4.俺は、良いことを思いついたようだ。
この世界において、聖力というのは魔物を退け人々を護る、まさに聖なる乙女の持つ力とされている。中でもこのダズィル王国では、聖力は女性の価値を高める最たる才能とされていた。
けれど、それはあくまで人間から見た聖力というもの。
魔族や魔物と呼ばれる者たちから見た聖力は、また少し違う意味を持っていた。
今年は聖力の質が例年より高いな。
例年通り進んで行く聖力調査式典を、足を組んでぼんやりと眺めていたクラキオは、そう思いながら僅かに目を細めた。
魔公であるクラキオにとっても、この聖力調査式典は特別な意味を持つ。もちろん、この場に参列している他の貴族のように、聖力の強い少女を養子にしようなどという、そういった意味ではなく。
言うなれば、市場調査に近い。
聖力の質が良いと言うことは、聖石の取れ高が増えるということだから。弱い魔物たちにも十分に聖石を行き渡らせることが出来そうだ。
口許を緩めながら、クラキオはそんなことを思った。
聖女の有する力、聖力を、物質の形で取り出したものを聖石と言う。聖女が祈りを込めることで造りだされるそれは、無色透明の小さな砂糖の塊のような物だった。それを、定期的にクラキオの元へと持って来る代わりに、国内の魔物たちの動きを制限する。それが、クラキオが激情の魔公としてダズィル王国と交わしている契約の一端である。
魔物にとって、目に見える聖力である聖石には、特別な意味があった。万能の薬というのが一番分かりやすいかもしれない。病気や怪我をしている魔物が聖石を食べればたちまち回復するのだから。まあそれも、いくつかの条件下ではあるのだが。
病気や怪我の程度もあるが、そもそも魔物そのものの強さに比例している。強い魔物とはすなわち、強い魔力を持つ魔物である。強い魔物であればあるほど、魔力と相反する聖力の効果が薄くなり、病気や怪我の治りも悪くなるのだ。
魔物の強さは、魔物が持つ魔核の色で判断される。魔力が弱い者の赤から始まり、橙、黄、緑、青、藍、紫の順で強いとされた。聖石は魔力が強い者ほど多く必要になるため、聖石が少ない年は、魔力の弱い魔物に聖石が十分に行き渡らない場合も多かったのである。
聖女の心臓を食らえば、それ以上の効果をもたらすけれど、それだとすぐに食い尽くしてしまうからな。
それでは意味がないと考えたクラキオの父、先代の魔公が、ダズィル王国の王と契約を交わしたのが始まりである。
魔物からは聖女も普通の人間も見分けがつかない。だからこそ、契約が交わされる前は、魔物が無差別に人間の女性を襲っていたという。今でも、契約をしていない魔公の領地内の国では、度々人間の女性が襲われている。
魔公一人の領地には、三つか四つの国がある。俺の領地内にも、この国を含めて四つの人間の国があるけど、契約しているのはこのダズィル王国だけだからな。
他の国では、もちろん被害が出ている。魔物を受け入れることが出来るか出来ないか。たったそれだけの差だった。
世界的に見ても、魔公と契約を交わしているのは、ダズィル王国の他にたったの一国だけ。むしろダズィル王国の在り方を奇異の目で見る国の方が、圧倒的に多いのである。
まあ、現在の魔公の中でも、人間と契約を交わそうなんて思うのは俺かアイツくらいだし、仕方はないかもしれないけどね。
結論付け、クラキオはまた意識を目の前の聖力調査式典へと戻した。
聖なる杯に触れ、湧き出す水の量がそのまま、聖女の持つ聖力の質である。通常、グラスの半分も水が湧き出せば、かなり質が良いと言える。にも関わらず、先ほどのルルという名の少女など、半分を越えて杯の三分の二程度の水が湧き出していた。今年は心配していたような事態にはならないようだと、クラキオは小さく息を吐いた。
聖力に関しては、完全に運任せの所があるからね。
こうして毎年この場に来ては、心の中で一喜一憂しているのだった。
「リーリア・アイル」
今年の聖力調査対象である、最後の少女の名前が呼ばれる。カイネス侯爵家の令嬢であり、ダズィル王国の金の薔薇との呼び声も高い彼女は、ただ白いだけの簡素なドレスを纏っていても、その美しさが損なわれることはない。クラキオも、今年の夜会で何度か見かけたが、お互いに派手な容姿をしているため、人の壁が切れることがなく、一度も言葉を交わしたことはなかった。
「……アイル嬢? 大丈夫ですか?」
名を呼んでも動き出さない彼女に、大聖女はもう一度そう問い掛ける。聖力調査対象である少女たちの最前列に座った彼女は、どこか浮かない表情をしていて。大聖女の声に、はっと顔を上げると「……っ! え、ええ」と応えた。
途端、先ほどの暗い雰囲気はどこへやら、すっと音もなく立ち上がると、滑るように歩き出す。淑女の鑑とでも言われそうなその姿に、方々から感嘆の声が漏れていた。
彼女はどこか緊張した面持ちで壇上に上がると、大聖女の言葉を聞きながら、杯に手を伸ばした。
……? 俺の勘違い、かな?
