3.わたくしは、もっと注意力を身につけるべきなのかしら。

 牛月の一日。例年通り、聖力調査式典はダズィル王国の王都ルイニーズの中央にある聖殿にて執り行われた。

 美しい白亜の石造りの聖殿は、人によってはダズィル王国の王宮よりも美しいと言うだろう。長方形の巨大な建物の周囲を、大きな円柱が二重にぐるりと取り囲んでおり、その柱の間を通る聖女たちは皆、真っ白なドレスを身につけていて、神秘的な雰囲気に満ちていた。

 幼い頃に一度この場を訪れたリーリアには、彼女たちがとても清らかで、美しく見えたものだ。もちろん、聖力を調査される歳となり、聖殿の最も奥の部屋、聖堂に、他の少女たちと共に集められた今も、周囲を淑やかに歩く彼女たちはとても美しい。精錬された清らかさ、とでも言うのだろうか。舞踏会や晩餐会など、美しい貴族の令嬢や貴婦人たちを目にする機会は多いけれど、彼女たちはそれとはまたちがう美しさに満ちているのだ。

 彼女たちのように聖殿に住まうのは、聖女と認められた少女たちの内、自ら志願して聖殿に入った聖女である。聖殿は国の管轄となるため、衣食住は保証され、日々の務めを果たすことで給金も支給される。そのため、主に貧困層出身の聖女が多いのが現状であった。家族の内の一人が聖殿に入り、衣食住に金銭がかからず、給金を家に送ることが出来る。貧困層の者たちにおいて、これ以上にないほど恵まれた職場なのである。

 また、聖殿に住まうのは、大聖女などの立場にならない限り、主に十六歳から二十歳まで。ダズィル王国では結婚は男女ともに二十歳で認められており、聖殿では淑女としての立ち居振る舞いも貴族の令嬢なみに叩きこまれるため、貴族ではない少女たちにとっては、割の良い行儀見習いの場ともされているようだった。

 聖堂の壁は上部にガラスがはめ込まれおり、灯りもないのにとても明るい。計算しているのかいないのか、奥の一段高い位置にある教壇に降り注ぐ光は、狙ったようにその壇上に置かれた、銀の飾りが巻き付くワイングラス程度の大きさのガラスの杯を輝かせていた。


 今年の聖女の数は例年よりも多いと聞いていたけれど、……それでも、これだけなのね。


 見咎められない程度に周囲を見遣りながら、リーリアは心の中でぽつりと呟いた。リーリアも含め、今日の主役とも言えるべき聖堂の前方に集められた、一様に白いドレス姿の少女たち。後方には、少女たちの家族、貴族の順で並んでおり、リーリア達の左側には国王を始めとする王族と聖殿関係者、そして特殊な貴族である魔公、クラキオの姿もあった。

 リーリアは筆頭貴族の令嬢であるため、最前列に座っているのだが、こうして見る限り、おそらく聖女の数は三十人にも満たないだろう。そのうち貴族の令嬢が十二人。当たり前だが、非常に高い割合である。

 厳かな雰囲気の中で、式典は順調に進んで行く。聖殿の最高責任者である大聖女の言葉、参列している国王の激励が終わると、集められた聖女たちが一人ずつ壇上へと呼ばれた。

 最初に呼ばれたのは、地方から集められた、すでに聖力があると認められている少女たちである。壇上へと上がり、隣に立った大聖女の指示の元、教壇の上にある杯に触れる。

 するとどうだろう。杯の中に、どこからともなく水が湧きだすではないか。リーリアは知らず目を見開いていた。


「今年は聖女の数が多いとは聞いておりましたが、聖力そのものもとても強いようですね」


 杯に四分の一程溜まった水を見ながら、ふふ、と大聖女が笑う。壇上にいた少女が、嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 式典は着々と進んで行く。最初の少女を筆頭に、皆、四分の一から半分の水が杯に溜まっていた。それは、その人の聖力をそのまま形にしたものであり、水の量が多いほど聖力が強いのだという。杯の隣に置かれた水盆は、溜まった水をその都度零しているため、すでに溢れそうだった。

