呪怨夜行
草秋
呪怨夜行
プロローグ
徳川家康。
江戸二百六十年、天下泰平の世を創り上げた稀代の戦国武将。
そんな英傑にも死を意識する場面が幾度となくあったという。
金ヶ崎崩れ
三方ヶ原の戦い
三河一向一揆
伊賀超え
小牧・長久手の戦い
関ヶ原合戦
大阪の陣
頭が切れる、忍耐強い、運が良いというだけでは生き残れない絶体絶命の危機。
それでも家康公は生き延び続けた。ほとんど奇跡と言っても良い。
家康公に仕え、のちに三河物語を記した大久保彦左衛門は語る。
「上様ガ上様タル所以、天運ヲ操ル呪イノ秘宝ニアリ」
曰く、家康公は人の運命を操ることが出来る呪いの秘宝を所有していた。その秘宝を使い危機を乗り越えてきたと言う。
大久保卿の証言により、江戸時代初期から中期にかけ、呪いの秘宝が誠に実在するのか身分問わず至るところで討論された。
しかし、秘宝の存在を証明出来る者はひとりとして居なかった。
それから数百年が経ち、時は現代。
呪いの秘宝は一部のオカルト信者のみが知るものとなっていた。
第一章 呪いの秘宝
以下のことは、滋賀県のとある地域にある酒場で実際に耳にした話である。思い出せる限り、聞こえた物語を記す。
││私は山菜を採りに山へと入ったが、いつになく収穫もなかったものだから、いつもより遠くへと足を運んだ。気が付けば見慣れぬ場所であり、道を引き返したつもりがまったくの見当違いで自分がどこに居るのかも分からぬまま陽はすっかり落ちた。
当然に携帯電話の電波も入らぬ。
木々に阻まれ月明かりにも照らされぬ暗闇をひたすらに歩いた。
虫の喚く声も耳に入らぬ。そんな余裕などない。
下界に戻れぬ恐怖に私は支配されていた。アテもなく彷徨い続けるも、ついぞ体力が尽き、私はその場にへたれた。
落ち着こうと三度深呼吸をしていたとき、やや離れた位置から歩く音と松明の弾ける音が聞こえた。それも一つや二つではない。十は超える。
このような山奥に夜分遅く、獣道すらない場所で草花を踏みつけて歩くものが果たして居ようか。居たとて間違いなく人ではない。妖怪変化か獣に違いないと私は思うが、そのような者が火の灯りを用いることは奇妙でもある。
どのみち、このまま一人でおっても遭難死する未来しか考えられぬくらいに私は思いつめていたものだから、意を決して音の鳴る方へと近づいた。
すると、十数名ほどの人間が列をなして歩いているのが見えた。
近づくにつれ、念仏か何かを皆が同じようにつぶやく声も聞こえた。
私は少しばかり安堵し「おおい、助けてくれろ」と声をかけた。
彼らは足を止め、一斉に私を見た。
私は瞬く間に背筋が凍り人生のなかで一度も出したことのない悲鳴をあげ、なりふり構わず一目散に逃げだした。
列をなしていた人間は、みな老人であった。
ただの老人ではない。
全員が全員まったく同じ格好でまったく同じ顔をしていた。皺ひとつ違わない。みな、この世の者とは思えぬ悪意ある壊顔で、私を見つめていた。
老人たちは一斉に呟いた。
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
朝まで山を駆けずりまわった私は運よく公道に出て帰宅することが出来た。
いま思うに、あそこには何か重要なモノがあるのではないだろうか。国すらも存在を認知していないような、想像を超える何かが。
私はもう一度あそこを尋ねる決心ができた。勿論危険なことは承知だ。
しかし好奇心には勝てん。私はこの謎を解き明かしたいのだ。もし一週間経っても私から音沙汰がなければ、その時は私がした話を警察に伝えてほしい。
☆☆
(田舎だな)
というのが本多の第一印象だった。
夕暮れ時になると茜色の山々が霞むせいか何処となく哀愁漂う。
この景色を背景に、ヒマワリ畑に挟まれた小道を歩く高校生たち。
自分たちは無敵なのだと活き活きした表情で語る彼らと本多は逆行する。
この辺りは見渡す限り一面のヒマワリ畑に囲まれ、すぐ近くに蛍が見られる公園がある。都内から近いわりに自然豊かなのでコンクリートジャングルで心を病んだ者が多く訪れる。
実際、本多はここに来るまで下校途中の学生だけではなく穏やかな表情で歩く夫婦やヒマワリを見て黄昏る翁を見かけた。
かといって、本多は心を癒す為に此処に来たわけではない。
たしかに毎日終電の時間まで働いても終わらない過酷な労働ノルマで身体は悲鳴をあげているし、最近は例の問題でロクに眠れやしない。なるほど、本多が自然セラピーを求めて此処に来たと言えば誰でも納得するだろう。しかし、本多にとっては事のついでにリフレッシュ出来たら良い。その程度の認識である。
本多の目的地である座間中央高校は偏差値五十程度で、目立った成績を残す部活もない文武共に平々凡々な公立高校だ。
座間中央高校に関する話題と言えば、せいぜい心にユトリのある優しい生徒が多いと町内で言われるくらいで他は何一つ良い噂も悪い噂もきかない。
一年前まではそんな地味で目立たない高校だった。
いまはちょっと違う。
座間中央高校をご存じですか?
と、街角アンケートを取れば十中八九回答者は口を揃えてこう答えるだろう。
“あぁ、ランボー先生のいる高校ですね”
ランボー先生とは高橋乱坊教諭のことである。
彼は日本歴史大学のポスドクとして日本各地を飛び回り熱心に民俗の歴史を研究した。その時の彼の論文執筆数は他に類を見ないほどで将来を期待される有望株だった。
それにも関わらず突然大学を辞めて高校教諭になったという風変わりな経歴を持っている。
先月、人気テレビ番組で様々な学校の先生を紹介するワンコーナーがあり、そこでランボーは取り上げられた。本人の独特なキャラクターと経歴も相まってネットを中心に人気となり一躍時の人となった。
いままで市長かPTAが視察で訪れる程度の来客しかなかった座間中央高校に今ではランボー先生を求めて雑誌の記者がやってくる。実のところ、本多もまた名物教諭に用件があり此処に来たのである。
「ランボー先生。本多さんって人がお見えになっていますよ。応接室にご案内しました」
「分かりました。いま向かいます」
「テレビに出演してから取材が多いですね」
「まったくです」
中年女性教諭に軽く会釈し、高橋乱坊(ランボー)は茄子形の顔についた太いマユゲを八の字に曲げて、普段はパッチリしている眼を細めた。
戸籍上は今年で数えて三十歳になるが、顔が濃くオデコ周辺の生え際が少しばかり後退していることもあり実年齢の割に老けていると思われることが多い。
ランボーは細長い手で取手を掴み、立てつけの悪い職員室のドアをガラガラと滑らせた。
淡い茜色の光が照らす廊下を歩きながらランボーは呟いた。
「取材ばかりで全然気が休まらないな。しかし周囲の期待に応えるのも天才の役目か」
渋い表情をして愚痴を言っているのに何故か声は弾んでいる。
応接室の中へ入ると草臥れたスーツを着た幸薄そうな顔の中年男性が居た。
モヤシのような細長い体型のランボーですら心配に思うぐらい貧相な身体つきだ。
「お初にお目にかかります。高橋先生でしょうか?」
「はい。いかにもボクが高橋乱坊です」
「ご高名な先生にお会い出来て光栄です」
「そんな。ボクなんて今世紀の著名歴史学者ベスト百にノミネートされて次期文部科学省大臣と名高い以外は何も特筆するものがない平凡な一日本史教諭に過ぎませんよ」
「ははは、さすが先生です。ジョークも一流でいらっしゃる」
「ふふ。それで、貴方は?」
「申しおくれました。私は本多と申します。オカルティックヒストリーという雑誌の編集をしております」
ランボーは本多から名刺と一緒に差し出された雑誌の表紙に目を向けた。
ドクロが大きく描かれている。
「弊社は世界中のオカルトに関する情報を載せた雑誌を出しています。それがこちらになります」
「そうですか」
オカルト雑誌の編集だと分かった途端ランボーは興味がなさそうに答えた。
ランボーはオカルトが嫌いだ。この世のオカルト話はすべてロジカルに説明出来るものであると思っている。
まぁ、あのオカルトマニアなら喜んで食いつくだろうけどボクは興味ないしな。はやく帰ってもらおう。
自身が顧問を務める歴史部のとある生徒を頭に思い浮かべながら、ランボーは話を催促した。
「ご用件はなんでしょうか?」
「はい。本題に入る前にお伺いしたいのですが、高橋先生は呪いの秘宝をご存じでしょうか?」
視線は本多に向けたまま、ランボーは呪いの秘宝というワードを脳内検索にかけた。
ランボーは今まで見た歴史関係の教科書、資料、論文の内容すべてを覚えている。覚えているというよりはページをスキャンしてそのまま脳に保存しているというほうが表現として適切かもしれない。
たとえば、中学時代に使った教科書の五十ページの内容は? と質問されたらランボーはそのページの文字の配列やイラストの配置まで全てがそのまま頭のなかに出てくる。この驚異の暗記力と記憶力がランボーをナルシストにさせる所以の一つなのだが、ともかく膨大な情報量を持つランボーの脳にも呪いの秘宝という単語はヒットしなかった。
「いえ。聞いたことがありませんね。呪いの秘宝とは?」
「……他人の運命を操る事が出来るお宝で徳川家康が所有していたと言われています」
本多が座るソファの後ろから子供っぽい女性の声が聞こえた。
次の瞬間、座間中央高校の制服│黒色ブレザーと灰色スカートに赤いネクタイ│を着た小柄な少女が両手で開いた雑誌に目を向けたままスクッと出てきた。サイドテールで束ねた髪と顔を確認し、ランボーは眉間にシワをよせた。
「なんでお前がここに居る?」
「オカルトの匂いがしたからです」
悪びれる様子もなくランボーの方を向く事もなく、雑誌を読みながら少女は端的に答えた。
またか、とランボーは表情で語った。
「オカルトマニアめ」
「この生徒さんは先生が来られる前にいらっしゃったんですよ。先生の教え子さんと伺っていたのですが……」
本多は慌てて状況説明をした。部外者を部屋にいれたまま放置していたことでランボーにヘソを曲げられてしまうのではないかと思い焦って弁解したのだった。
本多の困った顔を見て、ランボーは意味もなく申し訳ない気持ちになった。
「あぁ、本多さんが気にする必要は無いんですよ。仰る通り、彼女は私が顧問をしている歴史部の部員にして百三番弟子の 安土やよい と言います」
「百三番弟子ですか。さすが高橋先生だ。門下生が沢山いらっしゃるのですね」
やよいはキョトンとしている。
「え? 部員は三人しか居ないし、ほか百人を今まで見たことな│」
「それで呪いの秘宝とやらがどうしたんですか?」
やよいの声をかき消すように大きな声で口早にランボーは尋ねた。
本多は神妙な顔つきになり視線を落とした。
「はい。実は呪いの秘宝によって呪いを掛けられてしまったかもしれないのです」
「はぁ。どういうことでしょうか?」
「どこからお話したものか……」
「どうぞ思い浮かんだことから何でもお話ください」
ランボーが答える間もなく、やよいは本多の話をすべて受け入れる姿勢を表明した。
やよいを睨むランボー。それに気付かず本多は机を凝視したまま話を始めた。
さる集落に先ほどお話した呪いの秘宝が祀られているという噂を聞きましてね、弊社記者の井伊という者がその集落へ取材に行ったんです。井伊が取材を終えてオフィスに戻ってくるなり崩れ落ちるように倒れましてね、顔が真赤で見るからに酷い高熱のようだったので病院へ連れて行きました。私が付き添ったのですが、彼は延々と「呪われた、呪われた、呪われた」と繰り返し呟いていました。
どういうことかと聞いても、まるで私の声が耳に入らないかのように呟き続けるのです。彼は論理的思考を好んでいましたから、あのような意味の分からない言動をするなど思いも寄らないことでしたので私も気味が悪くなってしまいました。
井伊は入院することに決まり所定の手続きをして私は会社に戻りました。その後、彼が出張に持っていった持ち物を整理しておりますと、彼が記録していたであろうカメラのデータは残っておらず、ノートには何も書かれていなかったのです。
「井伊さんとやらは集落に行かなかったんですよ。だからカメラにもノートにも記録がないんです。行かなかったことを誤魔化すために何らかの方法で発熱したように見せかけて会社に戻ってきたんでしょう」
本多の話を遮り、ランボーは鼻で笑った。
「いえ、彼は集落に行ったと思います」
「なぜ分かるのです?」
「彼に会社支給の携帯電話を所持させておりましてね、その事を思い出し回収して確認したんです。そしたら一枚だけ、今回の出張で記録したであろう画像データが残っていました。印刷して持ってまいりました」
本多がプリント用紙を机に置いた。ランボーとやよいは前屈みになり、それを見た。
付箋の写真だった。付箋には、以下の文字が書きなぐられていた。
“呪いの秘宝=実在、時が止まった巫女、偽られた歴史、深入りしてはいけない”
「井伊が戻ってから、私共の身に次々と不幸な出来事が起こりました。部長は心筋梗塞でお亡くなりになり、編集長は交通事故にあい、私の部下は痴漢冤罪で拘束されてしまいました。私に関しましても、家に空き巣が入り派手に荒らされまして昨日までてんやわんやでした。ここまで不幸が続くと、そのメモに記載されている呪いの秘宝イコール実在の文字が嫌でも気になってしまいまして。理屈ではありえないと思っていても本当に呪いを掛けられてしまったのではないかと考えてしまうのです」
「呪いなんてありえませんね。たまたま立て続けに起こったことが、たまたま呪いの秘宝とやらを知り集落に行った時期と重なっただけです。独立した事象を同時期に起きたことで関連付けて考えたくなってしまう気持ちは分かりますがね」
「しかし、関係ないとは思えないのです」
「思い違いですよ。例えば、いつ倒れてもおかしくないくらい部長さんは高齢だったのでは?」
「いえ、五十歳ではありましたが健康状態は非常に良好でした」
「……そうですか。しかし、働き盛りの年頃でも仕事のストレスで発症することもあるでしょう。では、編集長はいわゆる本人の過失もあるような、たとえば夜分遅く不注意に道路を渡って交通事故にあったとかでは?」
「いえ、あの者はとても几帳面でルールに厳格でありますから、そのようなことをするとは考えられません。それに事故は昼間で見通しの良い道路でした」
「……まぁ、ドライバーが考え事をしながら運転して不注意だったのかもしれませんね。部下の痴漢冤罪というのは本当に冤罪なのでしょうか?」
「間違いありません。そのとき彼は私と会話をしていたのですから。彼は片手はつり革、もう片方はバッグを掴んだ状態で私と話していたにも関わらず、警察は私共の主張を受け入れてくれませんでした。被害女性の主張だけが認められ未だに容疑者として法廷で争っています」
「……それは災難ですね。ちなみに本多さんの家は」
「空き巣はすでに捕まりました。向かいにスーパーがあるので人通りは決して少なくありませんから、まさか我が家が空き巣にあうとは思いもよりませんでした」
「……そうですか」
ことごとく推理が外れランボーの声は小さくなっていた。
「心筋梗塞はともかく、他は事故ではなく意図的なものとは考えられないでしょうか?」
やよいが顎に手をあてて考えるように言った。
「どういうことだ?」
「このメモですけど、深入りしてはいけない、という文字だけ他とちょっと筆跡が違いませんか?」
「うぅん。たしかに違和感はあるような気もするが」
「他人が似せようとして書いたと言われるとしっくりします」
「あぁ、言われてみればそう見えなくもないな」
「記者さん、井伊さんでしたっけ、井伊さんが集落に訪れたことは何者かにとって不都合だったんですよ。集落を記事にされてはたまらないと思って、井伊さんを脅してカメラやノートの情報を消し、井伊さんの持っていたメモに深入りしてはいけないという文字を付け加えた。井伊さんは脅されて恐怖のあまり精神状態が不安定になりましたが、それだけでは不十分と思って井伊さんの関係者にも加害することにした。こう考えることはできませんか?」
やよいが説明を終えると、ランボーはニヤリと笑った。
「そうか。君はボクと同じ考えだったわけだな」
やよいが顔をしかめている横で本多は頷いた。
「私どももそれを考えましたが、警察に訴えるにはあまりにも根拠が乏しいので集落の件はまだ相談していません。それに交通事故を起こした者、痴漢を訴えた女性、空き巣の犯人に共通点はまったく見られないようです。それぞれ出生地も年齢も職業も違っていたようなので関連性を証明するのは難しいかもしれません」
「そうですか」と、ランボーの声は再び小さくなった。
「いずれにしても気味が悪く、万が一本当に呪いだったら解いて貰う必要もあるでしょうから一度集落を訪れようと思ったのです。そこで先生にも是非ご同行して頂きたく本日お願いに参りました」
「なぜボクが?」
「このメモにある、偽われた歴史、というものが気になります。それに、まだハッキリとお伝えすることは出来ませんが、もしかしたら集落そのものに歴史的価値がある可能性がありますので歴史に精通された方に居て貰った方が良いのではないかという判断です」
「ふむ」
「歴史学者といえば高橋先生でしょう。世界で最も尊敬できる方ですから」
ランボーはニヤけた。
「ふっ。世界で最も尊敬されては仕方ありませんね、よろしい。困った者に救いの手を差し伸べるのは天才の宿命です。同行しましょう、この天才歴史学者がね」
「あ、ありがとうございます。高橋先生!」
ランボーが承諾したので本多は今日一番の笑顔になった。
おだてられて気分良さそうにランボーは笑っている。
「集落は滋賀県にあります。私共は近江権現集落と呼んでいます」
「近江権現集落とはどんな所なのですか?」
「詳しいことは存じません。元々この案件は弊社部長の酒井という者がリードしていたのですが、先日亡くなってしまい資料の在処が分かりません。情報共有もされていませんでした。唯一集落に関する情報として見つかったものは場所が記されたメモだけです」
「ふむ」
「最寄駅である滋賀県長浜駅から目的地まで片道四、五時間ほどかかります。申し訳ありませんが二、三泊して頂く事になるかと思います。もちろん、経費は私どもで負担致します。恐れ入りますがよろしいでしょうか?」
「構いませんよ。実際に行く日時は後日相談させてください」
「ありがとうございます」
「それにしても随分移動に時間がかかりますね」
「はい。途中からクルマでは通れない道があり、歩いていかなければいけないようなので」
「なるほど」
「なにとぞ宜しくお願いします。先生だけが頼りなんです」
「むふふ。任せてください」
自信満々の笑みを浮かべるランボーに本多は何度も頭を下げた。
(私も行きたいなぁ)
呪いの秘宝と聞いたからにはオカルトマニアのやよいとしては是非ともランボーたちに同行したいところだった。
今週末で一学期も終わる。夏休みも近いし歴史部の夏合宿という名目で連れていって貰おうと算段を立てた。
☆☆
ランボーと本多の話し合いが終わり、やよいはいつものように渡り廊下を歩いて部室棟二階の一番右端にある一室へ向かった。深緑色の塗装が剥げ落ちつつある金属製のドアに “歴史部” と書かれたA四サイズの質素な張り紙がガムテープで留められている。この部屋にやよいは入った。
部屋の奥には窓があり、中央には長机と長机を囲うように椅子が四脚置かれている。壁際にはツンッと鼻をつく臭いがする古くさい木製の本棚が置かれ、ビッシリと本が収まっている。本の種類は歴史や考古学のものが大半を占めているが、なかにはオカルトもの、自己啓発もの、BLや男の娘の同人誌など部員たちの趣味が色濃く出たものも置かれている。
やよいは他の歴史部員二名 ││鵡上メイと加藤昼市に先ほどの話をした。
「││っていうことがあったんだよ」
「それは面白いねぇ!」
ノートパソコンのモニタから目を離さないまま明るい声でメイが言った。
三度の睡眠よりインターネットが好きと公言するメイ。彼女の容姿は卵型の顔、サラサラの茶髪、二重で少し眠そうな印象を受ける瞼、透き通った茶色い瞳を持つ。
メイの整った顔を見ていると、同性のやよいですらドキドキしてしまうことがある。性格だって明るく社交的でユーモアもあり友達が多い。
それなのに、言動と趣味が浮世離れしていたり、たまに脈絡もなく意味が分からないことを言い出すので浮いた話が全くない。時折告白してくる男子が居ても、彼氏なら画面の中に居るから間に合ってるよ、と断っている。そのせいでクラスメイトからは残念系女子と呼ばれているらしい。
変わってる子だなぁとやよいも毎日のように思っていた。
「それにしても相変わらずランボー先生は単純だねぇ」
まんなかで髪を分けチャームポイントのオデコを出しているメガネ男子の昼市が笑った。
歴史部員はいまここに居る三人で全員だ。やよいとメイは一年生なので二年生の昼市は唯一の男性かつ上級生である。したがって、自然の流れで歴史部では部長という役職に付いている。、
やよいは昼市に対して一応敬語を使っているものの接する態度は先輩というより同学年の友達に対するような感じであり、メイにいたっては昼市に対して完全にタメ口でフランクに話している。これは昼市の気弱で気さくな性格も起因しているのだろう。
女子から見れば気軽に話せる友達になりやすいけど恋愛対象にはなりにくい。
昼市はそういう人だと やよいは認識している。
「それで、オカルトマニアとしては呪いの秘宝って興味深い話なの?」
昼市の質問に、やよいは人差し指を顎に当て、良い質問ですねと言わんばかりに頬を緩ませた。
「うん。知名度は低いけど実に興味深い話ですよ」
「徳川家康が所有していたとか言ってたっけ?」
「そうです。家康っていつ死んでもおかしくないような過酷な人生を生き抜いてきたんですよ。それこそ呪いの秘宝なんてものがないと説明がつかないような、です」
「だから家康ちゃんコピペ説があるんだね!」
「影武者説のことかな?」
「そうとも言うね!」
ノートパソコンのモニタに “家康の影武者説”というページを映しながら背中まで伸びたサラサラの髪に耳元で手をかけてメイが言った。
やよいは自分が思いつきもしないような言葉が出てくるメイのボキャブラリーにちょっと可笑しくなった。
昼市はフムフムと頷いている。
「影武者説かぁ。家康本人は死んでいて、影武者が家康に成り代わっていたという話だよね。……それはともかく呪いの秘宝って、どんな見た目なの?」
「ある人は宝石、ある人は銭、ある人は木像と主張するけど、本当のところはどんな形をしているか誰にも分かってないんです」
「ますますマユツバもんじゃないか」
「検索しても、やよいっちがさっき話した程度の内容しかヒットしないよ!」
「だよねぇ。ものすごくマイナーな話だもん……そだ。近江権現集落って検索してくれる?」
「りょうかい。秘宝が封印されし地だっけ。こういう場所ってドラゴンが秘宝を守ってそうなイメージだよね!」
メイが検索している間、昼市は本多が置いていった雑誌オカルティックヒストリーをパラパラとめくった。
「この雑誌を見てると、完全に事実無根のオモシロ話ばかり載ってるようにしか見えないんだよなぁ。呪いの秘宝とかその集落も大したモンじゃないんじゃないかな」
「……残念。ひるたその直感はハズレだよん。少なくても集落はね!」
昼市のボヤきに対して、近江権現集落に関する検索を終えたメイが反応した。
不思議そうな顔をしてメイを見る昼市とやよいに、メイはノートパソコンのモニタを二人の方へ向けた。モニタの背景は真白に染まっていて、中央に “NO DATA” という黒文字だけが出ている。
「この画面は?」
「近江権現集落なんだけどね」
「うん。検索してくれた?」
「ないんだなぁ、それが」
「どういうこと?」
「このヤーフルマップは国土交通省が全面協力して作ったものでね。廃村や限界集落を含めて古今東西のあらゆる市町村集落が登録されているんだ。ところが近江権現集落とそれに近しい集落はヒットしないのだよ」
顔をひきつらせて微笑むメイの言葉を聞いて、やよいは背筋がゾクッとした。
昼市は女子二人を交互に見ながら不思議そうにしていた。
「つまり、どういうこと?」
「近江権現集落は社会的には存在しないことになっているんですよ」
「国に存在を認められていない。もしくは存在を知られていない未開の地ってことだねぇ」
二人よりワンテンポ遅れて事の奇妙さに気付いた昼市は怯えた表情へと変わった。
「そ、それって、この出版社は呪いの秘宝とか関係なくすごいものを見つけたことにならない?」
「はい。この集落には人に知られたくない何かがあるのかも」
「呪いの秘宝?」
「……たぶん。もしくは、それ以上の何かですよ」
やよいの緊張した物言いに、昼市は触れてはいけないパンドラの箱をあけてしまったような気がして怖くなってきた。深く息を吸い、ゆっくり息を吐いて貧血で倒れそうになる自分を回復しようとしていた。
一方、メイは机にヒジをたて、口をとんがらせて何やら不満げな顔をしている。
「そもそも、どうやって出版社はこの集落を知ったんだろうね。ヤーフル先生ですら教えてくれないのにぃ!」
「た、たしかに」
昼市は怯えた子羊のような声を出した。
普段でさえ気弱で頼りないオーラが漂っているのに、いまの昼市は更に頼りなく情けない様子になっていた。部内で唯一の男性かつ上級生であるのだが、こんな調子では小学生の方がまだ頼りになるかもしれない。
「情報を持っていた部長さんは亡くなってしまったらしいので誰も情報の出所を知らないみたいなんです。もしかしたら今回の件、想像以上に大きな話なのかもしれないですね」
やよいは呟いた。同時に胸の奥から不思議な気持ちが溢れてくる。
やよいは不安を感じる自分だけではなくワクワクしている自分が居ることにも気が付いた。好きなのだ。なんというか、こういう謎めいたものや非日常的な現象が。
だからオカルト話が心から好きでオタクだとかマニアを自称するようにさえなった。今日という日を、もしかしたら運命さえも変わるような出来事を やよいは待ち望んでいる。変わらない日々に飽き飽きして、何かが起きることを期待して、でも何も起こらなくて。そんな退屈な日々に刺激を与えてくれそうな出来事が近づいてきたのだ。ワクワクするなという方が酷だろう。
やよいは明るい気持ちでメイと昼市のやりとりに耳を傾けた。
「楽しめそうだね。是非ともランボーちゃんが集落に行くときには同行しなくちゃ、ね?」
「連れて行く気はないって言われたらしいじゃん」
「問題ないよぉ。いつものようにランボーちゃんをおだてれば連れていってくれるはず!」
メイがクスりと笑って断言した。
やよいもメイに同意見だ。
ランボーはおだてに弱い。まだランボーと知り合って三カ月しか経っていないが、そう結論付けて良いだけの実例が山のようにあるし、先ほど本多と話している現場でも再認識することができた。
「長浜に行くんだっけ。美味しいスイーツのお店や観光スポットを探そっと。よ~し、メイがんばっちゃうぞぉ!」
やよいと同様に気持ちが高揚してきたのかワクワクした様子のメイ。
“JKだけど長浜周辺で美味しいケーキ屋さんある?” と、インターネットに触れる者ならだれでも名前だけは聞いたことがあるような掲示板にメイはスレッドを立ててはじめた。
メイの後ろを通って窓辺に立ち、やよいは窓から遠くに映える山々の景色を眺めた。
「それにしても、やよいっち。いつになくワクワクしてるねぇ!」
「うん、楽しみだよ」
やよいは元気よく答えた。
ノスタルジックな夕焼け空は静寂を誘う紺色へと変わりはじめていた。
第二章 奇跡の軌跡
神奈川県の地名を聞かれて最初に思い浮かぶのは横浜か鎌倉が多いだろう。もしくは温泉が好き人であれば箱根かもしれない。この箱根からほど近い小田原という場所には、現在神奈川県内唯一の模擬天守閣がある。小田原駅西口を出てすぐの場所にある北条早雲公の銅像を見た後に街中を散策すると、戦国史に刻まれた煌びやかな相州の情景が思い浮かぶ。江戸時代においても東海道では江戸から最も近い城下町の宿として栄えていた。
小田原提灯はこの時代に有名になった。安価で携帯しやすく湿気に強いために旅人に好まれたようである。
その提灯が小田原駅のJR改札口手前辺りで天井から吊るされている。嫌でも目に入るくらい大きい。
この提灯の下に、いまランボーたちは集まっている。
ヨダレを垂らして立ったまま寝ているメイにデコピンし、ランボーは目で合図して生徒たちを先導した。
朝はまだ早いが既に暑い。
先ほどランボーが購入した青春十八切符を改札窓口で提示し、係員に四個分ハンコを押して貰っているのを昼市は欠伸をしながら眺めていた。
「青春十八切符って五日間JRの電車が乗り放題になるんだよね?」
「うん。これを使って一日で東京から九州まで行く人もいるみたいですね」
「五日分一セットで一万二千だか三千円だっけ。一日でいくってことは実質二、三千円くらいでそんな遠くまで行けるのか」
「その値段でそこまで移動できるのは魅力的ですよね」
「そうだね。っていうか、十八切符ってハンコを人数分押せば一枚だけで良いんだね」
「みたいですね。私も初めて知りました」
「ほら。話していないで行くぞ」
改札の奥に居るランボーが部員三名にさっさと来るよう催促した。三名が改札をくぐったのを確認したあと、ランボーはすぐに壁際にあるトイレを指さした。
「今のうちにトイレに行け。ここを逃すと最悪豊橋までトイレに行けないぞ」
手早く用を足し皆が来るのを待つ間にランボーは時刻表をめくった。
それからすぐにトイレから出てきた昼市はランボーに質問をしてみた。
「豊橋ってどこですか?」
「愛知県の東部だよ。ちょうど静岡県との境目だな」
「ふぅん。その豊橋ってとこに着くのは何時ぐらいの予定なんですか?」
「十時ぐらいだろうね」
「十時!? まだ六時なのに四時間も電車に乗るんですか!?」
「途中乗り換えはするがね。ただ、乗り換えの時間がシビアだから駅で用を足す時間は無い。だから用を足すなら車内でしなきゃいけないのだが、熱海から豊橋区間はトイレ無しの電車も混在しているんだ。運が悪ければ快速に乗り換える豊橋まで我慢してもらうことになる。今のうちにトイレへ行けといったのはそのためだよ」
ランボーの説明の中に思いもよらないフレーズがあり、昼市は口をあけて目を丸くした。
「えっ、新幹線じゃないのにトイレがついてるんですか!?」
驚く昼市を見てランボーの口から溜息がこぼれた。
「はぁ。これだから都会の私鉄ユーザーは。日本全国を見るとトイレつきの鈍行電車なんていくらでもある」
「そうなんですか!?」
「最短で数分、どんなに遅くても数十分に一本のペースで電車が来る都内とは違って、地方では数時間に一本しか電車が来ない所も少なくない。しかも無人駅で周りには何もないなんてこともザラだ。そんなところでトイレのためだけに下車して数時間もその場に居なければいけないくらいなら漏らした方がマシだと思うヤツはいくらでもいるだろう。だから車内にトイレがついているのだよ」
「なるほどなぁ……」
「お待たせしましたぁ」
昼市が納得して頷いていると やよいとメイが戻ってきた。
全員準備万端だ。
ランボーは時刻表を閉じて階段を指さした。
「よし、いくぞ。そこの階段を降りるんだ」
「はい」
「ここで熱海行の電車に乗って、熱海で浜松行きに乗り換える。しかし乗り換え時間が四分しかない上にプラットホームが線路を挟んだ先で一度地下通路まで降りなければいけないから移動に時間がかかるんだ。少しの油断が命取りになるから気を引き締めろよ」
「は~い。……それにしても先生、鈍行列車に詳しいですね」
「まったくだよ。そもそも滋賀まで行くのに新幹線を使わず鈍行を使うなんて発想が僕には無かったし」
昼市とやよいの会話を聞いて、ランボーはフンッと鼻をならした。
「ボクは新幹線が大嫌いなんだ。車窓を眺めて気になる所があってもすぐに降りられないからな。鈍行であれば気になるポイントがあればすぐに降りられる。ぶらり途中下車の旅が可能というわけだよ。さらに十八切符なら金を気にしなくても良いし、まさに学者ご用達のアイテムだな」
「なるほど」
本日何回なるほどと言っているんだろうと昼市は頭の片隅で思いながら、考えてみる。
目的地につく速さと安さどちらを取るかと問われれば、自分は速さの新幹線をとるだろう。旅行なんてものは移動時間を少しでも短く抑えて現地での観光時間にあてたいものだ。でも、鈍行ならではの途中下車が出来るという点は、ぶらり旅をする人にとっては確かに魅力的なことなのかもしれない。
一番線ホームでランボーたちは熱海行の電車に乗った。
朝も早いというのに席の大半は埋まっている。
やよいは車内を見渡した。仕事に行くと思われるスーツ姿の眠そうなサラリーマンや旅行用カバンやトランクを携えている若い人たちが目立つ。夏休みとは無縁、あるいは夏休みだからこその人が半々の割合を占める車内だった。
空いている席に適当に座った後、やよいは旅行特有のドキドキ感に満たされた。
ランボーは先ほど売店で買ったらしいお菓子の包みを開けている。
ワクワクした良い笑顔だ。
お菓子を食べられることが理由でこんな顔が出来るのだから、やっぱり見た目は大人だけど中身は子供だなと やよいは思った。
「そういえばさっき、そうなの!? って、加藤先輩の驚く声が聞こえてきたんですが何の話をしていたんですか?」
質問しながら、ランボーの持つ袋からチョコレートをつまもうとしたが、その手は空を切った。ランボーが取られまいと袋を遠ざけたのである。
やっぱり子供だとやよいは強く思った。
渋い顔をしてランボーは先の質問に答えた。
「加藤がトイレのある鈍行電車があることを知って驚いていたんだよ」。
「そういうことですか」
なんだそんな事か、と言いたげにアッサリと答えるやよいを見て昼市は不思議に思った。
「あれ、安土さんは驚かないんだね」
「お祖母ちゃんの家に帰省するときに使う電車はトイレ付なので」
「なるほど。地方にいけばトイレ付の電車が当たり前なんだね」
ランボーは鼻をならした。
「とは言っても必ずしもトイレがついているとは限らない。ボクがポスドクだったころに某戦国大名について調べるために四国へ行ったことがあるんだけどな。高知県と愛媛県を結ぶ予土線に乗っていたとき急に用を足したくなったんだ。車内のトイレを探したんだけど、なかったんだよ」
「じゃあ、適当な駅で降りたんですか?」
「いや、予土線というのは三、四時間に一本しか電車が来ないんだ。時間いっぱい気になった場所を調査したかったボクには興味の無い場所で途中下車するなんて選択肢はなかった。そうは言っても、あのときは肛門も限界に達していた」
「こ、肛門……」
「肉体と頭脳を極限まで鍛えた天才のボクでも肛門までは鍛えられなかったんだ。だから人並程度にしか我慢できない」
「そ、それで、どうしたんですか……?」
なんだかイヤな予感がして昼市が恐る恐る尋ねるとランボーはいたって大真面目な顔をして淡々と答えた。
「そんな問題にはならなかったよ。代えの下着は十分に持っていたし、下着で丸めてビニル袋に突っ込んだんだ。車内にほんのりと幻想的で温かい匂いが漂う代償はあったがね。乗客はボクしかいなかったことが不幸中の幸いだな」
「うわぁ。サイテーだ」
やよいは率直な感想を漏らした。
「口だけじゃなくて心から問題ないと思っているあたりが問題だよねぇ」
メイが苦笑いしてボソッと呟いた。
生徒の反応を見ても何とも思わないのかランボーは平然とした様子で居た。
ランボーは妙なところで度胸がある漢である。いや、非常識な人間と言い換えても良いかもしれない。
「自然の摂理に従っただけだ。ところで、安土のお祖母さんは何処に住んでいるのかな?」
「え、えっと、倉敷っていうところです」
「岡山の?」
「はい」
「それは随分良い所に住んでいるな。美観地区の辺りは独特の古き良き日本というものを味わえるだけではなく、駅近くにアウトレットもあって生活がしやすい。加えて岡山県は自然災害が少ないという安全保障つきだしね。全都道府県を歩き回ったボクから見てもトップクラスで住みやすい地域だと思うよ。まぁ、あえて岡山に対して何か言うなら用水路には蓋か柵をつけてほしいとは思うがね」
「詳しいですね」
「ん、これくらい当然だよ。歴史学者としてはね」
(この人ダメだと思うこと多いけど、やっぱり知識だけはあるんだよなぁ……)
部員三名の感想が一つになった瞬間であった。
電車にしばし揺られていると、次は静岡、というアナウンスが流れた。寝ている昼市とメイを起こさないよう、やよいは小声で反応した。
「静岡ですね」
「熱海で乗り換えたときには既に静岡県だったがな」
「そうですけど。県庁所在地に来ると何となく特別な感じがするじゃないですか」
「確かにそれはある。静岡駅の前を通る時は下車せずとも毎回車窓を眺めたくなるものだ。ボクは東海道線が好きなんだよな」
自分の肩にもたれかかって寝ているメイを起こさないように気を付けながら、やよいはランボーを見た。
「なんで東海道線が好きなんですか?」
「歴史が詰まっているからだよ。東海道線沿いはね、織田信長公や徳川家康公にまつわる場所が多いんだ」
「徳川家康……ですか」
「あぁ、家康は静岡駅周辺にも所縁がある」
「そうなんですか? 浜松じゃなくて?」
「そうさ。家康は十九歳まで今川家に人質として駿府城、静岡駅のすぐ近くに跡地があるがな、そこに預けられていたんだよ。桶狭間の戦いで当主の今川義元が亡くなり、その混乱に乗じて人質という身分から脱したがね」
「人質ですか。そしたら過酷な生活だったんでしょうね」
「ところがそうでもない。特定の人物からの虐めはあったようだが、待遇は相当良いものだったことが伺える。名実ともに今川家の参謀的な立ち位置だった太原雪斎から直々に教えを受けているしな。人質どころかまるで時期当主を育てるかのような英才教育だ。そもそも家康は晩年の隠居所として駿府を選んでいる。仮に嫌な思い出しか無かったのならそんなところで隠居などしないだろう」
「人質なのに英才教育を受けて優遇されていた、ですか。それはちょっと奇妙ですね。まるでそうなるべく運命が動いているような……」
「君こそ奇妙な表現をするね」
「ほかにも東海道線沿いで家康にまつわる場所はあるんですか?」
「もちろん。例えばもう少し先へ行くと掛川駅がある。その近くには掛川城があるんだがな。豊臣政権時、山内一豊という男が城主だったんだ。東から敵が攻めてきても、山内一豊なら裏切らずに立ち向かうだろうと考え秀吉は東海道の抑えとして彼を配置したわけだな」
「秀吉から信頼されていたということですね」
「そうだな。ところが秀吉が死に、豊臣政権は分裂して内紛が起きた。家康が石田三成を征伐しにいく折、山内一豊は掛川城を家康に差し出すと申し出たんだ」
「お、お城をあげちゃったんですか?」
「あぁ、信じられるか? 武士なら誰もが城持ち大名になることを羨望し、そのために命を張っていた時代だ。それを山内一豊は惜しげもなく家康に献上したんだ。結果として山内一豊の英断は関ヶ原の大勝に貢献した。それが評価されて土佐一国の主にまで出世するのだから大したものだがな」
「豊臣秀吉が信じていた人が大切なお城を家康にあげた。結果論ですが、豊臣家は滅び徳川が天下を治めることになった……こういうことですか」
「そういうことだ」
家康にとって話が出来すぎだ、とやよいは思った。
「あとは君がさっき言ったように浜松がある。家康が長い間居城にしていた場所だ。更に西へ進むと岡崎駅があり、駅から少し離れたところには岡崎城がある。家康が生まれた場所だな。そしてさらに電車で西に進めば家康が息子のために建てた名古屋城がある。愛知県を超えて岐阜県に入れば関ヶ原があるな」
「関ヶ原……」
「関ヶ原の一件もそうだが家康は心・技・体・運すべてが並外れているよ」
「そうなんですか?」
「そうなんですかって、君、さっきも言った通り人質にも関わらず英才教育を受けることが出来たっていうのはかなりの器量と強運だろう。そこで生きる術を学べたからこそ後の活躍がある。それに戦だってそうだぞ。武田信玄にこっぴどくやられた三方ヶ原や浅井長政が裏切った金ヶ崎崩れなどは死んでもおかしくない状況だった。それに重臣の本多正信が加担した一向一揆によって荒れた内政を他家に付け込まれる前に建て直せた件も大した手腕だし、本能寺の変のときの伊賀越えだって命からがら逃げられた。秀吉に追い詰められていた小牧・長久手の戦いでは大地震が起きたおかげで殲滅戦にならずに和議を結べたしな。関ヶ原も大阪の陣も結果だけ見れば大勝だが、戦の前後ではどちらに転んでもおかしくないギリギリの駆け引きがあったことは間違いない。さっき話した掛川城の譲渡といったような事の積み重ねによって勝利へと繋げていったんだ。これだけの危機を幾度となく乗り越えて天下人になるというのはね、知識と経験と勇気と運、すべてが優っていなければ出来ないことだよ」
「それは、奇跡的なことだと言っても良いくらいの出来事なのでしょうか?」
「そうだな。そういっても差し支えないだろう」
ここまでランボーの話を聞いて、やよいは呪いの秘宝のことで頭がいっぱいになった。ほとんどあり得ないくらいの絶体絶命の危機を幾度となく乗り越えてきた。そんな奇跡を起こせたのは何故か。天運を操ることができる呪いの秘宝を持っていたからに他ならないのではないか。呪いの秘宝なんて、にわかには信じられないけれど、家康の人生そのものが信じられないようなドラマの連続なのだ。秘宝を使って大業を成し遂げたと言われた方がかえって納得できるくらいの話かもしれない。やよいはそう思った。
「織田がついて豊臣がこねた餅を食べただけだと思われがちだが、決してそんなことはないんだ。講談の作者は敗者をテーマにすることが多い。滅びの美学は人の心を動かすからね。だからどうしても最終勝利者の家康は色んな作品で悪い役として描かれがちだ。そんな作品を読んで育った人たちが家康に反感を持って過小評価したくなるのは無理のないことかもしれないが少々残念な気もするな」
もうランボーの話はやよいの耳に入っていない。
これから向かう集落で何が待ち受けているのか、呪いの秘宝は本当にあるのか、それだけが頭のなかを支配していた。
☆☆
「くわぁ。ようやく長浜に着いたぁ」
滋賀県の長浜駅で下車し、プラットホームで両手をあげて伸びをするメイ。
その横で昼市とやよいがグッタリしていた。そんな三人を見てランボーは呆れた。
「まったく、情けないな。ここからが本番なのに」
「……静岡区間があまりにも長すぎですよ」
溜息まじりでやよいがボヤいた。
「十八キッパーの鬼門ではあるな。でもそれは県として区切るから長く感じるんだ。市として区切ってみればむしろ心地よいくらいのリズムで電車は進んでいるんだがな」
「でも、名古屋過ぎてからはあっという間でしたね。岐阜で関ヶ原駅の前を通った時は思わず降りたくなっちゃいましたよ。あ、ここで関ヶ原の戦いが起きたんだぁって」
「それも十八キッパーが味わえる喜びの一つだ。ボクもはじめて十八切符の旅をしたときは同じことを思って、そのときは予定に入ってなかったが関ヶ原で降りたよ。家康が本陣を構えていたと言われる場所へ行って、合戦中に家康が何を思っていたのか想像して耽ってみたりしたものだ」
ランボーの口から出た 家康 というワードに昼市は反応した。
地面を見つめながら何かを考えているようだ。
「家康かぁ。関ヶ原の戦いってたしか西軍側で小早川秀秋が裏切ったり、様子見をしている人が多かったせいで、あっという間に戦いが終わったんですよね。呪いの秘宝で小早川たちの運命を操って寝返らせたり動きを止めたりしたんでしょうか?」
昼市の問いをランボーは一笑に付した。
「くだらない。呪いの秘宝なんてもの存在するわけないだろう。小早川が裏切ったのだって、家康の入念な調略活動の賜物だよ。様子見をしていた奴らはお家存続のために優性な方を見極めて加勢しようとしたんだよ。あの時代ならよくあったことだ。加藤も鵡上も寝ていたから分からないだろうが、さっき安土に話した掛川城の件も大局的に見れば動機はそれと同じさ」
「そうですか」
と口では言ってみるものの、やよいは完全には納得できないでいた。
丁度雑談が終わるタイミングで長浜駅の階段を登りきり改札を出た。
切符売り場の近くでオカルティックヒストリー編集の本多が待っていた。
前に座間中央高校で会ったときよりも悲壮感が増しているように見えた。
本多の隣には太った長髪の男とメガネをかけた厳格そうな男も居る。
おそらく彼らも雑誌の関係者なのだろうとランボーは思った。
メイは本多たち三人を見るなり首を傾けた。
「なんだろコレ、こんなの初めてだなぁ。ほんとに生きてるのかなぁ?」
呟く声は誰にも聞こえていなかった。
本多はランボーの前に出て挨拶した。
「高橋先生。本日はお時間を頂き、ありがとうございます」
「いえ。後ろの者たちは歴史部の部員です。先日連絡させて頂いた通り、今回は助手として連れてきました」
本多は頷きランボーの後ろにいる やよいを見て微笑んだ。
「お久しぶりですね、御嬢さん」
「お久しぶりです。今日は宜しくお願いします」
本多は挨拶を終えると、やよいから再びランボーに視線を戻した。
「こちらは先日新しく編集長に就任した石川、そして記者の榊原です」
「石川と申します。お会い出来て光栄です。高橋先生」
「どうも」
覇気がなく草臥れたスーツを着ている本多と違い、石川はスーツをピシッと着こなし革靴はピカピカに磨かれている。
石川は眼鏡を光らせマジメそうな顔を少しだけ和らげてランボーと握手した。
続いて、お腹がボッコリ出た豊かな体格の男が前に出た。
「今回新しくこのチームに配属された記者の榊原です。宜しくお願いします。やはりテレビや雑誌で見るよりも実物の方が風格ありますね」
「貴方こそ、人を見る目は確かのようですね」
褒められて喜びを隠せずランボーはにっこり微笑んだ。
「ぷっ。風格だって。そんなの全くないよね」
ランボーの後ろに居る部員三名は顔を合わせてニヤけた。
「ホテルを取っておりますのでご案内します。本日はゆっくり休んで頂き、明朝集落へ向かいましょう」
「分かりました」
一通り挨拶を終えたところで本多と榊原が先導して歩き始めた。
「本多さんたちも今朝来られたんですか?」
「いえ。私どもは昨日から来ております。この件以外で取材しておきたいところがありましたので」
「なるほど。何を取材されていたのですか?」
「琵琶湖についてです」
「もしかして超古代文明の遺跡ですか?」
本多の回答に反応したのはランボーではなく、目を輝かせた やよいだった。
「詳しいですね。その通りですよ」
「超古代文明の遺跡って?」
昼市が尋ねると、やよいは嬉々とした顔で声を弾ませた。
「琵琶湖の奥底にはね、古代人の遺跡が眠っていると言われているんですよ」
「湖の中で暮らしていたの?」
キョトンとした顔の昼市を見て やよいはクスクスと笑った。
「違いますよ。地震で地面が液状化しちゃって地滑りを起こして水没したんです。縄文時代から江戸時代まで様々な年代の遺跡が埋もれているんですよ」
「へぇ、そうなんだ」
「あとね、琵琶湖って動いてるんですよ。いま琵琶湖がある場所は元々陸地で湖はもっと南西の方にあったんです。それが地殻変動によって湖が今の位置まで移動したんですよ」
「つまり地震での水没だけじゃなくて、大昔に元々陸地で遺跡があった場所に湖が移動したことで、結果として琵琶湖の奥底に遺跡が沈んでいるものもあるかもしれないってことなのかな?」
「それも十分に考えられます。だから古い年代の海底遺跡には凄い財宝が眠ってるというオカルト話があるんです」
「なるほどなぁ」
「ちなみに琵琶湖って今でも動いてるんですよ。一年あたり約三センチ動いてるって前にテレビ番組でやっていました」
やよいの解説に本多はうんうんと頷き自身も補足説明をした。
「そうですね。それに琵琶湖は世界有数の古代湖でバイカル湖、タンガニーカ湖に次いで三番目に古い湖だと言われているんですよ。だからこそ、このようなオカルト話が出てくるんでしょうね。私どものようにオカルトを扱う者にとって国内にこのような場所があるのは嬉しい限りです」
やよいと本多の話を聞いて、昼市は口をあんぐりあけていた。
「滋賀県って地味なイメージしかありませんでしたが意外とすごいんですね」
なんてことを言うんだ、信じられない、という表情でランボーは昼市を見た。
「地味な訳がないだろう。琵琶湖もそうだがね、戦国時代では近江……今の滋賀県の旧名だが、近江を制する者は天下を制すと言っても差し支えない要所だったんだよ」
やよいと昼市はそれぞれ興味深そうにランボーの話に反応を示した。
「美濃を制する者はっていうのは聞いたことがありますが、近江もなんですか」
「何故そんな要所だったんですか?」
「東海道、中山道、北陸道の合流地点だからだよ。当時は京都が天下の中心で京都より東に住む者たちは必然的に近江を通り京都へ行く。それに琵琶湖を使った水運も発達していたからね。人の流れやモノの流通が激しい場所、それだけ金と情報が落ちてくるし他大名との交渉も有利に運ぶことが出来るというわけだ。織田信長が晩年本拠地を安土に築き、有能な家臣団に近江各地を任せていたのもそれが理由だろうね」
「なるほど」
「そういう場所だから戦国時代が好きな者にとっては聖地だらけだし、県面積ワーストテンに入るにも関わらず国宝含む重要文化財の数は全国三位、人口十万人辺りの寺の数に至っては日本で一番多い歴史的重要スポットなんだぞ。決して地味な場所じゃない。分かったな?」
語りたいことを語りたいだけ語ってスッキリした後、大きな目でぎろりとランボーは昼市を睨んだ。
昼市は苦笑いをしてご教授ありがとうございます、とお礼を言った。
「さすが高橋先生。博識ですね」
「ははは。これくらい一般知識ですよ。歴史学者としてはね」
本多に褒められて気分をよくしたランボーは顔を緩ませた。
駅を出てすぐのところに二体の銅像があるのが見えた。老人と小姓のようだ。生徒三人は必然的に銅像へ視線がいく。
「あの銅像は誰ですか?」と昼市が尋ねると、ランボーは銅像を見るわけでもなく答えた。
「豊臣秀吉と石田三成の銅像だな。ちなみに駅から少し歩いた所に長浜城や秀吉を祀っている豊国神社というのもある。長浜城から見る琵琶湖の景色は中々のものだよ」
モノ言いからして、どうやらランボーは長浜に来たことがあるらしい。
「長浜って秀吉や石田三成と所縁があるんですか?」
「あぁ。長浜っていうのはね、はじめて秀吉が領主に任命されて自分で基盤を築きあげた土地なんだよ。だから秀吉にとって感慨深い地で民を大事にしていたんだろうね。のちに家康が天下をとって秀吉信仰を禁じても、町の者たちは罰を受けるリスクを冒してまで秀吉をコッソリと祀っていたそうだよ」
「へぇ、慕われてたんですね。石田三成の方は?」
「秀吉が石田三成と出会ったのがこの長浜なんだ。三杯の茶って逸話があるだろう」
「三杯の茶?」
「そう。ある寺を訪れた秀吉が小坊主だった三成に茶を所望したんだ。三成は秀吉に一杯目にヌルいお茶を出して喉の渇きを潤わせ、二杯目は少し熱いお茶、三杯目は味わいを楽しめるよう熱いお茶を出したことから秀吉は三成の才覚に気が付き家来にしたという」
「そんな話があるんですね。面白いなぁ」
「アメリカン、ブレンド、エスプレッソのごとくだね!」
長い電車旅でボーっとしていたメイが気を紛らわしたくなったのか会話に参加した。やよいはメイの言ってることがよく分からなかったが、聞くのもヤボな気がしてアハハと軽く笑った。
メイはやよいの反応を気にもしないようで次の話題へとうつった。
「近江権現集落ってヤーフルマップのデータベースにも載ってなかったんだけどさぁ、どうやって発見したのかな?」
メイの前を歩く榊原が顔を後ろに傾けた。
「それが誰にも分からないんだ。いや、正確に言えば部長の酒井なら知っていたと思うんだけど死んじゃったからね……」
「部長さんは詳しかったのかな?」
「ん。何しろこの件は部長自らが指揮をとって取材の段取りを組んでいたからね。部長は基本記事のネタには口を挟まないタイプだったから、とても珍しいことだったんだよ。だから皆で雨でも降らなきゃいいけどなって笑ってたんだけど……なぁ?」
榊原が相槌を求めると、本多は力なく微笑んだ。
「雨どころか災難が降ってきましたね」
「あぁ、取材に行った井伊君も未だに意識が錯乱したままで入院しているしな。本当に呪われていたりしてな」
「そのような物言いは止めたまえ」
石川は険しい顔でキッパリと言った。本多と榊原は会話を止めた。二人とも気まずそうな顔をしている。やよいは二人が石川に苦手意識を持っているように見えた。
ランボーは石川と目があった。悪いことをしたわけでもないのに謝らなくてはいけないような気持ちになった。
「高橋先生、本多から既にお聞きかもしれませんが本件は呪いの秘宝という所謂オカルト話をネタにするために取材が行われました。しかしそれは表向きのことだと私は思うのです」
「表向きとは?」
「はい。先ほどお嬢さんが仰っていた通り、これから訪れる集落は国が認知していない可能性が高いのです。つまり、集落の存在そのものが歴史的な発見にもなりえます。だからこそ独占取材とするために部長自らが指揮をとって情報共有も最小限にしていたのだと思います」
「なるほど」
「そのような場所ですから、歴史的価値が高いモノまたは風習が残っている可能性もあるでしょう。それを専門家の知見によって見極めて貰いたく、今回高橋先生のお力を拝借させて頂ければと思います」
ランボーはすっかり機嫌をよくして声を弾ませた。
「ははは。扱っている雑誌で偏見を持ってしまいましたが、そういうことでしたら俄然やる気がわいてきました。現代日本で未だ何者にも知られぬ地があることは少々信じがたいことではありますが、もしそれが事実なら何か面白い発見があるかもしれませんね。ボクも集落へ行くのが楽しみになりましたよ」
やよいは違和感に襲われた。
いや、確かに石川の言うことは理にかなっている。矛盾したことは言っていない。それはやよいも間違いなく思うのだが何故ランボーが選ばれたのか、それが不思議だった。
「なんで先生に依頼したんですか? こういうのって、大学教授や研究機関に相談するものだと思っていたんですが」
やよいの問いを聞いて、ランボーは高笑いを止めて鼻で笑った。
「分かっていないな、君は。大学や研究機関というのはね、君が思っている以上に色々な思惑とシガラミがあるんだよ。外部は勿論、学内・機関内でもね。運悪く手柄に飢えている者に依頼しようものなら石川さんたちの成果は全て横取りされてしまう危険だってある。成果が己の存在意義の全てだと思い込んでしまう環境に居ると、どうしても欲望に支配されてしまうヤツが出てくるんだ」
「はぁ、そういうものですか」
やよいは分かったようで分からない。そのような環境に属したことがないからリアリティがないのだ。
石川は大きく頷いた。
「高橋先生の仰る通りです。私は研究が好きで大学院まで進学し、それなりの成果を出しました。しかし、私の研究には新規性がないと教授に言われて学会で発表をさせて貰えませんでした。ところが私が院を修了した翌年、教授が私の成果を学会で発表して受賞したことを知って酷く失望しました。亡くなった部長の酒井も私と同じ研究室にいましたから、そのときは二人で愚痴を言い合ったものです」
「よくある話です。もちろん世の中はマトモな研究者の方が多いですよ。しかし、なかにはそういう欲望に負ける者もいるわけです」
「はい。私共は信頼出来る研究者と繋がりがなかったものですから、団体に属さない高橋先生なら安心出来ると思い依頼させて頂きました」
「その判断は大正解ですよ。ボクは人の成果を横取りする必要が全く無いくらい才覚に恵まれていますしね」
「さすが高橋先生です。歴史に名を残す方というのは、こういう大気をお持ちの方なのでしょうね」
「ははは。そうでしょうとも」
石川におだてられて上機嫌に笑うランボー。やよいを含め生徒三人はランボーの凄さがあまり理解できなかった。人にこれだけ褒められるのだから凄いことは凄いのだろうけれど、日頃から自信過剰で非常識なランボーを見ているせいでどうしても素直に凄いと思うことが出来なかったのである。
雑談をしている間に立派なビルが見えてきた。
「本日と明日はあのホテルに泊まって頂く予定です」
「おぉ。ナイスチョイスですね。ボクはこのホテルが好きなんですよ」
ランボーの反応を見て、榊原は機嫌よく答えた。
「高橋先生もですか。僕もなんですよ。実はこのビジネスホテル、弊社のグループ会社の一つなんですよ」
「そうなんですか?」
「えぇ。弊社単体で見れば人数も少ない零細企業です。でもあまり知られていませんが、実は弊社はオダ・ホールディングスの孫会社なので結構安定してるんですよ」
「ほぉ。日本の経済を支配していると言われているオダの。本当にいろんな産業に手をつけているんですね」
「えぇ。おかげで我々もあのホテルに顔が利いて安く泊まれるというわけです」
「このホテルに安く泊まれるとは羨ましい限りですね」
やよいはビジネスホテルなど小さい頃に家族旅行で数回しか利用したことがない。その程度の利用経験者から見ればビジネスホテルはどこも大差ないと思っている。
そんなやよいにしてみればランボーたちが嬉しそうにしていることが不思議だった。
「このホテルのどういう所が好きなんですか?」
「第一に大浴場がもれなくついている。他のビジネスホテルだとそもそも大浴場が無かったり、店舗によって有無が別れるからね。このホテルを選べば大浴場を期待していたけど無かったなんてガッカリな出来事がなくなるんだ」
「大浴場があるのは魅力的だね!」
メイが明るく答えた。
「第二にベッドが必ずセミダブル以上の大きさだ。ベッドが大きいと豪華な感じがして好感が持てる。それにベッドのフカフカ具合も丁度良い」
「なるほど。確かにベッドは大きいにこしたことないです」
昼市がうんうんと頷く。
「そして第三に、これが最も重要なことなのだが朝食のビュッフェがものすごく美味いんだ。決まったものを出されるのではなく好きなものを好きなだけとれる。朝食がビュッフェ形式であることは譲れない絶対条件だな。しかも、このホテルは数あるホテルの中でも品数が豊富で唐揚やハッシュドポテト、カレーが絶品なんだよ。それでいて五百円という低価格。素晴らしいの一言に尽きるね」
饒舌に語るランボーの話を聞いて、ホテルの良し悪しの判断はそういう視点でするものなのかと やよいは感心した。
なかでも朝食がビュッフェ形式であるというのは、食べ物の好き嫌いが多い やよいにとっても魅力的なことだった。ただし、ランボーがオススメしている料理を朝から食べるのは自分には無理だなとも思った。
「朝から随分ヘビーなものを食べますね。でも、お話を聞いてたら私も食べたくなってきました」
「はは。朝食つきで予約を取っている筈なので、明日食べられますよ。僕なんてここに泊まるときはいつも二時間は食堂に滞在してひたすら食べてます」
榊原が出っ張ったお腹をポンポンッと叩きながら笑った。
「皆様の部屋も既にチェックインしておりますのでルームキーをお渡ししますね」
ランボーたちはホテルに着き本多からルームキーを受け取った。
「それでは明日集落へ向かうということで。本日はご自由にお過ごしください」
「分かりました」
「我々はこの後も仕事がありますので、ここで失礼します」
「はい」
本多たちと別れランボーと生徒三名はエレベータに乗り部屋のある階で降りた。
エレベータから降りたところでランボーは生徒たちの足を止めた。
「この後は君たちも自由に過ごして良いがくれぐれも問題を起こさないようにな」
「はーい」
「やよいっち、黒壁スクウェアってところで食べ歩きできるらしいから部屋に荷物を置いたら食べにいこうよっ!」
「うん。楽しそうだね」
「あっ、待ってよ。僕も行きたい」
「じゃあ、昼たそも早く準備すませてよねっ!」
駆け足で自分の部屋に向かう三人の背中を見てランボーはため息を吐いた。
「まったく。まだまだ子供だな」
と口では言ってみるもののランボーも若干浮足立っている。久々に滋賀県に来たからにはいろいろ散策したい気持ちが強かった。長浜城、彦根城、佐和山城址、安土城址、近江八幡、いずれも長浜から近い位置にある。いまは昼過ぎだからどこへ行っても十分に見る時間はある。
「さて、どこに行こうかな」
鼻歌交じりで自分が宿泊する部屋にランボーは入室した。
綺麗に整っている部屋の片隅に荷物をドサッと置いて伸びをした。数秒間ボーっとした後ふかふかのベッドで横になると眠くなってきた。
ランボーは思う。
少し眠いな。思えば昨夜は遅くまで大河ドラマを見て、ほとんど寝てなかったもんな。しかし今から朝まで寝るのはあまりにも勿体ない。一時間ほど仮眠してから散策に出かけるか。……などと考えているうちに思考は止まった。
「……はっ。いま何時だ!?」
意識が覚醒するなり、ランボーは飛び起きて時計を見た。
「おぉ、ぴったり一時間寝ていたようだ。この短時間でこの熟睡ぶり、疲労回復もバッチリ。さすがボクだな。睡眠一つとっても才能を感じさせるよ。ふははは」
笑いながらランボーはベッドから降りて洗面所へ向かった。
「さぁ、顔を洗って散策に出かけよう」
気持ち良い眠りのあとに冷たい水で顔を洗うと、爽快感が段違いだとランボーは思う。濡れた顔をタオルで拭きながら鏡で自分の顔を見ていると、自分の良い男ぶりに嫌でも気が付く。
「才も美も極めてしまったかな……」
ランボーは鏡の前で顎に手をあててニヤリと笑った。
満足してベッドの方へ戻ろうと体を半回転させたその時、ランボーは目を大きく見開いた。心臓がワシ掴みされたように強烈な緊張が走る。
目の前には老人が立っていた。
背は小さい。か細い体に黒いローブを羽織っている。純粋すぎるくらいの壊顔が却って気味悪く邪悪なモノに見えてしまう。老人の瞳はランボーを捉えていた。
音も気配もなく突然現れたこの老人を目の前にしてランボーの思考はバグを起こした。
なぜ人がここに居る?
オートロックだぞ!?
この不気味な顔はなんなんだ!?
「深入りするな。さもなくば呪いを掛ける」
表情とは裏腹に声は冷たく無機質だった。
その声が耳に入る前に、ランボーは意識が遠のき倒れていた。
第三章 時が止まった集落
なぜボクは洗面所で寝ていたのだ?
ランボーは今朝目を覚まして最初にこう思った。
得体のしれない奇妙な老人が目の前に立っている夢を見た。
そう、あれは間違いなく夢だ。
現実であるわけがない、とランボーは思っている。
まぁ夢だしどうでもいいかと、ランボーは考えることをやめてシャワーを浴び仕度を整えた。
ランボーはビジネスホテルの朝食、特にこのホテルのビュッフェが大好物なので是非とも食べたいと思っていたのだが、時計の針は昨日約束した集合時間五分前を指している。仕方なく外出用の荷物をまとめてロビーへと向かった。
ロビーの前にあるソファ周辺にはランボーをのぞく全員が既に集まっていた。
「おはようございます先生。昨夜はよく眠れましたか?」
石川は昨日と着ているスーツの色が違う。どうやら複数スーツを持ってきているらしい。仕事が出来る人ならではの拘りなのか、ただの潔癖症なのか、どちらだろうかとランボーは頭の片隅で考えながら軽く笑顔を作りグッスリ眠れましたと答えた。
ランボーは確かにぐっすりと寝た。自分がいつ寝たのかも分からないくらい速攻で眠りについて次に起きたのは今朝集合時間三十分前だったのだから快眠と言える。ただ、眠った場所がベッドの上ではなく洗面所だったというのはランボー自身も少々不思議だった。そのせいで変な老人の夢まで見てしまった。
「お車の準備は出来ています。早速出発しましょう」
ランボーたちは本多が用意したレンタカーに乗り込み集落へと向かった。
「そういえば、集落の詳細は分からずとも場所はご存知なんですね?」
「えぇ。先日亡くなった部長の酒井の遺品整理をしていた際に集落の場所が記されたメモ書きが見つかったのです。集落に関する情報としてはこれが唯一でした」
ランボーの問いに石川は顔を崩さずに淡々と答えた。
車窓から見える景色は建物ばかりの灰色から一面の緑色へと変わっていく。ミニバンは山道を登っていた。
「だいぶ山の方に来ましたね。集落はどこらへんにあるんですか?」
「姉川ダムの更に奥にいったところです」
「姉川……か」
榊原の答えにランボーは物思いに耽るようにボソっと呟いた。
やよいの肩に頭をのせて寝ているメイを起こさないよう気を付けながら、やよいはランボーに尋ねた。
「どうかしたんですか?」
「姉川の戦いが脳裏に浮かんだんだよ」
「姉川の戦い?」
「この麓で起きた織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍の戦いのことさ。あまりにも激しい戦いで戦死者も多く川が赤色に染まったそうだよ。戦場付近の地名が血原、血川と名付けられたことからも悲惨さを想像するのに難しくはないね」
「赤色の川……」
「ちなみに姉川の戦いというのは徳川軍の呼称なんだよ。合戦のメインだった織田軍、浅井軍の間では野村合戦と呼称していたにも関わらず、援軍として来ていただけの徳川軍の呼称の方が定着するのも実に興味深いね」
「ここでも徳川家康か……」
腕を組み一人頷くランボーの後ろで、やよいは何かを考えているようだった。
「それだけ赤色に染まった川が衝撃的だったんでしょうね。ちなみに、そんな場所なのでここらへんでは霊的な力が強いと言われているんですよ」
はははと笑いながら榊原が言う。
ランボーは苦虫を噛んだような顔になった。
「霊なんてボクは信じていませんけどね」
やがてコンクリートで舗装された道を外れ、車一台が通れる道幅の砂利道となった。車内が小刻みに揺れるためにランボーは酔ったらしい。遠くの景色をぼんやりと眺めて吐きそうになっている自分を忘れようと頑張っているようだった。
その表情がシュールで面白く、やよいは窓ガラスに反射して見えるランボーの顔を眺めていた。
ミニバンは今にも朽ち果てそうな古びた鳥居の前で止まった。
鳥居の奥は人ひとりが通れる程度のけもの道だけがあり、この先をクルマで進むのはちょっとムリそうだ。本多は全員にクルマから降りるよう促した。
「ここを更に先へ進むと集落に着くはずです」
本多と榊原が鳥居の奥を指さし先導した。
むんむんと蒸し暑く、その場で立っているだけでも汗をかいてしまう。周りには虫も多く虫よけスプレーを持って来れば良かったと やよいは思った。
両脇が草で生い茂り、かろうじて直線状にむき出しになった土の道を通って行く。
本当にこんな所に人が住んでるのかなぁ? と、やよいは疑問に思う。
もう鳥居から数えて一時間は歩いている。周りは木々に覆われて人が住んでいる気配なんて全くない。こんな所で生活するなんて生活用品はどうやって揃えてるんだろう、と やよいは気になった。
その時である。
「うん?」
何か不思議な違和感をかんじた やよいはその場に立ち止まって辺りを見渡した。風にゆられてざわめく木々の葉しか見えない。であるにも関わらず、どこからか何者かに観察されているような気がした。
「どうしたの?」
昼市が尋ねると、やよいは首を傾げた。
「うぅん。誰かに見られてるような気がして……」
昼市は辺りを見渡してみたが、人の気配を全くかんじなかった。
「そうかな? 誰も見当たらないけど。……あっ、置いていかれるよ。はやく行こう!」
「はい」
昼市が先にランボーたちの方へ早歩きで向かった。やよいも最後にぐるっと辺りを見渡し、誰も居ない事を確認して駈け出そうとした。
││そのとき。
“禁忌ノ地ニ足ヲ踏ミ入レルカ“
やよいは後ろを振り返った。
しかし誰もいない。
やよいは誰かが何かを呟く声が聞こえたような気がしたのだ。
(気のせいかな?)
虫の鳴く声と聴き間違えたんだと解釈し、早歩きでランボーたちと合流した。
何者かに見られていたことなど、やよいたちは知る由もなかった。
更に奥へ進むと土の道すらなくなり草木を掻き分けて歩くようになった。蚊や小さな虫がブンブンと飛び回っているのを手で追い払いながら一向は先へ進んだ。
もはや本当にこの道で正しいのだろうか?
やよいは気になって仕方がないが本多と石川が先頭に立って歩き続けていた。どこかで折り合いをつけないと遭難しかねないのではないかと、やよいは考え始めていた。
「なんかRPGに出てきそうな雰囲気だよね」
「強制イベントが発生するパターンだね!」
「でもさ、本当にこの道で良いのかな。実は道に迷ってるってことはない?」
やよいと同じように不安に思っていたらしい昼市。
それをメイは一蹴した。
「心配ないよ!」
「なんで?」
「迷いがないんだもん」
「どういうこと?」と昼市が尋ねるまえに全員足を止めた。
目の前には石段があった。
「こんなところに石段があるとは……間違いなく人工的に作ったものだ」
ランボーが石の並びをまじまじと見ながら言った。石川は頷いた。
「えぇ。集落もそろそろ近いでしょう」
「これを登るのかぁ」
やよいとメイはショックを隠しきれない。
上を見上げても石段の終わりが見えない。大きな石を置いて作っただけの階段なので一段ごとの高さは不均一だ。なかには女の足で登るのは大変そうな段差もある。
「ツラかったら此処で待っていても良いがな」
ランボーが一段跨いで振り返って言った。相変わらず無神経な人だと やよいとメイは思った。こんな何もない所で置いて行かれる方がよっぽどツラいに決まっている。
ランボーの発言を無視してメイが気合を入れて階段を登り始めた。こんな石段を登らなくてはいけない苦痛に対する八つ当たり半分でメイはランボーに一つ皮肉を言ってみた。
「ランボーちゃんは生徒をこんなところに置いてけぼりにするつもり? そんな気配りができないようじゃモテないよっ!」
「ふん。ボクがモテない? そんなワケないだろう」
ランボーが失敬な奴だなと言いたげにフンッと鼻をならした。
「へぇ。じゃあモテるんだ?」
「モテるに決まっているだろう。デートだってうまくやれると思うよ。恋愛ゲームで毎日毎日シミュレーションしているからね。いつでも実戦を迎えられる」
「……ランボーちゃん。デートしたことないんだね」
「え? ……あっ」
自分の発言がモテない男のそれだとランボーが気づいたとき、話し相手のメイだけではなくこの場に居る全員がランボーを憐れむ顔で見ていた。
「あれ?」
皆がランボーに悲しい視線を送っているなか、やよいは前をいくランボーの奥、つまり石段の上に女性が立っているのが見えた。年齢は中学生くらいだろうか。日本人形のように長い黒髪で戦国時代のお姫様が来ていそうな着物を着ている。まるでそこだけ時間が切り取られたかのような空間で、平安時代か戦国時代にタイムスリップしてしまったのではないかと一瞬思わされた。やよいは軽いめまいに襲われた。
女性は人形のように真っ白で冷たい無表情のまま やよいたちを見下ろしている。
「なんだ? 君までボクがモテないとでも思っているのか?」
女の子がランボーの体に隠れて見えなくなってしまった。やよいは頭を押さえた。
「石段の上に着物を着た女の子が居ます」
「え?」
全員が石段を見上げた。
しかし……。
「誰も居ないじゃないか」
「あれ、おかしいな。さっきは居たんですけど……」
「疲れてるんじゃないの」
「さぁ、きっともうひと踏ん張りですよ。頑張りましょう」
この中で一番貧相な体型の本多が皆にエールをおくった。本多に言われると何だか自分も頑張らなきゃという気になるのがランボーはちょっと可笑しかった。
一同はヒィヒィ言いながらようやく石段を登り切った。それから数十分ほど奥へ進むと、家がいくつか並んでいるのが見えた。いずれも茅葺屋根で年季が入っている。
ランボーたちは平地で立ち止まり、ふぅっと一息ついた。
「ここが件の集落ですか?」
「そのように見えますね」
榊原が呼吸を整えながら答えた。
ランボーは辺りを見渡した。
「電気がまったく通っていない。ガスもないようだし、茅葺屋根の家ときた。まるでここだけ時が止まっているかのような空間だ」
「はい。しかし、これだけ大きな家がいくつかあるのに今まで存在が公になっていないことも不思議ですね」
本多の声を耳に傾けながらランボーは視線を上にあげた。
「集落の家は上から見たら木で隠れるような位置なので、人工衛星の写真には写らないのでしょう。それに地上からの散策にしたって、この入り組んだ道を何時間も歩かなくてはいけないから見つからなくても不思議ではないかもしれません」
「やっぱりこれはスクープということですね。やりましたね、編集長!」
「落ち着き給え、榊原君」
興奮する榊原を石川は手で制す。歴史的発見になりえる可能性を目の前にしても、彼の真面目な顔が崩れることはなかった。
「まずは集落の方を探してお話を伺おう」
「呼んだかぇ?」
背後から急に声が聞こえ、昼市はひぃっと小さな悲鳴をあげて鳥肌を立てた。
みな一斉に振り返った。
そこには和装の老人が立っていた。老人の頭のテッペンにはすでに髪がなく、アゴに白い髭が生えている。ランボーがホテルの自室で夢に見た邪に感じる破顔の老人とは違い、目の前の老人は不審そうにランボー一向を見ていた。あまり歓迎されていないのは明白だが生きた表情ではある。
石川は一歩前に出て軽く会釈をした。
「はじめまして、私は石川と申します。雑誌の編集をしております。この集落のことを知りたくてお邪魔しました」
老人は細い目を開き、ぎろりと石川を睨んだ。
「ほぉ、この集落をな。兄ちゃん、どこで此処のことを聞いたんや?」
「分かりません。唯一知っていた者が既に亡くなっておりまして、我々はこの集落に関して場所以外の情報を持っていません」
「場所しか知らへんと、何があるのかも分からずここに来たんか?」
「いえ、実は先日弊社の社員がこの集落に訪れたのですが、その者が帰ってくるなり混乱しておりましてね。何があったのかお尋ねしたいと思いまして」
老人は目を細めた。
沈黙している。
何を考えているのか全く読めない。
「奇妙やな」
「はぁ。奇妙とは?」
「いやな、先日兄ちゃんの知人が来たと言うやんか。せやけどな、此処に外部の者が来たのはワシが生まれてからは兄ちゃんたちが初めてや」
石川と榊原は目を丸くした。
本多はぐいっと前に出た。
「そ、そんなはずは。恐れ入りますが尊公がたまたまお目にかからなかっただけでは?」
「ワシは此処から動かへん。外部の者が来たら絶対に分かるわ」
本多と榊原は顔を見合わせ戸惑っている。
石川は未だ表情を崩していない。
ポーカーフェイスなのか、本当に焦りや戸惑いがないのか、やよいには分からなかった。
老人は石川たちから視線を外し、やよいとメイを見た。口角をわずかにあげ、顎をあげた。
「立ち話も何やから家に来ぃへんか」
「来んさい」「来んさい」「来んさい」「来んさい」
「わっ!」
昼市は再び小さな悲鳴をあげ、やよいとメイは息をのんだ。
老人に視線と意識が集中している間に、どこから現れたのかランボーたちは集落民に囲まれていた。みな七十歳は超えているであろう見た目だった。
石川はメガネに手をあててランボーを見た。
「高橋先生。折角ですからお言葉に甘えましょう」
「そ、そうしますか」
ランボーは本音を言えば一刻も早く逃げ出したかった。
しかし断ったら何をされるか分からない。そんな身の危険を感じる不気味さが集落民にはあった。それはきっと石川も同じだったのだろう。
ランボーたちは老人に先導されて歩き出した。左右と最後尾は他の集落民に挟まれている。
まるで連行されるかのようにランボーたちは向かいの屋敷へと入った。
ツンとカビの臭いがする。
室内中央にある囲炉裏を囲うようにしてランボーたちは座った。
老人の横には土でこねたような茶色い急須が置いてある。綺麗な曲線の急須ばかり見ている人にとっては表面がデコボコして非均一的なこの急須は素人が作った失敗作に見えるだろう。事実、やよいもこの老人が趣味で手作りしたものだと思った。しかし、ランボーは急須を見て反応した。
「ほぉ、田島万古焼ですか。なかなかの年代モノに見えますね」
「ワシがモノ心ついたときから家にあんのや。珍しいものなんか?」
「これは福島の伝統工芸品です。珍しくはないのですが、人里離れたこの地に東北のものがあることは意外でした。そこの壁にかかっている、たて縞模様のあの布も会津木綿と呼ばれる福島ゆかりのものです」
「さすが先生。博識ですね」
本多に褒められてランボーは得意げな顔になった。
「おじいさんは福島にゆかりがあるんですか?」
「とんと分からん。ワシたちは皆なにも親から知らされへんかった。ただ呪いのことだけが伝わってきたんや」
「呪い!?」
バッと前屈みになる榊原。
石川は榊原を睨みつけ、老人に向けて静かに言った。
「その件について詳しく教えていただけないでしょうか」
老人は入り口の前に立つ集落民に向けて頷いた後に石川を見た。
「その前にもう一度聞かせぇ。兄ちゃんたち、此処のことは場所しか知らんと言うてたが他に知っていることがあれば教えてくれるな?」
「先ほどお話しした通り私どもの同僚が此処を訪れ、様子がおかしくなったのです」
「しかし、ワシらは外の者には会うてへん。なぁ?」
「あぁ」「よそ者にはとんと会っとらん」
他の集落民が口々に言う。
「そんなバカな。それなら井伊君は一体どこへ行ったというんだ」
石川は本多と顔を見合わせた。こちらの都合などおかまいなしに老人は口早に尋ねた。
「他には何がある? そんだけでは此処まで来る理由には足らへん。違いますかな?」
「此処に呪いの秘宝があるという情報が入ってね、それがキッカケで先ほどお話にありました社員が伺うことになったんですよ。まぁ、おじいちゃんたちは見てないと言っているけれども。さっき呪いがどうとか言っていましたが実際、呪いの秘宝はあるんですか?」
榊原が飄々と尋ねた。
老人は首を傾けた。
「呪いの秘宝とはどういうものなのですかな?」
「他人の運命を操ることが出来る秘宝です。そういうオカルト話があるんですよ」
「それはよく分からん。ワシが言うたのは玉姫御前様の呪術や」
「あの、玉姫御前って酒呑童子の?」
やよいが尋ねると老人は頷いた。
ランボーはあきれたように笑った。
「さすがオカルトを生業としているだけあって知っているんだな」
「先生こそ、ご存じなようで」
やよいが笑うとランボーはフンっと鼻をならし、当然だと言いたげな顔をした。
メイも昼市も何のことか分からない。
「玉姫御前とか酒呑童子って?」
というメイの質問にランボーが答えた。
「かつて京の都を闇に陥れた鬼がいたんだよ。安倍晴明が正体を見破り、坂田金時が退治したんだけどね。その鬼の名前が酒呑童子と言うんだ」
「坂田金時って、鉞担いで熊と稽古する、あの金太郎のことだよね?」
「あぁ」
「酒呑童子は滋賀県で生まれ育ったんだ。母親は玉姫御前と言う」
「ちなみに父親はヤマタノオロチだよ。頭が八つ、尻尾も八本あるあの怪物のことね。出雲国でスサノオに敗れて近江に逃げたと言われてるんだよ」
ランボーの話にやよいが補足した。
昼市もメイも呆気にとられた。
御伽噺で聞く様々な名前が一気に出てきたせいで壮大な話に思えてしまった。
「もっとも酒呑童子には諸説あって、いま話したことは近江国を起源としたものだけどね」
「よく分かりました。でも、玉姫御前の呪術というのは?」
「それは知らないな。君はどうだ?」
「分かりません」
やよいは首を横に振った。
石川たちも分からないようで沈黙している。
皆の視線は老人に集まった。
老人は開いているかも分からないくらい目を細めて話をはじめた。
「玉姫御前様にとって、酒呑童子はどんな姿かたちになろうとも自分の子供であることには変わらへん。そこには愛があるわけですわ。酒呑童子を拒絶した人間たちを恨み、呪術によって苦しめる。そう、呪われる者の前に漆黒の和服に身を包んだ玉姫御前様が突然現れる。そして、こう呟くんや」
“
天運は我と共に在り
我は下天を司りし者
申せ その仇名
尊公の命と引き換えに
呪ってみせよう 魂魄百万回
“
その場に居た集落民全員が声を揃えて唱えた。
この異様な雰囲気を目の前にして、ランボーたちは鳥肌が立ち恐れおののいた。
ランボーは冷や汗をぬぐって無理やり笑ってみせた。
「なるほど。しかしそのような伝承は初めて聞きました。酒呑童子の話は有名ですが、玉姫御前の話となるとあまり記録が残っていませんからね。そのような昔話が残っているのもこの集落ならではということなのでしょうかね」
「昔話?」
「何か気になることでも?」
「昔話はおかしいですな。玉姫御前様は今でもいらっしゃる」
「は?」
平然とした顔の老人から馴染まぬ言葉が出てきたせいでランボーは思考が止まった。
石川たちも言葉を発せずにいる。
ランボーは老人の言葉を理解しようと努めた。
「どういうことですか?」
「そのままの意味ですわ。玉姫御前様は今もなお生きておられる。お見かけすることもありますからな」
「そんなバカな。仮に玉姫御前のモデルになった者が実在していたとしても室町時代の話だ。今も生きているわけないでしょう」
「嘘は言わへん。実際にいらっしゃる。ワシらの先祖はみな玉姫御前様に呪いをかけられてしもうた。そのためにワシらも此処から出ることが出来へん。それに結界が張られているさかい外界からも此処に来ることは出来へんはずですわ」
「理屈が通りません。ボクたちは此処へ来れたじゃないですか」
「逆に聞きたいですわ。なぜ来れたのですかな?」
老人は凄みのある声を出した。嘘は許すまいという威圧感がある。
「なぜと言われても分かりませんよ……」
ランボーはたじろぎ、助けを求めるようにして石川たちを横目で見た。石川は冷や汗を拭かぬまま言葉を発した。
「私たちにも分かりかねますが玉姫御前殿に会えば何か分かるかもしれません。お会いするにはどこへ行けば良いのでしょうか?」
「詳しくは知らへんが北へ行ったところにある滝の奥にいらっしゃるのではないかと言われていますな。せやけど、あそこは禁忌の地、ワシらも足を運んだことはないのですわ。行けば間違いなく呪い殺されるでしょうな」
「呪い殺されますか」
「あぁ。下手したらワシらも被害にあいかねへん。せやから、兄ちゃんたちを行かせるわけにはいきませんな」
鍬を手に持った集落民たちがランボーたちを取り囲んだ。
本多と昼市は腰が抜けそうになっており、やよいとメイはお互いに身を寄せた。
「お待ちください」
石川が腰をやや浮かせた。
「先ほど仰っていた呪文にもある通り、天運は玉姫御前殿のもとにあるのでしょう。それなら普通は外界の者が入れない結界を破って私たちが此処まで来れたことも玉姫御前殿の意思によるものではないのでしょうか?」
「ふむ……?」
「私たちが玉姫御前殿のもとへ向かうことはむしろ彼女の望むところと考えられます」
「まぁ……一理あるわな」
老人が手をかざすと、集落民たちは後ろへ下がった。
ランボーたちは少しばかり安堵した。
「一つ条件がありますわ」
「条件ですか?」
「なに、難しいことじゃあらへん。万が一のことを考えてな。ワシらに呪いや危害が及ばないよう、ワシらと此処で会ったことは一切口に出さへんと約束できますかな。ワシらは顔を合わせてへん。そういうことにできますかな?」
「約束しましょう」
「ほんなら好きにしてくれてええよ。ただし、玉姫御前様に会えても決して失礼のないようにな」
「ありがとうございます」
石川は一礼した。後に続き本多と榊原も頭をさげた。
老人は石川たちなど見向きもせずにやよいとメイを見た。
「お嬢ちゃんらな、此処で暮らす気はあらへんか。嫁が不足しとんのや」
キョトンとする二人。
直後、すぐに首を勢いよく横にふった。
「い、いえ。すみませんがお断りします」
その勢いに老人もあきれ笑いせざるをえなかった。
「その反応はかえって清々しいわ。まぁ、よく考えたらどうせ玉姫御前様に呪い殺される運命かもしれへんからな。そんな厄介モンをもらい受けるのは御免やな」
苦笑するやよいとメイ。
石川は立ち上がり、外に出る姿勢を見せた。
「それでは私たちはこれで」
「あぁ。くれぐれも約束は守るようにな」
「はい」
やよいは迷っていたが、意を決して老人に話しかけた。
「あの、お爺さん。呪いをかけられて此処から出られないと言っていましたが、此処から出ようとしたことがあるということですか?」
「あぁ。何度かある。ワシに限らずな。せやけど、どんなに歩いても気が付いたらこの集落に戻っているんや。どんなに山をくだってもな」
「どんなに山をくだっても集落に戻ってしまう、ですか」
「あぁ。ワシらの先祖が玉姫御前様を迫害して魂魄百万回生まれかわっても続く呪いをかけられてしもうたんや。その代償やと親に言われたことがあるわ」
「そんな呪いが……」
「お嬢ちゃんの前世もそうかもしれへんな。せやから此処に導かれて、一生此処に拘束されるかもしれへん」
やよいは急に不安な気持ちに襲われた。
“普通” とはなにか違う異変というか違和感を感じたのだ。
老人の言動(もしくはそれ以外のなにかかもしれないが)のどこに自分が反応して不安を感じてしまっているのか、それが全く分からないことも不安に拍車をかけている。もちろん、これまでの話からして十分不安を感じるに値することなのだろうが、そんな表面上のものではないのだ。本能的な何かを やよいは感じとっていた。
「おい、安土。いくぞ」
既に玄関から出たランボーに声をかけられ、やよいは老人に会釈して外に出た。
玄関の両脇に立つ集落民の視線が集まり やよいは妙に緊張した。
ランボーたちは集落の家からやや離れた位置まで歩き、周囲に集落民が居ないことを確認して立ち止まった。
全員が一息ついている。
本多が疲れ果てた表情で苦笑した。
「何がなんだか分かりませんよ。井伊君は来てないと言うし、呪いの秘宝ではなく玉姫御前の話が出るし、結界が何とかというのも」
「いや、筋は通るのではないかな」
石川はメガネに手をかけ、自分の考えをまとめるような口調で言った。
本多は「どういうことです?」と尋ねた。
「この集落の人たちは他所の人間に認知されたくない、と考えてみればどうだろうか。知られたくないから胡散臭い話をする。そして何かと理由をつけて自分たちのことを他言するなという。きっと井伊君も私たちと同じことを言われたのではないかな。自分たちは会ってないということにしろ、と。集落の人たちも誰にも会ってないことにしているんだ」
「なるほど」
「そして彼は北に行って何かがあって病んでしまったんだ」
「何かとは?」
「私はそれを確かめに行きたいと思う。本多君と榊原君はどうする?」
「勿論行きますよ」
「私もです」
本多と榊原は迷うことなく肯定した。石川はランボーを見た。
「高橋先生もよろしいでしょうか?」
ランボーは正直もう帰りたい気持ちでいっぱいだった。
しかし、ここで石川たちと離れるのも気がひける。集落民は胡散臭いし、襲われでもしたらかなわないので渋々承知した。
「はい。もっとも私は呪いを信じていませんがね。君たちも離れては危険だからついてきなさい」
やよいたち三人にランボーは命じた。
仮にランボーが行かないと言っても、やよいは石川たちについていくつもりだった。呪いの秘宝の正体が玉姫御前かもしれないという新説が浮上したのだ。つまり徳川家康が呪いの秘宝を持っていたという逸話は、玉姫御前に出会い彼女の力を借りて天運を操ることで天下統一を成し遂げたということになる。しかも玉姫御前はまだ生きていると集落の人たちは言う。これはもう真意を確かめる他ないだろう。
やよいはワクワクしている。
いま目の前にあるのは、行く先を全く想像できない非日常的な状況だ。
これこそ、やよいが心の底から求めていたものなのだ。
「ご老公が言っていた方へ向かってみましょう」
そう言って石川は歩き出した。やよいと昼市も続こうとしたが、ぼーっとした顔で突っ立ったままのメイに気が付き足を止めた。
「どうしたの?」
「なんであんなに空っぽなのかなぁ」
「空っぽ?」
「魂の入ってない器みたいな感じ。あんなの人間とは呼べないよ。でもなぁ、あれもアベコベなんだよなぁ。どういうことなのかなぁ」
メイは一人でブツブツと呟いている。たまに訳が分からないことを言う娘ではあるが、ここまで訳が分からないことを言うのは珍しい。
「メイりん?」
「うーん。もうちょっと様子見かなぁ」
「何を?」
やよいの言葉が耳に入らないかのように、メイは明後日の方向を見ながら歩き出した。
やよいと昼市はお互いに顔を見合わせて肩をあげた。
「私、たまにメイりんが何を言っているのか分からないんです」
「僕なんかいつも分からないよ。でもあれでいて直感はすごいよね」
「直感?」
「鵡上さんって僕を結構おちょくるでしょ。顔には出さないようにしているけど僕も本気で嫌になるときがたまにあるんだ」
「そうなんですね」
「うん。でも、僕が不快に感じたときは必ずバレてすぐに謝ってくるんだよ。何とも感じてないときは絶対に謝られないんだけどね。見極めがすごいと思うよ」
「そういえば私も今回の話を皆にしたとき、珍しく本気でワクワクしてるねーって言われました。その時は何とも思わなかったけど、これも私の言動から察したということなんですかね」
「たぶんね」
「そんな感の鋭いメイりんが違和感をかんじる何かがあったってことなんでしょうか」
「うん。でも此処にきてからずっと胡散臭い話ばかりで、僕は違和感しかないけどね」
はははと気弱に昼市は笑い、やよいも笑ってかえした。
集落を抜けて、まっすぐ進むと緩やかなくだり道の下に畑が見えた。様々な野菜が実っている。やはりこの集落の人たちは自給自足の生活をしているのだろう。
一時的にそういう生活をするのは憧れるが、ずっととなると絶対自分には無理だとやよいは思った。
十分ほど進むと、下り道の左側に脇道があった。脇道の方からは水が激しく流れる音が超えてくる。
「滝の奥って言っていましたよね。それならこの脇道かな」
榊原が確認すると、石川は頷いた。
「行ってみよう。ただし違うと感じたらすぐに引き返そう」
一向は左の脇道を進んだ。しばらく歩くと目の前に崖と滝が見えた。
此処の滝は日本の滝百選上位と比較しても見劣りしない見事なもので、公式に存在を確認されている滝の名を借りるのであれば栃木県日光にある華厳の滝にもっとも近いだろうか。上空から地面へ落ちて発生する水しぶきは力強く、激しく、たくましく、その存在を雄弁に主張していた。
ここで行き止まりかと思いきや、崖の脇には大人二人が通れるくらいの細道が続いている。崖底はパッと見ても百メートルはあり、安全柵なんて都合のいいものは勿論存在しないので少し道を踏み外しただけで転落死は免れないだろう。
榊原は後ろを向き、皆に注意をほどこした。
「ここの道、見るからに危ないから気を付けてくださいね」
「こ、この道を通るんですか……」
やよいが言おうとしたことを先にランボーが言った。
「はい。よくよく見ると道幅はそれなりにありますし、気を付けて進めば大丈夫ですよ。たぶん、集落の人が言っていたのはこの奥だと思います」
「確かにそうでしょうけども」
ランボーが渋っている間に榊原はさっさと前に進み、本多、石川も続いた。メイは足取りも軽やかに景色を楽しみながら進み、昼市はその後ろをおっかなビックリしながら付いていく。みんなサクサクと道を進んでいくのでランボーは焦った。
やよいが ふとランボーの足元を見るとヒザが震えている事に気が付いた。
「先生。もしかして怖いんですか?」
呆れたような口調で目を細めた やよいの顔を見て、ランボーはしかめ面をした。
「バ、バカを言っちゃいけない。ボクがこの世で怖いのは自分の才能だけだよ」
「そうですか。じゃあ、行きましょう」
「いや、ちょっと……」
やよいも進んだ。
実際に歩いてみると、榊原の言っていた通り思っていた以上に道幅はあるので落ちる心配はなさそうだ。それに、辺りを見ると、まるでここだけ現代社会ではなく過去に戻ったかのように空気が澄んでいて景色も良い。
やよいは携帯電話を取り出して写メを撮った。画像を確認すると、そのまま旅行雑誌の表紙に使えそうな会心の一枚となっていたので心が躍った。
「先生、見てください。絶景で……先生?」
やよいが振り返ると、ヒザをついてハイハイして進むランボーが居た。
ランボーは顔をあげずに、地面だけを見ながら やよいに返事した。
「なんだよ。いま忙しいから用があるなら後にしてくれないか」
「……やっぱり怖いんじゃ」
「そうじゃない。こんな所に来る機会なんて滅多にないからね。地質を調査しながら進んでいるんだよ」
「地質の調査、ですか?」
「あぁ。もしかしたら貴重な物質が混じっているかもしれないだろう?」
「いつから地質学者になったんですか」
「い、いや。あれだよ。地質学者の友達に調査を頼まれていたのを思い出してね……」
やよいは地面に這いつくばるランボーを見て憐れみを向けた。
「先生。……ともだち、居ないじゃないですか」
ランボーは目を大きく開き、口をあんぐりあけた。
何も答えずダンマリでランボーはハイハイしている。
じれったくなった やよいはランボーの腕を引張って立たせた。
「な、なにをするんだ!?」
「本多さんたち待たせるのも悪いから早く行きましょう」
へっぴり腰で立ったランボーは非常に焦った顔をしていた。普段ですら面白い顔なのに、焦るランボーはもっと面白い顔で、やよいは笑いが堪えられなかった。
「ふふ。大丈夫ですから。ほら、いきましょ」
と、やよいはランボーの腕を引張り歩き始めた。
「や、やめろ。落ちる! 落ちるよっ!」
「落ちませんから。はやく行きますよ」
ランボーの情けない震えた声をBGMにして、やよいはクスクス笑いながら進んだ。
崖の脇道を越えると、再び森に入り広い道に出た。ここまで来るとランボーはいつものようにふてぶてしい態度に戻り胸をはって歩きはじめた。
「言っておくけどな、別に怖かったわけじゃないからな。そこは勘違いしないように」
やよいに大人の面子を保とうと見苦しく釘をさすランボー。
「はいはい。分かってますよ」
やよいは適当にあしらった。ランボーは何か不満のある顔をしていたが、深く追求せず黙って進んだ。
平坦な道を十分ほど歩くと、丘が見えてきた。
ランボーたちは丘の上へと登っていく。
丘の天辺に苔の生えた巨大な石が見えた。ランボーは眼を細めて石を見た。
「あれは、さざれ石ですか?」
「えぇ。そのようですね」
榊原がハァハァ言いながら答えた。榊原のような肥満体型や本多のような貧相な体型には、これまでの道のりはハードであったのか目に見えて疲れていた。
やよいは唇に人差し指をあててランボーに尋ねた。
「さざれ石って国歌の歌詞に出てくる?」
「そう。君が代のモチーフになった さざれ石は岐阜にあるんだがね、ここのもそれに負けず立派だな」
「そもそも、さざれ石ってなんですか?」
「小石の塊の隙間が炭酸カルシウムで埋まって大きな石になったものだよ。だから、近くで見ると小石の塊で表面がデコボコしている」
「へぇ」
「あれは何だろう」
榊原がさざれ石の奥を指さした。
その指の先には地面に突き刺さった墓石のようなものがあった。近づいてよくよく見ると、苔が生え一部が欠けている石には文字が刻まれていた。
“
大江伊吹
天下安泰
滅者在捧
我我不呪
“
「ふむ……」
腕を組み石碑の文字をランボーが読むと、本多がランボーの顔色をうかがった。
「先生。これはどういうことなのでしょうか?」
「これだけでは何とも言えませんね。漢文もめちゃくちゃで学を感じない。しかし、石碑の劣化具合から見て数百年前かあらあることは事実でしょう」
榊原はカメラを取り出し石碑の写真を撮った。やよいもメイも携帯電話で写真を撮っている。
「やはりこの辺りに何かありそうですね。もう少し散策してみましょう」
石川が提案するも、本多は申し訳なさそうに小さく手を挙げた。
「すみません。私は此処で待機してもよろしいでしょうか。先ほど足をくじいてしまって」
「僕もすみません。休ませてください」
榊原も同調するように言った。疲弊しきった二人の顔を見て石川は頷いた。
「確かに休息が必要かもしれないな。高橋先生、少し休みをいれましょうか」
「えぇ。そうですね」
ランボーも同意した。
本多と榊原はその辺に腰をおろし、昼市は木に寄りかかる形で座った。
「ふぅ。実は僕も疲れてたんだ」
「知ってるよ。昼たそは女の子より体力ないもんね」
「そんなことはないと思いたいけど」
ニヤニヤして自分を見るメイから昼市は視線を外した。
ランボーは気配を消すかのようにして、そそくさと皆から離れた。
やよいはそれに気が付きランボーを追いかけた。
「先生。どこへ行くんですか?」
「どこだって良いだろう」
ランボーのぶっきらぼうな物言いに やよいはムカっとした。
「よくないですよ。ここらへん、携帯の電波も通らないんですから。はぐれたら面倒ですよ!」
ランボーは立ち止まり、振り返って やよいを見た。
しかめ面をしている。
「まったく。君は察しが悪いな」
「はぁ?」
「オシッコだよオシッコ。ボクはね、オシッコしたいんだよ。それとも何だい? 君はボクのオシッコを見たいのか?」
「なっ。そ、それなら最初からそう言ってくださいよ! あと、オシッコオシッコ何度も言わないでください。デリカシーがないですよっ!」
ランボーはぶっきらぼうな顔をした。
「ふん。みんなのところで待っていろ」
「言われなくてもそうしますぅ! あと、私たちに見えないところまで行ってくださいよ。あっ、でも迷子にならないでくださいよ!」
「注文が多いなぁ」
ぶつくさ言いながら、ランボーはどこか良い射出ポイントがないか探した。
もしもランボーに高所恐怖症がなければ、あの崖の脇道から崖に向かってオシッコを飛ばしてみたかったと思ったが、それも叶わない夢。物陰を見つけ、ランボーはそこで無難に用をたした。
ずっと我慢してため込んでいたものを気持ちよく全て出しきり、ランボーは やよいたちのもとへ戻ろうと足を動かそうとした……が、すぐにやめて立ち止まった。
「あれ。どこから来たっけ……?」
尿と一緒につい数十秒前の記憶も一緒に出してしまったランボーは来た道が分からなくなってしまった。三百六十度どこを見渡しても木々に囲まれ似たような景色だ。
射出ポイントを探すのに夢中でどこから来たのか覚えていない。
道に迷ったなんて言ったら、また安土にブツクサ言われそうだな。そう、これは道に迷ったんじゃない。あえて方向性を変えて自分が分からない所へ意図的に来たんだ。
などと道に迷った言い訳を頭のなかで考えながらランボーはとりあえず適当に歩いてみた。景色に変化は見られず、集合場所も分からない。
やがて、平坦な道が終わって崖が見えた。ランボーは下をのぞくと、ひぇっと怯えた声をだし腰が引けた。先ほどの滝周辺の崖ほどでないにしろ、もしも落ちたら ここまで登ってこれないような高さと傾斜だった。
「呪術……」
「……生贄……」
ランボーが尻餅をついた姿勢から立ち上がろうとしていると、草陰の奥から何やら話し声が聞こえた。ランボーが物陰に隠れ、様子を見てみると黒いマントを羽織った男二名が居た。顔は見えないが集落の人間だろうか。それにしても、真夏のこんな厚い日によくもまぁ体がスッポリ入るマントなど着られるものだとランボーは呆れた。
どういう会話をしているのか気になり、盗み聞きをするつもりで二人の会話に全神経を集中して耳を傾けた。
「……我々は喜ばなければならない」
という言葉をわずかに聞き取った直後、背後から頭部をなにかで叩きつけられたような激しい痛みを感じランボーは倒れた。
思い切り蹴られ、そのままの勢いで体に連続的な強い衝撃と落下の加速度を感じ、自分が崖の下へ転げ落ちていくことが分かった所でランボーの意識は途絶えた。
第四章 呪い人
「ランボーちゃんとやよいっち、帰ってこないねぇ」
メイはため息を吐いた。
用を足しに行ったらしいランボーとやよいが一向に戻ってこない。道にでも迷ったのではないかと心配になってくる。
まさかの駆け落ち? と一瞬メイの頭によぎったが想像しただけで面白く苦笑してしまった。絶対にありえない。
ランボーがこの世で好きな人は自分自身だけだし、やよいにとってのランボーは非常識でナルシストで頼りない先生という印象以外は何も持っていない。二人が恋仲になる確率は二十四時間以内に宇宙が崩壊する確率より低いだろうとメイは確信している。
本多は時計を見ては辺りを見渡した。十度ほどこの行動を繰り返し、ゆっくりと立ち上がった。
「さすがに心配です。探しに行きます」
「それなら私も行こう」
石川もすっと立ち上がった。
「私と本多君が二人で手分けして探します。これ以上バラけるのは危険ですから皆さんは此処にいてください。榊原君、生徒さんたちをしっかり見ていてくれよ」
「任されました」
石川と本多は森の中へと消えていった。
昼市はぼんやりとその光景を眺めていた。
「大丈夫かな」
「心配だよね」
榊原がカメラのレンズを拭きながら言った。
昼市は何となく沈黙を嫌い、適当に話題を作った。
「そういえば、榊原さんは今の仕事をして長いんですか?」
「うん。新卒入社で今日までずっとだからもう十年になるかな。本多さんもそうだよ。石川さんは最近入ったんだけどね」
「そうなんですか?」
「うん。ほら、部長が亡くなって前の編集長も事故にあって入院して人手不足だったからさ、それで中途採用で来られたんだよ」
「その割には手慣れた感じというか、風格がありますよね」
「入社したばかりで肩の力張ってるんだよ。きっとね」
「おかしいなぁ。なんか合わないんだよなぁ」
メイがボソッと呟いた。
榊原も昼市もきょとんとしている。
「何がおかしいの?」と昼市が尋ねるも全然反応しない。
「そもそも心が空っぽなんて、人間にありえるのかな」
昼市にはメイが何を言っているのかサッパリ分からない。
榊原は苦笑した。
「ははは。石川さんはいつも無表情で真面目人間だから心が空っぽのように見えるのかな。僕も石川さんの鉄仮面ぶりには驚くけどね。でも、一応あれでも人間だよ」
