天涯の拳
村岡真介
たくらみと確信と
緑色の軍用車がとある建物のエントランスに横付けした。エンジンが止まる。車がゆさゆさと揺れる。
中からは身長五尺七寸 (百八十八センチメートル)もある巨駆を揺らしながら一人の男が出て来た。当時の日本人の平均身長が百五十センチくらいなので、より一層巨大に見えたに違いない。
「ふう、着いたな」
男―与儀宗光(よぎむねみつ)中尉は汗を拭いながら地面に降り立った。普通の人間が見たら驚くに違いない。その様はまさに虎であった。分厚い筋肉の鎧を着ているのが軍服の上からでも見て取れる。歳は二十八、太い眉毛にその精神の一途さがにじみ出ている。
蝉の鳴き声がうるさい。夏真っ盛りである。
与儀は日差しを藪にらみしながら、清朝では役所として使われていたその建物の玄関口から中へと消えていった。
帝国陸軍中野学校の支部である。特務や諜報、特殊な武術訓練をはじめ、様々な技術を見につける教科がここに集結している。いわゆる特務機関員(スパイ)養成所なのだ。
「声が出てないぞー!」
与儀は野太い声で後輩達に発破をかける。
空手の型の訓練中だ。「抜塞」を鍛練している。正面から切り込んでいき、相手の防御をこじ開け攻撃をするという実戦的な型だ。
しばらく空手の指導をしていたが、思いだしたようにまた歩き始める。
中庭を過ぎ本庁舎に入っていく。扉では衛兵が二人左右に並んで敬礼をしている。与儀も軽く敬礼をしかえすと衛兵はまた両手で銃身を握りしめる。
与儀は玄関口を過ぎ二階への階段を登る。この奥に会議室があるのだ。戦闘服を改めて会議室のドアをノックする。「誰だー」と中から声がする。
「与儀宗光入ります」
やけに丁寧な挨拶のあと、与儀はドアノブに手を掛ける。鍵は掛かっていない。軍帽をぬぎ部屋の中に入る。
「来たか。外は暑かろう」
与儀の直属の上司である和田大尉が茶を勧める。与儀は遠慮なくそれを飲み干すと、ようやく一息つく。
「梅花拳の方はどうだった」
「はい、道場を一つ叩き潰し、その後の中心人物らの動きを追い、ようやく本部であろう『山門酒家』にたどり着き一斉に検挙いたしました。抵抗もはげしく向こうも刀を取り出し歯向かってきたのですが、所詮銃にはかないません。梅花拳の宗家の男、コン・ユィカン (孔義強)を引きずりだし、一昨日監獄に収監したところであります」
「ご苦労」
和田が閉めきっていたカーテンをあける。とたんに部屋が明るくなった。和田も茶を一杯すする。今年の夏は例年よりも暑い。この部屋から表通りが一望できる。
表通りは人と荷馬車がひしめき合っている。上海では自動車が走っているというのに、ここはずいぶんと田舎臭く和田は感じる。しかし人は多い。この河北に進駐してから半年たった。暴動も四、五回起きた。抗日運動と言う。規模は数百人から数万人規模に膨れ上がることもある、厄介な事柄だ。当局としては火器をつかって潰さないといけない。でないとこちらの命が危ういからだ。
「次の一手はどうするんだ。いよいよ本命の義和団に手をつけるか」
「その前にある道場を潰してまいります。道場主の名前はホアン・フェイロン (黄飛龍)。洪拳の使い手で様々な武術大会に出場し、いまだ負けなしの強者と聞き及んでおります。この男が裏で義和門拳の使い手、ザン・ポーエン (張博文)と交流があるらしいのです。なんでもホアンがとある武術大会に出場したときにその強さに圧倒されたザンが、抗日運動に加わるように声をかけたとか。以来互いに往き来する仲になったと聞き及んでおります」
清朝末期、「義和団の乱」が勃発した。理由は阿片漬けにされた清朝を倒すためとも、新しい王朝を立てるためとも言われている。しかし動乱は清朝政府によって鎮められ、義和団の面々は地下に潜った。それから三十年、義和団の者達はその火種をくすぶり続け、また歴史の表舞台に立つのを今か今かと待ち続けているのである。
義和団の乱は中国北派拳法の一つである義和門拳の使い手達を中心に起こった動乱である。十九世紀の末には中国山東省で武術組織とキリスト教との間で頻繁に争訟が発生していた。梅花拳の武術家もこれに関与し、1897年に教会襲撃事件を起こしたが、伝統ある梅花拳全体に影響が及ぶことを避け、自らを義和門拳と称した。彼らは義和団と呼ばれ、義和団の乱に深く関与することになる。
「うむ。洪拳とやりあってくるか。なかなかに一筋縄ではいかない拳法だと聞く。油断はするなよ」
「はっ。私にかかればどんな拳でもうち破れるでしょう」
和田大尉は国から支給された煙草に火をつけながら口を開いた。
「この国では武術家は英雄だ。その英雄を倒すとこのところますます動きが活発になってきた抗日運動の士気も下がろうというもの。中国人はとにかく数が多い。人海戦術でこられるとたまったものではない。なるべく派手に倒してくるんだ」
「心得ております。大尉殿。なるべく派手に…ですね」
「一個小隊でいいか」
「十分です」
「朗報を待ってるぞ」
「はっ!」
与儀は軍帽をかぶり会議室から出ていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます