第三章「RE:江戸切子」

  歓楽街のネオンは、時に幻想的な一面を見せる。

色鮮やかな電飾まみれの看板は暗闇に浮かぶ魔法の光、行き交う男達を引き込む女達は艶やかな妖精達。

客を取り込もうとする下卑た髭面の男は、金に煩いドワーフだ。

半開きになった扉から聴こえる酔った女の歌声は、さしずめ嘆きのセイレーンといったところか。


とうの昔に眠りにつくはずの時間だと言うのに、この街は眠らない、いや、眠れないのだ。

眠り方を忘れた哀れな人間達が集う街だから。


光の輪郭に包まれた夜空に雑踏と喧騒が響く。

笑い、怒り、泣き、歌う……・

喜怒哀楽の人生がイルミネーションの闇に溶け合い、今宵もまた、それらが狂想曲となって俺の耳に飛び込んでくる。


「あっ!まーさん久しぶり、どうよ?いい子入ってるよ、たまには寄ってかない?」


一時間三千円とかかれた看板をヒラヒラさせ、俺の袖を掴んでくる男。

それをヒラリと交わし、


「ごめん、また今度ね」


手を縦にして軽く頭を下げる。


「まーさあん、たまにはうちにも顔だしてよ~」


突然俺の腕を掴み抱き寄せてくる女。

頬を僅かに膨らませこちらを見上げてくる。

彼女の頭をやんわりと撫で耳元に口を近付け囁く。


「また今度、二人っきりの時にね……」


頬を赤らめ硬直した彼女の隙きを見て、笑みを送ってその場を後にする。


それからも多種多様な馴染みの顔に声を掛けられながら、俺は一軒のBARに辿り着いた。


──足洗酒。


シルバーの彫刻プレートにはそう書かれている。

扉に目をやると視界の先に、くたびれたスーツを着た中年の男性が一人立っていた。

店に入るわけでもなく、ただぼーっと店の扉を見つめている。

男性を避けるようにして俺はドアノブを手にとって中へと入った。


店内にはフワリと心地のいい風が吹いていた。

空調が効いているのか、流れる涼し気な風が俺の体を優しく撫でてくれる。


ブルーライトで照らされた淡い店内に足を踏み入れると、蒼白い海を思わせる景色に目を奪われる。

立ち止まり一瞬だけ目を閉じると、まるで自分が水槽の熱帯魚にでもなった気分だった。


目を開き奥のカウンター席へと顔を向ける。

シンプルな装飾と、棚には店主こだわりの酒とグラスがずらりと並んでいた。


カウンター席では談笑している若い二組の女性の姿が見て取れる。


一人はこの店の仮店主兼バーテンダーの霧子ちゃんだ。


金髪のショートにスラリとしたボディライン。

男装の麗人とこの界隈でも有名で、彼女見たさに店に足を運ぶ客も少なくないと聞く。


もう一人は……見かけない顔だった。

一見して清楚で美人だが、その目にはなんとも言えない妖しい光が垣間見えた。


二人とも俺に気が付き、こちらに視線を投げかけてきた。


長い黒髪を肩で掻き上げる仕草をし、見慣れぬ女性が俺に向かって頭を下げる。


つられて俺も会釈で返した。


「まーさん、来てくれたんですね……」


少し安堵した顔で霧子ちゃんは言った。


「霧子ちゃんからのお願いだからね、断る理由なんてないさ」


応えると霧子ちゃんは微かな笑みを零しカウンターの席へと俺を招いてくれた。


慣れた手付きでグラスと酒を用意し、俺が何を注文するわけでなく飲み物を用意してくれる。


氷とグラスが触れ合う軽やかな音に耳を傾けつつ、出されたグラスを手に取ると、霧子ちゃんは何も言わずただどうぞと言うように軽く頷く。


まずは一口……。


口に含むと、甘酸っぱい酸味と程よい甘みが俺の鼻孔を突き抜けていった。

喉に染み渡るアルコールで心に僅かな火を灯すと、俺は軽く息をつき霧子ちゃんに向き直った。