榊原の声に反応することなくメイは木で覆われた空をぼんやりと眺めている。
榊原はよっこらせと言いながら立ち上がった。
「ちょっと僕もトイレに。すぐ戻るからね」
「あっ、はい。分かりました」
榊原はノソノソと見えない所まで離れていった。そこまで遠くへ行った理由は女の子が居るから気をつかった為だろう。
メイと二人きりになって、昼市は妙に意識をしてしまう。普段なら全く気を遣わないのに、このような異質な空間に居るせいで気持ちが落ち着かずソワソワしてしまった。
「先生も安土さんもどこに行っちゃったんだろうね」
「そうだねぇ」
メイは何か考え事をしているのか反応が薄い。
昼市はかまわず話を続けた。
「今日はとんでもない話ばっかりだね。呪いの秘宝からはじまってさ、玉姫御前とか酒呑童子とかヤマタノオロチとか伝説上の話ばっかり出てくるしさ。集落の人たちは呪いに掛かっているとか結界がはられているとか言うし。ほんと胡散臭い話ばかりだよね」
「嘘は言ってなかったけどね、集落の人たち」
「え?」
自分の発言は間違いなく肯定されると思っていた。
しかしメイの口から意外な言葉が返ってきて昼市は耳を疑った。
しん、となった。
メイは昼市の顔を見ることなく天を仰いでいる。
「間違いなくあるんだよ。玉姫御前も、呪いもね」
「鵡上さん、君はいったい……」
昼市はごくんっと唾を呑み込んだ。
☆☆
「うぐ……」
ランボーが目を覚ますと夕暮れ空が目に映った。
体全体がズキズキして痛い。頭もクラクラする。
自分の後頭部を触ってみると、ぷっくらと大きなタンコブが出来ていた。タンコブをなでた手を見てみると土だらけになっているが血はついていない。体も打撲的な痛みを感じるものの出血をしている様子はない。
自分が瀕死の状態ではないことを認識し、ランボーはひとまず安心した。
(話をしていたのは集落の人たちなのだろうか。ボクを襲ったのも彼らの仲間と見て間違いなさそうだが)
なぜ自分が襲われたのかランボーは分からない。
可能性があるとすれば、部外者に聞かれては困る話を黒いマントの二人がしていて、ランボーに気が付いた彼らの仲間に襲われたと考えるのが筋だ。もっとも、彼らがどんな話をしていたのかランボーには分からない。
││我々は喜ばなければならない
ランボーが唯一聞き取れた言葉はこれだけだ。
何かを結論づけようとするにはあまりにも材料が不足している。
いずれにせよ暗くなる前に皆と合流しなければならないと考え、ランボーはフッと気合を入れて、がたつく体にムチをうって立ち上がった。
ポケットから携帯電話を取り出したが、案の定電波は届いておらず電話をかけることができなかった。仕方なくポケットに戻してランボーはハァっと溜息を吐いた。
辺りを見渡すと、正面には自分が転落したと思われる崖がある。岩場は見るからに脆く、傾斜が急だ。登って戻るのはまず無理だろう。
後ろを振り返ると、激しい勢いで川が流れている。来る途中に見たあの壮大な滝の下流に位置するのだろう。それなら川の流れに逆らって歩けば集落の方に戻れるかもしれないと思いランボーは歩き始めた。
服も体もボロボロで足どりも重くヨロヨロとしか歩けない。ゆっくり休んでいたいが、あまりノンビリしていると日が暮れてしまう。電気のないこんな山奥で夜を過ごすのは何としても避けたい。その一心でランボーは必死に歩いた。
灰色の岩、深緑色の川、緑の木々、夕焼け空。大別すれば、たった四色しかない風景のなかをランボーは歩いていたが、雑色が混じっている一点を発見した。道の奥に太く長い黒色の何かが見える。あれは何か見定めようと目を細めていると、どうやら物体の正体は黒い服を着た人間らしいとランボーは認知した。
半身を川にいれて寝そべって涼んでいるようだ。
(助かった)
とランボーは思った。
あの人についていけば戻れる。
緊張していた心と体の痛みが少し和らぐのを感じた。
更に近づくと、半身浴をしている人は黒い服にお腹の出た太ましい体型、パーマのかかった長髪であることが分かった。ランボーはこの人に見覚えがある。もうそろそろ声も届く距離だろうと思いランボーは叫んだ。
「榊原さん!」
榊原は反応がなかった。マイペースな人だし、昼寝でもしているんだろうとランボーは思った。起こしてやろうと榊原の目の前まで来たとき、ランボーの心臓がバクバクと高鳴った。榊原は全身ずぶ濡れで頭と口から血を流している。
「榊原さん!?」
ランボーが榊原に駆け寄り体を揺するも反応がない。
手首を取って脈を調べたが、すでに事切れていた。
「な、何故。一体なにが……」
貧血状態に見舞われたランボーはその場で尻餅をついて、そのままの勢いで倒れてしまった。がくがくと足が震えて力が入らない。意識が飛びそうになる自分を何とか抑え込んでランボーは自分の心身が安定するのを待った。
何故こんなところで死んでいるのか。石川たちはどうしたのか。
なにがなんだかランボーには分からなかった。
情報が少なすぎるので、どれだけ考えても答えなどでないと割り切らざるを得ない。携帯電話を取り出してみたが相変わらず電波は届いていない。ここに居ても何も出来ないので仕方なくランボーは再び歩きはじめた。
榊原の死が事故なのか殺人なのか、呪いの秘宝によるものなのか分からない。
死体を放置していくのも心苦しいが警察を呼ぶにもまずは自分が人の居る所までいかなくてはいけない。ランボーは必死に歩いた。
やがて崖の上まで登れそうな細い坂道を見つけた。
途中足を滑らせながらも息も絶え絶えに登り切り、ランボーは森の中へと入り込んだ。
この森のどこかに集落があるはずだ。
「あ、先生!?」
頭を下に落とし休憩していたランボーが顔をあげると、やよいが走ってくるのが見えた。ランボーはようやく合流できたことに安堵した。
やよいはランボーを見て驚いた。
「先生、ドコに行って……って、なんでそんなボロボロなんですか!?」
「何者かに崖から突き落とされたんだ。ボクでなければ死んでいたね」
「突き落とされた!?」
「あぁ。だけど、それだけじゃなくて……そこの下で榊原さんの死体も見つけたんだ」
「えっ!?」
やよいは顔が青ざめた。信じられないといった表情をしている。しかし、これは紛れもない事実なのだとランボーの目を見て やよいは確信した。
「はやく警察に知らせないとな。それより石川さんたちは?」
「はぐれちゃったんですよ。先生を待っても全然来ないから石碑の方に戻ろうとしたんですが帰り道が分からなくなっちゃって……一人で探し回ってました。すごい心細かったんですからね!」
ランボーはハァっと溜息を吐いた。
「なんだ。つまり君も迷子というわけか」
「うっ。そうですけど……」
「まぁボクに会えて良かったな。これでもう安心だよ」
「何も変わらないですよ……」
「照れ隠しか?」
「本心です」
「可愛くない生徒だな」
頼りないけど一人で居るよりは遥かにマシだ。やよいもランボーも言葉には出さないが心からそう思った。
「それよりも日が暮れちゃいますよ。完全に暗くなる前に早く行きましょう」
やよいがさっさと歩き始めた。ランボーも立ち上がろうとしたが思うように力が入らない。ランボーは焦って先に進む やよいに声をかけた。
「ちょ、ちょっと待てよ。ボクを一人にするなよな」
「もう。しっかりしてくださいよ」
やれやれといった表情で、やよいはランボーの腕を引張って立ち上がらせた。どうにか立ち上がったランボーは尻をポンポンと叩いて埃を落とし準備よしという顔をした。
「行こうか。……と、その前に君の携帯は電波届いているか?」
「こんな山奥の秘境まで電波は届かないと思いますけど……」
と言いながら、やよいはポシェットから携帯電話を取り出し確認してみたが案の定電波は届いていなかった。ランボーも自分の端末を確認したが同様の結果だった。
「やはり自力で合流するしかないな」
「はい」
道らしい道も無いなかで、勘を頼りにランボーとやよいは歩いた。
山で迷ったとき、闇雲に歩き回らず知っている道まで戻る事が原則であるとランボーは以前愛読していたサバイバル漫画を通して知っている。しかし、当に知っている道がどこかも分からなくなった二人は一縷の望みをかけて探し回るしかないと判断した。
「そういえば、榊原さんを発見した時どういう状態だったんですか?」
「半身川に浸かっていて倒れていたよ」
「ふぅん。ほかの皆はどうしたんですかね」
「さっぱり分からない……はっ。ま、まさか!?」
ランボーは何かに気が付いたようだ。
やよいは緊張しながらランボーを見た。
「どうしたんですか?」
「もしかしたらコレは呪いによるものなんじゃないか……!?」
「……はっ?」
怯えた様子のランボーを見て、やよいは口をあんぐりあけた。
「や、やっぱり呪いの秘宝だか玉姫御前の呪いだかはあったんだよ。きっと、ボクたちは呪われてしまったんだ。ほ、ほら。集落のご老人も呪いの心配をしていただろ?」
おびえた表情でランボーはやよいに語った。
やよいは苦笑している。
「先生、落ち着いてくださいよ。いつも祟りや呪いなんてないって自分で言ってるじゃないですか」
「で、でも……ボクは全身を黒マントで覆った二人組が何やら話しているのを見たんだ。彼らが話していることを盗み聞きしようとしたら何者かに背後から殴られて崖に落とされたんだよ」
「そんなことが……」
「きっと彼らがボクや榊原さんを呪ったんだよ」
「背後から殴られたって、呪いじゃなくて完全に物理攻撃じゃないですか。それに呪いだというなら私たちだってとっくに死んでるはずでしょう」
「呪いの効果に個人差があるのかもしれないだろう。だとすれば、もしかしたら石川さんたちも今頃違う場所で……」
「呪いは置いておいて、これが殺人だとすれば……考えたくはないですけどね。まぁ、榊原さんは何らかの理由で皆とはぐれて転落事故というのが一番可能性としては高そうですけど。いずれにせよ、念のために集落の人たちには気をつけた方が良いかもしれませんね」
「ボクもすでに呪いに掛かっているんだ……」
やよいの話が頭に入っていないようで、深刻な表情をしたランボーは一人で何かをボソボソ言いながら体をふるふると震わせていた。
「なにを根拠にそんな……」
「根拠ならある。なんだか体の調子が悪いんだよ」
「それは崖から落ちたからじゃないですか。大丈夫ですよ、呪いなんてありませんから」
「それに昨日ホテルで変な老人を見たんだ。夢だと思おうとしたがやっぱりアレは現実で彼がボクに呪いをかけたに違いない」
「変な老人?」
「ホテルの部屋についたあと一時間ばかり仮眠してね。洗面所で顔を洗った後、ドアの方を見たら老人が立ってたんだよ。恐ろしい笑顔をしてさ!」
「先生が寝ている間に入ってきたんじゃないですか?」
「そんな訳ないだろう。オートロックの部屋だぞ。きっと幽霊か何かに違いないんだ」
ランボーの声は震えている。その様子から察して本当に呪いを信じているに違いないが、やよいは呪いと思えなかった。
「でも、老人を見た後どうしたんです?」
「どうしたって?」
「いや、そのあと老人はどうなったのかなって。突然消えたんですか? それともドアから普通に出て行ったんですか?」
「それは君、ボクには分からないよ」
「えっ、何故ですか?」
「急に眠くなって朝まで寝てしまったんだ」
「気絶したんですね」
「……」
ランボーは黙ってしまった。
「オートロックで入って来られないなら、最初から先生の部屋に居たんじゃないでしょうか」
「ど、どういうことだ?」
「私たちの部屋って、もう既にチェックインしてあった訳じゃないですか。ルームキーを持っていれば室内に人を入れられますよね。先生が来る前に人を入れて、隠れさせていたんじゃないでしょうか」
「そんなバカな……仮にそうだとしても一体だれが」
ランボーは冷や汗を腕で拭った。
腕が土埃で汚れていたせいでランボーの顔にも泥がついた。
「ルームキーを持っていた編集部三人の誰かの仕業ってことになりますよね」
「何のためにそんなことを」
「先生に集落まで来てほしくなかったんじゃないですか。先生を脅して集落への同行を断らせようとしたんだと思いますよ。脅す前に気絶しちゃって計画はポシャッたみたいですけど」
「ボクは頼まれて来たのに随分と勝手な話だな」
「そうですね。三人の意思疎通が出来ているなら最初から先生を呼ばなければ良い話ですから、そう考えると共謀説は違うでしょうね。誰かの独断です」
「しかし誰が一体」
「消去法で考えられますよね」
「どういうことだ?」
「最初本多さんは先生に一人で会いに来たじゃないですか。つまり先生を呼びたくなければ誤魔化せるわけですよね。集落への同行許可を得られなかったって皆に嘘をついてもバレません。だから本多さんではないと思います」
「殺されたのだと仮定したら榊原さんも違うことになるのか?」
「はい。そうなると残りは……いえ、憶測はやめておきましょうか。第一動機も分かりませんしね」
「そうだな。それに集落の者だけではなく身内まで信用できないかもしれないとなると遭難している我々としては八方ふさがりだよ」
「そうですね」
「何よりボクに呪いが掛けられたという事実に変わりはないんだ」
「えっ。いま私が話したコトちゃんと聞いてましたか? 呪いじゃなくて誰でも出来るような事だったと思いますけど」
「祟り。呪い。まさかそんなもので死ぬことになるなんて……」
「だめだ聞いてない。もういっか」
やよいはブツブツ独り言をつぶやいているランボーを放った。
周囲を見渡して人工物を探している。
「はぁ、中々集落も皆も見つかりませんねぇ。完全に日が暮れるまでに何とかしたいなぁ」
「……グッ」
「先生?」
「うぅ……ひっく……」
「先生。まさか泣いてるんですか?」
「そんなワケ……ぐすっ……ないだろう……」
「オカルトは信じないとか公言してくるくせにコレだもんなぁ。本当は怖いから信じたくないだけなんじゃ。あぁ、そういえば先生。私さっきですね、ヘンな屋敷を見つけたんですけどね」
やよいはランボーと合流する前に起きた出来事を話したがランボーは泣くのを堪えるのに必死なようで全然話が耳に入っていないようだ。会話になりそうもないので、やよいは口を閉ざし黙々と前へ進んだ。依然として景色は全く変わらない。
ランボーたちがアテもなく歩いていると、辺りはすっかり暗くなってしまった。
二人ともすっかり疲れ果ててしまい無言が続く。汗でビッショリだった服が今や生渇きとなり気色悪い。髪も肌もパサパサだ。
おまけにランボーから汗の臭いがほんのり漂うせいで少し気分悪くなるが、もしかしたら自分も臭っているのかもしれないと思うと、やよいは居た堪れない気持ちになった。
シャワーを浴びたい。お腹もすいた。それに、ヘビや獣が出てもおかしくないこんな場所で野宿するのかと思うと不安で仕方がない。
やよいが絶望的な気持ちに浸食されていた そのとき、ランボーが あっと小さな声を出した。
「ちょっと。あれを見ろよ」
ランボーの声に反応し、ずっと顔を下向きにして歩いていた やよいが顔をあげた。
すると、ぼんやりとした灯りが見えてきた。気持ちが一気に晴れやかになる。
「人が居そうですね!」
「あぁ!」
「でも、集落の人が先生や榊原さんを襲ったとしたら頼るのも危険ですよね……」
「むむむっ。そうだな……飛びつきたい気持ちを抑えて まずは様子を見るべきか」
「はい」
ぼんやりとした灯りに向かって音を立てないよう進むと、古びた小屋が見えた。
同時に、沢山の人が道を歩く音と何やら囁く声も聞こえる。
「なにか聞こえませんか?」
「ん? 何も聞こえないが……」
「あっ、先生。ちょっとこっちに来てください!」
「なんだ?」
慌てた様子で やよいがランボーの腕を引張り大きな岩の陰に入った。まるで身を隠すかのような行動だった。
「どうした?」
やよいは人差し指を口元にもっていき、静かにしろとジェスチャーをした。ランボーが口を閉じたのを確認すると、やよいは岩陰から灯りの方を指さした。ランボーも身を乗り出して、やよいの指さす方向を見てみると目を大きく開いたかと思えば、白目をむいて力なく倒れた。
やよいは平常心を失いヒザを震わせながら、ただ灯りのほうを凝視していた。不気味な声が聞こえる。一人じゃない、複数だ。しかし、全員が声をあわせるように同じタイミングで同じ言葉を発している。
最初は無数の黒い物体がうごめいているように見えた。よくよく目を凝らすと、それは黒いマントを羽織った人の列であることが分かった。しかし、それだけじゃない。
ニッコリと笑っていた。
摩訶不思議で恐ろしいことに列をなす人間すべてが目も鼻も口も輪郭も全く同じ形で同じ笑顔の老人だった。
(この世の者とは思えない)
やよいは叫びそうになるのを堪えるので必死だった。
列を為し、灯りのともる古びた小屋へ向かう同じ顔で同じ表情をした老人たちは口を揃えて囁いていた。
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
時間経過と共に、少しずつ緊張感が和らいできた やよいは不自然なことに気がついた。灯りのついた小屋はどう見積もっても最大で大人が十人入れる程度の大きさしかない。それにも関わらず、列をなす笑顔の老人たちは少なく見積もって三十人は既に小屋の中に入っている。どうやって収納されているのだろうか。
やがて最後の老人が小屋に入り、辺りは落ち着いた。
「ふえぇ……」
息も出来ないくらいの緊張がようやく解け、その場にへなへなと やよいは倒れこんだ。そして大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐きだした。
「今のなんだったんでしょうね……って、先生?」
白目をむいて倒れているランボーを確認し、やよいは大きなため息を一つこぼした。
「まさか気絶するなんて……先生って怖いからオカルトを信じたくないだけじゃん。もう、起きてくださいよ!」
やよいがランボーの肩を大きく揺すると、ハッとランボーが意識を取り戻し勢いよく上体を起こしてキョロキョロした。
「ぼ、ボクはいったい!?」
「気絶してたんですよ」
「は? いや、疲れて寝てしまっていたんだよ」
「……そうですか。さっ。行きますよ」
やよいは立ちあがり、ランボーにカモンと腕を半回転させて催促した。
「どこへ行くんだ?」
「あの小屋の様子を見に行くんですよ」
やよいの言葉を聞いて、ランボーはみるみるうちに顔が青ざめた。
「な、なにをバカなことを言っているんだ。君も見ただろう。あの小屋には何かおぞましい物体が沢山入って行ったんだよ」
「そうなんです。明らかに小屋の大きさに対して、小屋に入って行った人数が多いんです。あそこには何かあるんですよ。気になるから確かめにいきましょう」
「そ、それは君、あの黒い物体は幽霊なんだよ。それなら説明がつくだろう!?」
「冗談は顔だけにしてください。そんなんで説明できませんよ」
震えた声でランボーが必死に訴えるのを無視し、やよいは小屋へと向かった。
「ちょ、ちょっと。さっきも言ったけどボクを置いてかないでくれよ!」
ランボーがヨロケながら やよいの後を追う。
二人はゆっくりと小屋に近づいた。
小屋の周りをグルっと回って見たり、建物の耳を付けてみたりしたがどうも人の気配がしない。あまりにも不自然だ。
「なんか小屋の中に誰も居ないような雰囲気ですね」
小屋の外壁に寄り掛かり、やよいは腕を組んで空を見上げながら言った。ランボーは隣で目を大きく開いて やよいを見た。
「や、やっぱり幽霊だったんだよ」
「そんなわけないじゃないですか」
「そんなわけないって……。君、オカルトマニアのくせに結構サバサバしてるよな」
「……よし!」
「どうした?」
「虎穴に入らずんばなんとやらです。小屋に入ってみましょう」
「は!? ま、待てよ!」
ランボーの制止を振り切って、やよいは入り口前まで移動し古びた扉をゆっくりとあけた。
扉が開いた瞬間、ランボーは視界に映り込んだモノを見て息を呑み込んだ。
第五章 魔女と鬼女
「まさか誰も戻ってこないなんて一時間前までは思わなかったよ」
昼市はうなだれた。
ランボーたちの捜索に出た石川と本多は戻ってこないし、トイレに行っただけのはずの榊原も戻ってこない。此処はそんなにも道に迷いやすい場所なのだろうか。
昼市は精神的に不安定になっていた。
そんな折、メイはあきれ笑いをした。
「しょうがないねぇ」
「なにが?」
「私たちも移動しよっか」
「えっ、でも此処に居ないとすれ違いになっちゃうかもしれないよ」
「じゃあ、昼たそは此処で待ってる?」
一人でこんなところで待つことだけは絶対に避けたいと昼市は思った。
「いや、鵡上さんが行くなら僕も行くよ」
「おっけぃ。そんじゃレッツゴーだねっ!」
「うん」
メイは明るい声で昼市を元気づけた。
「同じ場所で座り込んでるから気持ちも重くなるんだよ。動いてる方が楽になるもんだよねっ!」
昼市はメイの配慮に気が付き微笑んだ。確かにこのまま此処で待っていても不安が次第に大きくなっていくばかりでパニックを起こしてしまったかもしれない。
昼市はメイの後ろをついていきながら先ほどのことを思い出していた。
集落の人たちが嘘をついていないと何故かメイは確信していたのだ。その理由を聞いても、「分かるものは分かるんだからしょうがないよね」とか言って、はぐらかされてしまったのだ。
(まぁ、今はそんなことどうでもいいか)
こんな何もないところで二人きりはあまりにも心細い。一刻も早くランボーたちと合流したいと昼市は思った。
風が吹き抜ける。
そろそろ日も暮れ始めていた。
遭難したら堪ったもんじゃないと昼市は思う。けれども、メイが何一つ文句を言わずに前を見て歩いていることを思えば、男であり先輩でもある自分がしっかりしなくてはいけない筈だと考え直した。そもそも後輩の女の子にリードして貰うこと自体がよくない。
昼市は意を決した。
「あの、鵡上さん。僕が前を歩こうか」
「そう? じゃあ昼たそがアレの様子を見てきてくれるのかなっ?」
「アレ?」
メイが指さす方を見ると、下り坂のしたに建物が見えた。集落のどの家よりも大きく屋敷と呼べるほどの大きさだ。
「玉姫御前が居るかもしれないから呪われないよう気を付けてねっ!」
ニコニコ笑って手を振るメイを見て昼市は焦った。男を見せたい気持ちは強いが、曰くつきの相手の本丸らしき場所に乗り込むほどの勇気はない。
昼市はメイから視線を外し後ずさりした。
「ちょ、えっ。それは想定外だったよ」
「えーっ。じゃあ、行かないのかなぁ?」
「い、行っても良いけど行く必要あるのかな?」
「もしかしたら皆あそこで休んでるかもしれないじゃん?」
「でも、もし悪い奴らのアジトだったら大変だよ」
「そのときはぁ」
「そのときは?」
「昼たそが囮になってねっ!」
「ちょっと待ってよ。そんなのひどいよ!」
メイはクスクス笑いながら昼市の肩をポンポンっと優しく叩いた。
「ウソウソ。私が行くよ。昼たそはそこで待っててよ」
「い、いや、僕も行くよ」
「ううん。待っててほしいの。もし私が三十分しても戻ってこなかったら、そのときは」
メイは言葉を詰まらせた。何かを考えているらしい。
どうせまた無茶振りするネタを仕込んでいるんだろうなと昼市は思いながらも一応聞き返した。
「そのときは何?」
「うん、そのときは逃げてね」
「えっ?」
「それでもって応援を呼んで助けにきてね」
「む、鵡上さん!?」
メイは微笑んで屋敷の方へ駈け出した。
昼市は追いかけようとしたが足が動かなかった。
怖いからじゃない。自分が行っても無力だと思ったからだ。
「鵡上さんの言うように何か危ないことがあって二人して捕まるよりは確かにここで待機してヘルプに回れるようにした方が良いんだろうとは思う。だけどなぁ」
メイが屋敷へ近づいていくのを遠目に見ながら、昼市は拳を強く握り泣きそうになるのをこらえた。
「……なんで僕が行くから君が待っててって咄嗟に言えなかったんだろう。こういうところだよ、僕のバカ」
背後からガサゴソっと草木を掻き分ける音が聞こえた。
昼市は緊張で胸の鼓動が強く激しくなった。
どんどん近づいてくる。
逃げなきゃ。しかし足が震えて動けない。
もう足音はすぐそこだ。
逃げられない。
黒い衣服に身を包んだ見たことのない老人が目の前に現れた。その顔は、不気味なまでに顔全体の筋肉を使って笑っている。この世の者とは思えない邪悪を感じてしまう。そんな顔を見て昼市は恐怖のあまり目を閉じた。
☆☆
メイは小窓から屋敷内の様子を覗いた。広いワンフロアで中には誰も居ないようだ。
正面へ回り玄関のノブを回すと鍵は掛かっていない。
「お邪魔します」と、メイは大胆不敵にも屋敷の中へと入った。
ほんのり薬品の臭いが鼻につく。
金属で出来た作業机がある。その上には自家発電機があり、豆電球や用途不明の機械装置と電線が繋がっている。壁際にある本棚にはビッシリとファイルが収納されていた。
「急に近代チックになっちゃって。文明開化したのかなぁ」
メイは作業机に近づいた。
目の前にあるホワイトボードには化合物の構造式がビッシリと書かれている。当然メイには理解できない。
興味は本棚に移り、無作為にファイルを一つ抜き取ってみた。
表紙には “大日本帝国陸軍研究所 第十三特殊施設”と記載されている。
メイは眉をしかめてファイルをパラパラとめくり、あるページで手を止めた。
“
特異体質ノ症例
・呪詛:他者ノ命運ヲ操ル 発現者一名アリ 最優先研究課題ナリ
・超人:思考ガ速ク外圧的デ攻撃的ナ一面アリ 日頃内向デアルホド顕著ナ傾向アリ
・読心:他者ノ思考ヲ読ミ取ル 発現者未確認ナリ
・イタコ:霊ト心ヲ通ワセル
