最後のカレー
及川 輝新
最後のカレー
隣人は今日も、カレーを作っている。
ここ一ヶ月ほど、アパートの隣の部屋からは毎日のように、カレーのいいにおいが漂ってくる。
そして週に二回は、黒髪ロングの大学生くらいの女の子が「作りすぎちゃったんでよかったら」とタッパーで差し入れてくれるのだ。一昨日はキーマカレー、先週はシーフードカレーとタイカレー、先々週は牛すじカレーとグリーンカレーだった。
よくもまあ、飽きないものだ。
俺はフリーランスのライターだ。取材で外出するのは月に数回程度で、執筆は家ですることが多い。ゆえに、起きている時間はほぼカレーのにおいを嗅いでいることになる。
もっとも比率が高いのはコリアンダーとクミン。
そこに少々のターメリックとガラムマサラ。香りづけにローリエ。
豊富なスパイスに隠れるように、でもしっかりと存在を主張するブラックパウダー。
鼻がいいのが、俺の昔からの自慢だ。
さらに今日は、オレガノ、スターアニス、マジョラム、アムチュールも入っている。
初登場の香りが多い。決して珍しいスパイスではないが、普通のスーパーに置いていないものだってあるだろう。
少しでも配合を間違えれば、食欲を刺激するスパイシーな風味はたちまち激臭に変貌し、鼻を破壊してしまう。数種類の香辛料が複雑に絡み合い、絶妙なバランスを保っている。焦げ臭くなるぎりぎり手前まで香りを引き出し、引きのばし、膨らませ、凝縮する。
本日のカレーも期待できそうだ。俺のお腹も「ぐぅ」と同意する。
数時間後、炊飯器のメロディーと同時に、玄関のチャイムが鳴る。
「どうも」
困ったような、申し訳なさそうな、曖昧な笑みを浮かべた女の子が立っている。両手で持っているのは、近所の百円ショップで売っている、電子レンジ使用可のタッパーだ。中にはなみなみと赤茶色の液体が入っていた。
「今日は薬膳カレーですか」
「いつもすみません」
眉を下げて小さく笑う。言葉に重々しさがないので、俺も「いえいえ」と軽く答えて、タッパーを受け取った。
「たまには一緒に食べません? 俺もお米炊きすぎちゃったので」
「ごめんなさい、これから出かけなくちゃいけなくて」
そう言われて、お隣さんの服装がいつもの薄汚れたジャージでないことに気がついた。清楚な白のワンピースに、薄い黄色のカーディガンを羽織っている。肩には、やや不釣り合いなブラウンのショルダーバッグ。
「そうですか、残念ですね」
「また今度、ぜひ」
社交辞令であることは明らかだった。
「では、これで」
お隣さんは軽くお辞儀をして、アパートの外へ向かっていく。
俺は少しムッとして、去りゆく背中に声をかけた。
「カバンににおいがついてますよ。ブラックパウダーの」
お隣さんは一瞬動きを止めたものの、すぐに駆け足で逃げていった。
手元のタッパーを見つめながら、俺は初めてお隣さんと会話をしたときのことを思い返していた。
ある日、エコバッグを提げた彼女と玄関前で出くわした。「夕食は生姜焼きですか」と尋ねたら「なんで知っているんだ」と怪訝な顔をされたので、俺は慌てて弁明したのだ。エコバッグの中から生姜や豚肉のにおいがしたこと、昔から鼻がいいこと。
今思えば、その頃から俺を警戒していたのかもしれない。だからこそ、においが強く複雑な、カレーを隠れ蓑に選んだのだ。
★ ★ ★
翌朝テレビを点けると、どのチャンネルも、駅前で発生した自爆テロ事件一色だった。
コメンテーターが真剣な面持ちで、犯人の女性にはテロ組織とのつながりが確認できないこと、爆弾の主成分である黒色火薬、別名ブラックパウダーは素人でも簡単に調合できることなどを解説している。
今までちょくちょく差し入れをくれたのは、爆弾の製造が俺にバレていないか、様子を見にくるためだったのだろう。
「最後のカレー、味わって食べなきゃな」
俺は冷蔵庫からタッパーを取り出して、電子レンジに放り込んだ。
最後のカレー 及川 輝新 @oikawa01
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