撃て。(そのいち。)
語ることをずっとずっと避けてきたことを、語ろうと思う。
学校で、模擬裁判があった。
刑事事件。男の人が女の人を、結果的に殺害したことになる事件。わざと殺したのか、うっかり殺してしまったのかはわからない。検察がわは「これは事件だ」と言って論理的に状況証拠を並べ、また、弁護がわは「これは事故だ」と言っておなじく論理的に状況証拠を並べる。そこに動機は殺意はあったのか。それがいちばんの、論点となった。
私は愕然とした。「正しい」という概念の、あまりの曖昧さに。だって検察がわの意見も弁護がわの意見も、「論理的に」成り立っているのだ。どちらも、「論理的に」は「正しい」のだ。
でも、決めなければいけない。私は「事実」を決めなければいけない。たとえそれが、いまや被告人だけが知っている、ほんとの「事実」と違っても。
「正しい」という概念は私の外、どこか広くて遠くて完全で、それこそ神さまたちの住むような世界に、済ました顔で横たわっているのではなかったのだ。私はそれを今まで、完璧な「正しい」を、とてもたよっていたのかもしれないと思った。でも、違った。「正しい」っていう概念は、私のなかに、あるものだったのだ。私のなかにしか、ないものだったのだ。私のなかから見出さないと、見つけられないものだったのだ。「正しい」っていうのは、だれか完璧な存在が与えてくれるものではなかったのだ。
疑いもなく信じていたなにかが、かちゃりと崩れた音がした。
私にとって、「論理」というのは弾丸だった。でも、ある種のことがらに関して、私のそれは砂糖菓子でできている弾丸だったのかもしれないと、思う。だって私は、「論理」をあくまで頭のなかでこねくりまわしているだけだったから。そんな私の「論理」は、いつだってある程度の「論理性」があったと思う。AだからBだからC、そんなたぐいの「論理性」だ。つらっと進む、一本の単純な流れのような論理。
たとえばこうだ。殺人事件ってどうして起こるんだろう?→想像力が欠けてるからだよね、→想像力を養うことが重要だ。こんな感じ。
私の論理には、このように現実感が生々しいにおいが実際性が、そして力が、社会的で実際的な力が、圧倒的に欠けていた。現実を、「具体」を見たうえで敢えて「抽象」化してこのように言うのなら、いい。その「論理」は、実弾だ。でも私はちがった。あくまでもなにかこう、数学の問題でも解くように、こういったものごとを考えていたように思う。
私の砂糖菓子の弾丸は、きっとわりと大きな弾だったと思う。でも。でも、それはやっぱりあくまでも、砂糖菓子の弾丸なのだ。甘いのだ。溶けるのだ。なにしろその弾丸は大きいから、ぱっと細かい粉が散るから、人のことをおどろかしてかく乱することはできても、結局、撃ちぬくことはできない。
せつじつで現実的で生々しいものごとに関して私が今まで撃っていたのはそういう、手品のような弾だったのかもしれない。そう思って、また、愕然とした。だって自分では、ちゃんと実弾を撃っているように思っていたのだから。撃ちぬいていると、思っていたのだから。
「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」のだ。私はそのことをまざまざと思って、絶句するしかなかった。
(一回、ここで切ります。つづきます。)
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