「それで、相談っていうのは?」


霧子ちゃんにそう問いかけた時だった。


「あの……」


隣りにいた先程の女性が俺の顔を覗き込むようにして呟いた。


「はい?」


思わず返事を返すと慌てて霧子ちゃんが女性に手を飾して見せた。


「あ、ごめんなさいまーさん紹介が遅れて……この子は私の大学時代の親友で千鶴って言います」


「千鶴といいます……」


霧子ちゃんに促されるようにして千鶴と名乗った女性は再び俺に頭を下げてきた。


「千鶴さんね……俺は、」


俺も再度彼女に頭を下げ自分の名を名乗る。


すると、千鶴さんは品定めでもするかのように俺をまじまじと見回し口を開いた。


「単刀直入に聞きます。貴方はこれに見覚えがありますか?」


千鶴さんは言いながらテーブルに置いてあった週刊木製ロマンチカと書かれた雑誌を手にし、俺の目の前に掲げてみせた。


そこには、


──財務省、漣(さざなみ)政務官、事故死。


見開きに大きな文字でそう書かれており、その横には見覚えのある男の顔写真が載っていた。


間違いない、先程、店の前で扉をぼーっと眺めていたスーツ姿のあの男だ。


「見たよ、そこで……」


俺は振り向かず、親指だけで店の扉を指し示した。


「なるほど理解しました、貴方には見えるんですね……霧子の……お父さんの姿が……」


それを聞いた瞬間ハッとして、俺は霧子ちゃんの顔を見上げた。


カウンター越しに彼女の顔が明らかに曇ってゆくのが分かる。

窓から覗く叢雲が、霧子ちゃんの顔に更に陰りを落としていた。


「お父さん……霧子ちゃんの?」


俺の問いかけに、霧子ちゃんはただ黙って頷いて見せた。


財務省政務官、漣 裕二。


かつて大蔵省汚職事件に絡んでいたと噂された事もある大物官僚だ。


大蔵省解体後、財務省の政務官としてやっていたらしいが、何かと世間を騒がす黒い噂が絶えない人物だと、俺は聞いた事がある。


その漣 裕二が死んだ。

つまり霧子ちゃんは父親を……。


何と声を掛ければ良いべきか、そう思案していると、霧子ちゃんはそれを見透かしたように首を横に振って見せた。


「それより……まーさんに聞いて欲しいことが……」


そう言って霧子ちゃんは俺の隣に座る、千鶴さんの顔を確認する様に見つめた。

それに応える様にして、千鶴さんはこくりと小さく頷いて見せる。


「一週間前の……話です……」


霧子ちゃんがポツリポツリと話し始める。

俺はグラスを傾け一口呑み込むと、霧子ちゃんの話に耳を傾けた。


霧子ちゃんの話してくれた内容はこうだ。


一週間前、父親が亡くなったのを家族から聞かされたらしい。

それと同時に自分の周囲で異変が起こり始めたとの事。

行く先々で誰かに見られている様な気配を感じ、一人で暗がりにいる時ほど、その影は濃厚差を増し、最近では常に誰かの視線を感じる時があるという。


そしてそういった事情に詳しい友人である千鶴さんにこの話を打ち明けた所、来店した千鶴さんが、店の前に立つ先程の男、漣 裕二の姿を目にしたという。

もしかした何か関係があるのかと、父親の写真が載ってある週刊誌を千鶴さんに見せたところ、本人であると確認が取れたらしい。


「こんな事、唐突に聞くのも失礼ですが、霧子から事情は聞きました……貴方には死者の心を理解してあげられる力があるとか……」


千鶴さんが俺に向き直り言った。


横目で彼女を見やり、俺は首を横に振る。


「理解何てしてやれないさ……俺に出来る事はただ一つだけ……」


「一つだけ……?」


千鶴さんが俺の言葉をなぞる様にして聞き返す。


「一緒に酒を呑んでやる事だけだよ……」


