第8話 ティエラ 2 

 翌日。エルバの提案はフューレンプレアによって却下された。


 確かに共栄帯きょうえいたいの内側であれば、エルバの言うような旅も可能だろう、とフューレンプレアは言った。しかし二人が目指すのは共栄帯の外側である。ヘリオはあくまで通過点だ。


その先は祓魔師ふつましの巡回もないし、守印しゅいんを補充できるとも限らない。また守印もヒトハミに近付き過ぎれば効果がないのはカテドラル東門で体感した通り。ヒトハミと戦う備えをおこたることは許されない。


 エルバは負けじと反論した。重くて仕方ないのは事実だし、どうせこのまま扱えもしない剣をびていたところで意味がない。


 朝一番でそのような論争があったため、守印を受け取りに行く時には二人の間にやや気まずい空気が出来上がっていた。長い列に並んで順番を待つ間、二人は無言だった。沈黙の時間が舌の上に積み重なって、二人の口をますます重くする。


 無言で守印を受け取り、無言で教会を出る。


特等級とくとうきゅうの守印が欲しい。今すぐ受け取ることはできないだろうか。」


「申し訳ございませんが、皆さま順番に待っておられますので。」


 後ろに並んでいた人物が何やらめている声が耳に届いた。耳が拾った音が舌を軽くしたのだろうか。フューレンプレアが口を開いた。


「市場に行ってみましょうか。」


「そうですね。」


 エルバは努めて冷淡れいたんに答えた。しかしフューレンプレアがふわりと微笑むと、ぎこちない空気がかすんで消えた。


「エルバはこれから毎日、剣の素振りですね。共栄帯を抜けるまでにきたえなくては。」


「解っていますよ。」


 実際、剣が重くて持てないでは話にならないというのも事実だ。自分は何を無茶なことをしているのだろうとエルバは首を傾げる。旅そのものを考え直した方が賢明に違いないのだが。


 エルバが賢明な判断をぐずぐずと延期するうちに、状況は足早に進んでゆく。




 プエルートの市場は、カテドラルのそれと比べれば規模が小さく人も少なかった。店を広げる商人たちを含めて、街にいる人のほとんどは守印の順番待ちをしているらしかった。


 対魔たいまの長剣を何の変哲もない短剣に替えて街を出る頃には、プエルートの門前には誰もいなくなっていた。出発する人々の群れに、エルバとフューレンプレアは乗り遅れたのである。


「大丈夫ですよ、エルバ。むしろたくさんの人が一斉いっせいに移動するのは危険です。」


 フューレンプレアはのんびりと言った。


 守印は人の気配をヒトハミから隠してくれるが、それにも限界がある。いくら守印を持っていても、大勢の人が一斉に動けばヒトハミを寄せてしまう。旅の同行者は四人から五人に絞り、また、別の一団とは千歩分程度の距離を保つように、と言うのが聖教会せいきょうかい推奨すいしょうする外の世界の歩き方である。


「守印の譲渡制限には、道の上の人口密度を低く保つ意図もある、ということですか。」


「ええ。ついでに各宿場に人が滞在することでヒトハミをそちらに寄せ、交路上の人々の安全を確保しています。」


「……宿場に入るのが大変になりそうですね。」


 カテドラルに入る時の困難を思い返して、エルバは辟易へきえきした。


「大丈夫ですよ。共栄帯周辺のヒトハミの分布はカテドラルとヘリオの周辺にいちじるしく偏っていますし、宿場の付近のヒトハミは教会の方で駆除くじょしていますから。」


 なるほど、と呟いて、エルバは足元に目を落とした。


 石畳が荒野を切り裂いて伸びている。道に沿って並べられた円筒えんとうは、数個おきにすさまじい臭気を宿す煙を発している。獣けだ。巡回の対磨師が、朝一番で火を付けて回るのだという。