 と、聖殿の聖女が二人、淑やかに歩み寄り、新しい水盆へと交換して行く。「水盆が溢れるなんて、初めてのことですよ」と、大聖女はまたも微笑んでいた。


「では次の方。……ルル・ティタリス」


 呼ばれた名前に、リーリアははっとそちらを振り返りそうになり、慌てて堪えた。最前列にいる自分が急にそのような動きをすれば、あまりに目立ってしまう。それに、それこそ最前列なのだ。彼女が壇上に上がれば、嫌でも目に入る。

 かつ、かつ、と、緊張しているのか、硬い足取りで一人の少女が歩いて行く。頭の上できつく結われた茶色の髪。食い入るように見つめていたリーリアは、彼女が横を向いた瞬間、息を呑んだ。


 ……ルル・クワイト……。


 間違いなく、彼女だった。優しげな表情も、人懐っこそうな大きな瞳も、ふっくらとした唇も、少しだけ気弱そうに垂れた眉も、全て。

 現実、だった。


 やっぱり、そう、なのね。あの本は、あの物語は……現実に起こること、なんだわ。


 頭の中で、本で読んだ物語がぐるぐると回る。ただぼんやりと、リーリアはルルが壇上で杯に触れるのを見ていた。今までで最も多い、三分の二程度の水が湧き出て、周囲が少しざわめいていて。けれど、リーリアの目は、ただその光景を見ているだけだった。頭には、何も入って来なかった。ただただ、ばくばくと心臓が音を立てるのが耳にまで響いて来る。

 怖い。怖い。


 だって、わたくしは。


「リーリア・アイル。……アイル嬢? 大丈夫ですか?」


「……っ! え、ええ」


 いつの間にか、ルルは壇上から姿を消していて。他の貴族令嬢たちの順番さえも終わってしまったようだった。名前を呼ばれたリーリアは、慌てて返事をして椅子から腰を浮かせる。

 怖かった。どうすれば良いか分からなかった。


 聖力が強いって知られなければ良いだけなのに、どうすれば良いか分からない……。


 触れただけでその聖力が測られるというなら、何も出来はしない。いっそのこと、あの杯を倒してでも、水の量を調整出来たら。

 重い足取りで、けれどカイネス侯爵家の令嬢として恥ずかしくないように、すたすたと歩く。壇上へと上がり、教壇の前に立って。

 すと、大聖女が隣に歩み寄って来た。


「そんなに緊張なさらないで。大きく息を吸って、杯に触れてからその息を吐き出すだけですからね。聖力は、それを有している者にとっては呼吸と同じ。身体中の空気を杯の中に吐き出すつもりで」


 優しい声音で、大聖女はそう教えてくれた。リーリアはそれに頷きながら微笑み返し、一歩足を進めた。

 ごくりと、生唾を呑みこむ。


 聖力は、呼吸と同じ……。


 それならば、もしかしたら。

 思いながら息を吸い込み、すと杯にその手を触れて。一瞬、口から息が零れた。


 う、わ、何、これ……。


 一瞬だった。ほんの一瞬だったのに。

 杯にはあと少しで溢れてしまいそうなほど並々と水が溜まっていて。驚きに息を止めた途端に、湧き出していた水が動きを止めた。

 周囲がざわめき始める。先ほど、ルルが三分の二ほど水を溜めた時でも、聖堂は驚きに満ちていたというのに。


 でも、苦し……っ!


 呼吸を止めると同時に水が湧き出すのを止めたということは、おそらく、また息を吐き出せば水が溢れてしまうはずだ。それこそ、奇跡のように。それだけは、何としてでも避けなければならないから。

 リーリアはさっとその視線だけで辺り確認し、周囲から見ても分からないよう、杯から少しだけ手を離して。

 一気に、息を吐き出した。


 く、苦しかった……!


