第3話 ブタやらウシやら

 気が付いたら寝てた。38年間使い続けてる、寝床が湿っぽい。そろそろ干さなきゃなあ。手を伸ばし、枕元のビールをすする。中途半端に冷たくて、胃液が逆流しそうになる。歯を磨こうと、起き上がるとそこに、姉がいた。


「あんた、女捨ててるな」


 姉は髪を乾かしていた。背脂(せあぶら)が黒いブラジャーのベルトに乗っかっている。三段ホックのしっかり構造で肉を寄せ上げてもなおはみ出る豊満さ。年季を感じる二の腕のセルライト。まったく、寝起きでこれを見ちゃ、旦那が浮気する気持ちも分かる。まあ、あの旦那もセイウチっぽいけど。


「姉ちゃん、また太ったな」


 姉が振り向く。風呂上がりで真っ赤だ。色白で、昔はモテていた姉の、残念な姿。今や、子供たちから「レッド・バッファロー」などと呼ばれている。


「お互い様やん、ブヒブヒ。っていうか、見た? ほずみっちーのテレビ。やばくない?」


 ヤバいのはあんたの脂身だよ、そう言おうとしてやめる。


「……寝てた。何、そんなに酷かったんけ」

「うん、ヤバいなんてもんでないわ。宇宙戦争やで」

「ああ? 刑務所作るって話がなんでそうなるんや。あれは嘘やったんか」

「ああ、そうで無くて。火星に移住した金持ち、ヤバいで。町ごと移住してるんやわ。でもって、町ごとに法律が違うからさ、刑務所の件で揉めて、各地で暴動起きてるらしいで」

「なんやそれ」

「だからさ、住民が暴れてるってさ。まったく、ほずみっちーの行くところ、平和は無いね」

「ふーん」

「興味無しか」

「だって、関係ないやん。火星がぶっ壊れようがどうなろうがさ」

「あんた、火星名物イカフライが食べられんようになるで」

「ああ、それは嫌やな」

「そうやろ。何でか知らんけど、イカだけは捕れるでな、火星は」

「地球では珍しくなったもんなあ、イカ」

「イカはうまいもんなあ」


 私たちはイカがいかにおいしいのか語り合った。そして私はなぜか姉の職場でアルバイトする約束をさせられ、明日から介護職員初任者研修を受けさせられることになってしまった。姉曰く「人が絶望的に足らん。研修は四日で終わる」のだそうだ。





「皆さんご存じの事と思いますが、介護現場の倫理の危機は、もはや一刻を争う問題となって久しいです。”福寿の苑(その)事件”は記憶に新しいと思いますが、ああいう風にならないためにも、皆さんには倫理を重点的に学んでいただきます」


 研修所の先生の最初の挨拶に、いまいちピンとこない。え、そう言えばニュースで騒がれてたなあ、密室殺人がどうたらこうたら。あれって、真相は解明されたんだっけ。そんな風に思いながら、ライフガードをがぶ飲みしたその時、斜め右後ろに座る男性と目が合った。真ん中分けの短髪がフワッと整えられた、ほぼ白髪の頭。意志の強そうな二重の、切れ長の目。どこか育ちの良さを感じる、グレーのスラックスにカーディガンという出で立ち。彼は、立ち上がった。おや、背が高いわね。


「あの事件は、誰にでも起こりうる事なのでしょうか。施設のマスターキーを使った、犯罪ですよね。介護職以前の問題だと思います。しかも、犯人が内部にいる事を疑わなかったために、随分と逮捕までに時間がかかった。僕はあれは、特殊な例だと思います。少なくとも、僕の祖母がいた施設はあそこまで施設の管理が酷くは無いです」


 なんとまあ。私は、思わず先生の方を見た。先生は、悲しそうな顔で


「谷岡 長太郎さん、あくまで特殊な例ではありますが、現場に入ってみないと、その施設がいいのか、悪いのか、分からないという面もありますからね。そういうお話も、沢山したいんですが……今、職員が足らな過ぎて、十分な研修も出来ない状態でね。心苦しいですよ、私は」


 それから、一コマ50分の授業を五回行ったのち、一日の講義は終了した。




「ねえ、ちょっと食べに行かない?」


 隣の席にいた准看護師のシングルマザー、秦(しん)さんが、皆を誘った。


(何か面倒)


 疲れ切った私は、断ろうと思ったのだけど、その時……


「ええ、お話しましょうよ」


 谷岡さんが乗ってきたじゃないのさ! 私は慌てて


「行きます!」


 と返事していた。何だか恥ずかしくて、帰りたくなったんだけど。


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