第二章「RE:Weiß wein schorle(ヴァイス ヴァイン ショルレ)」

 激しくも悲しい旋律、狂ったような弦楽四重奏、しかしその音の一つ一つには、確かな魂のようなものを感じる。


天井のスピーカーから流れる音に耳を傾けつつ、手に持ったグラスも一緒に傾ける。


ビターな香りと味わいが、俺の乾いた喉を潤していく。


薄明かりの店内に、客は俺と、もう一人隣に座る三十代後半の、大柄な男。


緊密な夜の空気を漂わせているせいか、グラスを磨いている馴染みのバーテンダーの霧子ちゃんは、どこか緊張した面持ちだ。


「霧子ちゃん、俺にも一杯くれ」


男は片手を上げそう言った。


「仕事中では……?」


「こいつ絡みの仕事じゃ、呑まなきゃやってらんねえよ。マッカラン、ロックで」


「ふぅ……かしこまりました」


慣れた手付きで霧子ちゃんはグラスを用意し始める。


隣に座る無骨な男が胸ポケットを弄(まさぐ)るのを見て、俺は無言でジッポを差し出した。


「あん?」


男がしかめっ面で俺を睨んでくる。


「気持ち悪い事するんじゃねえ」


「隣で湿気ったマッチを何度も擦られる身にもなってよ、高田警部……」


「ちっ」


高田警部……この若さで捜査第一課の課長まで昇り詰めた、敏腕刑事(デカ)だ。


一度追い始めたらとことん相手を追い詰める、この界隈では狂犬高田とも呼ばれ恐れられている。


無骨で粗暴な男だが、今時義理人情で動く古臭い刑事(デカ)でもあり、そんな人間味あるこの男の事を、俺は気にいっている。


高田は観念したのか、ジッポの火に煙草を潜らせた。

眉間にシワを寄せ思いっきり煙草を吸い込むと、大きなため息と共に煙を吐いた。


「どうぞ」


そう言ってカウンターから差し出されたグラスを手に取り、高田はソレを一気に口に流し込む。


空になったグラスをテーブルに置き、高田は懐から紙袋を取り出し、それも同じようにテーブルに置いた。


「もっと味わって呑みなよ」


「けっ……酔えりゃいいんだ、味も何もしったことか」


ぶっきらぼうに返事を返してきたが、彼がイライラして口から出た言葉だと、俺も霧子ちゃんも理解している。


「苛つく音だ」


「シューベルトだよ、死と乙女」


「しゅー?ああそんな事はどうでもいい、準備はできてんのか?」


「来ましたよ……」


高田の言葉に繋ぐようにして、霧子ちゃんが入口の方を見て言った。


「まじか……毎回の事だが俺にはさっぱりだ」


そう言って高田は席を立ち、ごつい手を俺の肩に乗せ言った。


「頼むぞ……時間がねえ……」


高田は入り口に向き直りそのまま店内から出ていった。


そして入れ替わるようにして、扉から一人の若い女がこちらに向かって歩いてくる。


俺は何も言わず、今しがた空いたばかりの椅子に手を添え、どうぞ、と彼女に合図してみせた。


僅かに小首を傾げ、その子は椅子に腰掛ける。


曲がかわり、さっきとは打って変わって気怠いジャズピアノが店内に流れた。


部屋の四隅にあるブルーライトが、店内を、淡い水底にいるように彩っている。


まるで店の中がアクアリウムにでもなった様だ。

心地よい倦怠感(けんたいかん)に身を任せていると、隣の彼女もまた微睡むような顔で、ぼうっと宙を見つめていた。


「教えて……くれるかな?」


ぼそりと、俺は彼女を見て言った。


俺の声に視線を戻し、無言のまま頷く。そして今度は俺に向き直ると、彼女は必死に訴えるような目で口を開いた。


年は三十と聞いていたが、見た目よりも彼女は若く見えた。


化粧っ気は見られないが、もっと華やかな職業に就いていてもおかしくない顔立ちをしている。


高田さんが言うには、彼女は清掃業をしていたとか……。


うだつの上がらない役者志望の彼氏を追いかけ、彼女もまた、この街に飲み込まれた被害者だった。


彼を愛していた。誰よりも……だからこそ貧乏な暮らしにも耐え、彼を支え続けた。


決して贅沢するわけでなく、年頃の女の子がするような、お洒落や遊びにも無縁な暮らし。


それでも彼女は幸せだったのだ。彼との生活が、彼女の全てだったから。


だが、そんな幸せな日々に、影が落ちた。


彼を支えてあげたい、その一心で、彼女は夜の仕事を始めた。


昼は清掃業、夜は男たちと慣れない酒を交わす毎日。


大変だったろうが、それでも彼女にしてみれば、そんな苦労でさえ、彼のためと思えば幸せだったのだ。


そんなある日、店の常連客とのアフターの最中に、偶然にも彼と出くわしてしまった。


急いで彼が待つ家に戻り、誤解を解こうとした矢先、彼女は彼が手にした……いや、今さっき高田が置いていった紙袋、その中に閉まってある包丁によって、儚い命を散らしたのだった。


