書く事で私は呼吸が出来た
出雲 蓬
失格の烙印を正当化する為に
中学二年生の頃、私は未だ多感な時期にあり、自分を自分たらしめるアイデンティティの存在がないことに、今の私が形容するならば「焦燥感」と「虚無感」を抱いていたと思える。当時の私は漠然とした不安としか感じていなかったが、自己の形成と確立を行っていく過程で、成功も、挫折も無い私のそれまでの人生はあまりにも空虚なものだった。勿論様々な経験の中でやり遂げたものは存在していたが。していたのだが、それは私には大きな実感を伴う成功と言う認識はできなかった。
私は、これは驕った見方な訳ではないのだが、所謂「特別な努力なく大体の物事をそつなくこなせる」子供だったと考えている。生来努力と呼ばれる行為が苦手で避けていたこともあり、何もせずに及第点超えられるのならばいいだろうと過ごしていた結果、成功も挫折も無い人生となっていた。
しかし、その中学二年生の夏頃に私にとっての転機が訪れた。当時の私達の頃は、小説を書くと言う行為はあまり一般的な趣味ではなく、他人にその活動を公言する事が恥ずべきことだと考え、ひたすらに秘し一人籠って書くのが私にとっての「小説を書く」ことだった。だが、ふとしたきっかけで、親友がその活動を私が行っていると知り、その上で肯定し、もっと大手を振ってやってもいいのではと進言してくれた。それが背中を押す一言となり、以降私は小説を書いていることを隠す事は無くなり、同時に自分が探していた自分を確立してくれる要素こそがこれだと考えるようになった。
それから約七年と少し、知識・見聞・技術を少しずつではあるが獲得してきた今、過去の自分の様に思うがままに、ただ空想した世界を書き殴るだけではなく、少なくとも一つ軸を持った、簡単に言えば自分の考えや提示したいテーマが内包された物語を書くことを重視するようになった。その過去から現在までの想起をしていく中で、私は自分が「小説を書く」行為に対する考えに対して自ら疑問を持つようになった。その疑問とは単純に『自分にとって、熱意を注ぎ継続して行っている創作、ひいては小説の執筆とはどういうものなのか』だった。
「書きたいから書く」「楽しいから書く」と言ってしまえばそれまでなのだが、大学生となって四年目、より細分化し自分を噛み砕き説明ができる必要があると私は考えた。
では、「私」と「小説」の関係を考えた時、自己を確立する要素、アイデンティティとなったと述べたが、実際にそれはどれほどのウェイトがあるのか。それに対する答えは「自分の人間性と人生を捧げてでも生涯続けたいもの」となった。まだ二十一歳の身で早計なと思われるだろうし、それで今後どれほど続くかも不明な人生をも捧げると大言を宣うのは過ぎた考えだと自覚している。それでもその結論が私の中で揺らぐ事は無かった。人間社会の規範が無ければ、或いはそれを無視してでも押し通す我と意思の強さがあれば、本当に人間性を捨てるくらいの覚悟があると私は言えるだろう。何者にもなれなかった自分が、初めて何かになれる可能性を見出せた存在だからこそ、私は自分の人生を捧げてでも続けたいと思えた。
しかし、結局それだけが理由であればただの妄信的で盲目な、ただ手近にあったツールがたまたま手に馴染み自分を救ってくれたと言うだけの短絡的なものでしかない。
では他にどんな理由があるのかと自分に問いを投げた時、返ってきたのは「自分の内面の確立と自分の意見や主張ができる唯一の場」というものだった。
私は自分の意見や主張と言うものを声で伝えるのがあまり得意ではない。かといって音楽でも、絵でも、その他の表現媒体でも自分が十全に意思を伝えられる媒体を見つけることはできなかった。その中で唯一、自分でも十全とは言わずとも八割を表現できる媒体としてあったのが小説だった。文字に起こし、物語として落とし込み、一つの作品として誰かの眼に晒す。それが自分には酷く噛み合い、内面に蓄積していたものを一つ一つ小説作品の中に溶かしていくことができた。それは一種快感を感じる行為でもあると自分は思っている。
