第6話 病院に行こう
母の異変を目の当たりにし、私は呆然とした。
「絵美、そうめん食べるか」
そう言いながら母が、台所に立った。時刻は午前八時。私は、朝ご飯を食べていない事を思い出した。
「うん、お腹空いたわ」
そう言いながら、本当にお腹が空いてきた自分に、無性に腹が立った。そして、涙が出た。何してるんだろう、私。三十八歳、独身、彼氏無し、無職、デブスババア。私は姉に、携帯でメッセージを送った。「おかんがボケた」と。
姉は夕方現れた。いつも「汚いから」と、職場で着替えてくるんだけど、ワンピースが裏返しだ。
「姉ちゃん、タグが」
「ああ? ああ……」
姉はそう言うと、私の前で着替え始めた。思わず目を背けるが、間に合わなかった。背脂(せあぶら)。
「ぬっへほふやな」
「ほっとけ」
姉は台所へ行き、ビールを両手に掴んで食卓の前に胡坐をかいた。そして、何の躊躇(ちゅうちょ)もなくプシッと缶を開け、グビグビやり始める。そしてそのまま、二本目を開ける。私は、コロッケとアジフライを三個づつ丼ぶりに入れてレンジで温め、姉の目の前にドンと置いた。姉は何も言わず、コロッケに食らいつく。咀嚼(そしゃく)、嚥下(えんげ)、咀嚼、嚥下。几帳面なリズムに私は見入った。全てを飲み込み、ようやく姉は言葉を口にした。
「あのな、あかんわ」
私は、少しだけ腹が立った。私の分も残してほしかった。自然、口調もきつくなる。
「何が」
姉は、酔いのまわった顔色で、答える。
「おかん、職場に行ってしまう事以外は、まともやろ」
「そうかもしれん。この前帰ってこなかったのかって、やり残した仕事思い出して、職場にトイレ掃除しに行ってたって言うし」
「ほやから、あかんのや。職場に関係する事以外はまともやさけ、わてら、おかんの言う事疑わんかったやろ。まさか、クビになってたとはな」
「いつクビになったんやろ」
「ほやで、あのいなくなった日の後」
「最近やん」
「あのな、エミ。わて、あの日、おかんの職場の人から聞いてたんや、おかんの事」
「何て」
「耳が遠いって、そう言ってたわ。何か、他にも色々言われたんやけど、頭に入らんくて」
「……当事者にはキツいもんな、親がボケるとか。すぐには受け入れられんわ」
「面目ないわ、介護の仕事で、今まで散々利用者さんの家族を励ましてたけど。わて、情けなくて」
姉は、泣き始めた。私も泣いた。そして、テレビを見ていた母も泣いた。
「姉ちゃん、私これから家にいて、おかん見なあかんのやろか」
「あのな、まずは病院やで。脳のCT。委縮してる部位で、どのタイプの認知症か分かるから」
「認知症でないかもしれんしな」
「そうかもしれん。単に、職場をクビになったショックでおかしくなってるのかもしれんし。決めつけたらあかんもんな、うん」
「そうやで。決めつけて、事実に持っていくのはあかんわ」
「何にせよ、病院や」
「そうやな」
母が、悲しそうな顔で私たちの話を聞いている。何てことだろう、自分たちの動揺に夢中で、当人を前に、酷い話をしてしまった。
「おかん、健康診断行こうな。仕事、しばらくお休みやし。いい機会やで」
姉の提案に母は
「何やってか。わてが休んだら、救急の清掃大変やで。早朝出てるの、わてと木下さんだけやし」
「おかん、木下さん、任せとけってさ」
「ほやでって、あの人腰悪いやん。背中曲がってるし。八十やで、あの人。動くのメチャ遅いし」
「何か、彼氏できて若返ったらしいで、木下さん」
「嘘や、あの人男やし」
「……本当や。木下さん、物凄い嬉しそうやったわ」
「信じられん」
私は、酔った姉の嘘に頭が痛くなって、外に出た。「私は何ともない」と思っている親を病院に連れて行くのって、どうやったらいいんだろう。教科書にはこういうの、載ってたかなあ……ああ、そういえば講習休んじゃった。振替え講習出る頃には、長太さんたちはもういないんだろうな……さようなら、私の恋。どうなるんだろうなあ、私……
部屋に戻ると、姉は汗だくの体を揺らしながら、立ち上がった。足元が怪しい。姉の腕を支える。母は唐突に
「寿美子、揚げと竹の子たいたの、持ってくやろ」
そう言って、姉を見た。私と姉は、顔を見合わせた。多分姉妹は、同じ表情だったんだろう。
「あんたら、なに変な顔して」
母は驚いて、私たちの背中を撫でた。やばい、また泣きそうだ……
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