「一緒にですか?」


俺は黙って頷くと、先程から不安げな顔を見せる霧子ちゃんの顔を覗き込み言った。


「それでもいいかい、霧子ちゃん?」


そう聞くと霧子ちゃんは意を決した様にして頷き返してきた。


「分かった……」


その一言を聞くなり、霧子ちゃんは店の扉へと向かった。

乾いた靴音がフロア内に響く。


彼女は扉の前に立つと僅かに震える手でドアノブを握り、ゆっくりと開いた。


──ガチャッ


街の喧騒と生温かな夜風に、歪な何かが混ざるようにして店内へと吹き込んでくるのを、俺は自分の肌を通して感じていた。


暗く重く、陰鬱とさせる空気の塊が、俺の横の空いた席に留まるようにして形どっていく。


やがて空気の塊は僅かな影の輪郭を帯び始め、人の形を見せ、次第にその姿を現していく。


それは先程、俺が店内へと入る前に会った男の姿、漣 裕二だった。

ゆっくりと席に腰を掛け、項垂れるようにして頭をもたげている。

背中を曲げているせいか、やけにその姿が小さく見える。

その様子を見守る俺を、慣れたとはいえ、不安そうな面持ちで霧子ちゃんが見ていた。

彼女には漣 裕二の姿は見えていない。

いや、普通の人にはまず見えないだろう。

今この店内で見えているのは俺と、恐らく隣にいる霧子ちゃんの友人、千鶴さんだけだ。


徐に胸ポケットから煙草を取り出すと、口にくわえ火をつける。

ゆっくりと肺に煙を流し込み、ため息と共に煙を吐く。

煙はゆらゆらと立ち昇り、天井のシーリングファンに吸い込まれ消えてゆく。

その光景を暫く眺めていた時だった。


──君は、私の話を聞いてくれるのか……?


頭の中に反響するかのように響く男の声。


俺は頷くと、煙草を灰皿で揉み消し、


「ああ……話してみなよ……」


と、独り言のように呟いた。


霧子ちゃんがびくりと小さく肩をふるわせる。


同時に、青白く生気のない肌をした漣 裕二が、僅かに顔を上げ、ボソボソと消えりいりそうな声で、哀れな自分の末路を、俺だけにひっそりと語り出した。


先程の反響する様な声が、またしても俺の頭の中に響く。


全ては人のため、そして国のためだった。

やがてそれが家族のためにもなると、そう信じて国の為に働いた。


努力を積み重ねれば、いつか誰かが見てくれる、認めてくれるのだと信じて、ただひたすらに真っ直ぐに生きた。

だが、そんな愚直な私の心は、長くは続かなかった。


信じていた人に騙され、罵られ、煙たがられ、自分の信じた道の筈が、やがては人を蹴落とすだけの欺瞞に満ちた獣道へと変わっていった。


蹴落とす度に認めて貰えた。

誰も耳を貸さなかった自分の話に、人は耳を傾け、自分の言葉に誰もが従い始めた。


 どうすれば認めてもらえるか、どうすれば自分という存在を知らしめることができるのか、どんな道を辿ろうとも、結果を出さなければ何も証明できない。

過程ではない。

結果が全てなのだとその時確信した。

どんな手段を取ろうとも、結果さえそこにあれば、全ての事は上手く収まるのだ。


やがて娘が生まれた。

娘だけには、己の過去と同じ過ちを味合わせたくなかった。


その為には教えてやらねばならない、この世は結果だけが全てだと。


その過程には何の価値もないと、強く、強く言い聞かせねば……。


やがて娘は高校を卒業し、大学へと進学した。

順調にも見えた日常、そんなある日の事だった。


娘は……私から逃げるようにして家を出ていった。


娘の部屋に残された書置きの手紙には、

短くこう書かれていた……。


(私は貴方のようにはならない……私が私である為に、誰にも邪魔はさせない……さようなら)