さて、ここまで「私と小説の関係」や「私が考える私の小説執筆活動の存在意義」を拙いながら語ってきたが、実際にどのようなものを表現してきたのか、そこまで語るものがどんなものなのかと言うことがまだ伝えきれていないだろうと思う。そこで、過去に私が書いた小説を用いて、私がどんな考えや思想を物語として表現したかの例を書いて行こうと思う。
まず一つ目の作品、タイトルは『消失的世界の欠片』。あらすじは、カメラによる写真撮影を趣味とする一人の青年が、京都の街を歩き、常に変化しその時見た景色は一瞬で消えていってしまうその光景を「刹那的な世界」だと捉え、小さな足掻きとして写真と言うもので仮初めの世界を切り取っていくと言うものが大まかな話だ。その作品を書くにあたり、私は自分自身が趣味にしている散策と写真撮影をベースに、世界がありきたりで不変だと思われている一方で、その実常に変化を繰り返し、ある瞬間に感じた感動と言うものは二度と同じものとして味わうことができないという自分なりの考えを、世界の欠片を切り取る青年、「空の欠片/シャッタードスカイ」と言う言葉を交えて書き綴った。私自身が、世界を連綿性がありつつ不可逆的なものであり、二度と「あの時」には戻れない儚さがあると思っているので、どうにかしてそう言った考えが表現できないかと練った末にできたものだった。
二つ目に紹介するものは『ホワイトアノマリー』と言う作品。あらすじは、『白』を狂信的に愛する男と、その男に引き取られた欠陥を抱えた白のアンドロイド、イヴの物語。私自身が愛し怖れる白と言うものが一体どういうものなのか、耽溺の果てに訪れる終末は、対象を概念保有の物体としか考えていない人間が行く末がどうなるのか。そう言ったものを私なりに書き綴ったものだ。この作品内の『白』と言う色に対する考え、想い、捉え方は全て真実であり、物語の中の男こそ自分自身だと考えている。非人間の人間と、人間の様な非人間がどういった関係の果てに進むのか、そう言った話はこの作品の後に書いた『プライミッツは機械人形の夢を見る事能わず』でも書いている。私の一つの作品作りの上での根幹にある【人間とは/人間性とは】は、この二作品に如実に表れているだろう。
そして最後に、現在連載もしている三作品。『Girls:Murder Domination』『六相のデザイア』『亡国のアルケミスト』は、それぞれに自分自身の命題も関わる創作作品であり、現状私を形作る巨大な要素になる。【破滅の抵抗】【愛憎の後退的解決策】【適性は外ではなく内にある】。それらは延々と続く私の自問をするための一つの舞台だと私は考えている。あくまで、作品そのもののエンタメ性とは乖離させている事を考えた上で。それを同一視してしまえば、作品は途端にただの自己満足によるチープな三文芝居を描くだけのものになってしまうから。
以上が私が書いてきた作品の例として提示するべきだと思った作品達である。それ以外にも短編・長編小説も書いているが、これ以上は助長になるので割愛する。
小説を書くという行為は、今の時代になっても尚馴染みのない人が多いのが自分なりの所感だ。絵を描いたり、音を奏でたり、それこそ演説で自分を表す事に比べれば、やはり衆目に浴びるに足るものが完成するまでの時間が特に長く、そして評価の下される環境としてもあまり良いとは言えないのが最大の要因だと思う。なにより文字をひたすら連ねていくという行為は、存外に疲労感を覚える事なのを何より自分が理解している。
だが、それを理解した上で私はこう言える。「書き続ける事こそが自分をあらしめる」と。曖昧模糊な自分の輪郭となり、がらんどうな自分を埋めてくれたその活動は今尚私を唯一能動的に動かし、冷めていた心に熱を持たせて、加速度的にその手を動かさせてくれる存在のままでいる。これを取り上げられることがあれば私は私でなくなるくらいには。多分、人によっては私の有り様を惨めだと、狂気的なものだと思うかもしれないが、それでも私にはこれしかない。自分はこれからも、ふと気を抜けば朧気になる私の姿が消えない様に、ひたすらに文字を書き連ねていく。それが、私ができる世界との関わり方だから。
書く事で私は呼吸が出来た 出雲 蓬 @yomogi1061
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