ジャズは夜の魔法

僕凸

ジャズは夜の魔法

 ジンジャーエールを一口すする。氷が溶けてすっかり薄味になってしまっている。二杯目のドリンクを頼もうかどうか迷うが、我慢することに決める。一杯六百円というのは、夏休みで色々と散財した高校生にとって、はした金ではない。

 店の中はがらがらで、僕の他には三人しか客がいない。時刻を確認する。八時十五分。演奏開始は八時のはずなのだが、今のところライブが始まる気配はまるでない。隅のテーブルに楽器が置いてあるが、演奏者たちの姿は見えない。他の客たちはといえば、一人はタバコを吸っていて、もう二人は互いに知り合いであるらしく、世間話をしている。

 この店ではほとんど毎日ライブをやっている。市内には他にもいくつかジャズのライブハウスがあったが、一番カジュアルで入りやすそうなところを選んだ。僕の目的は、なるべく少ないお金でジャズの生演奏を聴くことだ。今日のライブに出演するのは地元の若手ミュージシャンで、ベテランや有名どころのミュージシャンに比べればライブチャージはだいぶ安い(が、それでも二千円する)。

 ステージ前に備え付けられた大きなスピーカーからは、聞き覚えのあるジャズのアルバムが控えめな音量で流されている。たぶんCDでかけているのだろう。さっきから記憶をたどってそのアルバムが何であったか思い出そうとしているのだが、全然出てこない。思い切って、カウンターの向こうで暇そうにしているマスターに尋ねてみることにする。

「すみません、これ、誰のアルバムですか?」

 マスターはちらりとこちらを見て、一口グラスの水を飲んでから面倒臭そうに言う。

「ハンク・モブレーの『ソウル・ステーション』」

 そういえばそんなアルバムがあった。特別好きなアルバムではないが、僕のプレーヤーにも入っている。僕は礼を言うが、マスターはもうこちらを見向きもしない。


 ほどなくして、今日の演奏者とおぼしき人たちが店に入ってくる。楽器が置いてあるテーブルに集まって、少しばかり打ち合せをする。僕はそわそわしながらライブが始まるのを待っているが、彼らの方にはまるで緊張している様子はない。

 演奏者たちはステージに上がり、それぞれの持ち場につく。テナーサックス、ギター、ベース、ドラム。ピアニストがいない。事前にウェブサイトで確認した情報によれば、今日のバンド編成はピアノを含む五人のはずなのだが。テナーサックス奏者(たしか真柴さんといったか)が、他のメンバーの準備ができたことを確認して、マスターの方を向いて軽くうなずくと、マスターは調整卓のところにいってつまみをいじる。スピーカーの音量が下げられ、ハンク・モブレーのソロは途中でフェードアウトしていく。五秒ほど無音の時間が続く。何の前触れもなしに、ドラムが短くイントロを出す。ゆったりとしたシャッフルビートだ。タムを叩いて大きくクレッシェンドをかける。シンバルの鳴るタイミングに合わせてベースとギターが入ってきた後、一拍の休符をおいてテナーサックスがテーマを演奏し始める。素朴な長調のメロディ。わらべ歌のようでもあるが、後ろでギターが奏でるコードにはしっかりとジャズの匂いが染みついている。テーマが終わるとテナーサックスのソロに移る。この真柴さんという人の演奏は相当うまいということに僕はすぐに気付く。輝かしい音色、滑らかな音の繋がり、湧き出すリズミカルなフレーズたち。夢中になって一音一音を耳で追っていると、真柴さんのソロはすぐに終わってしまう。続くギターソロもなかなかいい。後ろでコードを弾いてくれるはずのピアノがいない状態でのギターソロというのは結構難しいはずなのだが、そんなことはまったく気にせず自由奔放にフレーズを紡いでいく。最後にベースソロ。ベースソロの良し悪しというのは正直よくわからないが、耳をそばだてて聴いていると、そこにも一種の躍動感があることがわかる。ドラムが再び大きくクレッシェンドをかけて、テーマが戻ってくる。あっという間に一曲目が終わる。まばらな拍手の後、真柴さんがマイクをもって話し始める。