なぜ……なぜ分かろうとしないのか。

私の言う通りにさえしていれば、何の心配もない、不安も恐れもない、全てが上手くいくはずなのに……。

どうしてそれが理解できないのか。


何度も連れ戻そうとした。

だが娘は私の手をすり抜けるようにして幾度も姿を消した。

追いかければ追いかけるほど、私と娘の距離は開き、深海の暗闇のように先が見えなくなっていった。


数年が立った。

あれだけ身を費やしてきた仕事にも、なぜか身が入らなくなっていた。

それどころか、日増しに娘への想いは強くなり、なぜこうなってしまったのか、その後悔の繰り返しの日々が続くようになった。


ある日、雇った探偵から娘がバーテンダーの仕事をしていると耳にした。

娘の話を聞くと、娘はとても幸せそうに、そしてとても可愛らしい笑顔で、仲間たちに囲まれグラスを磨いていたと、その時の写真を添えて探偵に聞かされた。


まだ幼かった娘が、無邪気なまま私に見せてくれた唯一の満面の笑顔、それが写真の中にあった。


娘が笑顔で暮らせる幸せな未来、私が用意してやるはずだった世界が、その写真の中に、確かに存在していた。


そう、それは娘が自分一人で掴んだ結果だった。


もう……私は気が付いていた。

自分の考えが間違っていた事。

他人を蹴落とし、自分だけが良ければそれでいいなんて言う虫のいい話は、この世には存在しないのだと。

そのせいで、私は大事なものを……娘を失ったのだと。


来る日も来る日も、私は写真の中の娘を眺め続けた。

この笑顔にたどり着くまでに、娘は一体どんな気持ちで、どうやってここまで過ごしたのか……知りたい、私の知らなかった娘の歩んだ人生を。


結果が全てだとあれだけ訴えていた私が、そこに辿り着くまでの過程を、知りたいと願ったのだ。


グラスを買った……江戸切子。

娘が昔、家で大事にしていたグラスの柄によく似ていた。

和物できめ細かい硝子細工のグラス。

黒と赤のセットのグラスを選び、プレゼント用紙に包んでもらった。

その光景を眺めながら、あいつには赤が似合うだろうなどと、年甲斐もなく想像し、私は一人心を躍らせていた。


店に行ってみよう……そしてこれを届けるのだ。


全てを打ち明け、頭を下げてでも話をしてみよう。

そうすればあの笑顔を、私にも向けてくれるかもしれない。

二人で、このグラスで……乾杯でもしながら。


そこまで聞いて、俺はその全てを霧子ちゃんに打ち明けた。


店内の四隅にあるスピーカーから、メロディックなピアノの音が微かに流れる。

物悲しく響く音色が、店内でやけに大きく聴こえた。


霧子ちゃんは何も応えない。


それどころか唇を噛み締め、ただただ俯いている。


「グラス……ここにあるよ?」


そう言って、いつの間にか膝の上に載せられていた二つの木箱を俺は両手で掴んで見せた。


亡き、漣 裕二が娘に届けたかった代物。


江戸切子。

指定伝統工芸品にも認定されている、切子加工されている硝子製品だ。

古くから日本人は、光と影、こと自然光の扱いに長けていた。

この江戸切子は、そういった古くから伝わる技術の結晶が詰まった、言わば至極の一品と言える。


「お父さん、良い趣味してるな」


「お父さんだなんて、あんな人……父なんかじゃありません」


「あんな人……か」


驚かなかった。

悲しいくらい予想通りの言葉だったからだ。


長い沈黙から出た彼女の答えに、漣 裕二は無言のままだった。


娘の笑顔が見たい、その気持ちは痛いほど分かる。


けれど漣 裕二は……彼は遅すぎたのだ。


全てにおいて、遅すぎた。


「本当にいいのかい……?」


「だって……まーさんだって知ってるでしょ……私がここまで来るのにどれだけ苦労したか……あの時まーさんが助けてくれなかったら私は……」


「ああ……知ってるよ……」


苦しそうに顔を歪める霧子ちゃんに、俺は落ち着かせるようにして頷いた。


彼女がこの街に来た時の事を、俺はよく覚えている。


とある飲み屋で、家出娘だと聞かされ紹介されたのが霧子ちゃんだった。

慣れない水商売に歳まで誤魔化し悪戦苦闘しているのが、見ていて直ぐに分かった。


美人だが気が強く笑えば可愛いのに、不器用なせいか愛想笑いも出来ない、そんな彼女に客も寄り付かず、やがて店も直ぐクビになり、もはや彼女がこの街で一人で生きて行くには、自分の体を売る事しかないぐらいに、彼女は追い込まれていた。


ある日、着の身着のまま雨の中、傘もささず泣いていたそんな彼女を、俺は見つけた。

訳を聞くと、初めて客を取らされたものの、結局ホテルから逃げ出し、店にも帰れず途方に暮れていたらしい。


仕方なく、俺は一時的に彼女の面倒を見てやる事に決めた。


しばらくし落ち着いた頃に、俺はこの店のオーナーを、彼女に紹介してやった。


水商売よりもこっちの方が肌に合っていたのか、彼女はメキメキと腕を上げ、今では店まで任される程に成長した。


休学していた大学にも通い始め、自立した生活を送れるようになったのは、つい数年前の事。


右も左も分からない若い女の子が一人、この街で生きていくのがどれだけ大変か、それはこの街に長年住む俺からすれば痛いほど良くわかる。


だからこそ、彼女の選んだ答えは最もなのだ。


俺はグラスを手に取ると、押し黙ったままの漣 裕二に向き直り口を開いた。


「交通事故……こんなことなら……と思うだろうが、死ぬ日がわかってたら、あんたは家族とうまくやれてたかい? 人生日々後の祭、だから昨日より今日なんだ、残念だが……諦めな……」


そう言ってから、グラスに残った酒を一気に呷った。


空のグラスをテーブルに置き、再び煙草を取り出すと、俺はそれに火を付けた。


「ふぅ……」


鼻を突く嫌な匂いと、口の中がざらつくような感触。

こういった時の煙草は不味いと相場が決まっている。

だが吸わずにはいられない。


そんなやるせなさが、俺の心に小さな棘となって突き刺さる。


「あの……まーさん、ち……いえ、あの人は?」


首を横に振る。


「もう、居ないよ……未練タラタラだったけどね」


そう言うと、霧子ちゃんは何処か物悲しげな影を落とした顔で、微かに笑って見せた。


「そ、そうですか……諦めてくれたなら……それで……」


心にもない言葉だと、それは直ぐに分かる。

彼女もまた後悔しているのだ。

ただ逃げるのではなく、彼女もまたいつか父親と向き合わなければと思っていたに違いない。

彼女はそういう子なのだ。


だが、その機会はもう……。


「何か腹減ったな……」


「えっ?」


「そうだ、霧子ちゃん何か作ってよ、そうだなあ、鉄火巻とか!」


「な、何ですか急に?」


空気も読まない俺の突然の注文に、霧子ちゃんは驚き戸惑っている。

釣られて先程から傍観していた千鶴さんも、


「ちょっと貴方、いくらなんでも今は、」


問い詰めてくる千鶴さんを両手でなだめ、


「まあまあ、ねっ千鶴さんも一緒に食べようよ、ていうか皆で、鉄火巻、ね!」


半ば強引に言ってから、俺はその場を笑って誤魔化す。


二人の美女が、俺を挟んで深い溜息を吐いた。


「もう……仕方ありませんね……少し待っててください」


やれやれと素振りを見せながらも、堪えていたのであろう、霧子ちゃんは目元を一瞬拭う仕草をしながら、いそいそと厨房へと入っていった。


「どうしてあんな嘘なんか……一体何を考えて、」


「いいから、ここは俺に任せて貰えないか?」


千鶴さんの言葉を遮るようにして言うと、俺は煙草を口元に運んだ。


一旦躊躇しながらも、理解してくれたのか、千鶴さんはそれ以上は何も言わなかった。


しばらくし、厨房から再び霧子ちゃんが姿を現した。

手には綺麗に添えられた鉄火巻の皿と醤油。


それらをカウンターに並べ終えると、霧子ちゃんは


「お待たせしました、鉄火巻になります、どうぞ……」


と、何時もの営業スタイルで言ってのけた。

彼女なりの強がりなのか、それもまた彼女らしい。


「美味そう!そうだ、せっかくだからこれで冷酒でも貰おうかな」


そう言ってから俺は、先程、漣 裕二から受け取った江戸切子の入った木箱をテーブルに置いた。


「それは……」


霧子ちゃんが躊躇うようにして口を開く、が、俺はお構い無しに箱からグラスを取り出した。


「霧子ちゃんお酒取って、ああそこのほら、安酒でいいや」


そう言って棚の隅に置いてあった酒瓶を指さして見せた。


「まーさん、そう言うのは店のツケ代払ってから言ってください」


「あ……はい……」


