足洗酒RE:
コオリノ
第一章「RE:Bow more」
薄暗い店内に、漣(さざなみ)のようなピアノのメロディが押し寄せる。
寄せては返す心地よいサウンドに身を任せていると、酒など呑まなくても酔った気になれるのは、俺だけだろうか。
気怠いジャズに合わせるようにして、バーテンダーが振るシェーカーが小刻みな音を立てる。
つられて爪先と肩でリズムを刻んでしまう。まるでセッションを聴いているようだ。
聴き耳を立てていると、カウンターのバーテンダーがこちらにチラリと目を向けた。
白いシャツに黒のベスト。鋭角な襟に似て切れ長の鋭い目つき。
金髪のショートカットが良く似合っている。
端麗な顔立ちの美男子、と言いたい所だが彼ではなく、彼女だ。
ツンとした表情もそそられるが、手でもだそうものなら、手元にあるアイスピックで一突き……。
「何か?」
俺の邪念に気が付いたのか、彼女は蔑むような目で俺を威嚇してきた。
「あ、いや、はは」
乾いた笑みでこたえて、俺は指先に挟んだ煙草を口に運ぶ。
軽く吹き出した煙が、白い霧の様に天井へ立ち昇り消えてゆく。
しばらくそれを眺めていると、
「来ましたよ……」
カウンターからそう聞こえた瞬間、俺の首筋にピリッとした静電気のようなものが走った。
振り向くとそこには、きらびやかな青いドレスを身に纏った女性が一人、立っていた。
ゴールドのネックレスにシルバーのイヤリング、鮮やかな青と美しいボディライン。
化粧は濃いめだが決して嫌味ではなく、夜の蝶を思わせるその風貌は、彼女が決してその辺のコールガールではないと、一目見て分かる。
ドレスの裾をヒラヒラとさせながら、彼女は迷う事なく空いていた俺の隣の席に、ゆるりと腰を掛けた。
灰皿の上で煙草を、トントンと軽く叩き
「今晩は」
と挨拶すると、女性はくすり、と微笑み会釈を返してきた。
そしてついと、店内を見回し目を細めたかと思うと、やんわりとした笑みを零す。
どうやらこの店が気に入ってくれたようだ。
彼女がリラックスできたのを見計らい、俺は口を開いた。
「それで、俺に何か、話したい事があるんじゃないか……?」
そう語りかけると、彼女は一瞬伏目がちになりながらも、こちらに振り向き、ぽつりぽつり、と話し始めた。
スピーカーから流れる静かなストリングスが、彼女の話をなぞるようにして流れていく。
耳を傾けながら不意に窓に目をやると、か細い銀の糸を張ったような雨が、窓ガラスを伝っていた。
話しながら目に涙を浮かべ、それが頬を伝い流れ落ちていく、今の彼女の様に……。
一通り聞き終えると、俺は彼女に何か飲みたいものは?と尋ねた。
彼女が口にした銘柄をカウンター越しに告げると、バーテンダーは手に持ったグラスをそっと置いて、棚にあったBow moreと書かれたスコッチを手に取った。
慣れた手付きで氷を砕き、それをバカラのグラスに入れる。
カラン、と、軽やかな音の後に、追いかけるようにしてトクトクトクと、芳醇な香りを漂わせながらスコッチが注がれていく。
「Bow mora25年物、アイラの女王です、どうぞ……」
渡されたグラスを手に取った瞬間だった。
体が宙に浮かぶような感覚、ジェットコースターで一気に下りを加速する無重力状態。
自分の体とは思えない奇妙な感覚が、俺を襲った。
もう何度体験したとはいえ、コレには未だに慣れない。
グラスを掴んだ手が、勝手に動き出す。
漂うフルーティーな香りを鼻で楽しみ、つい、と口に運ぶ。
瞬間、口の中に広がる濃厚でビターな甘み。
25年という歳月の中、熟成された味わいが俺の体を支配してゆく。
グラスから口を離し、
「ほぅ」
と、ため息にも似た声が漏れた。
俺の声ではない。正しくは、俺が出した声ではない、だが……。
余韻に浸る中、再び俺の体をあの奇妙な感覚が襲い始める。
足が地に着かない様な、このまま空に舞い上がりそうな気分だ。
「そうかい、俺も良い酒が呑めたよ……またな」
今宵もまた、魂を彼方へ渡す……寂しくも儚い一時だ。
顔を上げ、天井で回り続けるシーリングファンに目をやる。
しばらくそれ眺めたあと、今度は自分の意志でグラスをテーブルに置いた。
「ええ……はい、終わりました。どうぞ中へ……」
声の方を向くと、バーテンダーが何処かへ電話している最中だった。
俺に気づき、電話を切りながら黙って頷く。
俺も無言で頷き返すと、それが合図かのように、店の扉が開いた。
「いやぁ、本当だったんですね~まさかこの世にこんな事ができるお人がいるなんて」
そう言って店に入ってきたのは、身なりの良い三十代位の男。
「吉野様……お約束の物を……」
バーテンダーに吉野と呼ばれた男は懐に手を入れながら、辺りをキョロキョロと見回した。
「ほ、本当にもう彼女はいないんですよね?」
何かに怯えるようにして吉野は言うと、俺に懇願するような目を向けてきた。
彼女とは、あの青のドレスの女性の事だろう。
彼女はもう居ない。俺の隣にも、そしてこの世にもだ……。