 獣もヒトハミも来ないのだから、この道を外れない限りにおいて、ヘリオまでの旅路は安全そのものだ。


「ところで、プレアさんはどちらまで案内してくれるのですか?」


 ふと、エルバはフューレンプレアに尋ねた。フューレンプレアは目をしばたかせる。


「勿論、にえみやこまで一緒に参りますよ。法王さまからそう命じられております。」


 安心させるようにフューレンプレアは言った。エルバは内心で顔をしかめた。


 エルバの目的はあくまでも家に帰ることなのだ。


 白炎はくえんの日からかれこれ半月が経過するが、エルバは未だ自分の置かれた状況が理解できない。


 自分の生きる世界にこんな荒んだ場所があるなんて教科書には書かれていなかった。ヒトハミなんて聞いたこともないし、歴史にも共通点がない。言葉や文字はおおむね同じだが、知らない単語が唐突に混ざり込む。文化も違う。供される食事の殆どが虫である。エルバからすれば、虫を食うなど考えられないことだった。


 この場所のことを知れば知るほど、状況が解らなくなってしまうのだ。


 いずれにせよ、エルバの軸足じくあしはここにはない。とても現実とは思えないし、万事ばんじが万事、他人事ひとごとである。法王の依頼を遂行する義務はなく、二の次三の次、家に帰る方法を探るついでにやること程度にとらえていた。


 だが、フューレンプレアに見張みはられていてはそうもいかない。彼女はエルバを法王の依頼通りに動かそうとするだろう。何よりも厄介なことには、彼女を悲しませるとエルバは胸が痛むのである。


 今朝の喧嘩じみたやり取りの際にも、フューレンプレアの悲しそうな顔を見てエルバの精神は不安定に揺れ動いた。剣選びに関してはフューレンプレアの手抜かりだとエルバは確信しているし、彼女も遠回しに認めたところではあるのだが、正否とは全く別のところで気分が悪い。


 彼女に対する良心は最大の足枷あしかせだった。まさかそれを見越して彼女をエルバのそばに付けたわけではないのだろうが……。


 不意にフューレンプレアが足を止めた。物思いに沈んでいたエルバは数歩進んでから足を止め、怪訝な面持ちでフューレンプレアを振り返った。


「どうかしましたか?」


 フューレンプレアは青ざめた固い表情で、黙ってエルバの足元を指し示した。エルバはフューレンプレアの指の延長線を目で追い、自分の靴の下からはみ出す赤黒い染みを発見して、慌てて飛び退いた。


「……血?」


 視線を転じれば、石畳を飾る赤褐色せきかっしょくの染みは点々と先へ続いていた。先へ先へ。染みを辿るうち、黒々とした点がうごめくのが見えて来た。


 フューレンプレアの持つ杖が高くんだ音を立てた。フューレンプレアは迷いなく、人を襲う化け物に向かう。


 対照的に、エルバは足を止めた。自分が何を見ているのか、気が付いてしまったのである。


 整備された石畳の上、めちゃくちゃに散乱する荷物の中に交じって、新鮮な肉が落ちている。元の形を失い、変色した欠片は、それでもところどころに元の形を連想させる要素がちりばめられている。


 視覚情報が強烈なまでに脳を揺さぶった。追い打ちをかけるように嗅覚が生々しい臭いを信号として脳に送り込んでくる。喉の奥から酸っぱい味がせり上がり、皮膚はぞくぞくと引きった。悲鳴と慟哭どうこくが暴力的なまでに鼓膜を振動させる。


 まだ生きている人がいる。死にたくないと叫んでいる。エルバはその声に応えられない。込み上げてくるものを抑えるのにただただ必死だ。


「行っちゃだめです、プレアさん……」


 エルバの声は思いのほかに弱々しいものだった。


「エルバは道を引き返して、祓魔師を呼んできてください!」


 フューレンプレアは気高くて優しい。エルバにそうしたように、助けを求める人には無差別に手を差し伸べる。杖を振る音がりんと響き、噴き出した炎がヒトハミを溶かす。


「皆さん、早く逃げてください!」


 生き残った人々はフューレンプレアの声に応じた。おびただしい量の血を撒き散らし、崩れた体を引きずって、あらゆるものにすがりつく。その醜悪しゅうあくさに、ついにエルバは込み上げてきたものをこらえきれなくなった。体を折り、今朝食べたものを石畳の上に吐き出した。