「ありがとうございます。一曲目はオリジナルで、『ブライト・ムーン』という曲でした。えー、今日は朝からピアノの萩田と連絡がつかなくてですね、こうして四人でお送りしております。まずはメンバー紹介」

 僕は茫然とした。連絡がつかない? ミュージシャンにとってライブをすっぽかすというのは一大事であるように僕には思えるのだが、真柴さんはじめ演奏者一同に特にショックを受けている様子はない。彼らの顔に浮かぶ苦笑は、そんなことはよくあるというくらいの気持ちを表しているように見えた。メンバー紹介が終わる。

「続いてお送りしますのは、スタンダードナンバーで、ガーシュウィン作曲の『ザ・マン・アイ・ラブ』という曲です。どうぞお聴きください」

 ギターが何小節かイントロを弾いて、アップテンポで曲が始まる。心地よいスウィングが店内の空間を満たす。テーマが演奏され、テナーサックスのソロがあり、ギターソロがあり、ベースソロがあり、テナーサックスとドラムの掛け合いがあり、またテーマに戻る。やっていることはいつもCDで聴いているジャズとそんなに変わらないのだが、身体感覚としては明らかに違う。僕は全身で音楽を浴びている。音の一つ一つが、光の粒となって肌を刺し、肉と骨を震わせる。これがジャズなんだ、と僕は思う。


 そうして何曲かの演奏が終わり、二十分の休憩がアナウンスされる。二十分というのはちょっと長いよなあ、と思いつつ、僕はトイレで用を足して席に戻る。この時間になって店にやってくる客もいる。常連らしく、マスターと親しげに言葉を交わしている。他の客を見ると、相変わらずタバコを吸ったり世間話をしたりしている。ミュージシャンたちも楽しげに談笑している。BGMで流れているのは知らないアルバムだ。僕には誰に話しかけに行く勇気もない。僕は一抹の寂しさを覚える。ここは大人の世界で、本来僕のような高校生が来る場所ではないのかもしれない。時刻はもう九時をまわっている。ライブが終わるころには十時を過ぎるだろう。子供はもう寝る時間だ。

 ほとんど水になったジンジャーエールをちびちび飲みながら、手持ち無沙汰で二十分を過ごす。誰も僕に話しかけない。視界にも入っていないのかもしれない。僕は自分が透明人間になったような気がして、自分の両手をまじまじと見つめる。いつも通り、両手は確かにそこにある。


 長い休憩が明けて、後半の演奏が始まる。前半は穏やかな曲が多かったが、後半は一曲のバラードを除いてかなり激しい演奏の連続となった。真柴さんは、テナーサックスの音域を下から上までフルに使って、すさまじい勢いで駆けていくスポーツカーのようなソロをとる。ギターが鋭くコードを刻み、ドラムは容赦なく両手両足で煽り立てる。地を這うような音のベースがそれを支えている。僕の目はステージに釘付けになる。演奏者たちは派手な身振りはせず、姿勢をきっちり保って演奏しているが、彼らの両手が次々に音を導いていく様子は、なんだか魔法のように見える。

 ライブが終わると、タバコを吸っていた客はそそくさと会計を済ませて帰り、他の客はかわるがわるミュージシャンのところに行って何か話しかけた。僕は席に座ってじっとしている。なんとなく、まだ帰りたくないような気がする。この店の外に出れば、いつもの世界に戻ってしまう。そこに魔法はない。もう少し演奏の余韻に浸っていたい。そう思ってしばらくのあいだぼうっとしていると、不意に横から声をかけられた。

「こんにちは。今日は聴きに来てくださってありがとうございます」

 真柴さんだ。僕はあわてて向き直り、演奏が素晴らしかったことを伝えようとする。でもうまく言葉が出てこない。

「はい、えーと、とてもよかったです」

 真柴さんはにっこりと笑う。

「それはよかった」

 沈黙が流れる。僕は別の話題を振る。

「どうすれば、真柴さんみたいにうまくなれますか」

 そう言ったことを少し後悔する。もうちょっと適切な話題というものがあっただろう、と思う。

「君もサックスを演奏するの?」

 にっこりした顔のまま、真柴さんが尋ねる。

「いいえ、サックスではなくて、ピアノを少し」

「君は学生だよね」

「高校生です」

「音楽理論は学んだのかな」

「コードとかスケールは一通り覚えました」

「人前でジャズを演奏したことは」

「ありません」

 真柴さんは少しのあいだ言葉を探す。そして言う。

「うまくなるにはたくさん練習すること。でも必要なのはそれだけじゃない。ジャズはコミュニケーションの音楽だから、誰かと一緒に演奏することが大事だ。それを人に聴いてもらうことも大事」

 僕はうなずく。ジャズはコミュニケーションの音楽、と頭の中で反復する。

「何か弾ける曲はある?」

 僕は少し迷ってから言う。

「『枯葉』くらいなら」

 真柴さんは両手をぽん、と合わせる。

「それじゃあ早速実践だ。一緒に演奏しよう」

 僕は呆気にとられている。一緒に演奏? この人たちと? 真柴さんは隅のテーブルに集まっている他のミュージシャンたちに声をかける。彼らと話していた客も含め、皆がこちらを見る。僕は顔を赤くして、下を向く。やりたいとかやりたくないではなくて、ただただ恥ずかしくて緊張する。


 僕はピアノの前に座っている。真柴さんにテンポはどうするか、と訊かれたので、ミディアムで、と言って指を鳴らして拍子を取る。真柴さんはうなずいて、ギタリストの方を見る。ギターイントロが出て、八小節目にテナーサックスがメロディを吹きはじめる。ベースとドラムが入るのと同時に、僕もコードを押さえる。グランドピアノの鍵盤は思ったより重くて、一音目はうまく鳴らない。慌てて次のコードを押さえると、今度は強く鳴りすぎてしまう。その次のコードを押さえながら、他の演奏者の方にちらっと目を向ける。誰もこちらを見ていない。でも聴いてはいる。僕のミスに気付いた上で、それを受け入れながら演奏を続けている。僕にはそれがわかる。おなじみのテーマが終わり、真柴さんがソロをとる。僕はソロの邪魔にならないように、タイミングを計りながら短い音でコードを押さえていく。大丈夫、家で何度も練習したとおりだ。少しずつ緊張が解けていく。周りの音を聴く余裕が出てくる。ベースとドラムは律儀にフォービートを刻み、ギターは僕の音のさらに合間を縫ってコードを弾く。彼らは明らかに、先ほどまでの演奏に比べて熱量を落としている。僕に合わせてくれているのだ。

 四コーラスでソロが終わると、真柴さんは僕の方を見る。今度は僕がソロを弾く番だ。左手でコードを押さえながら、右手で始まりの音を探す。八分音符で下降音階から始まるフレーズを弾く。指がもつれて、フレーズはうまくリズムに乗らない。しばらく弾いて、少し休符をはさむ。焦らなくていい、落ち着いて、と僕は自分に語りかける。もう少しゆったりとしたフレーズを弾いてみると、今度はうまくいく。そのままペースをつかむと、僕は無我夢中でソロを弾き続ける。家で一人で弾いているのとは全然違う。他の演奏者たち皆が、僕を後押ししてくれる。皆が僕の音を聴いている。フレーズはとめどなく湧き出てくる。


 演奏が終わった後、ミュージシャンの人たちと少し話をしたけれど、放心状態で何を話したかまったく覚えていない。僕は会計を済ませて店の外に出る。八月も終わりに近づいていて、夜の街は随分と涼しい。空を見上げると月が出ている。

 今日、僕は本当の意味でジャズに出会ったのだ、と思う。僕は確かに魔法を目の当たりにした。たとえ外の世界が退屈でも、ここでは毎夜、ジャズが鳴っている。ここには魔法がある。そのことを僕は知っている。それだけで、満ち足りた気分になることができる。僕は大股で、一歩一歩しっかりと地面を踏みしめながら駅の方に向かう。

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