“
メイは唇をとんがらせた。
次々とファイルを本棚から抜き取っては内容を確認する。
「あぁ、そーゆーことね。ようやく分かったよ」
メイのなかでこの屋敷が存在する理由に一つの仮説が出来上がった。
手に持っているファイルから目を離して宙を見つめた。何か物思いに耽っているようだ。
しばらくしてファイルを本棚に戻し、次のファイルを手に取ると写真がひらりと落ちた。
白衣を着た男女数人が並んでいる集合写真だった。
メイは写真を拾い、何気なく右端に映っている人物を見て驚愕した。
情報を整理しようとしている間にガタンと玄関の方から音が鳴った。
人の気配を察知できないほどにファイルに集中していた自分に気が付き、メイの頬に冷や汗が流れた。
玄関口には黒い和服を着た女性が立っていた。見た目で言えばメイとほとんど変わらない年頃だろう。ただし、生を感じさせない冷たい表情をしているせいで人形のようにも見えた。
メイはファイルを本棚に戻して和装の女性に挨拶をした。
「はじめまして。此処に住んでるのかな?」
突然の来訪者を前にしても和装の女性は表情一つ変えない。返事もしない。
「貴女が集落の人たちが言う玉姫御前なのかな?」
女性は何も喋らない。
メイは悲しげな表情に変わった。
「なんでそんなに苦しんでいるの?」
女性は初めて表情をくずし、わずかに口を開いた。
「分かるのですか?」
か細く幼い声だ。しかしあまりにも無機質な話し方。
本来であれば表情からも話し方からも感情を読み取ることなど到底できないことの筈なのに自身の感情が当てられた。この事実はこの女性にとって衝撃だった。
「うん、此処だけの話だけどね。他人の感情が分かるんだなぁ、私」
メイは上目空で唇に手をあてた。
「うぅん、分かるっていうのはちょっと違ったかな。他人の感情が私の中に勝手に流れ込んでくるって言うべきなのかな。楽しいとか、悲しいとか、そういうのがね。何かに集中していれば気づかないときもあるけど、大抵は勝手に感じちゃうんだ。イメージとしては音が聞こえるのと同じ感じかなぁ。音って無意識でも勝手に聞こえるでしょ?」
「特異体質。読心の使い手ですか」
「あぁ、何かそこの資料に書いてあったね。読心と言ってもねぇ、その人が何でそんな気持ちになったのか理由までは分からないし、何を考えているのか分かるわけでもないよ。私が感じるのは、今その人がどういう感情をどのくらい強く抱いているのか、これだけなんだな。まっ、感情の機微から嘘を言ってるかどうかくらいは分かるけどねぇ。まったくもって不便な体質だよね。お葬式の近くとか絶対通りたくないもん!」
女性はわずかに目を伏せた。
「そうでしょうね。他者の感情が意識せずとも流れ込んでくるなど常人なら耐えられないことは容易に想像出来ますわ。自我を保って今日まで生きておられることが、わたくしには奇跡に思えます」
メイは微笑んだ。
「ありがと。じゃあさ、そんな頑張り屋さんな私にご褒美がてら貴女のことを教えてくれないかなぁ?」
女性は上目遣いでメイを見た。
「……貴女が仰っていた通り、わたくしは集落に住む方々から玉姫御前と呼ばれています」
「やっぱり。集落の人たちが貴女に呪いをかけられたって言ってたよ。呪詛だっけ、そういう特異体質になるのかな?」
女性が何かを言いかけたときドンっと扉が開いた。
女性は後ろを振り返り、目を見開いた。
そこには石川が立っていた。
メイは唇を震わせながらも強気に声を発した。
「重要参考人のお出ましだねぇ」
石川は女性を見た後、メイへ視線を向けた。
「お嬢さん、何故こんなところに居るのですか。石碑に戻っても誰も居ないから随分と探しましたよ」
メガネを掛けなおしながら石川は言った。
相変わらずの無表情だがメガネの奥に見える目は鋭利な刃物のように鋭い。
「誰も戻ってこないからさ、探しに出たんだよ。そんなことより聞きたいことがあるんだけどなぁ」
「何ですか?」
メイは手に持ってる写真をペラペラと振った。
「この写真、この屋敷で見つけたんだけどね。なんと石川さんが写っているのだよ。ずいぶん若いけどいつ撮ったのかなぁ。それに此処で行われた研究だけどさぁ……」
メイがすべてを言い終える前に石川は口を挟んだ。
「そうですか。知ってしまったのですね」
石川はゆっくりとメイに近づいた。
メイは後ずさりしたが本棚にぶつかり動けなくなった。
近づいてくる石川に向けてメイは苦笑いをした。
「感情、揺れすぎじゃないかな?」
「仕方がありませんよ。私も人間です」
石川は見下ろすようにして目の前に立つメイを見た。
冷徹、鉄仮面、無機質な表情の石川を前にしてメイは唇を噛んだ。
☆☆
││陽が落ちすっかり暗くなった時刻のことである。
小屋に入ったランボーたちの目の前には破顔の老人の頭が三個並んでいた。
「うわぁぁ!」
ランボーは三歩後ずさりをしたが、やよいは構わず中に入った。それが人間の頭ではないことを見抜いたのである。
「先生。これ、仮面ですよ」
「……ふっ。やっぱりな。思った通りだよ」
ニヤっと笑いランボーは大股で小屋の中に入った。
やよいは仮面を手にとって眺めてみた。近くで見ると背筋に寒気が走るような不気味な笑顔をしている。
「……そっか。みんな同じ顔をしてたのは同じ仮面をつけてたからか」
「ずいぶんと趣味の悪い仮面だな。こんなにも恐ろしい笑顔をする人間が居たら堪ったもんじゃないよ」
ランボーが仮面を手に取って見ている横で、やよいはキョロキョロと小屋を見渡した。
小屋の中はもぬけの殻で中には人っ子一人居ない。せいぜい床に黒色の大きな布が落ちているくらいだ。
「あんなにたくさんの人が入ったのに、何で誰も居ないんですかねぇ」
やよいの言葉を聞いてランボーは背筋をピンと立てた。
「や、やっぱり幽霊だったんだよ。はやくここから出ないと呪われるぞ!」
「んー……あ、ココかなぁ」
やよいは床を見渡して、埃がのっていない場所に近づきしゃがんだ。ぺたぺたと床を触ると端っこにスライド式の取手があった。
やよいが取手を引張ると床が抜けた。
「コレですね」
「こんなところにこんな仕掛けがあるとは」
床の下には地下へ続く階段があった。
やよいは床に落ちていた黒い布を羽織り、老人の仮面を見につけた。
ランボーはやよいをまじまじと見ている。
「何をしている?」
「これなら怪しまれないですよ。先生も身に着けてください」
「ま、まさか下に降りる気か?」
「もちろんですよ」
「やめておけ。君の好奇心はいつか自分を殺すぞ」
「何も刺激がない人生は私にとって死んでいるも同然なんです。刺激があるから生きていることを実感できるんです」
「それは若さだな。世間でいう中二病だ」
「私は高一ですよ」
「同じようなもんだよ」
「そうですか。行きたくないなら先生はここで待っていても良いですよ」
「危険かもしれない場所に生徒を一人で行かせられる訳ないだろう。……くそっ」
なかばヤケクソでランボーは黒い布で身を包み、老人の仮面を被った。
やよいはランボーを頭のテッペンからつま先までゆっくりと見た。
「わぁ。近くで見ると不気味ですねぇ」
「まったくだよ。コレを作ったヤツはセンスがないな」
「あはは。じゃ、和んだところで行きましょう」
やよいは軽やかに薄暗い地下への階段を下りて行った。
「躊躇しないな。恐怖とか危険を感じる心がアイツには無いのか?」
ランボーは肩を落として渋々とついていった。
「それにしても、何の目的でこんな通路が作られたんですかね」
「そうだな……」
階段を降りた先は一直線に道が伸びていた。ロウソクによる僅かな光が薄暗い道を照らす。人ひとりが通れるくらいの道幅で木製の壁は所々ヒビが入り、隙間からは木の根が顔を出している。地面は土で固めただけだ。
真夏だと言うのにヒンヤリとしている。
「こんな山奥の集落にこのような地下通路があるとはな……。見ろよ、壁に使われている木の傷み具合から見て此処が出来たのは五十年や百年どころか、もっと前に違いない」
ランボーが軽く木の壁に触れながら神妙な顔つきで言った。とは言っても、ランボーは老人の仮面をかぶっているので、やよいにはランボーの表情が分からない。
やよいも歩きながら壁を注意深く観察してみたり、軽く触ってみたりした。確かに古びた木であるとは思ったが、百年以上前のものであるかどうかはサッパリ分からなかった。
「よく百年以上前に作られたなんて分かりますね」
「経験則に基づく直感だよ」
「勘ですか」
「あぁ」
「結構テキトーなんですね」
「世の中とは案外そういうものだよ」
「そういうものですか」
「そうだ」
何カ所か脇道があったもののランボーたちは中心路を進み続けると正面に鉄の扉が現れた。
やよいと顔を見合わせたのち、ランボーはゆっくりと鉄の扉をあけた。
扉の先は異様な空間だった。
本当にここは日本なのか、現実なのか、ランボーは分からなくなってしまった。
扉の先は木で覆われたホールになっている。奥にある祭壇には “喜” と書かれた大人一人が入れるくらいの壺が置かれている。壺をまるで崇めるように黒い布で身を包み仮面をかぶった者││およそ三十人ほどだろうか、この場に居る全員が土下座のような姿勢を取り祈っている。誰一人頭をあげている者は居ない。
あっけにとられている やよいの背中をランボーがポンと叩き、いくぞと首をふって促した。二人は壺にむかって拝んでいる者たちの後ろに混じって様子を見ることにした。緊張しながらも、周りに合わせてランボーとやよいがお辞儀の形を取っていると声が聞こえた。
「表をあげよ!」
お辞儀をしていた者たちが一斉に祭壇に向かって顔を向けた。
「あれ、あの子……」とやよいは呟いた。
祭壇には四人立っていた。やよいが今朝石段で一瞬見た和服の女性も居た。
女性のほかには壊顔の老人の仮面をかぶった者二人が両脇に立ち、真ん中には拘束されているかのように黒い布に包まれ縄で縛られた人が立っていた。遠目でハッキリとは分からないが、あの貧相な顔と分厚いメガネは本多に間違いないと やよいは思った。
仮面の二人は本多を取り押さえている。やよいとランボーはイヤな予感がしてきた。
祭壇の中央に立った和服の女性が一歩前に出た。
“
天運は我と共に在り
我は下天を操る士
申せ その仇名
尊公の命と引き換えに
魂魄百万回呪ってみせよう
“
女性の口元は全く動いているように見えない。しかし、ハッキリと、まるで脳に直接言葉が送られているかのように鮮明に声が届いた。
やよいは女性と目があった。女性の生を感じさせない冷たい赤い瞳を見ると、一瞬のうちに心臓を抉り取られるような、自分が殺されかけているような、そんな気持ちになり大量の冷や汗が流れた。
続いて壇上の仮面の者が喋りはじめた。
“
世に反逆する者を生贄に
支えよ
民は我らと共にあり
求めよ
我々は下天に君臨する士
ひとたび生を享け
滅するもののあるべきか
下天を創りし真理
我々は喜ばなければならない
“
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
壇上の男にあわせ、部屋に居る者たちが一斉に叫んだ。
(狂っている)
恐怖で身体がすくむ。
囚われの本多は死相漂う哀れな顔をしている。
壇上に立つ者が両手をあげ静粛を求めた。
場は一気に静まり返る。
そして本多を拘束している二人組が本多を持ち上げ壺に近づいた。
「や、やめてください。お願いします!」
本多の必死の懇願を無視し、仮面の二人組は本多を壺の中へと押し込んだ。
「た、タスケテくださ」
仮面の片割れがマッチを取り出し、火をつけ壺の中に放り投げた。
壺の中から火が噴き出た。
耳をつんざく断末魔と同時に、やよいが悲鳴をあげた。
全く同じ顔をした三十もの老人の笑顔が一斉にやよいを見た。
ランボーは考えるより先に体が反応した。
やよいの腕を取り、逃げようとしたが やよいはその場から動けなくなっている。火事場の馬鹿力を発揮したのかランボーはやよいを担いで全力で鉄の扉から逃亡した。
「逃がすな! 追え!」
背後から叫ぶ声が聞こえバタバタと騒がしい足音も聞こえる。
華奢な身体で一見貧弱そうに見えるランボーだが何だかんだで足が速く、追手を引き離していた。ランボーにかつがれている やよいは呆気にとられた。
「せ、先生。私を担ぎながらこんなに早く走るなんて凄いですね……」
「これでも学生時代は陸上部でトップアスリートだったんだよ」
と、やよいに返事をする余裕すらランボーにはあった。
来た道を戻っていたが正面から仮面の集団が躍り出た。
「くそっ、挟まれた!?」
「そこに脇道が!」
やよいが指さす方を見ると道幅の狭い通路がある。天井が低い。
ランボーは背中を折り腰を落として足早に脇道を進んだ。
通路は行き止まりになっていたが扉がある。
「くそ、あかない!」
ランボーは何度も乱暴に扉を開こうとしたがビクともしなかった。
追手の足音が近づいてくる。
どこか逃げ道はないかとやよいは周囲を見渡した。
よくよく見ると壁に人がギリギリ入れるくらいの隙間があった。
「先生、此処に入りましょう」
「あぁ!」
ランボーとやよいは隙間に入り奥へと進んだ。
暗くて何も見えない。注意しながら進んでいたが、二人は足を踏み外し斜面から転げ落ちた。
痛みで声が出そうになるのをこらえた。悲鳴を聞きつけて仮面の者たちが此処を嗅ぎつけてはたまらない。
「大丈夫か?」とランボーは小声で囁いた。
「なんとか」と、やよいも返事を返す。
奥の方にぼんやりが灯りも見える。
「様子を見てみよう」とランボーは言い、警戒しながら灯りの方へ近づいた。
そこには誰もおらず蝋燭の火に照らされた古びた木製の扉だけがあった。先ほど見た扉よりも明らかに年代が古いように見える。
ランボーはギシギシッと鳴る木製の扉をあけた。
二人が中に入ると、水の流れる音が目の前に聞こえた。
ロウソクに照らされた奥を見ると水が流れているのが見える。
やよいは地下水に近づきしゃがんで水の流れを眺めた。
「川?」
「もしかしたら生活水を確保する為にこの地下通路を作ったのかもしれない」
「なるほど。この川ってどこに流れてるんですかね」
「この辺の地理から察して姉川を通り琵琶湖までだろうな」
「へぇ。こんな所からあんな遠くまで流れるんですねぇ」
やよいが立ち上がって振り返ると目を大きく開いた。
「どうした?」
呆然と立ちつくす やよいの振る舞いを不思議に思い、ランボーも振り返ると扉の横に、三つ葉のような模様が描かれた古びた木箱が大量に置かれていることに気が付いた。
壁にあわせるようにして木箱がパッと見ただけでも百箱以上詰まれている。まるでここが何かの倉庫であるかのように感じさせる光景だった。
ランボーは一番手前の木箱に近づき、詰まれていた木箱を一つ持ち上げて床におろした。中を覗いてみると、同じような石が大量に入っている。
仮面をかぶったままでは見えにくいので、ランボーは仮面をはずした。やよいもランボーに続き仮面をはずして二人は石を手に取った。
「これ、鉱石ですか?」
「こ、この暗色は……」
ランボーは手に取った石をまじまじと見て驚きを隠せないような声で呟いた。
やよいは不思議に思った。
「どうしたんですか?」
「他人の運命を操る……そうか。そういうことだったのか……」
「先生?」
「ボクは考えを改めたよ」
緊張した顔でランボーはやよいを見た。
ランボーのまじめな顔を見て、やよいにも緊張が走る。
「どういうことですか?」
「呪いの秘宝は確かに存在したんだよ」
「え!?」
想定外の言葉に、やよいは驚いた。同時にやよいは考える。
ランボーがこのタイミングで言うということは呪いの秘宝の正体は……。
「……まさか、コレが呪いの秘宝?」
やよいが手に持った石を自分の顔に近づけると、ランボーはゆっくりと頷いた。
やよいは石をじーっと見つめたが、特別変わったところは全くないように見えた。
「ただの石にしか見えませんけど?」
「これは砒石だよ」
「ヒセキ?」
「これを焼成して細かく砕いたものは人を殺せるほどの毒になる。中世時代に暗殺の道具として多用されていたんだ」
「つ、つまり呪いの秘宝は毒物だったということですか?」
「あぁ。他人の運命を操るとはよくいったものだね。無味無臭無色で飲料水に盛り込まれても分からないようなものだから何も知らない者は呪いだと勘違いしてもおかしくないだろうね」
「なるほど。でも玉姫御前の話は?」
「玉姫御前と名乗る者が毒物を生成していたとすれば、何も知らない者からしたら呪い殺しているように見えるだろう」
「たしかに」
「だけど、本当に恐ろしい点は他にあるんだ」
「え?」
こんなに大量の暗殺毒があるだけでも十分恐ろしいと やよいは思っていたが、これ以上まだ何かあるのか。やよいには皆目見当もつかなかった。
「近江を制する者は天下を制す。こんな側面からも近江の重要拠点性を見ることができるとはな」
ランボーが腕を組み神妙な顔をした。
やよいは話が全く見えてこない。ランボーが自分の考えをまとめようとしているのを、やよいは黙って待っていた。
ランボーは神妙な顔つきから、何かに気が付き恐怖を浮かべた顔へと変わった。
「待てよ。今もこれがここにあるということは……」
「先生。そろそろ説明してもらえませんか?」
やよいの問いかけにランボーは自分の世界から戻ってきた。そして自分の考えを整理するように、ゆっくりと話はじめた。
「あぁ。木箱の模様は三つ葉葵。徳川家の家紋だな。おそらく家康がこの通路を作ったんだと思う。恐ろしいほどに計算高い男だよ」
「え?」
「家康はその気になればいつでも織田家、豊臣家、朝廷を滅ぼせる用意があったんだ」
「どういうことですか?」
「さっきも話しただろう。この地下水はどこへと繋がっている?」
「えっと……姉川を通って、琵琶湖でしたっけ?」
「そう。琵琶湖は宇治川、淀川と名前を変えて京都、大阪へも流れるんだ。安土に拠点を置いていた信長はもちろん、京都には官の権力者である朝廷がある。信長死後の大阪には時の権力者である豊臣も居る。此処から流れる水を生活用水として使う事もあるだろうね」
やよいは背筋がゾクッとした。
「もしかして、ここにある毒をここから流したら……」
「あぁ。これだけの量があるんだ。すべて使えば今で言う近畿地方周辺に住んでる者たちは皆毒に苦しんだだろうね。もしもこれが使われていたら日本史は大きく塗り替えられていたかもしれない」
「そんなことが……って、ちょっと待ってくださいよ」
やよいは一つの事実に気が付いた。とてつもなく恐ろしい事実に。
ランボーも恐らく気づいているのだろう。
だから、先程から恐怖に支配された顔つきをしているのだ。
「……呪いの秘宝、いますぐにでも使える状態にあるってことですよね?」
「そういうことだな」
この大量の砒石を燃やして全部川に流せば、戦国時代でなく現代社会においても多大な被害が生じるだろう。琵琶湖にすむ生物が死滅するのは勿論のこと、琵琶湖を生活用水として使う人たち、琵琶湖を通じて流れる川で遊ぶ人たちも大変なことになるに違いない。
「証拠写真を撮って急いで警察に知らせないと」
やよいは証拠として辺り一帯の写真を撮るために携帯電話を取り出した。しかし電源が入らなかった。
「あっ、バッテリー切れちゃってます」
「ボクが写真を撮るよ」
代わりにランボーが携帯電話で数枚写真を撮った。ランボーの写真撮影を待つ間に木箱に寄りかかり、やよいはボヤいた。
「メイりんと加藤先輩は無事かなぁ……」
一通り写真を撮り終えたランボーがやよいに近づいた。冷や汗が大量に出ているその顔を仮面で隠し、やよいにも仮面をかぶるよう催促した。やよいが仮面をかぶったのを確認するとランボーはもうひとつあった扉を指さした。
「何としても下界に戻ってこの事実を知らせないとな」
「はい」
ランボーたちは辺りを警戒しながら通路を歩いた。しばらく歩いていると、外に出ることが出来た。出口から離れ、暗闇に身を隠したところでランボーたちは足を止めた。
「ふぅ、ひとまずダンジョンから脱出できたな」
辺りは静かだ。風で揺らぐ木々たちの囁く音以外は聞こえない。
やよいは少しだけ緊張感が抜けた。
「何とか逃げられたみたいですね」
「あぁ。明るくなるのを待って、君は僕の携帯を持って下山して警察へ行ってくれ」
「先生はどうするんですか?」
「ボクは加藤と鵡上を回収してから逃げる」
「先生、それなら私も一緒に」
「ダメだ。一刻もはやく法的権力の力を借りなければ危険だ。君が無事に下山したのちボクたちが戻って来なかったら君が警察を連れてボクたちを助けに来い。逆にボクが加藤たちを回収して下山したときに君がまだ戻っていなければ、ボクたちが君を助けにいく。二人まとめて捕まるリスクは避けるべきだ。分かるだろう?」
「は、はい。分かりました」
普段はあまりにも頼りないランボーだが、いざという時は大人であり教師なのだ。やよいはランボーのことを少しだけ見直した。
「それにしても、まさか本多さんが殺されるなんて……」
「あぁ。残念なことだ」
やよいはぐったりしている。
心身共に疲労が蓄積し限界にきているのだろう。
やよいはもう何も考えたくなかった。
今日はあまりにも多くの出来事があった。
頭のなかに今までの出来事がフラッシュバックする。
本多に誘われて集落にきて、玉姫御前の存在を知ったかと思えば榊原と本多が殺され、仮面の男たちに襲われ、大量の毒物が見つかって。あまりにも衝撃的だ。
一連の出来事を思い返している最中やよいの脳波にノイズが走った。その時々違和感を感じた出来事が脳裏に浮かぶ。浮かび上がった一つ一つの出来事が次々に線で繋がっていく。そして頭のなかに一つのストーリーが出来上がった。
「あっ」
やよいは飛び上がった。
その勢いにランボーはびっくりして跳ね上がった。
「いきなりどうした?」
「先生。井伊さんはやっぱり集落に来ていたんじゃないでしょうか」
「井伊って様子がおかしくなったという記者のことか。しかし、集落の人たちはそんな人は来てないって言ってたじゃないか。彼らが嘘をついていると思うのか?」
「いえ、嘘は言ってないと思います」
「それはおかしいじゃないか」
「何もおかしくはありません。おじいさんたちは、外の者は来てない、って言ってましたよね」
「あぁ。確かにそう言っていた。だから││」
「井伊さんは外の者じゃないとしたら?」
「はっ……あぁ、なるほど。井伊さんはこの集落の出身だと言うのか」
「そしたら筋が通ります。誰にも存在を知られていないはずの集落を部長さんが認知できたことも、此処出身の井伊さんが進言したからだと考えれば納得できます」
「なぜそんなことをする必要がある? 国に認知されていない集落をその集落出身者が公にする理由が分からない。仮に何らかの理由があったとしても公的機関ではなくオカルト誌を通して公表することも不自然だ」
「それはね、ちゃんと理由があるんですよ」
「何故君にそんなことが分かる?」
「先生と合流する前にヘンな屋敷を見つけたんです。中に入ってみたら色々な資料が見つかったんですけどね、そこで見たものと今まで起きたことが結びついたんです」
「そんなことがあったのか。何故その屋敷のことを今まで言わなかったんだ?」
「いえ、道に迷ってる最中にお話しましたよ。先生、呪いがどうこうってブツブツ言ってて全然聞いてなかったじゃないですか」
「そ、そうか。それはそうとして、一体どんな資料を見つけたんだ?」
「はい」
やよいが説明をしようとした瞬間││
“逆らう者を生贄に“
背後から声が聞こえ、ふたりが勢いよく振り返ると黒い布に身を包み仮面を被った者たちが立っていた。
「くっ。いつの間に!」
「そんな!」
ランボーとやよいは立ち上がり逃げようとしたが前方にも仮面の者たちが居る。
辺りを見渡すと、自分たちが囲まれている事が分かった。
「囲まれた!?」
全方位から松明の炎に照らされた老人の笑顔が向けられた。
「ま、待て。話せば分かりあえる……」
ランボーの必死の説得もむなしく、仮面の者たちは徐々に距離を縮めてくる。
「私が時間を稼ぐので先生はこの状況を何とかする方法を考えてください」
と、ランボーにだけ聞こえるくらいの声量でやよいは囁いた。
「時間を稼ぐたって、どうやって……」
やよいは仮面の者たちに囲まれ恐怖でヘタれこみそうになるのを必死に抑えこんだ。そして力強く言葉を放った。
「皆さん、もう終わりにしませんか!」
仮面の者たちは構わず近づいてくる。
「私は皆さんに掛けられた呪いの解き方が分かりました」
やよいがそう言うと、仮面の者たちは足を止めた。
それぞれ顔を見合わせている。彼らの動きには躊躇と戸惑いが見られた。ランボーは腰を抜かし、何が何だか分からないという顔をしている。
やがて一人が仮面をはずした。
集落でやよいたちと話した老人だった。
「それは事実ですかな?」
老人は静かな声でやよいに尋ねた。
「はい」
「ふむ。詳しく話して貰おうかの」
やよいは老人をしっかりと見据えた。
第六章 呪いの正体
「この集落には二つの呪いが掛けられています。一つは徳川家康が持っていた呪いの秘宝によるもの、もう一つは玉姫御前の呪いです」
老人たちは何も言わない。
沈黙することで話の続きを促している。
「すこし、昔話をしましょう。遠回りに思えるかもしれませんが皆さんに関係のある話なので聞いてくださいね」
一同はしん、としている。
やよいは大きく息を吸って話を始めた。