後ろ手に頭を掻きつつ、江戸切子のグラスに氷と酒を注いでもらう。

ロックグラスに注がれた酒は、精巧なガラス細工の模様と店内の明かりと相まって、万華鏡を思わせる神秘的な色を見せてくれた。


「綺麗だね……霧子ちゃんもどうぞ」


そう言って強引に霧子ちゃんから酒を奪い取ると、俺はもう一つの赤のグラスに、同じように氷と酒を注いだ。


「ちょっと、まーさん私まだ仕事が、」


「貸切だからいいじゃない、堅いこと言わないで、ほら、乾杯!」


そう言ってグラスを霧子ちゃんに向かって突き出す。


「もう……強引なんですから……分かりました、」


観念したのか、霧子ちゃんは俺に渡されたグラスを片手に持ちながら軽くため息をついた。


グラスとグラスが重なり合い、カチン、と心地良い音が鳴る。


少し落ち着いたのか、霧子ちゃんの顔に本来の笑顔が戻りつつある。


互いにクスリと笑みを零し、酒を口に流し込む。


グラスを置き、鉄火巻に箸を伸ばした。


摘んで醤油に潜らせる。


「醤油……結構つけるんだな……」


「えっ?」


突然、他人事の様な俺の声に、違和感を察した霧子ちゃんの口から、小さな声が漏れた。


鉄火巻を噛み締め、冷酒を喉に流し込む。

安酒だがこれがいい。


一連の流れを、霧子ちゃんの目が追いかけて来る。


「まーさん、一体何を……鉄火巻って……あっ……!?」


何かに気が付くようにして、霧子ちゃんの目

が大きく見開く。


「まさか……」


そう言って霧子ちゃんは俺と千鶴さんを交互に見回した。


千鶴さんがそれに対しゆっくりと大きく頷いてみせる。


「あの人が大好物だった……それに醤油をたっぷりつける癖も……」


ああ……霧子ちゃん、あんたの事ちゃんと覚えてるよ、あんたの大好物も、癖も……良かったな、夢が叶って。


俺は肩の力を抜き、ゆっくりと息を吐いた。


自分の体が液体化していくような感覚。

更にその感覚を触手の様に這わせ、やがて歪な何かに纒わり付く。

意識が混濁していくのが分かる。


俺には昔から特異な力がある。

死者……そう呼べる者からの声を拾い、会話することができた。

そして、そいつらが何を望み欲っしているのかを、俺には聞き届ける事ができる。


そうやって最後にはこうして、俺の体をわずかの間だが貸してやるのだ……。


「すまない……彼がこうしろと、いや、こうしてでも私がお前と話したかったんだ、彼のせいにしちゃいかんな……すまない霧子……本当に……本当にすまない……」


「何を今……さら……私がどれだけ大変だったか、どれだけ苦労したか……!」


「そうだな……本当にそうだ……肝心な時に、私は側にいてやれなかった……だけど……」


「だけど……何よ……?」


「お前は、自分で幸せを掴んだんだな……良かった、本当に……本当に良く頑張ったな、安心したよ……」


「あっ……」


「こんなにもいい人達に巡り会えたんだな……お前は一人なんかじゃなかった……一人なのは、私の方だった……」


「わ、私は……私は許してなんか……許してなんかないんだ……から」


「ああ分かってる、それでいい……それでいいよ霧子。私は最低の父親だ……後悔してもしきれない、本当に最低な父親だ……なのに、なのにいいのかな……?」


「何が……よ?」


上擦るような声、聞き返す霧子ちゃんの頬には、大粒の涙が溢れ伝っている。


「最後に、こんな幸せを……お前とこうして……」


「何勝手な事……勝手な事を言わないでよ……お父……さん」


そう言って霧子ちゃんは泣きはらした顔を上げると、今は俺の中にいる漣 裕二に、満面の笑みを零した。


「ああ……その笑顔が見たかっ……た……」


身体中の力が抜けていく。

地に足が付かず、このまま空へと舞い上がりそうな気分だ。


目を瞑り、混濁する意識を引き剥がすようにイメージする。

光に吸い込まれてゆくような感覚。


次の瞬間、俺は自分の身体との感覚を取り戻していた。


瞼を開き、視界が開くのを確認しながら息を整え顔を上げると、が、そこにいたはずの霧子ちゃんの姿がない。


「霧子ちゃん?」


当たりを見回し言いかけた時だった。


──ドンッ!


