どちらにせよ、「ものぐるほし」。

主観的で、感覚的なことを書きます。


「狂っている」のと「常軌を逸している」のは、決定的に違うと思う。


 例えば、谷崎潤一郎の『春琴抄』に出てくる佐助という人は、盲目の師匠春琴への想いのために、自ら光を失うことを選びます。針で自分の瞳を刺して。それで佐助は、お師匠さまと一緒になれた、と喜ぶのです。自分はぜんぜん不幸なんかじゃない、と。文脈が違えばつよがりに聞こえる言葉ですが、この場合この言葉は、ああほんとにそうなんだなぁ佐助は幸せなんだろうなぁ、と思ってしまう力があります。

 普通の感覚では、有り得ないことです。これはまさに、「常軌を逸している」。普通じゃないです。

 でも、何故か、「狂っている」とは、思えない。

 佐助はあくまでも正気を保っていると思うのです。すべてを見て、選んで、実行したという点で。それがたまたま、「常軌を逸して」いただけなのではないか、と。


 梶井基次郎の短編に、『檸檬』があります。ここに出てくる「私」は現実に対して鬱々としているのですが、檸檬を手に入れそれをつかって一種の「作品」をつくりあげることで、その思いを昇華します。あくまで空想の世界のなかで。この、空想の世界のなかで、というのは大事です。どこまでも現実的ではないのです。

 この人は多分、「常軌を逸して」はいないです。人々の考えうる範疇に入っています。檸檬で作品をつくるというすこしばかり異常な行動だって、まあそういう人なのだろう、くらいで済ませることが出来ます。

 でも、多分、この人は、「狂っている」。

 人に気づかれないところで、ひっそりと、もうおそらく、取り返しのつかないところまで。正気ではないのだと思います。


 ここまで書いていて思ったのですが。

「常軌を逸する」とはつまり、周囲の想像の範疇を超えている行動をとるということ。たとえ本人が、至って真面目で冷静であっても。

「狂っている」とはつまり、自分が気がつかないほど自然に、異常な論理をもって生きること。たとえ周りから見て、普通に過ごしていたとしても。

 ではないか、と思いました。


 最近こういったことを考えます。狂気とは、何だろうと。



 余談です。

 現代文の授業で『檸檬』をやりました。私は今まで、現代文の授業というのはわかりきったことをわかりきった方法でなぞるだけかと思っていましたが、今回はそうではありませんでした。新しい発見が次々と。先生は、「梶井は天才だ」と繰り返していました。

 以前その先生は、谷崎潤一郎についても語っていました。「こんなの出版しちゃって良いのかと思った。」その気もち、読んだらじわりとわかりました。

 楽しい授業です。

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