「戦国時代、徳川家康は近江の重要性と水脈に着目しました。自身に何かあったときのために朝廷または織豊の要人が使う生活水に毒物を流しいつでも殺戮出来る用意をしたのです。毒物の隠ぺいに都合よく、いつでも実行が出来る拠点として此処が選ばれて秘密裏の基地が作られました。此処の存在は極秘中の極秘だったのでしょう。必要最小限の者にしか存在は知らされていませんでした。しかし、家康が権力者を滅ぼす力を持っているらしいという噂は流れ、それが天運を操る力もしくは呪いの秘宝という言葉に変わり今日まで言い伝えられてきました。やがて天下泰平の間に此処の存在を知る者はいなくなり、此処の番人が使っていた建物だけが残りました。その後、戊辰戦争が起きました。薩長に負けて落ち延び、此処に行きつき住み着いた人たちがいました。此処の存在を知られては新政府に殺されかねない。だから集落に住みついた方々は国に知られることを避けるためにひっそりと生きてきたのでしょうね」
「それがワシらの先祖にあたるわけやな」
「はい。おじいさんの家にあった東北の工芸品は、その方々の所持品だと思います」
「玉姫御前様に呪われた理由もその戦争に関係しているんやな?」
「いえ。それは違います」
「はっ、どういうことや?」
「国内の紛争が落ち着いた後、日本は海外を相手どって戦争を始めました。敵国に勝つ為に様々な研究が行われていました。なかには非人道的なものもあります。特異な能力を持つ人間を調べ、時には人体実験も行われました。世論からの批判を受けないためにも隔離された場所で秘密裏に研究を行う必要がありました。選ばれたのは偶然か必然か分かりませんが、家康が見つけ、敗戦者が隠れ住んでいるこの場所でした」
「ふむ」
「結局日本の敗戦という形で戦争が終結し研究も凍結しました。ここで行われた研究は速やかにすべて廃棄され、GHQに認知される隙を与えませんでした。研究所の存在そのものと共に世の中から葬られて研究に関する情報は今や誰も知りません。……表向きはね」
「表向き?」
「えぇ。この地で今もなお研究と実験が行われているんですよ」
「まさか……その実験の対象は」
ランボーが声を絞り出した。
やよいは頷いた。そして老人たちを見た。
「あなた達が被検体なんです。あなた達がこの集落から抜け出せないのは呪いのせいではないんですよ。玉姫御前の呪いの正体は禁忌の科学実験だったんです」
あたりがざわつく。仮面をかぶった者たちは明らかに動揺しているようだった。
老人も目が泳いでいる。しかし、それ以上にランボーの方が慌てふためいていた。
「ど、どういうことだ。君、ちゃんと説明してくれよ」
先生、ここから逃げ出す方法を考えてって言ったのに……。やよいは半ば呆れながらもランボーの問いに答えるようにして話を続けた。
「お爺さんたちが禁断の地として足を踏み入れなかった場所には屋敷がありました。その屋敷にはね、さっき話した研究の資料がいくつか残っていたんです。他人の天運を操る術、いわゆる呪詛の能力に関する情報もありました。つい最近の研究データもアップデートされた形でね」
「呪詛の力? おいおい、そんな非科学的なモノがあるわけないだろう」
「他人の運命を操る方法は非科学的な方法だけじゃないということです」
「どういうことだ?」
「例えば、朝のニュースで降水確率が九十パーセントと言っていたら家を出るときにどうしますか?」
「傘を持って出かけるに決まっているだろう」
「ほら、これも呪詛の一つの形なんですよ。公共の電波と天気予報士は先生がある程度信頼しても良いと認識しているモノです。それが雨が降りそうと言ったから先生は傘を持っていくんです。たとえ外を見て晴れていたとしても、ニュースで九十パーセントと言われたら何となく持って行っちゃうでしょう。 “信頼できると思っているモノ”が発信する “情報”で、自分がどう動くかを判断する。これは動きを操られていると考えることもできませんか?」
「むぅ。そう言われると理屈は何となく分かる気もするな」
「もちろん呪詛の構成要素はこれだけじゃありません。もう一つ重要なのがパブロフの犬です。先生はご存知ですよね?」
「もちろんだ。犬にエサを与える時、ベルを鳴らしてから与えるという事を繰り返していると、ベルを鳴らすだけで犬がよだれを垂らすようになるという話だろう。条件反射の説明として引用されることが多い」
「その通りです。条件反射というものはね、一度条件づけられたら自分でも気づかず無意識のうちに発動してしまうものなんです。おじいさんたちが集落から出たいと思うことを発動条件にして、無意識のうちに集落に戻るように行動させることもこの理論の応用で出来ます。集落の外に出るときは、老人の仮面を被り黒い服を羽織らなくてはいけない、と無意識のうちに思わせることも同様です」
「しかし、パブロフの犬は習慣付かせた結果だろう。おじいさんたちは自分たちが気づかないうちに習慣化したというのか?」
「いえ、そこが第三のポイントである洗脳や暗示です。実際にはしてないことをあたかもしたかのように思い込ませるんです。こうやって脳に認識させることで習慣付けの条件をクリアしたんですよ」
「なるほど、ボクにも分かってきた。今回の件においては呪詛というものは脳と心理の科学と言い換えることが出来るわけだ。もっと言えば条件反射、記憶操作、洗脳や暗示に特化したものだろうか」
「まさしくその通りです。呪詛の研究資料はそれらに特化して記述されていました。特に十五年ほど前からこの研究の進捗は加速しています」
「何故だい?」
「画期的な研究論文が出たからですよ。洗脳と条件反射を利用した自己能力活性理論、記憶操作のメカニズムと応用論、この論文を書いたのはT大学の松平先生とされています。しかし、実際は別の人の成果でした。それは││」
「お察しの通り私と亡き部長の研究成果です」
やよいとランボーの後ろから声が聞こえた。
振り返ると、そこには石川が立っていた。
近くにはメイと和服の女性もいる。
「メイりん!」
「やよいっち、ランボーちゃん」
やよいとメイは顔を見合わせて笑顔になった。そのまま視線をスライドさせ、やよいはメイの隣に居る和服の女性を見た。服装と見た目からして地下の祭壇で見た女性に違いないが、どことなく雰囲気が異なるようにも思える。しかし今はそんなことよりも石川に集中するべきだと、やよいは思った。
何が何だか分かないのか、現実を受け入れるのに苦心しているのか、仮面の者たちは相変わらず動揺してその場から動けないでいた。ランボーも混乱している。
石川はまっすぐにやよいを見た。
「途中からですがご高説を拝聴させて頂きました。素晴らしいの一言です。ここまでの話は、すべて貴女のお話通りのことが現実で起きたことです」
「な、なんだと。もしかして石川さん、アンタがこの集落を洗脳した黒幕だっていうのか?」
ランボーが恐る恐る尋ねた。
石川は何も答えない。
メガネに手を掛けて無表情のままランボーを見ている。やよいもランボーの質問を無視して石川に問いかけた。
「石川さん。答え合わせをさせてください」
「何でしょうか?」
「お亡くなりになった部長さんは、此処の集落のことも、呪詛の研究もご存じだったんですね。いえ、正確には亡くなる直前に知ったというべきでしょうか」
「はい」
「そして石川さんは部長さんの意思を継いだ。違いますか?」
「違いません」
「先生を呼んだ理由は実は歴史とか呪いは関係ないですよね」
「と申しますと?」
「きっと有名だから呼んだんですよね。仮に私たちが此処で全滅しても、有名人が居なくなったとあれば世間で騒がれて捜索が行われ、此処の存在が暴かれるに違いない。そう考えて保険でつれてきたのでしょう?」
「仰る通りです」
「石川さんもあの屋敷の研究資料を見たんですね。そして抱いていた疑惑を確信に変えた。そうですね?」
「あぁ、すべてお見通しですか。お嬢さんは本当に聡明ですね」
石川は心から賞賛するようにして言った。メイも頷いている。
「やよいっちは探偵みたいだよねぇ」
ぽかんとしているランボーに向けて、やよいは説明をした。
「先生、石川さんはこの集落で起きたことに関与していません。むしろ、実情を確認したのち集落の皆さんを呪いから開放するために此処まで来られたんです」
「えっ?」
「キッカケはおそらく井伊さんですよね?」
やよいが尋ねると石川は頷いた。
「えぇ。井伊君は集落の出身です。さきほどお嬢さんが言っていたように、集落の者には集落から抜け出せない呪詛が掛けられています。しかし当時彼は幼かったがゆえに呪詛が浅く集落から逃げ出すことに成功しました。しかし、もう一つ呪詛があったのです。集落の外に出るということを発動条件として、集落の記憶を一切封印するというものです。彼は自分が何者かも分からぬまま彷徨っていたところを孤児院に拾われ、戸籍を新しく与えられ、育てられました。そして大人になった彼はオカルティックヒストリーに入社しました」
「そこで亡くなった部長さん、酒井さんでしたか、彼と出会ったことで井伊さんの封印された運命が動き出したんですね?」
「その通りです。キッカケは飲みの席で酒井が何気なく学生時代に研究していた記憶操作のメカニズムの話をしたことです。その話を聞いて井伊君は思い当たる節があり自分も記憶操作されているかもしれないと相談したそうです。そこで酒井は認知療法により、彼の封印されていた記憶を復活させたのです。すべてを思い出した井伊君は集落の話をしました。そして、彼らは集落の人たちも開放したいと考えました。あまりにも突飛な話だから証拠もなく警察に相談しても相手にして貰えないと考え、まずは井伊君に取材という体裁をとって集落の様子を偵察にいくよう酒井は指示をだしました。結果論ですが、それは軽率な判断でした」
「軽率な判断、ですか。それは調子を崩されてしまった事と関係あるのでしょうね?」
「はい。第三の呪詛があったのです。一度集落の外に出たものが再び集落に入ることを発動条件とし、精神崩壊が起きるよう刻まれていたようなのです。更に最悪なことは、井伊君に呪詛をかけた張本人と出くわしたと思われることです。呪詛をかけた張本人は、背後で酒井が動いていることを知り、彼を挑発するためのメモを井伊君に持たせました」
「あのよくわからないメモは部長さん宛に送られたものだったんですか」
「えぇ。最も私も此処に来てからそれを知ったのですがね。酒井は元々体が弱く自律神経が乱れやすいタイプでしたから、井伊君が壊れてしまったことや件のメモを見てすっかり弱気になりました。気が弱くなると、体も弱くなります。これも一種の呪詛なのでしょう。彼はストレスから来る疲労も重なって心筋梗塞となり亡くなりました。敵の正体が私と彼の共通の知人であり仇でもあるようだと勘付いた為に、死の間際に今回の件に決着をつけることを私に託してね」
「それで石川さんは大手会計事務所をやめてオカルティックヒストリーに転職されたんですね」
「私の前歴もご存じでしたか」
「えぇ。屋敷に石川さんの個人情報も残っていましたから。石川さんが写っている大学の研究室メンバーの集合写真も見かけましたよ」
「それなら私も鵡上お嬢さんに見せられました。まったくもって余計な資料を残してくれたものです」
石川は不快そうに言った。鉄仮面が明らかに感情を表に出している。
ランボーは恐る恐る二人の会話に入り込んだ。
「け、結局、集落の人たちや井伊さんに呪詛をかけていた張本人っていうのは誰なんだ。いや、今の話から何となく推測はつくがハッキリ言ってくれないか?」
「えぇ。この集落の方々を苦しめた人、すなわち玉姫御前の正体は戦時中に此処で禁忌の研究をしていた過去を持ち、研究が凍結されたあとも密かに研究と実験を積み重ねていた者、つまり石川さんが学生時代に指導を受けていたT大学の松平教授なんですよ。そうですよね、石川さん」
「間違いないでしょう。此処へ来て確信しました」
「な、なんだと。しかし、そこの和服の女性は一体なんなんだ。見た目からして彼女こそが玉姫御前のようにも思えるが」
和装の女性は悲し気な顔をしている。メイは彼女の背中をやさしく摩った。
石川は同情するように女性を見た。
「彼女は松平教授の娘でもあり孫でもある子ですよ」
「えっ、それはつまり……」
ランボーは口元がひきつった。
石川は言葉を選んで話した。
「お察しの通りです。そんなですから公にされていない娘です。自身のスキャンダルを防ぐためにこの娘と母親共々、この集落の近くに隔離していたんです。この娘の母親は既に亡くなっていますがね。私が学生の頃、教授が珍しく酒で酔っていた折に、このことを話されていたのを覚えていたので見かけた時はすぐに分かりました」
「そんなことが……」
やよいは頷き話を続けた。
「先ほど呪詛をかけて動きを操る条件として、信頼できるモノが発信する情報が一つの鍵になるという話をしました。玉姫御前、というモノが集落の方々を操るキーワードとなっていたんでしょうね。玉姫御前を選んだのは、滋賀県に逸話があったことと呪詛をかけるに都合が良い名前だと考えたからでしょう」
「しかし、何故そんな研究を。そんなことをして一体どうするって言うんですか?」
石川はメガネに手を当てた。指が震えている。
「彼にとっての戦争はまだ終わっていないということです。呪詛により人を操る方法を確立したら、政治家をはじめ国民を洗脳して再び戦争を仕掛けるという実にくだらない野望を持っているんですよ。彼の性格上、きっとね」
石川は吐き捨てるように言った。
やよいは拳を強く握った。
「もう実験は最終段階に入っています。井伊さんのことがあってから、この集落の存在が公に晒されるのは時間の問題だと松平教授は考えたのでしょう。色々となりふり構わなくなっています。先生が崖に突き落とされ、榊原さんが殺されたことからもそれは分かります」
これは初耳だったのか石川は口をぽかんとあけた。
「榊原君が殺された?」
「えぇ。残念ですが」
「何ということだ……榊原君……」
石川はメガネをはずし、こめかみに手をあてた。
「そ、そうだよ。ボクが襲われたことや榊原さんと本多さんが殺された件はどういうことなんだ。あれも集落の人たちが呪詛をかけられ何らかの発動条件を満たしたことによって行われたというのか?」
「半分は正解です」
「半分は正解って、どういうことだ?」
「それはちゃんと本人の口からも話してもらった方が良いんじゃないでしょうか?」
「本人?」
やよいは仮面の者たちに向かって叫んだ。
「いい加減に顔を見せたらどうですか、本多さん!」
老人の隣に立つ仮面の者がピクッと体を反応させた。しばし静止したのち、ゆっくりと仮面を外した。そのやつれた顔は紛れもなく本多だった。
本多は両手をあげて降参のポーズをしたあと、やよいに向けて言葉を発した。
「何故私が此処に居ると気が付けたのですか?」
やよいは本多を睨みつけた。
「この中に混じっているかどうかまでは分かりませんでしたよ。ですから、発破をかけてみただけです。そのまま無視してればいいのに、仮面を外してくれるとはやっぱり根は真面目で律儀なんですね」
やよいの皮肉など気にする素振りもなかった。今までの気弱そうな雰囲気は見る影もなく、暗く冷たい顔色で、まるで心がないかのような無表情だった。
ランボーは声を震わせた。
「ば、バカな。本多さんはさっきの祭壇で殺されたはずだろう!?」
「先生。あの祭壇で殺された人物が本多さんだと、私たちがそう思い込んでいただけだったんです」
「どういうことだ?」
「私もついさっき思い直したんですが、あのとき距離が遠かったから本当に本多さんかどうかなんて実際分からなかったじゃないですか。ただ、メガネをかけていて気弱そうな感じの外部の者というのは私たちの知る限り本多さんしか居ないから、本多さんに違いないと推測しただけ。そうですよね?」
「確かにそうだが」
「たぶん殺された人は私たちとは別に、この集落に迷い込んだ方だと思います」
「むむむ」
ランボーが唸っている横で、やよいは本多に向けて言葉を発した。
「あなたに掛けられた呪詛はあまりにも重たい。多分気弱な性格が不幸にも呪詛の影響を大きく受ける結果となったのでしょうね」
とやよいが言うと
「うん。まるで人形のように感情が空っぽで、もう壊れているんじゃないかとずっと心配だったもん」とメイが言葉を続けた。
「本多君……」
石川は哀れんだ目で本多を見ている。
本多はそんなのお構いなしの無表情でその場に立っている。
やよいもランボーも改めて本多を見て気が付いた。
石川の鉄仮面とは明らかに違う。
本多には表情はあるが感情が通っていない。まるで操り人形のようだ。
「本多さんが松平教授に呪詛をかけられたのは、先生に会いに高校に来た後のことですね?」
本多は何も答えない。
構わず、やよいは質問を続けた。
「私たちがホテルに着く前に、先生の部屋に松平教授を招き入れたのも本多さんの仕業ですね?」
「えっ、松平教授がボクの部屋に!?」
「はい。先生の部屋に侵入者が居たって言ってたじゃないですか。それが松平教授なんです」
「しかし何故ボクの部屋に隠れていたんだ?」
「松平教授はマスコミと強いつながりのある先生の存在が邪魔だと感じたのでしょうね。先生が集落へ行かないような呪詛をかけようとしたんだと思います。ところが先生は教授を見た瞬間に気絶してしまったのでどうにもならずに撤退したのだと思います」
「ふむ。まぁ、気絶ではなく仮眠をしただけだがね」
ふんっとランボーは鼻をならした。
「先生と榊原さんを生かして返しては集落が公に晒されることが早まるのは必至。どうせバレるにしても殺して時間を稼ごう、そう松平教授は考えたんです。それぞれがバラけるのを見計らってね」
「なんと。では君や鵡上が無事だったのはほとんど奇跡か。いや、それより加藤は大丈夫なのか!?」
「安心してください。加藤先輩は殺されないです。とりいそぎ殺人の対象は先生と榊原さんだけだったんだと思いますよ」
「なに?」
「私たち子ども三人は次の実験サンプルとして使うために、石川さんには研究成果を見せびらかすために生かして捕獲したかったはずです。本多さんは既に駒となっているから殺す必要もありませんしね」
「しかしそれならボクや榊原さんも捕獲して実験対象に使うという選択もあったのでは?」
「お二人とも年齢を重ねていますし自我が強いですから長期的な呪詛は掛かりにくいと判断されたんじゃないでしょうか。仮に呪詛が掛かっても、それが解かれた時のリスクを考えると始末した方が安心できると考えたんだと思いますよ。年を取っていても呪詛が掛かる人は、本多さんのように気弱で神経質な人です。これは研究論文にも書いてありました。そうですよね、石川さん?」
「その通りです」
「失礼だな。ボクはまだ三十路だぞ、年をとっているうちに入らないはずだ」
ブツブツとランボーは不満を述べている。そんなことなどお構いなしに、やよいは本多を見つめていた。
「本多さん、あなたも集落の方々同様操られているんです。自分を取り戻してください。あなた達に掛けられたのは呪いなんかじゃありません。マッドサイエンスです!」
「う、うぅ。私は……私は……」
本多は頭を押さえ、その場にへたれこんだ。集落の者たちも仮面を外しそれぞれ慟哭したり放心したりしている。老人はフルフルと体を震わせていた。
「石川さん。井伊さんにしたように呪詛を解いてあげられますか?」
「ここでは難しいですね。呪詛を解くには認知療法を施します。しっかり自分と向き合って、条件反射の発動条件と行動結果の因果関係を自覚させることによって治療をするものですが、それには落ち着いた環境で時間をかけて行う必要があります。行うなら下山してからになるでしょう」
「なるほど。でも石川さんとメイりんは今まで一体どうしていたんですか?」
やよいが尋ねるとメイは頷いた。
「やよいっち達が戻ってこないから私たちも探しに出たんだけどねぇ、その途中で怪しい屋敷を見つけたのだよ。やよいっちが研究資料を見つけた屋敷と同じだと思うんだけどね」
「うん」
「そこで、この娘と石川さんにバッタリ遭ってさぁ、石川さんが此処に来た本当の目的を話してもらったワケ。それは、やよいっちが話してくれた事とほとんど同じ内容だったんだけどね。んで、惨劇を止めるために私たちは松平教授を探しまわってたところ、やよいっちが皆に向かって話している場面に遭遇したんだぁ」
「なるほど。でも、確かに教授の居場所が気になりますね。あの、あなたはご存知ないですか?」
やよいが和服の女性に尋ねると、女性は不安げに首を横に振った。
「申し訳ありません。わたくしは父のしていたことをほとんど知らないのです。ただ、たまに此処に訪れて何かをしていたと、そのくらいの認識しかもっていませんでした。研究資料もわたくしには理解できないもので、まさか集落の方々を利用して危険な実験をされていたとは思いもよらなくて……」
「そ、そんな責めてる訳ではないのでそんな思い詰めないでください。私の聞き方が悪かったです、ごめんなさい」
やよいは慌てて女性に頭を下げた。女性の顔には悲壮感と焦燥が漂っている。
思えば彼女も犠牲者なのだ。物心つかない時からこのような山奥に隔離され何も教えられずに生きてきたのだから。そんな彼女にとって当たり前だと思っていたことが突然崩されたら、精神的に大きな衝撃を受けるのは当然のことだろう。
やよいは困った顔で石川を見た。
「しかし、教授はどこへ行ったんでしょうね。此処にいるような雰囲気もなかったし……もしかしてもう逃げた後とか?」
「それはありえません。少なくても彼はまだ何かをするはずです」
石川はメガネに手を当てて静かに言った。
「何でそう思うんですか?」
「彼は自らの存在を主張したがる自惚れ屋ですから。自分が評価される為なら人の研究成果を奪うことにも躊躇いがないほどのね。同時に彼は思慮深さも持っています。自分の研究成果を見せびらかすために私をここに招き入れたいと思う反面、集落のことや自分の非人道的な研究が世の中に露呈するリスクも当然頭のなかにあったと思います。そんな彼が何も対策をせずに逃げ出すわけがありません。どうせ指名手配になるのは時間の問題ですから」
「なるほど」
「どうにも分かりません。この集落には他にまだ何かあるのでしょうか。呪詛以外の何かが」
ランボーはハッとした。
「お、おい。安土、もしかして教授は呪いの秘宝を使う気なんじゃないか?」
全身の血の気がひいていく。
やよいは貧血を起こし、倒れそうになるのをどうにか堪えた。
石川はきょとんとした顔をしている。
「どういうことですか。呪いの秘宝とは?」
「そうか、石川さんは話の途中で来たから聞いてなかったんですね。この集落には、徳川家康の負の遺産である大量の砒素が眠っているんです。近くの水脈に流しこんだら琵琶湖に関係する水すべてが汚染されるくらいの量がね」
「そ、それです。おそらく教授はその存在を知っていて、稀代の殺人劇を引き起こすつもりなのでしょう。その混乱に乗じて要人たちに呪詛をかけ自分の軍隊を作り、戦争に向けての工作をするに違いない」
「こ、こうしている場合じゃない。すぐに向かいましょう」
「先生、案内お願いします」
「はい」
ランボーと石川が暗闇の中を駆け抜けた。和装の女性は体を震わせて、その場で縮こまっている。メイは彼女の背中をやさしく摩った。
「メイりんはその娘とここに居て」
「やよいっちは?」
「私は先生たちと一緒に行く!」
そう言って、やよいも駈け出した。
第七章 決着
君たちの先祖はね、禁忌を犯したんだ。魂魄百万回生まれ変わっても償いきれないほどのね。君たちは死後の世界で、業火に見舞われ苦しむことになるかもしれない。何も知らない君たちは何故そんなことになるかも分からないだろう。考えたことはないかい、何故自分たちはこんな何もない場所で生きていかなければならないのかと、何故こんなにも自由がないのかと、自分たちは一体何者なのかと。しかし、いずれも君たちに答えはない。君たちは呪いの受け皿以外の何者でもない存在なのだから。
だってそうだろう。君たちはこの集落から逃げ出したいと思っても、気が付けばいつも集落に戻っているはずだ。
逃げ出したいと思ったことはないし、引き返した覚えもない?
ふふ、そんなことはない。よくよく思い出してみると良い。君たちは何度も何度も逃亡を繰り返したが無意識のうちに戻ってきたはずだ。
分からない?
落ち着き給え。深呼吸してゆっくりと考えるんだ。
ほら、思い出してごらん。
君たちはこの集落が嫌になっただろう、逃げ出そうとしただろう、しかし、麓へ逃げたつもりがいつの間にか集落に戻っていただろう。そんな記憶がよみがえってこないか?
そういえばそんなこともあったような気がする?
そう、どうやら思い出したみたいだね。その通りなんだよ。君たちは逃げたいと思えば思うほど、無意識のうちに集落へ戻ってきてしまう。君たちはそういう人たちなんだ。これは君たちにかけられた呪いの一つでもある。
けれどね、私はそんな君たちを救いたいと思って此処に来たんだよ。
私は陰陽師、呪いを払う専門家也。
ん、その顔は……少しは私のことを信用できるようになってきたようだね。それで良い。君たちは私を信じて、私の言葉に耳を傾けるだけで良いんだ。それだけで君たちの呪いは少しずつ浄化されていく。
誰が呪いを掛けたのかだって?
そうだな、これだけの強力な呪いを掛けられるのは……かつて京の都を地獄にした酒呑童子の母親、玉姫御前だろうな。
彼女はまだ生きているよ。君たちも見たことがあるだろう?
あの和装の女性だ。さすが鬼の母親、何百年も生きている悪鬼だよ。万が一出くわすことがあったなら、ちらっと見る程度なら構わないが決して見つめてはいけないし話しかけてもいけないし、近づいてもいけないよ。また、滝の奥に行ってもいけない。君たちに掛けられた呪いが増大してしまうからね。怖くなってきたかい?
