4章 ヒトヲ『欲しがる』ヤマイ
⋯⋯やっぱりそうなのかな。
私は、その吹部の友達で、吹部の唯一の男子である彼の反応を見てそう思った。
「⋯⋯ごめん、できない」
そう言って彼は、私の手を握ってくれようとしたその震えた手を戻した。
その手は、私の方に近づくにつれ、震えを増した。
額には脂汗、隠しきれていないあごの震え⋯⋯。それでも懸命に頑張ったのだろう証⋯⋯に似た彼の症状が、そこら中からにじみ出ていた。
「⋯⋯うん、分かった」
私はそう言って、自分の震えた手を机の下に戻す。
いつもはこの震えた手を、隣の席の吹部仲間の友達に握ってもらい、震えを止めている。
今日はあいにく休みだったから、彼に握ってもらおうとしたのだ。
⋯⋯ただ、彼は苦しんでいた。
ただ、彼の方も不思議な顔をしていた。
私の手を見たとき、何かに気づいたような顔をした。
その反応は、彼が気づいたことを、とても深刻そうで、それに対して何かの使命感を感じて、でも、それも真っ向からあらがう症状があって⋯⋯
それの一つ一つが、手に取るように分かった。
その症状こそが、彼の病、『ヒューマロスト』なのだろう。
ただ、手を私が戻した瞬間に見せた、あの喪失感に似た目は、なんだかそれとは違った。
「はい、では解けてない人は、解けてる人に聞きに行っていいよ」
これは数学の授業。最近はやりのアクティブラーニングなるものを取り入れているらしい。そのため、人と会話するよな作業が多発する。
「⋯⋯⋯⋯」
怯えるように前の席に座る彼。
⋯⋯ちょっと話しかけてみよう。
何をもってこの判断をしたのかは知らない。ただ、俗にいうあれではない気がする。
「⋯⋯ねぇ、」
声をかけた。彼は肩をビクッと跳ねらせる。
「⋯⋯どうした?」
不器用な、というよりは強張っているような顔を私に向ける。
「ここの問題なんだけど⋯⋯教えてくれるかな?」
少し控えめに聞いた。彼は数学は得意だから、ついでに言うと教えるのも得意なので、多分教えてくれると思う。
「⋯⋯う、うん。えっと⋯⋯あぁ、これか」
震えながら差し出した彼の左手に私はノートを乗せて、教えを乞う。
「これは、⋯⋯えっと、確かこっちの判別式の方が使いやすい」
「うんうん⋯⋯」
「多分今、頂点の座標使ってるだろうけど、これとほぼ同じだから」
「⋯⋯ほう」
彼は、集中すると止まらない性質である。よって、こういう時に話しかけておくことが最善策だと思ったわけだ。
「⋯⋯で、行けると思う」
彼は、息継ぎを忘れるような口調で説明をし終えると、顔をこちらに向けた。笑顔の方は、もう諦めたらしい。
「⋯⋯どう?」
彼が心配そうに声をかける。彼は自信を持てていないようだ。
「うん、大丈夫そう、ありがとう」
私がそうさりげなく声をかけると。
「うん、よかった」
彼はそのポーカーフェイスの中に笑みを浮かべた。
とまぁこんな感じで、彼との会話をある程度するのができるようになった。
それから、ちょうど1週間くらい後のこと⋯⋯
「そういえば、【彼】君、ものすごい勢いで走っていったよ」
吹部仲間の友達がそういった時、一瞬で私はすべてを悟った。
「⋯⋯え、嘘⋯⋯」
私は、それが信じられなかった。信じたくなかった。
私はおそらく、何かを欲しがってたんだと思う。
その欲しがっていたものが『彼』だとしたら⋯⋯
恋愛よりさらに深い意味で欲しがっている、そんな気がする。
自分が欲しいというよりは、彼に欲しがってほしいような、
⋯⋯そんな、『痛み』があった。
私の元には瞬間的な喪失感が芽生えてきた。
それに除草剤を散布するように思考がかき乱される。
そして、それが枯れ切った時、次に悲しみが来る。
そして、それに突き動かされるように廊下に出た。
ガタンッッ!
扉が大きな音を立て、乱暴に開けられる。
「ちょっと!?」
友達の声はもう聞こえない。
一心不乱だった。
――『ヒューマロスト』。人を失う病。
人を怖がり、そのまま自分さえも信じれなくなり、⋯⋯終わる。
「そんなことは⋯⋯させない⋯⋯!」
階段の手すりに手をかける。
階段を、1段ずつ、無意識にとばして駆け上っていた。
手すりをつかんで、その遠心力で方向転換しようとしたその時、
⋯⋯彼が逆さになっているのが、階段途中の窓から見えた。
怖さの顔色が見えた。
死への恐怖ではなかった。
⋯⋯ただ、彼が私と目を合わせたときに、彼はさらに、人への怖がりを超えるものを、怖がったように見えた。
いつもなら、あの原因不明の震えが私を襲うと思うが、それは珍しくなかった。
それ以上の何かに、突き動かされた。
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