第3話 誘拐

「ごちそうさま。ケイトさん、また」

「遅番が明ける頃には日付が変わってるんでしょう?終わったら、朝ごはん食べに戻っていらっしゃいな」

席を立ち、レジにいるケイトに一礼するとギルバートは店を出た。

気温がさらに下がって、寒さが見に染みた。

コートの襟を立てるように最寄りのメトロに向かって歩き始めた。


(ギィのばかばかばかーーーーっ!なんで私が!)

白い毛皮でできたベレー帽を頭にかぶりながら、郵便局の外へと出てきた。

ティはおかんむりだった。後ろ手に閉めたドアが乱暴な音を立てて閉まった。

ギルバートにティと愛称で呼ばれているが、この名前は作家としての名前だ。

ティ・カーマイン。本名はティファニー・カーマイン。

新進作家でデビューして数年。売れっ子作家の仲間入りを果たした小説家だ。

得意は恋愛ものだが、最近はミステリーやオカルトのルポも手掛けていた。

ギルバートとは家が近所で親同士が仲が良かったこともあり、幼馴染として育った。3歳年上のギルバートを兄のように慕って少女時代を過ごした。彼が警察学校へ行くと知った時には、泣いて止めたことが蘇った。大学卒業後、出版社に応募した作品が認められ、そのままこの街に住み続けることになった。その数ヶ月後、ギルバートが同じ街に配属されるとは夢にも思わなかったが。

ふう…と短くため息をついて、両手で自分の頬を気合いを入れるように打った。

郵便局には間に合った。速達で原稿は締め切りに間に合うように編集部に届くだろう。

問題は一つ解決したが、新たな問題に直面していた。

大家に怒られたこともそうだが、足を滑らせたとはいえ自分のせいでギルバートが怪我をしたことがショックでもあった。そして何より自分をかばってくれたギルバートの腕の中で抱きしめられてときめいていた自分に気がついてしまったのだ。

(ギィだって悪いのよ。いつも口が悪くて、私のことからかったり、怒ってばかり。…だから…)

いつのまにか顔が紅潮していた。ティは何度か首を振って、自分の部屋へ向かって歩き始めた。

吐く息が白くなり、淡雪のように消えた。

ぼんやり考え事をしながら彼女は歩き続けた。大きな通りと小さな通りの交差点を足早に歩いた。

彼女のフラットへと向かう道はだんだん細くなっていく。

人の波は進むごとに少なくなっていった。

彼女はミトンタイプの手袋に暖を得るために何度か息を吹きかけた。

突然ポシェットの中に入れていた携帯が鳴った。

口で右手のミトンを引っ張って取り、ポシェットから携帯を取り出してロックを解除した。

「はい。あ、編集長。ええ、間違いなく。はい」

彼女は通行の邪魔にならないように道路のそばにある標識に身を寄せた。

左手に携帯を持ち替え、見ての人差し指で空中にカレンダーを思い描き、予定を思い出していた。

電話の相手は出版社の上役のようだ。締め切りだった原稿を送ったかどうかの確認をしていた。

今、電話に向かって話しているのは、少女のように顔を赤らめていた先程の彼女とは全く違っていた。

テキパキと段取りをしていく。そんな印象だ。

電話で話し込んでいると今まで彼女の目の前を行き交っていた人たちが途絶えた。

「次の企画の打ち合わせは…そうですね、今週の木曜あたりにどうですか?」

「では11時ごろこちらに来てくれ。先月出版された『The Tree of Night』の読者の反応もかなりいい。おもしろいルポを頼むよ」

「ありがとうございます」

彼女のは微笑んでそれに答え、通話を切った。

携帯を持つ手が下がるのと、彼女のすぐ横に黒いSUVが急停車するのはほぼ同時だった。

運転席のドアが勢いよく開き、男が1人飛び出してきた。

背が高く、ガッチリしたタイプだ。しかし、年齢はわからない。

ニット帽にサングラス、ほとんど顔が見えないように厚いマフラーを幾重にも重ねていた。

彼女を背後から覆いかぶさるように羽交い締めにした。

被っていたベレー帽が振り落とされた。

びっくりして目を丸くして、立ち尽くすしかなかった。

何が起こったのか状況を理解する間もなく、持っていた携帯が石畳に音を立てて落ちた。

彼女は必死になって抵抗するが男の力には敵わない。

必死になって男の腕を振り払おうとするが、細い彼女の腕の力では押さえつける男の片腕の力にも敵わなかった。もみ合っているうちに、男の大きな足が彼女の携帯を跡形もなく踏み潰した。画面の液晶が細かくなり飛び散るのが見えた。