彼女が杯に触れたと思ったら、一瞬にして、杯の中には水が湧き出し、もう少しで零れてしまうのではないかという程の量となる。それは誰の目にも明らかで、周囲がざわついているのも納得が出来るのだが。
……手、離れてる気がするんだけどな。
通常、この聖力調査式典に呼ばれる少女たちは、まだ聖力の扱い方を知らない。そのため、ごく初歩的な、呼吸に聖力を載せるという方法を使い、聖力の質を調査する。深く吸い込んだ息を吐き出すと共に、身の内にある聖力を杯に満たすのだ。そのため、吐息が零れている間は、大抵聖力が満ちていくのが普通なのだが。
手を離してしまえば、それは途切れるのが当然。今の状態でほとんど杯が満ちているから、間違いなく今年の最高位聖女は彼女になるだろうけれど。
聖力が溢れるのを、止める必要もないだろうに。もし、あの杯を完全に満たすどころか零れる程の聖力ならば……。
自分がこの場に参列するようになって以来、最も強い聖力の聖女といえよう。そして、だからこそ不思議なのだ。聖力が溢れることを止めること自体が。
聖女であり、その聖力の質で女性の価値が高まるこの国において、そのようなことをする意味が。
「さすが、カイネス侯爵家のご令嬢。今年の最高位聖女は、貴女様ですわ。ここまでの聖力を持つ方は珍しいのですよ」
彼女の隣に立っていた大聖女が、笑みを深くしてそう告げる。どうやら大聖女も、彼女が手を離していたことに気付いていないようで。
どこか浮かない表情で微笑む彼女が座っていた席へと戻ると、第聖女は杯の水を水盆に流す。参列している人々を見渡し、大聖女は「それでは皆様、これにて式典は終了いたします」と声を上げた。
「立食形式ではありますが、簡単な昼食をご用意しておりますので、前室の方へお越しくださいませ」
大聖女が言うと同時に、聖堂の空気は緩み、王族がまず立ち上がる。目の前を横切る国王や王妃、第一王子を眺めていたら、第一王子がどこか不可解そうな表情をしている気がした。もしかしたら彼も気付いたのかもしれない。彼女が、杯から手を離していたことに。
……そういえば、第一王子とアイル嬢には、婚約の話が出ていたな。
それも、第一王子自らそれを望む形で。
しかし、カイネス侯爵家と言えば、現在この国で最も権力を持つ貴族と言って良い。そのため、これ以上権力を偏らせないために、周囲は婚約を反対していると聞いている。カイネス侯爵もまた、あまり乗り気ではないという話だった。
もし、あのままアイル嬢が杯に手を触れていて。俺でさえも今まで見たことのないほどの聖力を宿しているのだとしたら、一も二もなく第一王子の婚約者になっていただろうけれどね。
聖力の強さが女性の価値を高める。それは、王家であっても例外ではないから。けれど、彼女は杯から手を離してしまった。
クラキオが考え付く、その行動の意味は一つだけ。
彼女は、第一王子と婚約したくなかった。
他に好きな男でもいたのかもな。それだと理解出来るから。
次期王妃の座を投げ打ってでも寄り添いたい相手がいるとするなら、それはとても羨ましい話だと、そう素直に思った。
王族が横切った後を追うように、クラキオもまた席を立つ。昼食を取ったらまた仕事に戻らなければと考えながら、聖堂の扉へと向かって。
「……アイル嬢?」という、不安そうな大聖女の声が聞こえた。
「大丈夫ですか? 具合が悪いのでしたら、私たちの住まう聖女院の方で休んで行かれたら良いかもしれませんわ」
思わず足を止めて振り返れば、大聖女に話しかけられる、椅子に座りこんだままの彼女の姿。「いえ、大丈夫ですわ」と、彼女は少し疲れたような声で答えていた。
「少し緊張してしまっていたものですから。少し休んだら、わたくしも前室へと向かわせて頂きますわね」
「お父様たちにも、そう伝えてくださると有り難いのですが……」と続いた言葉に、大聖女が頷くのが見えた。聖堂にいた人々もすでにクラキオの脇をすり抜け、前室へと姿を消している。大聖女もまた、クラキオに軽く会釈をして、聖堂を後にして。