俺には昔から特異な力がある。
死者……そう呼べる者からの声を拾うことができた。
そして、それが何を望み欲しているのかを、俺には聞き届ける事ができる。
「ああ……だがな吉野さん」
「えっ?」
不意をつく俺の言葉に、吉野は面食らったような顔で返事を返す。
「彼女から話は全て聞いたよ。アンタの店で、お得意さんに売りをやらされてたって事もな」
「な、なぜそれを!?」
たじろぐ吉野を俺は睨みつけた。
この界隈ではちょっとした噂があった。
吉野貴博、彼が経営する高級ナイトクラブでは、お得意の客に店の女の子を使って、半強制的に売春まがいの事をやらせている、と。
先程の青いドレスの女性は、家庭の事情でお金に窮しており、仕方なく支持に従ったらしい。
しかし一度だけかと思いきや、吉野はそんな彼女の弱みにつけ込み、何度も客をとらせ続けた。
日増しに彼女は精神を病んでいき、ある晩、大好きだったスコッチを煽り、睡眠薬の過剰摂取によって、亡くなった。
警察は事故、自殺の両方で捜査したが、吉野の偽装工作により、事件は事故として処理されたそうだ。
「彼女、泣いてたよ……」
「ふふ、ふざけないでくれ!わ、私は何もしらんぞ!あれは事故だ!ほ、ほら、やや、約束の金だ!!」
怒鳴るように言いながら、吉野は懐から札束の入った封筒を取り出し俺に見せた。
夜な夜な寝室に、ドレスを着た女の幽霊が現れる。そう言って吉野が依頼してきたのが二日前の事だった。
時間と場所を指定し、今日ここに吉野を呼び出す手筈を整えてくれたのが、今黙ってこの状況を静観しているバーテンダーの彼女だ。
「足りないよ、それじゃ……!」
言ってから、俺は吉野の持っていた封筒を手で払ってみせた。
バサッと、音を立て床に札束が散らばった。
「な、何をするんだ!話が違うじゃないか!?」
「俺はな吉野さん、死者の願いを聞き届けてやれる、なんならもう一度ここに呼び戻してやろうか?どうやら反省が足りないようだって、彼女に話をしてやってもいい」
「い、いやそそ、それは……!ちょ、ちょっと待ってくれ!小切手で、小切手で良いかね!?」
もちろん呼び戻したりなんて俺にはできない。
嘘も方弁、こいつにはいい薬になったようだ。
吉野は余程さっきのが効いたのか、その後はすんなりとこちらの要求を飲み、逃げるように店を出ていった。
「狸親父め……」
吐き捨てるように言うと、俺は床に散らばった札束を拾おうと椅子から身をのりだした、すると、
「おととと、」
バランスを崩した俺は体制を崩してしまった。しかし、
「全く……摑まってください」
「あ、ありがとう、霧子ちゃん」
隣で俺の体を支えてくれていたバーテンダーの霧子ちゃんに、俺は軽く頭を下げた。
「大して呑めない癖に、スコッチなんか呑むからですよ……」
「はは……だよねぇ、まあ彼女が飲みたいって言うからさ」
「そうですか、私には気配くらいしか分かりませんでしたよ。その女性がどんな姿で、どんな声をしていたのかも、ね」
「良い女だったよ……スコッチが似合う、良い女さ……」
「何だか妬けますね……」
「えっ?」
「何でもありません」
「霧子ちゃん?うわっ!」
突然霧子ちゃんに手を離され、俺はその場に尻餅を着いた。
「いてててっ」
「はい、どうぞ……」
そう言って霧子ちゃんは拾い集めたお金を手に取り、その内の半分を俺に手渡してきた。
「いや、いいよ、店のツケにでも払っておいて」
言ってから立ち上がると、俺は煙草を取り出し、ジッポで火を灯す。
「ツケ……足りませんけどね……」
「あ……はは……」
手を後手に頭をかきながら、俺は苦笑いを零した。
「小切手は、どうされますか?」
「ああ……頼めるかな、霧子ちゃん?」
「はあ……人が良いのも大概にしないと、いつか痛い目にあいますよ……?」
刺すような霧子ちゃんの視線、でもその瞳には、どこか優しさも混じっているようにも見えた。
「お金に罪はないからね、彼女の家族がそれで救われるなら、きっと意味のあるものになるだろうさ……さてと」
「まーさん?」
霧子ちゃんの呼び止める声に、俺は扉の前で振り返った。
「また、お待ちしております……いってらっしゃいませ」
男装の麗人に頭を下げられ、俺は少しはにかみながら頷き、店を出た。
空を見上げると、あれだけ降っていた雨は止んでいた。
月が雲の切れ間に見えてもなお、雨の匂いを残したまま、街は夜の顔を覗かせている。
未練ってやつは、自分じゃどうにもならないもんだ。
だから一晩、体を貸して一緒に呑んでやる……。
そうすりゃ大抵どうでもよくなっちまうらしい。
見返り?
俺は肴にそいつの人生が聞ければ、それで十分さ……。
街の灯が闇の中を、まるで海の底を照らすかのようにして灯っている。
煙草から煙る紫煙を漂わせ、俺の体もまた。暗闇の中に溶け込んで行った……。
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