒廃した世界である。できないのが普通と言われればそうかもしれない。
「で、でもそれじゃ、どうやってお釣りを計算するんですか?」
「足し算で考えればいいんだあ。銅貨七枚のところ銀貨一枚で払ったら、八から数えて一枚ずつお客さんに返すのさ。八、九、十ってね。これで銅貨三枚の釣りになるだろう?」
「あ、ああ。なるほど。」
エルバは妙に感心した。自分は引き算を習ったために引き算でしか計算できなくなっていたのかもしれないと、ふと思った。
「僕が言うのも何ですが、身分も能力も不確かな人物を雇い入れてお金まで触らせるというのは不用心が過ぎませんか?」
「いや。大丈夫だろう。お前さん、身なりが良いもの。計算が速いもんでお客を
身なり、と呟いて、エルバは自分の服を確認した。ぼろぼろだし、汚れている。
しかし作られた当時の姿が解るだけマシかもしれない。ティエラやゴートの服なぞは、何枚もの服を繋ぎ合わせて作ったような代物である。しかも街行く人を見てみれば、そんな服を着ている人は珍しくもない。
知らない世界だ、とエルバは思った。ヒトハミや獣の
エルバが物思いに
「いらっしゃいま――」
エルバははたと言葉を切った。
「何やってんだ、お前。」
ゴートは呆れたような顔でエルバを見つめていた。派手な色合いの服装が似ていると思えば、本人だったのである。
「アルバイトですよ。対価と引き換えに働いているのです。僕はあなたと違って欲しいものを盗んだりはしないので。」
気恥ずかしさから、エルバは実際以上に不機嫌な声を発した。
「ところがオレだって普通はちゃんと対価を払って物を買うのさ。」
ゴートはエルバにいくつかの商品を集めるように言った。エルバは店の中から言われたものを拾い集めて値段の計算をする。
「お前さん、何が欲しくて働いてるんだい?」
「そんなこと、あなたには関係ないでしょう。」
エルバは耳を赤くして答えた。
「髪飾りだよなあ、兄ちゃんよ。」
店主がからかうように大きな声で言った。ゴートは店に並ぶ髪飾りに目を留めて、ニヤニヤと笑う。
「はぁん。お嬢ちゃんに渡すのかい?」
エルバは視線を逸らして仕事に集中する。
「なあ、大きなお世話かもしれねえが。」
「大きなお世話ですよ。」
「いつから働いてんだ?」
「昼頃からですね。」
ゴートは微妙な表情を浮かべて頭に手をやった。
「お前、ぼられてるぞ。」
ゴートがそう言った途端、店主がぎくりと動きを止めた。エルバはきょとんと店主を見やった。
ゴートの言うことには、共栄帯の内部では労働対価の最低ラインが定められている。貨幣経済の強みであろう。最低賃金は街ごとに異なるが、およそ一日に八時間働いたらその街の宿に一泊して三回食事ができる金額を基準としているという。
なお、ヘリオやカテドラルにおいては宿が多数存在するため、数字として明確に最低賃金が定められている。
「八時間で銀貨二枚だ。」
ゴートは最低賃金を重々しく告げた。
「見ろ。この髪飾りは銅貨五枚と書いてある。」
エルバは瞬時に計算した。銀貨二枚は銅貨二十枚。八時間で銅貨二十枚ということは、銅貨五枚分を稼ぐのに必要な労働時間はおよそ二時間。エルバは休息も
「……店主さん?」
店主は眩いまでの笑顔を浮かべてエルバを振り返った。
「兄ちゃんたち、計算が速いねえ!」
店主は朗らかにエルバを褒めた。ゴートが邪悪な笑みを広げた。
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