彼女が彼を思っていたように彼もまた、彼女を心から愛していたのだ。


だが、彼女を一向に楽させてやれない、負担を掛けさせ続ける事に、彼もまた苦しんでいた。


そしてそんな鬱蒼とした思いは、ほんのしたボタンの掛け違いにより、悲劇を生んでしまったのだ。


「何か……呑みたいものはあるかい……?」


全てを打ち明けてくれた彼女は、大きな瞳から溢れんばかりの涙を流しながら、こくりと頷いた。


彼女からのリクエストを聞いて、俺は少しくすりとしながら、グラスを磨いていた霧子ちゃんに注文をお願いした。


すると霧子ちゃんは、


「えっ?」


と、少し戸惑い思案したような顔を見せると、


「かしこまりました……」


そう告げて、店のキッチンへと入っていった。


涙を拭い心配そうな顔を見せる彼女に、


「大丈夫」


そう言って微笑むと、少し落ち着きを取り戻したのか、彼女は俺に軽くはにかんで見せた。


灰皿を手元に寄せ、俺は火を灯した煙草を指に挟み、それをゆっくりと口に運ぶ。

煙草の匂いが微かに香のように立ち込める。


ふうっと吐いた紫煙が、天井のファンに、一筋の糸のように吸い込まれていった。


その瞬間だった。俺の体を、突如奇妙な感覚が襲った。


地に足がつかないような、ふんわりと宙に浮きそうな気分だ。


かと思いきや、今度は遥か上空から突き落とされるような、無重力状態に陥る。


幾度となく繰り返し体験してきた感覚だが、未だにこれだけは苦手だ。


俺には昔から特異な力がある。


死者……そう呼べる者の声を聞き届けることができるのだ。


そして、そいつが今欲しているものを得るために、俺の体を、ほんの少しだけ貸してやる事ができる。


そう、それが今この時だ……。


やがて落ち着きを取り戻した俺、いや、正確には彼女が、顔を上げた。


「お待たせ致しました。白ワインの水割り、ヴァイス ヴァインショルレと……粉吹き芋のバターソテー……です」


クリスタル製のワイングラスと、香ばしい匂いの粉吹き芋が、俺の目の前に並べられた。


バターの効いた粉吹き芋を頬張り、追いかけるようにして水割りを呷る。


バターの香味と、ほくほくとしたじゃがいもの旨味が、口の中に合わさり広がってゆく。

後味に残る塩のアクセントを、白ワインのフルーティーな酸味がリッセトしてくれる。


美味い、このまま幾つでも食べられそうだ。


もう一口、じゃが芋を噛みしめる度に、脳裏を過る風景。


刺し傷の程度で言えば助かる余地はあった。

だが、彼女は選んだのだ。彼の手の中で、永遠の眠りにつくことを……。


故郷の方へ踏み出し、街に落ちる。


思うに人生に用意された意味はない。


だからこそ、惚れた男の手で幕を引いた君を、俺は肯定する。


刺された瞬間も、彼に優しく微笑んだ君を……。


「この味、」


「えっ?」


俺の、いや、俺の口から出た彼女の声に、霧子ちゃんは短く返事を返す。


「大好きだったな」


「そうですか……お口に合って……良かったです……」


霧子ちゃんはそう言って、俺の中にいる彼女に、やんわりと頭を下げた。


「はぁ……」


火照った溜め息に乗り、彼女は彼方へと消えていった。


「ふぅ……霧子ちゃん?」


声を掛けると、彼女は何も言わず用意していたスマホで電話を掛けた。


やがて、


「高田警部、どうぞ中へ……」


電話口で言ったと同時に、店の扉が乱暴に開け放たれた。


「まー坊!何か分かったか!?」


「まー坊はやめてよ……」


「うっせえ!!で、どうなんだ!?」


がっくりと肩を落とし反論するがこの様子じゃ無駄だ。


俺は諦めて高田に彼女から聞いた事を話した。


「川沿いの、あの廃ホテルか?」


「うん、彼は死ぬつもりだ。彼女を追って……止めてくれよな、高田警部……」


「あったりめえだ!桜の代紋なめんじゃねえぞ!」


生き生きとした顔で高田はテーブルの紙袋を懐にしまい、代わりに茶封筒を取り出してきた。


それを見て俺は、片手をヒラヒラとさせ首を横に振った。


「報酬は貰ったよ」


言ってからテーブルに置かれた粉吹き芋をちらりと見やる。


「相変わらず損な奴だ……今度一杯おごらせろ」


そう言い残し、高田はコートを翻し店を出ていった。


「それで、今日の私の取り分は……?」


「あっ……」


そう、彼女には、いつもここの場所代として、報酬の半分を渡す手筈になっていた。


「え、ええと……き、霧子様?」


機嫌を伺うように彼女の顔を見上げると、霧子ちゃんはカウンター越しに粉吹き芋を手に取り、口に頬張った。


すると、


「なるほど……確かに、こんなに美味しい物を頂いては、報酬なんて貰えませんね……」


そう言って滅多に見せない笑顔で、俺に笑ってみせた。




未練ってやつは自分じゃどうにもならんもんだ。


だから一晩、この体を貸して一緒に呑んでやる。そうすりゃ大抵どうでも良くなっちまうらしい。


見返り?


俺は肴にそいつの人生が聞ければ、それで十分さ。


店内に、心地よいジャズピアノと、軽やかなグラスの触れ合う音が、鳴り響いた……。

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