「えっ?」


突然横から抱き着かれ、俺の体はフロアの床に押しつぶされるようにして倒れ込んだ。


「痛っ!って、き、霧子ちゃん……!?」


俺を押し倒したのは霧子ちゃんだった。

俺の問いかけに彼女は何もこたえない。

ただ黙ったまま、すがりつくようにして俺に抱きついたままだ。


「全く……」


声の方に振り向くと、千鶴さんが呆れた顔でこちらを見下ろしていた。


「霧子の事、頼みましたよ……」


そう言って千鶴さんは店の出入口へと歩き出した。


「あいや、ちょっ千鶴さ、」


呼び止めようと上げた手を、絡められた霧子ちゃんの腕で押さえ付けられた。


──バタン。


扉が締まり、店内には俺と霧子ちゃんだけが取り残された。


窓から叢雲に隠れていた月明かりが差し、フロア内を優しい光で包み込んでいる。


「騙しましたね……」


「うっ……いや、ほらこうでもしないとその……」


そう……俺は漣 裕二、霧子ちゃんの父親と一芝居打ったのだ。

もちろん千鶴さんには気が付かれていたが、彼女は俺を信じ最後まで見守ってくれた。


「父は……父は最低の人でした。世間体ばかり気にして、自分の考えだけを他人に押付け、相手の気持ちを理解しようともしない……そんな父が大嫌いでした……」


俺の胸に顔を沈めながら、霧子ちゃんは言った。

彼女の肩が僅かに震えているのが分かる。

その肩にそっと手を置いて、俺はやんわりと霧子ちゃんを抱きしめた。


「あれだけ長年憎み続けたのに……どうしてなんでしょうね……心から嫌いになれないのは……いっそ心底憎めたら……こんなにも辛い事なんて……」


「仕方ないさ……それが親子の縁ってやつだ。切っても切れない……呪縛のようなもんだ。けれど、人はそれを違う形に変える事ができるんだ」


「違う……形、ですか?」


霧子ちゃんがそっと顔を上げ俺に聞いてきた。


俺はやんわりと、そして深く頷いて見せてから言った。


「絆……って言葉にね」


肩に置いた手を、短く整えられた彼女の頭にそっと添えるようにして、俺はゆっくりと撫でて見せた。


「そうです……ね」


──プルルルルル


不意に無機質な断続音が、俺の胸ポケットから響いた。

携帯の着信。

手に取り電話口に出ると、


『おっ?まー坊か?俺だ俺だ、がははははっ』


「がははじゃないよ、その声は高田警部……?」


『いや、実は飲み屋で古い馴染みに会ってな、今からまた飲み直そうって話になってよ、あっ霧子ちゃんいるか?ちょっと変わってくれ!』


「あのね高田警部、今こっちは取り込み、」


と言いかけた瞬間、ひょい、と携帯を霧子ちゃんに奪われてしまった。


「あっ」


「本日お店は貸切となっておりますので、またのご来店をお待ちしております、では」


『えっ?ちょ、ちょっと霧子ちゃん?』


──プツ


通話は霧子ちゃんの手によって切られた。


「ええと……いいのかい?」


そう聞くと、まだ俺の上に馬乗りになっていた霧子ちゃんは、再び顔を俺の胸に押沈めてこう言った。


「ええ……今夜は……私がまーさんを貸切りにするんです……」


彼女の吐息を胸に感じ、胸の鼓動が否が応でも早まっていく。


俺はそれを誤魔化すようにして、悟られまいと彼女を再び強く、抱きしめた……。













  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

足洗酒RE: コオリノ @koorino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