 白炎の日以降、何度も死にそうな目にった。人が死にそうになるところも見た。けれど結局誰も死んでいない。それに、彼らは生き汚さとは無縁だった。人のために命を捨てることに躊躇ためらいのない、気高い聖人たちだった。精巧につくられた人形のように非人間的な、美しく散りゆくことをしとする人々だった。


 半ば失われた己の命を惜しんで他人を犠牲にし、臓物を撒き散らしながら逃げ惑う生々しい生命に直面して、エルバは戦慄せんりつした。夢のように思っていたこの世界の景色が突然現実感を持って押し寄せてきた。


 自分はフューレンプレアのような聖人ではない。自分も彼らのように醜悪に死ぬのだ。不意に襲ってきたその自覚が、エルバをめて離さない。


「助けてぇ!」


「やだやだやだ……!」


 ヒトハミに追い付かれ死にゆく人々の恐怖が、エルバへと触手を伸ばす。エルバは無意識のうちに購入したばかりの短剣を探り当てた。


 短剣は異様に冷たく、重かった。こんなものを扱うのは、自分には無理だ。今すぐこれを放り出して逃げるべきだ。エルバの冷静な部分が叫んでいた。


 フューレンプレアの発した小さな悲鳴が、エルバの耳を打った。


 ヒトハミが彼女を組み伏せていた。迫りくる口を杖の柄で押しのけようともがくフューレンプレアを、エルバは無力に見つめていた。


 思い出したのは、カテドラル東で起きた出来事である。何か大きなものと繋がった万能感がよみがえる。そうだ、あれは確かに、エルバの願いに応じて起きた奇跡だった。


「死ね……ヒトハミ、死ね……!」


 震える声でエルバは願った。どこか遠くで呆れたような溜息ためいきが聞こえた気がした。その願いは叶えてやらない。右目の熱が突き放すようにそう告げる。無力感がエルバを襲った。


 動ける者は皆逃げ去っている。誰も助けてはくれない。助けることもできない。助かることさえままならない。


 タッタッタ。一匹のヒトハミがエルバに向けて駆けてくる。そのヒトハミはイヌのような姿ではなく、大型のネコ科動物の姿をしていた。


 何故それがヒトハミだと思ったのか、エルバには解らない。姿が全く違うのに、それがヒトハミであることは明らかだった。何の気なしにエルバに近付いてきて、唐突に思い立ったかのように襲い掛かって来る。


 エルバは恐慌きょうこう状態の中で短剣を振り回した。短剣はヒトハミの体を幾度となくかすめ、そのたびに毛とわずかな血液を飛散ひさんさせた。ようやくヒトハミの体を捉えたやいばは、発達した筋肉の繊維せんいからめとられて抜けなくなった。


 エルバの手から短剣のつかこぼれ落ちる。ヒトハミはしなやかに体の向きを変える。


 一対の目がエルバを捉えた。どこまでも他意のない純粋無垢な双眼の中に、青白い顔のエルバが映り込んでいる。前脚の上部に突き立った短剣の根元から赤い血がじわじわと込み上げて、つややかな毛皮を伝い落ちるうちに光に変じて霧散する。


 ああ、終わりだ。エルバの心は遠かった。目が覚めたら安全な自分の部屋の温かなベッドの上にいるという幻想は、もう抱かない。


 二本の後足で、ヒトハミは力強く大地を蹴った。エルバは反射的に腕で顔面をかばい、身を縮めた。


 何かが砕けるような音がした。痛みはない。エルバは己のまぶたの内側で戸惑いをふくらませる。


「立て、少年。」


 凛とした声がエルバに目を開かせた。エルバの前に立っていた人物は、思いのほかに小柄だった。


 少年とも少女ともつかない。声ははっきりと女性的だったが、滑らかな肢体したいも絶世の美貌も、性別等という凡俗な枠組みに収まることを良しとしない。若々しい鋭さの中に、どこか老人めいた落ち着きが潜んでいる。ぼろ布を繋ぎ合わせたような衣服の中で、ブーツが銀の輝きを放っていた。


「あ、あなたは……?」


 エルバは震える声で問いかけた。彼女は輝く緑の瞳にエルバを映して答えた。


「ティエラ。」

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