「いやっ!!!!」

声にならない悲鳴が男の腕の中に消えた。


ギルバートは自分が歩いていく方向にティの姿を見つけた。彼がいる場所とは道路を挟んでちょうど反対側。距離にして20mといったところか。彼が彼女に手を振ったが、気づかない様子だった。

(ああ、電話してんのか

あんな顔もできるんじゃん。

あいつも黙って自分の本にサインして、握手して、にっこり笑ってりゃ、そこそこおしとやかな奴に見えんのにな)

以前、見に行ったサイン会での様子を思い出していた。

あの時の彼女は、いつも目の前にいる彼女ではなかった。

思い出し笑いをして、もう一度通りの向こうの彼女に目をやるとそこには黒いSUVが止まっていた。

彼女の姿は車の陰に隠れ、見えなくなっていた。

ギルバートは不審に思った。ここは繁華街、しかも旧跡に近いため駐停車禁止区域だからだ。

よく目を凝らすと車の向こうでもみ合う人の姿が見えた。

「あんのバカ!1日に何回面倒を起こせば気がすむんだよっ!」

そう言い終わらないうちに、ギルバートは彼女の方へ猛ダッシュをかけた。

「ティ!」

大声で彼女の名前を呼んだ。

その声は確実に彼女の耳に届いていた。

「ギィ!」

通りの向こうから走り込んで来るギルバートの姿が目に入ると押さえつけられて苦しそうな顔に一瞬だけ笑顔が戻った。

「やだっ!離して!ギィ!」

喉元を男の腕で抑えられているため悲鳴はあげられなかった。

彼女は両手でこれ以上自分の首が締まらないように男の腕を外側に引っ張るしかなかった。

「助け…て!」

男は白いハンカチのようなものを彼女の口元に当てがった。

「ゔっ」

大きく吸い込んでしまったのか、ティは意識を失い、両目を静かに閉じていった。

彼女の体から一気に力が抜け、男の片腕に抱かれていた。

長い金髪が石畳みにつくほど体が半分に折れ曲がった状態だった。

「やろっ!」

ギルバートは男に向かって殴りかかった。男はとっさに体を捻って、ギルバートの拳を避けた。

開け放っていた車のドアから彼女を助手席に押し込んで、車に乗せた。

その状況からもかなりの腕力の持ち主のようだ。

車のドアが男の退路を立つ形になっていた。

「俺のいる目の前でやってくれるとはなっ!」

ギルバートは一回転するとその反動を利用して右ストレートで男の顔面を狙った。

かなりなスピードで放たれた拳は男の顔面に吸い込まれたと思われた。

が、逃げ場がないと思われていたドアとの隙間を利用して男はほんの少し後ろに重心を移動したため幾重にも巻かれたマフラーをかすめる形になってしまった。

(しまったっ!)

バランスを崩したギルバートが男に背を向ける形になった。次の攻撃が来るのはわかっていたためギルバートは体を丸めて防御体制をとった。

男はすかさず彼の脇腹に蹴りを入れた。

ドスッと鈍い音がして、彼は石畳みに叩きつけられる形になり、体を横たえるしかなかった。衝撃と痛みで呼吸が止まった。朝に負った背中と首も傷も呼応するように痛んだ。いつもの彼ならばこの程度で足元に沈んだりはしないし、もう一撃反撃していただろう。だが、朝の怪我が思った以上にそれを不可能にしていた。『早く立ち上がらなければ』と思っても、体に力が入らなかった。

男は無言で近づいてきた。

彼の目の前には男の履く黒いスニーカーだけがぼんやりと見えていた。

男はギルバートの後頭部を「何か」で思いっきり殴打した。

「くっ…」

(ティ…くそぉ)

目の前が真っ暗になって彼は意識を失った。

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