第3話 依頼
少し、集中が途切れて顔をあげる。時計に目を向けると、時刻は既に六時を回ろうとしていた。先輩は文庫本を開いて、眉間にシワを寄せている。今人気のミステリ作家の最新作だ。もう発売してたのか。先輩が読み終わったら貸してもらおう。
僕は軽く身体を伸ばそうと立ち上がる。その時、コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。先輩は栞を挟んで本を閉じ、僕に出ろと言わんばかりの視線を送ってくる。誰だろう、厄介事でなければいいが……。なんとなく嫌な予感を覚えつつ、僕は扉に駆け寄って、ドアノブを回し開く。
「――あの、困ったことがあったら、相談にのってくれるって聞いたんですけど」
「……とりあえず、中にどうぞ。お話は聞きますから」
一瞬追い返そうかと思ったが、背中に伝わる猛烈なプレッシャーに負けて通してしまった。やってきた少女はきょろきょろとあちらこちらに目を向けている。そんなに物珍しいものはないはずだけど、どうしたんだろう。
長い黒髪を後ろでまとめ、大きな眼鏡をかけた女の子。やけに分厚いレンズとその奥の褐色の目が印象的だ。リボンの色は青。僕と同じ一年生か。
先輩はいかにも楽しみだと言った様子で、少女が椅子に腰掛けるのを待っている。僕は彼女に座るように促し、飲み物を出すべく冷蔵庫を開けた。
「飲み物、何がいいかな? オレンジジュースとお茶と炭酸水があるんだけど」
「あっありがとうございます……じゃあ、お茶で」
「わたしはそれを三対四対二の割合で混ぜたものを頼む」
「……難しいこと言いますね」
僕は新しく紙コップを三つ取り出し、それぞれ言われた通りに注いでいく。もちろん先輩の分も注文通りに。複数の飲み物を提示されたとき、先輩は必ず謎の冒険心を見せてくる。それで何度味覚を破壊されたとしても、めげずに再び立ち上がり、また別の組み合わせに挑戦するのだ。好奇心旺盛だと言われればそれまでなのだが、僕にはむしろ、ある種の被虐趣味のように思えてならない。
僕もお茶にしよう。先輩と向かい合うようにして座った少女の前にお茶のコップを置き、僕は先輩の隣の椅子に腰掛けた。
それにしても、先輩の飲み物は酷い色をしている。赤茶けた泥水を炭酸水で割ったようなその液体から目を逸らし、僕はお茶に口をつけた。
「さて、まずは自己紹介といこうか。わたしがミステリー研究部で二年生の高橋、こっちは君と同じ一年生の、神田だよ」
「文芸部です。ミステリー研究部なんてのはこの先輩が勝手に言ってるだけだから、気にしないで」
「はあ……あっ、えっと、私は一年生で美術部に所属してます。
戸惑う小野寺さんを見て、僕は失敗を自覚する。今ここで訂正するべきではなかったのかもしれない。実際ここは文芸部に違いないのだが、主に先輩の流す噂のせいでミステリー研究部という名前の方が広く知られてしまっているのだ。他所から見たら、困惑するのも無理はない。
「……あの、それ、美味しいんですか?」
先輩がコップに口をつけたのを見て、小野寺さんはおずおずと先輩に問いかける。先輩の表情に変化はない。だがそれだけで、僕はなんとなく答えを察した。
「不味いな。尋常でなく不味い。腐った柑橘の汁を煮詰めて砂糖水と消毒液で割ったような味がする……神田、これほんとにあの三つを混ぜてつくったものか? 毒とか入れてないだろうな」
「入れてません。それちゃんと全部飲みきってくださいよ。僕に押し付けられても絶対飲みませんからね」
「わかってる……まったく、これが毒じゃなかったらいったいなにが毒なんだ……」
少しずつ毒、もといミックスジュースを流し込む先輩は無視して、僕は小野寺さんに向き直る。時間も時間だし、話だけでもはやく済ませた方がいいだろう。
「それで、小野寺さんはどうしてここに? 困ったことって言ってたけど」
「えっと、あの、さっきは困ったことって言ったんですけど、厳密にはちょっと違って、気味が悪いことっていうか……とにかく、これを見てください」
そう言うと小野寺さんは、ポケットの中から何やら取り出し、机の上に置いた。僕はとりあえずそれを手に取って、調べてみる。
「これは……葉っぱが三枚、少しずつずらして貼り合わせられてる? 裏になにか透明な固まりがついてて……木工用ボンドっぽいけど……」
「はい、たぶんボンドかと……スケッチをしようと思っていい場所を探していたら、それが校舎裏の日陰に貼り付けられているのを見つけたんです。しかもそれひとつじゃなくて、その場所の至る所に」
「至る所!?」
それは確かに不気味だ。そんなものを見ることになった小野寺さんに、僕は少し、同情する。ようやっと毒から解放されたらしい先輩が、僕の方に手を伸ばして、言った。
