第7話 絵美子の誤算、そして火星へ
私、大島絵美子(38)は今、実業家の穂積氏率いる「火星刑務所オープニングスタッフ第14チーム」が乗る、ロケットの窓から、地球を見ています。地球は確かに、青いですね。
――2か月前――
(りんりんりりーんりんりんりりんりんりんりんりりーんりんりりりりん)
ここは職場の食堂。倫理綱領(介護職に求められる行動規範)と目の前の現実が脳内でミキサーする。先輩職員の矢口さんが、お粥の上にトマトソースのイワシと小皿のおかずをササッとかけ、カレースプーンでシャカシャカッと混ぜた。
「あ、これミカンだったわ! 大島さん、お願いします」
「……はい」
(まずそうだなあ)
ためらいながらも、先輩に言われた通りに食事の介助をする。「おかず全混ぜ」はやっちゃダメなんだがなあ。
体が固まっていて、常に首が斜め下になっている山下さんに食べさせるのは大変だ。なおかつ早く食べさせないと手が出てくる。前掛けにこぼれたおかずと唾液が気になる。そして山下さんの向かい側の藤本さんにも食べさせないといけない。中腰がきつい。
そもそも食事の介助を立ったままするのはどうなんだろう。そして山下さんはなぜいつもやや仰向けで食事するんだろう。体が固まっていて車いす以外には座れないのだし、しょうがないのだけど……食事の姿勢が正しく無いと、むせて誤嚥(ごえん)するじゃないか。現に山下さんは今も大きくむせている。初めは背中をさすったりしていたのだけど、今や自然と、山下さんがむせている間、藤本さんの口に「人参プリン」を持っていく。藤本さんは顔をしかめて口を引き結んだ。藤本さんは、この宅配プリン食が嫌いなのだ。だってまずいんだもん。だけど心配だなあ、毎食エンシュア(栄養ドリンク)だけっていうのも……
「疲れた」
介護職員初任者研修を終え、すぐに勤め先を探した。母が心配だからと、自宅近くの「サービス付き高齢者向け住宅」で働き始めてひと月。介護の仕事って、思ったよりも大変だ。重労働や臭いがどうこうっていうより、勉強した事と現実がうまくかみ合わないって感じ。だけどまあ、仕方無い、のかなあ……
「ただいま」
ドアを開けたら母親がいた。足元に水たまり。咄嗟に、水道のホースを引っ張ってきて、コンクリート床に広がっている黄色い水を洗い流した。そうしたら今度は、ぶりぶりという音の後に大便の臭いが漂う。
私は思わず、母親を突き倒した。転倒した母は、地面に手を付いた。
「痛い!」
手首をさする母を、呆然と見つめる私。そこに、姉が入ってきた。姉は手際よく後始末をした。私は情けなくて、泣いてしまった。
「エミ、ちょっといい?」
「うん」
母がテレビを見ている。夕方のニュースにはなぜかいつも「イジリー岡田」が出てくるのだが、今日はイジリーの鉄板ネタを見ても笑う気になれない。近所のショッピングセンターでの撮影のようだ。いっぺんも収録見に行った事無いんだけど。
めちゃくちゃお腹が空いてきたので、私はビール片手にコロッケをつまんだ。
「お母さん、施設に入れようと思うんや」と姉。既に顔が赤い。
「そうか」私は唐揚げを頬張りながら答えた。
「ほやけどな、問題がある」
「要介護認定か」
「そうや。知り合いのケアマネにも相談してるんやけどな。同居家族がいると、点数的にあかんのや。それでな……」
「うちが家を出るんか。ほやけど、うちも行くとこ無いで。お金も無いし」
「分かってるがな。で、提案や。火星行ってくれ」
「何で」
「火星刑務所や。今、橋の向こうの刑務所がえらい事になってるのは知ってるか」
「うん。聞いた事はある」
「あのな、介護施設いたら分かるやろうけど、利用者さん同士のトラブルあるやろ、盗った盗られた、部屋に勝手に入られたどうこう。あとは暴力」
「あるなあ。しゃあないやん、症状なんやし」
「利用者さん同士の話なら、まあ”しゃあない”で済むわな。ご家族や、問題は。訴えるご家族、多いんやで近頃は」
「そうやろなあ。姉ちゃんとこ割と、ご家族が面会に来る利用者さん多いもんなあ」
「あんたんとこは天涯孤独の利用者さんばっかりやから。怪我してても、訴える家族おらんしな。ほんで、まあ……刑務所行く人もいるんや。もうな、施設もいっぱいいっぱいやしな。何べんもやる人はもうな……」
「そうか……」
「ほんでな、刑務所で募集してたんや。”火星で働きませんか、刑務所での清掃業務です。囚人は皆認知症で、凶悪犯相手では無いため安心です”って」
「安心って。結構痛いで、背中噛まれたりなあ」
「……渡航費用出るで。滞在中は食事付きの寮があるってよ。しかも福利厚生で。どや、ええ話やと思わんか」
「考えとくわ」
「今やで、決めるのは」
「何で」
「もうな、来月にはあんた家出るって、ケアマネに言ってもた」
「ああ?!」
「頼むわ」
「ああ??!」
そんなわけで、私は火星に行くことになりました。
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