 けれどそのかいあってか、杯の中の水がそれ以上溢れることはなかった。

 思わず、ほっと息を吐く。


「さすが、カイネス侯爵家のご令嬢。今年の最高位聖女は、貴女様ですわ」


 「ここまでの聖力を持つ方は珍しいのですよ」と続ける大聖女は、その優しい笑みを更に深くしていた。どうやら、手を離したことには気付いていないようで。リーリアは顔に出さぬままに、ほっと息を吐いた。

 一礼して、リーリアもまた座っていた元の位置へと足を進める。杯の水が水盆に流され、杯はまた教壇の上に置かれていた。


「それでは皆様、これにて式典は終了いたします。立食形式ではありますが、簡単な昼食をご用意しておりますので、前室の方へお越しくださいませ」


 激励の挨拶の締めくくりとして、大聖女がそう言うと同時に、張りつめていた空気が一気に緩む。王族を筆頭に、聖堂に集っていた皆がぞろぞろと前室へと向かい始めた。


「……アイル嬢? 大丈夫ですか? 具合が悪いのでしたら、私たちの住まう聖女院の方で休んで行かれたら良いかもしれませんわ」


 人々を見送って動こうとしないリーリアに、大聖女が心配そうに声をかけてくる。リーリアはそれに力なく微笑み、「いえ、大丈夫ですわ」と応えた。


「少し緊張してしまっていたものですから。少し休んだら、わたくしも前室へと向かわせて頂きますわね」


 「お父様たちにも、そう伝えてくださると有り難いのですが……」と付け加えれば、大聖女は心得たとばかりに頷き、聖堂を後にした。

 一気に静まり返った聖堂の中、リーリアは一つ息を吐き、椅子から立ち上がる。かつん、かつんと足音を立てて向かう先は、先ほども足を運んだ、教壇に置かれたガラスの杯の元。先ほど溜まった水はすでに水盆の中に零されていた。

 一応は、最悪の事態を切り抜けることが出来たはずだが、本来の自分の聖力というものがどれほどのものか、知っておくべきかもしれないと思ったのだ。単に好奇心が働いた、ともいうのだが。


「……奇跡と呼ばれるほどの聖力って、どれほどのものなのかしら」


 思い、軽く息を吸い込み、先ほどと同じように杯に触れて。

 息を、吐きだした。


「……え? え、え!?」


 驚きというよりも、恐怖に近かった。

 リーリアが杯に触れ、息を吐き出した途端、杯からは脈々と水が湧き出す。それは杯の大きさではとても納まりきらず、教壇の天板を濡らし、床にまで零れ落ちて行って。

 ぱっと、思わず杯から手を離していた。


 ど、どうしよう……。


 杯からはすでに手を離しているため、これ以上水が溢れることはない。しかし問題は、目の前のこの惨事である。

 まさかこのような場面を誰かに見られるわけにもいかず、何か拭くものはと、慌ててきょろきょろと周囲を見回して。

 「これはこれは」と、低い声が唐突に聖堂の中に響き渡った。


「どうしたんだい、アイル嬢。随分と、慌てている様子だけど」


 はっと、リーリアは顔を上げた。聖堂と前室を繋ぐ扉の方から歩いてくる、一人の青年。黒いゆるゆるとした癖のある長髪を揺らしながら、彼は真っ直ぐにリーリアの元へと向かってきていて。

 うそ、と、思った。


 何で、よりにもよって、この方が……。


「……ツォルン、公爵様……」


 褐色の肌に映える黄金色の瞳を歪ませて、楽しそうに彼は笑う。面白いものを見たと、その目は語っていた。

 間違いようもない、艶やかな美貌の持ち主。激情を司る魔族の公爵。クラキオ・ツォルン、その人だった。

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