天使なんかじゃ、いらんない。

(雨の音を、聴きながら。)



 自分を騙したくない。



 綿矢りさの『勝手にふるえてろ』に、こんな文がある。

「いままでの私は自分にたいしてぶりっこをしていた。自分はからかわれてもくやしいだけで、いざ相手に仕返しをして悪く言おうとしても、悪口が思いつかないような可憐な女の子なのだと思いこんでいた。」

 自分にぶりっこをしている!とてもしっくりくる表現だと思った。

 だって、身におぼえがあるもの。悪口を言えなくて、ただ微笑むしかできなくて、無垢で無邪気で純粋で、なんてかわいそうでけなげで、周りみたいに薄汚れていない私!そう酔ったことが、確かにあるもの。そして神妙な顔してつぎには言うのだ、「私はべつにそうは思わないんだけどね、みんなはあの子のこと、良くない子だって言うの」、「こんな噂があるんだよ」、「私はそうは思わないのに!」嘘だ、ぜったい、嘘だった。すっごくわかりやすい嘘。「私」に責任がくるのが嫌だから、「みんな」に押しつけている。そんな汚いことをやっていたのに自分だけが天使みたいな顔して、よくもまあ堂々としてられたものだ。

 自分を、見据えていなかった。と言うか見てすらいなかったのだと思う。見えていなかった、見ようともしていなかった。何も。


 ぐちゃぐちゃした感情というのは、必然だ。

 良い悪いではなく、それは事実としてあると思う。嫌なことだってあるし、怒ることも呆れることも、軽蔑してしまうときだって嫌悪してしまうときだって、ある。程度の差は、あるにしても。それは仕方のないことで、どうしようもないことで、受け容れなくてはならないことだ。

 卑下でも謙遜でも何でもなく事実として、私はそんな、きれいな存在じゃない。もっともっと、生々しい何かだ。

 黒々した感情を自分のなかで受け止めて、存分に噛み味わいたい。ぎゅっと噛み締めていたい。その感情を、否定したくない。だってそれは、確かに私のなかから湧きあがってきたものなのだから。


 自分を純粋無垢な存在だと思い込んでいるほうが、よっぽど醜いと思う。だって自分を騙してる。見えていない、見ようともしてない。

 剥き身の自分を、直視する。そこにどんなグロテスクなものがあったとしても、見据える、とことん目を逸らさない。その勇気とつよさが、必要なのだと思う。

 そしてそれは、うつくしい。確かに。凛と張って、とても、うつくしい。極限までいった瞳は、確かにうつくしいんです。そしてそれは、欺瞞に満ちたあの偽者の無邪気さとは比べものにならない。

 へなへなの綿を糊でつぎはぎしたまっ白い羽なんて、要らない。私は私の足で歩きたい。どこまでも、見据えてゆきたい。

 



(ごく個人的なことなのですが、私のなかで、「無垢」と「イノセント」というのはべつの概念です。「イノセント」は、純度の高い言葉だと思っている。水晶のように。

 こうして極限まで自分を見据える、それは「イノセント」なことだと思います。逆説的ではありますが。)

(雨、止まないですね。ひたひたと、世界をうっている。心地良いです。)

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