残ったのは、今だ座ったままの彼女と、立ち止まってしまった自分だけ。
……聞いてみようか。何で、手を離してしまったのか。
クラキオの予想通り、ただ第一王子と婚約したくなかっただけなのだろうか。そう思いながら、彼女の元へと足を運ぼうとして。
すっと、彼女が立ち上がった。そのまま、すたすたと、先ほどの具合の悪そうな様子はどこへやら、壇上へと歩き出して。
再び彼女は、聖なる杯の前に立っていた。不思議そうな表情でじっと杯を見て、息を吸い込み、杯に触れて。
次の瞬間、目に飛び込んで来た光景に、クラキオは言葉を失っていた。
「……え? え、え!?」
彼女が驚いたような声を上げるのが聞こえる。けれどクラキオ自身も、同じような心境だった。
杯に満ちた水はそのまま零れ落ち、教壇の天板を濡らしたかと思えば、今度はその側面を滑り下りて行って、彼女の足元に水溜りを作っていく。
凄まじいほど強力な、聖力の持ち主。
二百年以上、この場を訪れているけれど、初めて見た……。
それほどに稀有な、奇跡のような力の持ち主。
慌てたような様子で周囲をきょろきょろと見回している彼女は、おそらくその零れてしまった水をどうにかしようとしているのだろうけれど。
ふと、思う。人間たちが、誰も彼女の、奇跡のような聖力の強さに気付いていないというならば。
自分がそれを、利用しても良いのではないか、と。
幸いにして、彼女はどうやら、その聖力の強さは隠そうとしているのだから。
知らず、口許に笑みが上る。「これはこれは」と、低い声が唐突に聖堂の中に響き渡った。
別に、取って食おうというわけじゃないから、良いだろう?
「どうしたんだい、アイル嬢。随分と、慌てている様子だけど」
はっと、彼女がその美しい顔を上げた。濡れたような緑の瞳に、透き通るような白い肌、頬にかかった輝くほどの金の髪。王国の金の薔薇と名高い、麗しの聖女。
ゆっくりと、クラキオは彼女の元へと歩み寄る。彼女の驚愕の眼差しを、真っ直ぐに受け止めながら。
「……ツォルン、公爵様……」
震える唇で紡がれた言葉に、クラキオは艶然と微笑んで見せた。良い物を見たと、そう思ったから。
人間にとっての聖力も、沢山の使い道があるのだろうけれど。
俺たち魔物にとっても、ちゃんと使い道があるんだよ。
思い、口を開こうとして。
「ごきげんよう」と、彼女は突然、淑女然とした柔らかい笑みを浮かべた。
「初めまして、ですわね。カイネス侯爵の娘、リーリア・アイルと申します。このような所でお会いするなんて、奇遇ですわ。ああ、式典に参加されていたのですから、当然ですわね。公爵様もお食事されるのでしょう?」
「え? ああ、そうだね」
「それなら、早く参りましょう。大聖女様は立食形式と言ってらっしゃいましたし、食べ物がなくなってしまうかもしれませんわ。わたくしも、少し体調を崩していたのですけれど、お腹がすいてきたところでしたの」
「ああ、それは良かったね」
「はい、本当に。それでは、お父様たちも待っていると思いますので、これで失礼しますわね。ごきげんよう、公爵様」
すらすらと、彼女は言葉を続けたかと思うと、綺麗な笑みと礼の形を残して、すたすたと歩いて行った。早口で言っていたわけでもないのに、口を挟む隙が無かったのはどういうことだろう。圧倒された、という言葉が正しいかもしれない。
知らず呆気に取られていたクラキオは、彼女の背が完全に見えなくなったところで、ぱちぱちと瞬きをして。
「あははっ」と、明るい笑みを零した。
「ただ綺麗なだけのお人形のような子かと思っていたけれど。そこまでして、聖力のことを隠したいのかな。……でも、この目に見てしまったものは、そう簡単に忘れられないからね」
ちらりとまだ教壇の上に置いてある聖なる杯を見て、クラキオはまた笑みを浮かべる。さて、どうやって彼女を自分の元に引き込もうかと、そんなことを考えながら。
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