厳しい過去
明治九年、山縣有朋の鶴の一声によっていわゆる「廃刀令」が施行された。内容は以下のようなものだ。
「従来帯びていたのは倒敵護身を目的としたが、今や国民皆兵の令が敷かれ、巡査の制が設けられ、個人が刀を佩びる必要は認められないので、速やかに廃刀の令を出して武士の虚号と殺伐の余風を除かれたい」
この法律を契機として、徒手空拳、一撃必殺の空手に目が向けられた。沖縄からも様々な流派の使い手達が本土に上陸し道場を開いていった。
明治という時代が終わろうとしている。
沖縄の田舎の道場の師範代であった与儀の父親は、大正に元号が変わると焦りを深めていった。東京や大阪で成功した空手家は次々に故郷沖縄で家を新築していった。
――自分の道場を持ちたい!
この思いはますます父親を焦らせ、ついに師匠に頭を下げさせることになる。
「東京へ行かせてください!」
師匠はこう切り出した。
「お前は自分の強さを分かっていない。いわば井の中の蛙よ。それほど東京に出たいか」
「いてもたってもいられないんです!」
「ふーむ……」
師匠は考えている。よわい六十歳の老人である。
「このわしを拳を用いず蹴りを用いず転がす事ができたら東京に行くのを赦してやる」
父親は軽く見ていた。六十の老人を倒すことなどわけがないと。師匠は道場の中央に行きサンチン立ちをし、両手を拳にして前に出し「こーっ!」と息吹きをして構える。
まず体を抱えようとしたがテコでも動かない。次に足にしがみついたがこれもまるで根が生えたように床に吸い付いている。足払いをしても同じ、後ろから体当たりをしても動じない。
万策尽きた父親はついに諦めて負けを認めた。
「六十のじじいすら倒せないのに東京で通用すると思うか」
「はっ、私が浅はかでした」
父親はこうべを垂れその日は家に帰った
次の日、道場に一枚の文が置いてあった。
「昨日は自分の浅はかさに身震いする思いでした。しかしどうにも諦めきれません。東京へ行って参ります。どうかこの恩知らずをお許しください」
師匠は一言呟いた。
「ばかめが……」
そして一粒の涙をこぼした。
父親は海を渡り、改めてなけなしの貯金をはたいて東京の古ぼけた家を借りた。畳などぐしゃぐしゃの家だったが、庭が広く道場として使えそうだったからだ。
そして近所の塀に張り紙する許可をもらい「空手 道場生募集」と書かれた紙を張って回った。
「あのう」
一人の若者が扉の隙間からひょっこり顔を出す。
「なんだい、道場生になりたいのかい」
「はい。空手に興味がありまして」
「どうぞどうぞ、中に入りたまえ」
道場生最初の弟子が入門した。
与儀も三つのころから父親の厳しい訓練を受け、生まれた時から体が大きかった与儀は八才になる頃には、普通の大人など到底叶わない地力を着けていた。
道場は父親の丁寧な教えが評判を呼び、徐々に弟子が増え、最盛期には六十人を抱える大所帯になった。
この頃がいちばん幸せな頃だったかもしれない。
しかし、幸福と不幸は波のように押し寄せる。与儀が九歳の頃、母親が死の病に倒れる。今でいうすい臓ガンだった。父親の必死の看病も虚しく三ヶ月後に亡くなった。父親は葬儀の後、三日間泣き通した。悲しみをまぎらわすため、父親はそれまであまり飲まなかった酒を浴びるように飲み始めた。
不幸は続くものだ。そこに突如表れた道場破り。まだ酒が残っている状態で闘う父親。足元がゆれている。相手は皮肉な事に同じ那覇手の使い手だった。
相手にいいように殴られ蹴られ、庭に転がる父親。
その日、三十人もの弟子が父親をみかぎり、道場破りについていった。
数日して父親は酒が抜けて正気にもどったが、どこか脱け殻のようであった。
酒量がますます増え、まるで廃人のようになっていく父親……見かねた与儀は、九歳にして自ら師範代として、弟子に稽古をつけたが、そこは大人と子供。与儀が敵わない弟子もいた。
一人、また一人と道場を止めて行く弟子達。こうした日々が一年続いた。
この経験が与儀を無敵に押し上げた。弟子は三十人ほどになったが、細々と道場は続いていた。
しかしついに父親が倒れた。医者に見せると肝硬変とのこと。もはや治癒は出来ないらしい。
飯を食わなくなった。酒ばかり飲む日々が続く。
夏の暑い日の事だった。父親は部屋の片隅に転がっていた。死因は餓死……安らかな顔をしていた。
その時与儀は十歳。葬儀を済ませ天涯の身となった与儀はある決意をする。
陸軍の門を叩いたのだ。とりあえず面接を受ける事になった与儀はその場で鉄騎という型を披露する。
その見事な演武と十歳とは思えない体格と面構えを見込んだ面接官達は、特例で与儀の入隊を認めた。
そして特務機関員としての鍛練を受けることになった。あらゆる試練をものともしない与儀。将来を約束される人材となっていくのであった。
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