それならそう、私の言いつけを守るんだ。それによって君たちは救われる。
あぁ、自分で考えることをやめても構わないよ。恐怖から逃れる手段の一つであり、ここでは限りなく正解の選択肢だ。
うむ、君たちは私に全てを委ねれば良いんだ。
ははは。その気になったようだね。言わなくても分かる、表情で私には分かるんだ。君たちは私と共にあることに喜びを感じているだろう。いや、まだ自覚はないかもしれないね。けれど君たちの深層心理は私を求めている。陰陽術で私にはそれが分かるんだ。うん、私に言われたことで少し自覚したようだね。
どうだい、君たちはこの喜びを体現してみたら。例えば喜んだ表情の仮面を作るとかね。仮面を被ると、より自我は停止し、君たちは私に身をゆだねることができる。それは呪いからの解放を早める結果になるんだよ。
だから君たちは私の命に従えることに喜ばなければならないのだよ。
「我々は喜ばなければならない?」
「そう、君たちは喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」「我々は喜ばなければならない」
☆☆
「うわあああああ」
昼市は飛び起きた。
全身汗でびっしょりだ。ひどい悪夢を見ていた気がするが、どんな夢だったかは思い出せない。乱れる呼吸を整えながら辺りを見渡した。
薄暗い空間、湿っぽい空気にひんやりとした地面。目の前には柵があり抜け出せないようになっている。
どうやら自分は土牢に閉じ込められているらしい、ということを認識した。
昼市は心を落ち着つかせて、これまでのことを思い出すよう努めた。
屋敷に行ったメイを待ってる間に仮面の老人に捕まって、そこで意識を失った。気絶している間にここに閉じ込められたということなのだろうか。
「お目覚めのようだね」
牢の奥から声が聞こえた。
目を凝らすと、壁にもたれかかって座っている老人だと分かった。
「あ、あなたは?」
「私は研究者だよ」
高級品で身を包み随分と金回りの良さそうな格好をしている。しかし、それがかえってこの貧相な場に馴染まず異質であった。
「研究者、ですか」
「あぁ、この辺の地質調査に来たんだが、その途中で集落の人たちに捕まってしまってね。どうしたものかと思案していたところ、気を失った状態で君がここに放り込まれてきたというわけさ」
「なるほど。それは災難でしたね」
「うん。しかし何故捕まったのか理解できないんだ。尋ねても何も答えてくれなかったしね。君は何か知らないかい?」
「わ、分かりません」
「そうなのか。……しかし何故こんな何もないところに君みたいな若い子が居るんだい? 何か理由があったんじゃないのか?」
老人は穏やかな表情と優しい口調で昼市に尋ねた。昼市の緊張は急速に解れていった。この危険な状況下のなかでまさに救いの手を差し伸べられたような気持ちにさえなる。この人になら何だって話しても大丈夫だろう、そう感じた昼市は安堵して口が軽くなっていた。
「ぼ、僕もよく分からないんです。ただ、呪いの秘宝だとか玉姫御前の呪いがあるとかっていう噂を聞きつけてそれを確かめるために此処に来たんです」
「ふぅん。それは興味深い話だね。その呪いとやらの正体は掴めたのかい?」
「いえ、それがまったく分からないんです。呪いの正体を探ろうとした途中で一緒に来た人たち全員と逸れてしまって、僕一人になってしまったところで集落の人たちに捕まって、そこで意識がなくなって……気が付いたら此処に居たんです」
老人は昼市の瞳をじっと見つめている。昼市は何やら気恥ずかしくなり視線をはずして、うつむいた。
「どうやら嘘は言っていないようだね。しかし、状況は理解できたよ。この集落には呪いか何か分からないけど何らかの秘密があって、それを外部の人に知られないために偶然近くに居た私も捕まった。そういうことかな」
「そういうことだと思います」
「実は君が気絶しているとき、もう一人此処に閉じ込められていた人が居たんだ。その人は集落の人にどこかに連れ出されてしまったんだけど、もしかしたら君の知り合いなのかな」
「ど、どんな人でしたか?」
「中年で細方の体型の男性。分厚いメガネをかけていたよ」
「ほ、本多さんだ。たぶん知り合いです。その人はどうなったんでしょうか?」
「考えたくはないけど、無事ではないだろうね」
「えっ」
「だってそうだろう。集落には秘密があってそれを知られない為に私たちをいま閉じ込めているんだとしたら無事に帰す訳がないと考えるのが普通だ。もしかしたら何らかの儀式をする風習があって、その生贄にするために私たちは生かされているのかもしれない」
「そ、そんな……」
昼市の声は震えていた。
全身も震え歯を鳴らしている。老人はそんな昼市を観察するように見ていた。
「ど、どうにかならないんでしょうか」
昼市はすがるようにして老人に尋ねた。
老人は難しい顔をして唸った。
「うぅん。もしかしたら君と私が力を合わせれば脱出できるかもしれないが」
「ほ、本当ですか?」
「しかしこれは賭けだ。君と私がお互いに信頼して行動することが求められる。君は私を信頼できるかい?」
「も、もちろんです。いま話していて、おじいさんが悪い人じゃないくらいのことは僕にでも分かります」
老人は笑った。
「そうかい。じゃあ君は私のことを信じて、私の言ったように行動してくれるね?」
「はい」
昼市が断言したのを聞き、老人はポケットから枯れ木のようなものを取り出し地面に置いた。それにライターで火をつけた。周辺を煙が包みこむ。お香のような甘く幻想的なにおいが昼市の鼻孔を刺激した。
昼市の心が開かれていく。心が穏やかに、緊張が抜けていく。今ならどんなことでも、何を言われても受け入れられるような気がする。そんな寛容な心持ちになれる。
「良いかい。此処から君が抜け出せる機会を私が作ってみせよう。君はきっと無事に抜けだせるはずだ。これは自信をもって言える。君の安全は保障されているから安心してほしい」
「ありがとうございます」
わずかに残っていた緊張も完全に抜けた。いま、昼市の心は完全に開かれている。昼市の衣服や髪にも甘い幻想的な匂いが段々と染みついていく。
老人は優しい口調で話を続けた。
「君が此処から抜け出したらまず最初にするべきことを言うよ」
「はい」
「君が集落の人たちに捕まった周辺に屋敷があっただろう。その屋敷の中に入って正面右奥隅に灯油があるんだ。その灯油を屋敷内にバラまいて、このライターで火をつけてほしいんだ。あの屋敷こそが魑魅魍魎を生成する魔の巣窟だからね」
屋敷の近くで捕まったことを何で知ってるんだろう。
昼市の頭に疑問が生じる。しかし辺りに漂う甘く幻想的な匂いを嗅ぐと、そんな疑問は一瞬のうちに流れすぎていった。これはあまりにもどうでもよい疑問だ。考えるのも面倒くさい。無駄である。今は自分が信じたこの老人の言うことだけを忠実に守ればよい。昼市はそう確信した。
「分かりました」
「その後、君は君の仲間を探すだろう?」
「はい」
「君が無事に仲間たちと合流したとしよう」
「はい」
「良いかい。そのときもしかしたら君はメガネに手をあてる仕草が目に入るかもしれない」
「はい」
「それは君を惑わす敵の策略だ。それは仲間のフリをした魑魅魍魎だ。もしそのような仕草を見たら君は仲間を一人残らず殺すんだ。実はね、それは仲間でもなければ本物の人間でもない。君を惑わす魑魅魍魎だよ。だから安心して殺して良い。その後、彼らに火をつけてすべてを燃やし尽くすんだ。これによって君は救われる」
「はい」
「しかし、注意してほしい。私は魑魅魍魎などに変化をされない。地質学者とはそういう者だ。だから、その場に私が居たとしても、それは間違いなく本物の私だ。だから殺そうとしてはいけない。殺すべきは君の仲間に化けた魑魅魍魎だけだよ。君と私は信頼関係にあり、君は私を信じている。そうだったね?」
「はい」
「大丈夫。君が魑魅魍魎を退治するのは無意識化のうちに行われる。安心して自己の衝動に、私に、すべて身を任せてくれて良いんだ。君は私にとっても大切な仲間だ。君を犠牲にするようなことはしない。信じられるね?」
「はい」
「あとね、老人の仮面を見たら、それも殺して良い。彼らも魑魅魍魎であり、君を殺しにかかってくる。やらなければやられるのは君だ。理解できるね?」
「はい」
「いま言ったこと全てを君は出来るね?」
「はい」
「大丈夫。不安になることはないんだ。君はこの匂いを嗅いでいる間、君の体は無意識のうちに今言った通りのことをするはずさ。一晩あけたら君は全てを忘れて開放的な気分で此処を抜け出せる。だから安心して良いんだよ。だけど、君と私はパートナーだからね。君はこれからもずっと私のお願いごとは忠実に守ってほしい。約束できるね?」
「はい」
「此処にナイフを置いていくよ。使ってほしい」
胸ポケットからナイフを取り出し昼市の前に置いた。昼市はぼんやりとそのナイフを眺めている。ナイフを手に取った昼市を見て、老人は悪意に満ちた笑顔で頷いた。
老人は立ち上がって手を二度叩いた。
すると、どこからともなく仮面を被った者が現れ土牢を開いた。
老人はすっと牢から出た。
「ご苦労。あぁ、あの少年をね、此処から出してやってくれないか。彼は衰弱しているから君が彼に近づいて肩を貸してやってほしい」
「畏まりました。我々は貴方と共にあることを喜ばなければならない」
「そう、君たちは喜ばなければならない」
「我々は喜ばなければならない」
仮面の者と老人はすれ違いざまに言葉を発しあった。
昼市はぼんやりとした視界のなかで、仮面を被った人が近づいてくるのを見ていた。
仮面を被った人はみんな敵だ。彼らは魑魅魍魎だ。彼は僕を殺そうとしてくる。だからやられる前にやらなくてはいけない。あのお爺さんもそう言っていた。
昼市の鼓動が早くなる。
僕は殺される……俺は殺される……俺が殺す……。
昼市は勢いよく立ち上がった。反動でメガネが床に落ちる。
すぐ目の前まで仮面が近づき昼市の肩を抱こうとしたとき、その仮面に強烈な拳が突き刺さった。
仮面が砕け、男が唸って倒れている。
反動で赤く染まった拳を握ったまま、昼市地面でうごめている男を見下した。
昼市の表情はいつもの気弱なそれではなく、狂気を感じる目と不気味な微笑みを伴っていた。
「テメェらは俺に殺される」
☆☆
老人は軽やかに外に出た。
満月が浮かぶ空を見上げて、気持ちを高ぶらせて笑った。
「さぁ、今宵は盛大な祭りだ。徳川家康の遺産を惜しみなく使い果たしてくれよう。明日は人類史に残る大事件となるだろうな。これを狼煙として私の軍を作り、私の帝国を世界地図に拡げてみせよう」
老人は一人高笑いしながら、徳川家康の秘宝がある場所へと向かって歩いた。思えば長い道のりだった。帝国軍研究機関勤務の頃はただの一研究者でしかなかった。
しかし誰よりも太志を抱き、野心を持っていた。いつかこの帝国を自分の手に収め、世界の列強国を滅ぼしてみせると。
ひ弱な上層部は敗戦を受け入れ、この研究所も解体され私は大学教授となった。しかし、私はそれでもあきらめずに秘密裏に研究を続けた。表には出さなかったが当時から着実に成果が出ていたからだ。私の傀儡と化した集落民どもを見れば一目瞭然だ。
幾重にも重ね合わせた呪詛もすべて有効になることが分かった。若い頃にこの集落から逃亡するよう仕向け、大人になったら集落に戻ると同時に脳破壊を起こすよう呪詛をかけていた者が最近それを証明してくれたのだ。
しかしこれだけの偉業を為しながらも誰にも誇ることができず、日の目があたらないことには苦痛で仕方がなかった。大学を定年退職し、世俗とのつながりも断ち切れた。誰にも私の研究は認知されない。こんなことは本来許されないのだ。
この私のすばらしさを誰かに見せつけてやりたい。今すぐにでも。
だが公に出すにはまだ早い。だから、集落を抜け出した若者が酒井君と繋がりがあることを知ったときは狂喜した。私の呪詛を完璧なモノに仕上げることに貢献する研究成果を残した、あの酒井君とのつながりがあったのだ。
彼になら私の箱庭を見せてやる機会を提供しても良い。そう思い、学生時代に酒井君と飲みの席で話したことのあるキーワードを記したメモを若者に持たせて帰らせた。これで酒井君は集落の背後に私が居ることに気が付けたはずだ。彼なら自ら集落に足を運ぶに違いない。そこで私の研究を見せつけてやるのだ。
こう思うと気持ちが高ぶった。仮に私の陰謀に気づき警察に知らせたところで、これだけの壮大な話を証拠もなく警察が信じるわけがないという確信があったから出来たことだ。
しかし計画は失敗した。酒井君と同じ職場で働く本多とかいう者に呪詛をかけ、内情を探ったところ、酒井君は持病で亡くなったということが分かった。失望を覚えたものだが、同時に新たな希望が湧いた。なんと石川君が集落の調査に来ると分かったのだ。
酒井君と同様、石川君も私に貢献した者の一人。
考えてみれば酒井君よりも石川君の方が私にとって都合が良い。彼が学生のころ、万が一の保険を掛けているのだから。
石川君なら集落にたどり着き、私のラボを見つけ研究資料を読み、私の大業に気が付けるだろう。だが、知ったところで彼が警察に伝えることなどできはしないのだ。仮に集落が公になったところで、もう此処に用はないのだからそれも構わない。
そういえば、メディアに出て調子に乗っている高校教諭と生徒まで紛れ込んだのは想定外だったな。高校教諭と太った記者は始末した。生徒三名は私の傀儡にしてやろうとも思ったが、まぁ一人は確保したから残りは処分しても良いだろう。仮に奴らが生き延びていたとしても先刻、集落民に部外者を見つけ次第殺すよう指示を出したから大丈夫だ。やり損ねがあったとしてもあの傀儡と化した男子生徒が始末をつける。
間違いなく計画に支障はない。
「なぁ、石川君。君の研究のおかげで私の覇道が輝いたのだ。だから特別に君に見せてあげることにしたのだよ、すべての始まりであるこの集落をね。君が殺される前に私の偉業を知ってくれ給えよ。ふははは」
私が崇められ称えられる世界でないのなら、そんな世界は嘘だ。私の偉業をすべての者に見せつけてやるのだ。そして私は世界史に名を残し、いや、それだけでは足るまい。新たな神として永久に祀られるのだ。
そんな想いを胸に、この老人││松平は徳川家康が残した負の遺産、呪いの秘宝と呼ばれたモノが入っている箱の前まで来た。
「あとはこの砒石をすべて焼成し、そこの川に流せば良いわけだ」
気持ちの高揚を抑えきれずに震えた声で松平は言った。
「そんなことはさせません!」
叫び声が聞こえた。
松平が振り返ると、そこにはやよい、ランボー、石川が居た。
石川はメガネに手を掛け、一歩前に進んだ。
「終わりにしましょう、教授」
静かながらも震えた声だ。
松平は舌打ちをした。
「実にタイミングが悪い。君は昔から空気が読めないね。集落の者たちに君たちを殺すよう指示したはずだが無事なことに驚いたよ」
「彼らの呪詛は解きました」
「君が呪詛を解いたのか。まぁ、君や酒井君の研究を応用すれば出来ないこともないのかな」
「えぇ。教授、どうか自首してください。そして集落の人たちや雪奈ちゃんを開放してあげてください」
「雪奈も集落の者も私にとってはただの実験道具に過ぎん。解放するとは大げさな言い方だな」
「ふ、ふざけないでください。雪奈ちゃんは貴方の家族でしょう!?」
「それがどうしたというのだ。君こそふざけるな。君ほどの者が私の理念を理解しないとは何事だ。私に従いたまえ」
「そう思うなら私に呪詛をおかけになったらいかがですか。ほかの者にしたように」
「ふん。君は私を信用していないだろう。学生時代の君ならいざ知らず、今の君に呪詛の重ね掛けなど効くものか」
「そうでしょう。ですから、もう諦めてください」
松平は石川たちを睨みつけた。
この世の全てを呪っても足りないくらいの怒りに満ちた表情だった。
お互いが硬直しているなか、段々と足音が近づいてきた。
その足音の主を見て、松平はニヤリと笑った。
やよいは反射的に声を発した。
「加藤先輩!」
昼市が現れた。ズボンのポケットに手を突っ込み、どことなく狂気を感じる目つきをしている。
「天は私を見捨てなかった。さぁ、私の言った事を出来るね?」
松平の叫びに呼応するかのように、昼市はゆらゆらと歩いた。
「か、加藤?」
「先輩?」
ランボーたちに近づくも、昼市は彼らを通り過ぎて松平の前に立った。
松平は困惑した。
「な、なぜ私の前に立つ。魑魅魍魎はあっちにいるぞ」
次の瞬間、昼市は松平の腹にケリを入れた。
その衝撃に耐えられず、松平は壁にたたきつけられ地面にへばりついた。
昼市は冷たい目で松平を見下ろした。
「バァカ。テメェなんぞの暗示に俺がひっかかるワケねぇだろ」
地面にうずくまる松平を昼市は踏みつけた。松平はお辞儀をするような姿勢になっている。
「なぜだ。なぜなんだ。あのナヨナヨしていた状態から今の変わりよう、間違いなく呪詛は成功しているはずなのに」
「なぁに勘違いしてんだよ、屑が。俺は元々居たんだぜ?」
「そ、そういうことか。君は多重人格者だったのだな……」
「ジジィ……」
松平を踏みつける力が強くなる。昼市は松平に向けて唾を吐いた。
「気にくわねぇんだよ。俺は俺だ」
「君は君か。しかし、その他大勢でしかない君に私ほどの男がこのような目に遭わされるとはな。悲劇だ……」
昼市は足をどかし、しゃがみこんで松平の顔をにらみつけた。
「教えてやるよ。テメェの存在なんかな、鼻から誰も気にかけちゃあ居ねぇんだよ。テメェはなぁ、この世に居ても居なくても何も変わらねぇんだ。世界にとっても、誰にとっても何の意味もなければ興味もない、ただの味噌っカスだ。他者に迷惑がられることでしか己の存在を主張できない。その程度のカスということを自覚しろよなァ」
松平はわなわなと震え始めた。頭を抱え、目玉が挙動不審にせわしなく動き回っている。
「そ、そんな訳がないだろう。この私が、世界史に名を刻むこの私が、天命を与えられ世界を変える力を与えられたこの私が」
「すべて自惚れだよ、このタコ。テメェにそんな価値はまったくねぇ。だが俺は優しいからよ、だれにも相手にされねぇテメェに一つだけ言葉をかけてやる」
松平は恐る恐る昼市を見た。
昼市は冷めた目つきで冷めた声で一言だけキッパリと言った。
「テメェはなぁ、名もなき脇役のまま誰にも知られず死ぬんだよ。死後も誰にも話題にされることはねぇ。その程度の存在だ」
「う、嘘だ……嘘だぁ……嘘だぁ……」
松平はうつろな表情で、うわ言のように同じ言葉を繰り返した。
まるで壊れたカラクリ人形のように。
自己承認欲求が肥大化した魔物は、すべての魔力を失いただの廃人になった。
昼市は不敵に鼻で笑った。
「人を呪わば穴二つ、って言うんだろ。この俺に手を出したことを後悔しながら死んでいけ。もっとも見ようによっちゃあ、もう死んでんも同じか。もう壊れてるもんなァ」
蝋燭の火に映る昼市の影が悪魔のようにうごめいていた。
その場に居た者はだれ一人と声を発せず、動くことも出来ずにただ立ち尽くしていた。
☆☆
翌日、ランボーたちは下山して警察を呼んだ。
ランボーたちがレンタカーを止めた鳥居の前に十数台のパトカーが止まっている。集落民は次々とパトカーに乗せられ下界へと運ばれていく。
廃人となった松平もまた警察の肩を借りてぎこちなく歩いている。
その様子を遠目からランポーたちは眺めている。松平がパトカーの中に入ったのを確認して、石川はランボーに握手を求めた。
「先生。この度は多大なご助力本当にありがとうございました」
ランボーは石川の手を握り返し、微笑んだ。
「いえ、しかし水臭いじゃないですか。松平教授の野望をご存じだったのなら、最初から集落へ行く目的をお話してくれればよかったのに」
「先生をお誘いした時点では確信がなかったものですから。結果として、先生を利用する形になってしまったこと大変申し訳ございません」
「かまいませんよ。本多さんも落ち着いたようで良かったですね」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
石川の横で本多が力なく微笑んだ。
「しかし、いつの間に松平教授に出会ったんですか?」
「先生の高校にお伺いした翌日です。仕事が終わって会社から出るとロビーの前に教授がおりましたね。酒井君の知り合いなのだが彼はどうしているかと声をかけられ、そのとき部長はすでにお亡くなりになっていましたから、その話をしたところ飲みながら詳しく聞きたいと言われ何だかよく分からないうちに呪詛にかかってしまったようです」
「貴方も災難でしたね」
ランポーは苦笑した。
本多も弱気に微笑んでいる。
やがて警察が近づいてきた。
「一台出発の準備が整いました。お二人だけですが先に出発出来ますよ」
「それなら石川さんと本多さん、先に乗ってください」
ランポーの提案に石川は頷いた。
「では、のちほど長浜でお会いしましょう」
「えぇ」
石川と本多は警察に誘導されてパトカーへと乗り込んだ。
ランポーたちのすぐ近くで、やよいたちは和装の女性││雪奈と一緒に集落民を乗せたパトカーが次々と出発していくのをボンヤリと眺めていた。
やよいはふと昨日のことを思い出し、雪奈に声をかけた。
「あの。そういえば雪奈さん?」
「何でしょうか?」
「昨日地下の祭壇にいらっしゃいましたよね。あのとき、石川さんやメイりんはどこに居たんですか?」
雪奈は不思議そうに首をかしげた。
「申し訳ないのですが何のことでしょうか。わたくし、恥ずかしながら地下の存在を昨夜初めて知りまして。祭壇とおっしゃるものは見たこともございません……」
「そんな。先生は祭壇の前に立ってる女の子を見ましたよね?」
ランポーは眉をしかめた。
「何を言っている。祭壇には仮面の男と、そいつらに拘束された男性しかいなかっただろう」
「そんな。先生には見えていなかったんですか。確かに和服の女の子が居たのに」
「やよいっち、それ何時ごろの話かなぁ?」
「もうすっかり夜になってからのことだけど」
「それなら雪奈ちゃんは無関係だねぇ。夕方ごろから私や石川さんと片時も離れずに一緒に居たけど、私たちそんな祭壇なんて行かなかったからね」
「えっ、そうなの。それなら集落に他に若い子が居たっていうことなのかな?」
昨日やよいたちの相手をした老人がパトカーに向かう途中で立ち止まった。どうやら話が聞こえたらしい。
「この集落に若い女はおらんよ。一番若くても七十を過ぎておるわ」
「そんな……じゃ、じゃあ雪奈さん。昨日のお昼前、石段で私たちを見なかった?」
雪奈は未だ困惑した顔をしている。
「見ておりません。わたくしはあの屋敷の周辺しか出歩かないものですから」
「ど、どういうことなの?」
「おじいさん、お嬢さんもどうぞ乗ってください」
警官が会話の間に入り、二人に乗車を促した。
「あぁ」
「はい。それでは、皆さんお先に……」
雪奈はやよいたちに一礼した後、老人に続いてパトカーに乗り込んだ。これで集落民は全員収納されたことになる。雪奈たちを乗せたパトカーにエンジンが掛かり、直後に出発した。
ぼんやりした意識の中で やよいは雪奈や老人を見送った。車はどんどん小さくなり、やがてその姿は見えなくなった。
やよいは石段の上や、地下室で見たあの女の子は一体なんだったんだろうと考えた。しかし、疲労も限界に達していたのですぐに思考は停止してグッタリした。なんせ丸一日動き回っていた上に命をかけたやりとりをしていたのだ。さすがに体力も精神力も限界に達している。
「長らくお待たせしてしまい申し訳ありません。出発しますのでどうぞお乗りください」
最後に残った警官がランボーたちの前に立ち、車に乗るよう促した。
ランボーは助手席、部員三名は後部座席に乗りこんだ。
ドライバー席の警官は辺りを見渡し誰も居ない事を確認したあと出発した。一行は長浜の町へ行く。
あんなにも静かで、不気味で、怖かった夜の山の景色とは違い、朝日に照らされる山の景色はみなぎる活力と癒しを与えてくれる優しい景色だった。
「それにしても疲れたね」
昼市がグッタリして呟いた。松平教授が壊れた直後に元の気弱な性格に戻っており、今もまた気弱で頼りない口調と表情だ。
「そうですね」と返事をする やよいの声にも力がなかった。
メイに至ってはパトカーに乗った直後に爆睡した。口をあけてよだれを垂らしながら眠っている。
やよいはぼんやりと車窓を眺めていたが、ある一点を見てハッとした。
木の隙間に例の着物を着た黒髪の女性が立っていたのだ。パトカーが女性の前を通りすぎても、やよいは首と体を回転させて女性を見続けた。
女性の口元が動いている。
窓を閉めていたし、距離もあるから彼女の声が聞こえるはずもない。
しかし、やよいには何故か女性が何を言っているかハッキリと分かり背筋がゾクっとした。
“其方ノ活躍見事ナリ 死後 我ニ仕エルヲ許ス”
瞬きをすると、女性の姿はなくなっていた。
挙動不審になっている やよいに昼市は声を掛けた。
「どうしたの?」
「さっき、そこに着物を着た黒髪の女の子が……」
「え、僕も景色を眺めていたけど、そんな子は見かけなかったけどなぁ」
不思議そうな顔をして昼市が言った。
二人のやりとりを聞いていたランボーが振り向いて後部座席に座る やよいに話しかけた。
「君、昨日も石段の前でそんなことを言っていたな。でも、連行されたお爺さんが言っていただろう。集落に若者は居ないそうだし、教授のお子さんも違うと言っていたじゃないか。ましてやこんな所に若い女性が一人ぽつんと突立ってるわけがない」
「それはそうですけど……」
「君の見間違いだろう」
確かにランボーの言う通りなのだが、ハッキリと見えたことも事実なのだ。だから やよいは納得出来ないでいる。
「はは。玉姫御前でも見られたんですかね」
警官が運転しながら笑った。
「玉姫御前ですか?」
「えぇ。ここら辺は酒呑童子の母である玉姫御前が息を引き取った場所だという一説があるんですよ」
「はぁ。近いとはいえ伊吹でなく此処でですか」
「なんせ鬼の母親ですから妖気と邪気が凄くてね、死後も怨念だけは残ったそうです。その怨念によって彼女は死神となり、この地に迷い込んだ人間の運命を操って不幸にするのだという郷土話があるんですよ。ですから、昔の人々は玉姫御前の魂を慰めるために、この辺のどこかに石碑を作ったそうです。まぁ、ただの都市伝説やオカルト話の類ですけどね」
「はは。オカルトや都市伝説が事実であるわけはありませんが創作話としては面白いですよね。まぁ、ボクたちは昨日ずっとそんな与太話に付き合わされていた訳ですが」
ランボーが警官と二人して笑った。
「しかし事実は小説より奇なりですね。私は生まれも育ちもこの辺りなんですがね。まさか、あんな所に集落があるなんて思いも寄りませんでしたよ」
警官とランボーの話を聞き流しながら、やよいは疲れた脳を稼働させて考えていた。
警官が話していた郷土話を知っていたから松平教授は玉姫御前の名を利用したのだろう。そして、集落の人たちも雪奈を見て玉姫御前だと思い込んでいた。
しかし雪奈とは別に玉姫御前のような女性が居たのだ。最初は石段で出逢い、次に地下の祭壇、そして今さっきも。三回も出逢い、必ず近くに他の人も居たのに何故か自分にしか認知できなかった女性。
郷土話は本当の話であり、あの和服の女性が玉姫御前の怨念なのではないか?
ランボーの言うように気のせいなのかもしれない。もしくは疲れているせいで幻覚を見ていたとも限らない。しかし、あり得ないと思いながらも、もしかしたら、と考えたくなるのも事実だ。とはいえ、今となってはどれだけ考えても答えなど出ない。
少しの不思議を残して、やよいは集落があった山に別れを告げた。
エピローグ
ランボーたちが無事に地元へ帰り、集落での疲れも癒えた某日。
長浜の警察が座間中央高校に訪れ、ランボーに事件の後日談をしてくれた。
谷底に放置されていた榊原の死体は無事に回収され、地下室で焼かれた死体にも調査が入った。
鑑識の結果、焼かれた死体の主は滋賀県民だった。
どうやら死体の主は山菜を採りに行って道に迷ったときにあの集落を見つけ、集落の正体を確かめるために再度足を踏み入れたらしい。集落に行く前夜に知人にその話をしており、自分が一週間戻らなかったら警察に伝えるようお願いしていたそうだ。その知人が丁度警察署を訪れていたので、警察はすぐに焼死体の身元を確認することが出来たとのことだ。
この事件をキッカケに集落は大々的に存在が公表された。それはもう連日連夜どの時間帯にどのチャンネルをつけても、集落の話で持ちきりだった。
同時に地下室や地下に眠っていた砒石も専門家たちが念入りに調べ、戦国時代末期にこの場所が作られたことが分かった。徳川家康の呪いの秘宝の元ネタがこの砒石であることは間違いないらしい。
しかし松平が行っていた研究についてはニュースで取り上げられなかった。情報規制が敷かれているのだろうか。
いずれにせよ世間的にはランボーが集落と家康の遺産を発見したということになっていた。そのためランボーは今まで以上にテレビにラジオに雑誌にと引張ダコとなり、お茶の間を賑わせていた。
しかしランボーたちにとって今回のことを武勇伝として語るには、あまりにも辛い犠牲があった。そのため、ランボーはメディアで褒められる度に調子に乗ることには違いないのだが、口数は少なくなりがちだった。
││集落での事件が起きてから二週間が過ぎた頃。
集落のことを思い出しながら、ランボーと歴史部員三名は部室で話しあっていた。
「石川さんが亡くなったこと、私たちなら防げたんじゃないかって思うんです」
やよいが壁に寄りかかって言った。
昼市は俯き、机に置いてある本を凝視したまま反応した。
「そんなの無理だよ。まさか長浜警察署に到着するなり発狂死するなんて誰も思わないでしょ。それを防ぐってどうやってさ?」
「加藤先輩はあのとき居ませんでしたけど、石川さんはこう言ってたんです。学生のとき教授が珍しく酒で酔っていた折に、隠し子である雪奈さんのことを話したって」
「それが?」
「松平教授は石川さんにこう言っていました。学生時代の君ならいざ知らず、今の君に呪詛の重ね掛けなど効くものかって。重ね掛けってことは一度呪詛を掛けたことがあるということですよね?」
「あっ、そうか。石川さんが学生の頃に飲みの席で呪詛を掛けられていたってこと?」
「はい。松平教授は石川さんが自分の敵になる可能性をその時から考えていたのかもしれません。だから保険として呪詛を掛けておいた。警察に松平教授の野望を伝えようとすることを条件に、発狂死が発動するような呪詛を」
「なるほどなぁ。でもさ、それって結果論じゃん。あの時にそれに気が付くなんて無理だよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。少し話が変わるけど僕も土牢で教授に呪詛を掛けられたみたいだけどね、全然自覚がなくて本当何の違和感もなくやられたんだよなぁ。脳と記憶と思考を操作するあの術は本当に危険だよ」
「そういうこともあって警察は松平教授の研究を公表しなかったのかもしれませんね。どこかで同じことを真似する人が出ないように」
松平教授は精神病院に入院している。一切言葉を発さず目が虚ろだそうだ。
教授の心を壊したときの凶悪な昼市のことには誰も触れていない。怖くて誰も話題に出したくなかった。それに昼市はそのときのことを全く覚えていなかったので、わざわざ詳細を伝えるようなこともしなかった。別に本人が知らなくても良いことだとランボーたちは思っている。
やよいも昼市もシンミリしている。
メイは他人事のようにノートパソコンでネットサーフィンして遊んでいた。
部室に重い空気が流れるなか、ランボーが腕を組んで咳払いをした。
「まぁ、なんだ。石川さんのことは残念だがね、ボクとしては君たち生徒を無事に帰すことが出来て正直ホッとしているよ。それに本多さんや井伊さんだって、だいぶ回復しているそうじゃないか。滋賀県民を焼死させた実行犯たちは罪を償ってはいるが、その他の集落民や雪奈さんは社会復帰に向けて頑張っている。たしかに悪い事が多かったが、ほら、良い話も多少はあるじゃないか。だから、そうシンミリするな」
やよいと昼市は力なく微笑んだ。
メイはパソコンのモニターから目を離しニヤニヤしながらランボーを見た。
「たまにはランボーちゃんも良いこと言うねぇ」
「何を言っているんだ。ボクは良いことしか言わない」
「あはは。でも今にして思うとすごい大冒険でしたね。呪いの秘宝の正体も分かったし」
やよいの言葉を聞いてランボーは満足そうに頷いた。
「そうだろう。世の中のオカルト話っていうのはね、紐を解けば今回の件と同じく確かな実体か科学的な根拠があるものなのだよ。ボクは何度でも言おう。この世にオカルトなんてものは存在しないとね」
二人で山を彷徨っていた時に、呪いに掛けられたって泣き喚いていた人が何を言うんだろう、とやよいは思ったが口に出すのは止めておいた。代わりに別のことを話した。
「そうは言いますけどね。私は今でも気になっているんですよ。雪奈さんじゃなくて、別の和服の女性のことです。私にしか認知出来ないなんてオカシイじゃないですか。これはオカルトの匂いがしますよ」
ランボーはフンっと鼻をならし、窓際で寄りかかっている やよいに目を向けた。
「ばかばかしい。そんなの君の見間違いだと……何度も……ほわぁ……」
ランボーは目を大きく見開いたかと思いきや、直後にバタっと倒れた。
「先生!? また気絶!?」
「こんな話ですら気絶するなんて、今回の事件がよっぽどトラウマになってるんだねぇ」
慌てる やよいと昼市を余所にパソコンのモニタを見ながらメイはクスクスと笑った。
しかし、三人はランボーに注意が向いているせいで気がついていない。
この歴史部の部室は二階にある。
やよいが寄りかかっていた付近の窓からは、遠くに映える山々しか見えないはずなのだ。
それにも拘わらず、気絶する直前にランボーの視界に映ったのは、窓の奥に居る着物を着た黒髪の女性だった。彼女はその赤い瞳でランボーたちを覗いていた。
しかし、いまはもう居ない。
やよいとランボーが彼女を見ることは今後二度と無かった。
おわり
呪怨夜行 草秋 @sagamin
★で称える
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