第5話 入山
「低い位置の葉が不自然に少なく、あの葉と同種の木。間違いなく、これだな」
時間にして山に入ってからおよそ三十分、僕らは件の木を見つけ出していた。かなり慎重に進んだのだが、予想外に早い。入山してすぐに見つけたけもの道を辿ったのが功を奏したようだ。この木の先にも道は続いているから、もともとあった道を利用したのだろうか。ともかく、犯人が学校からこの木へと移動するのに使った道なのは間違いないだろう。
「手入れされていない山で助かりましたね、先輩」
「こんなに簡単に辿れるなんてな。あっけなさすぎて、ちょっと拍子抜けだ」
「これでよかったんです。夜の山を延々とさまよい歩くなんて、僕は嫌ですよ」
「それはわたしも少し嫌だな。でもわたしの知っている作品ならここからもう一波乱……」
「ありません。ほら、来た道通って帰りますよ。『問題の木があるかどうか確認する』っていう目標は、達成できたんですから」
「周りをざっと調べるぐらい……」
「こんな暗い中でそんなことしても意味ないですよ。それに見るだけってのは先輩が言ったんですからね」
これだけはっきりとした痕跡が見つかったのだ。また明日にでも見張りについていれば、尻尾くらいはきっと掴めるだろう。今こんな場所に長居する理由はなにもない。
今回もどうにか先輩に怪我をさせずに済みそうで、僕はほっと胸を撫で下ろす。もちろんまだ山の中には違いないから、油断は禁物だが。
どこかで聞いたことがある。山での事故は登りよりも下りの方が多いのだと。頂上という一番の目的地を過ぎて気が緩み、その結果、足を踏み外す。ましてや夜の山であるなら、なおさらだ。
僕は今一度気を引き締めて、ごねる先輩とともに先のけもの道を下っていった。
* * *
「先輩、そこ、木の根が突き出してるんで気をつけてください」
往路よりも頻度が下がったとはいえ、観察のために足元だけでなく周囲にもライトを揺らしている先輩は、見ていてかなり危なっかしい。障害物があればその都度伝えているが、それでもたまにつまずきそうになっている。心臓に悪い。
あの木の場所から時間にして数分、下りだからか、一度通ったことがあるからか、僕らは行きとは段違いのペースで進んでいた。冷たい風が頬を撫でていく。その風に木々が揺れ、ガサガサと音を立てる。先ほどまでとは明らかに違い、音が増えたように感じる。それだけ、僕がこの場所に慣れたということだろうか。
一歩、また一歩と進む。その度に、踏み倒された草木に混じる枯れた細木が、小さくポキリと鳴っていた。それがいやに、耳に残る。夜の山の空気のせいか、妙に感覚が過敏になっているような――
「うわっ……どうした? 急に止まったりして。なにかあったのか?」
「いや、いまそっちの方から、なにか変な音が聞こえた気がして……」
「音? どんな音だ?」
「なんていうかこもってるような、普通の十倍ぐらい太いリコーダー……みたいな」
低く響くような、木々の向こうから微かにそんな音が聞こえたと思ったのだが、先輩は心当たりがなさそうだ。気のせいだったのだろうか。
「行ってみよう」
そう言って、そのまま足を踏み出そうとする先輩を、僕は慌てて押しとどめる。
「そっちはダメですって。草が伸び放題で足元も見えたものじゃない。今更って言われるかもしれませんが、先輩はスカートなんです。足が傷だらけになりますよ。音はたぶん、気のせいですから」
「そんなこと気にするな。それに、気のせいかどうかなんてわからないだろ? 単にわたしの耳が悪かったのかもしれない」
先輩はさらに続ける。
「それにこういう場面での助手キャラの気付きは、たいてい事件の核心に迫るものなんだよ。ミステリ作品のお約束みたいなもんだ」
「だからそれはフィクションの話じゃないですか。先輩がいくら名探偵であっても、名探偵の隣に必ずしも優秀なパートナーがいるわけじゃない。それが現実で……どうしたんですか?」
唐突ににやにやし始めた先輩に、僕は思わず言葉を切る。
「……なんでもない。ちょっと嬉しかっただけだ」
先輩はそう答えて、木々の向こう、音の聞こえた方向を見透かすように目を細めた。そして僕の腕を掴むと、音の方向へと押し出そうとする。
「じゃあこうしよう。このけもの道と同様に君がここから先を踏み均してくれ。わたしはその後をついて行く。それならわたしがスカートでも、問題なくなるだろう?」
「問題ですよ!? それ先輩が足を怪我するかも問題しか解決してないですからね!?」
「……迂闊だったな、神田。こんな局面でそんな手がかりチックなことを言われたわたしが、調べに行かないわけがない。それに、わたしがさっき譲歩してやったんだ。今度は君が譲る番だよ」
詭弁だ。僕が思うに、譲歩はターン制ではない。だがあの妙な音のことを口にしたのは、確かに迂闊だった。冷静に考えればこの展開も予想できたはずなのに。夜の山で周りに気を配りすぎたあまり、自分自身の状況が見えていなかったのだ。
「仕方ないな……じゃあ君は先に帰ってていいぞ。わたし一人で行くから」
「えっ……だからそれは怪我しちゃうからダメですって」
「ああ、君が来ないとわたしの足は傷だらけに、もしかしたらもっと大きな怪我をしてしまうかもしれないな。でも君は来ないんだろう?」
「……ずるいですよ、その言い方は」
「ずるいというなら、君も同じだ。違うか?」
先輩は僕の顔を覗き込む。冷たさを窺わせる鋭い目。そのさらに奥深くにある名探偵の怜悧な頭脳。初めて目にした彼女の圧に、僕は気温以上の冷えを感じた。
「どういう、意味ですか」
「ふふっ……別に、大した意味はない。君のそういうところはわりと好きだよって話だ。大切にされて喜ばないほど、わたしはひねくれてないからね」
そう言って、先輩はさっきまでのことが見間違いだったと思えるほどに、柔らかい笑みを浮かべる。これはもう、観念するしかなさそうだ。どうやら僕の浅い意地なんて、この名探偵にはすべてお見通しだったらしい。
「さて、わたしは行くけど、君はどうする?」
「……行きますよ。行かないって選択肢、もうなくなっちゃったみたいですから」
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