「神田、それをわたしにも見せてくれ……随分と新しい葉だな。緑も鮮やかだしみずみずしい……」
「小野寺さん、そもそもどうして僕らの所に来たの? こんなもの見て見ぬふりして放っておいても、君にはなんの損もないと思うんだけど」
先輩が葉を細かく観察しているのを横目に、僕は気になっていたことを問いかける。先輩は葉を透かして見てみたりするのに忙しそうだが、この状態でもちゃんと話は聞いているので問題はないだろう。小野寺さんは僅かに目を伏せ、口を歪める。
「こんなことするのがどういう人なのか、興味があるから、ですかね。自分で調べてもいいんですけど、それはちょっと大変なので、どうしようかなって思って。それで思い出したんです。こういう妙な事件を調べてくれる探偵がいるって噂を」
おどおどした雰囲気はそのままであるにもかかわらず、レンズの奥から覗く彼女の目は、やけにぎらついて見えた。大人しそうに見えて、その実狡猾。いや、どちらかというと覗き見趣味と言った方が適切か。少女の屈折した他人への興味を垣間見て、僕は背中に薄ら寒いものを感じた。人は見かけによらないな。
「この葉の近くには、誰もいなかったのか?」
あらかた見終わったのか、先輩は葉を机に置いて小野寺さんに問いかけた。彼女は少しの間考えて、言葉を返す。
「はい、葉の近くには誰もいませんでした。ちょっと離れたところにはランニングしてる人とかいましたけど……」
あの辺りを普段走っていたのは、確かテニス部だったはずだ。探せば一人くらいは目撃者がいるかもしれない。
何はともあれ、聞ける話は全て聞いただろうか。僕は先輩の方に顔を向ける。
「先輩、どうします?」
あくまで探偵役は彼女だ。この葉の調査を行うかどうかの決定権は僕ではなく先輩にある。ただ僕としては、できれば断って欲しいところなのだが――
「よし、やろう!」
「……はぁ」
「ありがとうございます、えっと、それじゃあ……」
「ああ、何かわかったり、また聞きたいことがあれば連絡するよ。あとこの葉は預からせてくれ」
「了解です。じゃあ私はこれで失礼しますね」
小野寺さんはそう言うと、ぺこりと頭を下げて部室から出て行った。その時の彼女の、傍から容易に見て取れるほどの純粋な喜びようは、つい先ほどちらりと見えた黒さとは無縁に思える。裏表があるにも程があるだろうに。僕は先輩にぼやいた。
「先輩、ほんとにやるんですか?」
「なにか不満か? 最近はわりと協力してくれるから、調査が楽しくなってきたのかと思っていたよ。それに、君もこの葉には興味を持っているように見えたのだが……ああ、あの小野寺とかいう子が気に入らないのかい? 彼女、イイ性格してたもんな」
「いや……そういうわけじゃないですけど」
「誤魔化さなくてもいいさ。ここにはもう君とわたししかいないんだ……手を貸してくれないかな? また、いつもみたいにさ」
実のところ、先輩の言葉は僕の本心からすると、かなりズレていた。確かに小野寺さんみたいなひとは苦手だが、僕が調査に乗り気になれないのはもっと別の、明確な理由があった。長々と言うこともできるけど、あえて一言で表すなら――
先輩に調査をしてほしくないからだ。
本当に行きたくないわけじゃない。葉に興味があるのも事実だ。そういうところは見抜くのに、肝心のところは気付けない。凝った芝居と疑いたくなるくらい、先輩は自分のことになると、驚く程に盲目だ。
「む……じゃあこうしよう。これまでは君に任せっきりだった調査後の彼女への連絡とかは、今回はすべてわたしがやろう。そうすれば、君は彼女と関わらなくて済む。それならどうだ?」
先輩は顔の前で手を合わせ、僕を連れて行くべく頭を下げる。いまにも一生のお願い、なんて言い出しそうなほどだ。
僕は先ほど斉藤部長をこだわりが強いと評したが、たぶん実際は先輩の方がずっと強い。僕なんか本当は必要ないはずなのに、今もバカみたいな理由でこんなにも必死に頼み込んでいる。その強情さに僕はいつも、折れることを強いられる。
「……わかりました。手伝いますよ。でも、毎度のことですけど、調査についていったところで先輩の助けになるようなことは、何もできないと思いますよ」
「いいんだよ。探偵は、助手くんと一緒に行動するのがセオリーだろう?」
そう言いながら、先輩は手早く荷物をまとめ、戸締りをしていく。僕も空のコップを片付けようと、立ち上がった。
「先輩、まさかとは思いますが、今から早速始めるなんて言いませんよね? もう結構遅い時間ですけど」
「今日見つかる手がかりが、明日にはなくなってしまうかもしれない。まだ日が暮れているわけではないし、校舎裏の日陰だったか、葉があった場所を調べるぞ。ほら、はやく支度しろ」
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