第12話 届かない……




「あれ、いつもの時間だな」

 珍しく早く出社したのだろうか、と時計を確認したが、そんなことはなかった。

 なぜそう考えたのか。

 いつも先にオフィスに来て席に座っている人物の姿が、今日はなかったからだ。


「おはようございます」

 挨拶をしてから、主任チーフが受話器を握っていることに気づいた。

 電話の邪魔にならないように去ろうとしたが、僕はそこで異変を感じた。


 主任の表情は蒼白になり、力ない動作で受話器を置いた。

 そして唇を震わせながら、彼女は独り言のように呟いた。


足利あしかが君が……足利君が、倒れたって――」



 僕がその言葉を聞いた当時の感想は「当然だろう」だった。

 ろくな食事をとらず、休憩時間もパソコンに喰らいついていた。貧血で倒れるくらい当然だろうと感じた。いい薬になっただろうな、くらいの考えだった。


 だが、僕の考えは大きく的を外していた。


 足利はそのまま入院し、意識不明の状態だということだった。


 病院に駆け付けたが、身内以外の面会は謝絶。

 病状も詳しいことは何も教えてくれなかった。


「すみません。足利さんの容体については、ご家族以外の方にはちょっと――」

 看護師さんには申し訳なさそうにそう言われた。

 お見舞いが許されない?

 面会謝絶するなんて、誰かが強い意志を示さなければあることではないだろう。

 誰が? 医者? 家族? 本人?

 本人は意識がないらしいから、医者か家族だろうか……。


「…………」

 扉の前で立ち尽くしていた。入ることの許されない病室の前。

 よっぽど重体でなければ、家族以外を入れないなんてことはしないはずだ。

 足利の身に、何が起こっているというんだ……。

 考えても仕方がない。

 ここで何もできない以上、僕は踵を返し、病院から出ることにした。


 病院の出口に向かっていると、自動ドアが開いた。

 僕と入れ違いに院内へと入っていく女性がいた。

 彼女には見覚えがあった。

 パンツルックのスーツに艶やかな黒髪。細いフレームの眼鏡に切れ長の鋭い目。背筋をピンと伸ばして歩く立ち振る舞いには家柄の良さを感じさせる。

 足利あしかがみどり――足利あしかが迅人はやとの奥さんだ。


 直接面識はないものの、僕は彼女の姿を見ている。

 足利と親しげに話している彼女の姿を。

 翠さんは走るでもなく毅然とした態度で、颯爽と院内を歩いていった。そしてその横にはまた眼光の鋭い女性が一人。翠さんの二歩後ろをついていく。姉妹、ではないだろう。何かしらの上下関係を思わせる二人だった。


 僕よりも身内の彼女の方が遅れるというのはどうなんだろう、と感じたが、それはまぁ関係ないか。彼女には彼女の事情があるのだろう。

 だが、特に急ぐ風でもなく歩いていく姿にどこか違和感を覚えた。

 呼び止めようか。

 一瞬思ったが、それもやめにする。看護師さんの方からも話せないと言われたし、何より今来たばかりの奥さんに何を言えばいいのかもわからない。

 心配なのは奥さんも同じだろう。

 いや、彼女の方がより不安を感じているに違いない。それなら付き添いを連れてきたのも納得がいく。

「……帰るか」

 ロビーで待って彼女に容体を聞くという手もあるが、そこまで配慮に欠けているつもりもない。

 今日のところは、僕は去るとするか。


 と、会社を飛び出してきたことを思いだした。

 何をやっているんだ僕は。

 溜息をつきつつ部長ボスに電話する。黙って出てきた謝罪と、足利のことを話すと、

「……そうか。白井しろいくん。今日のところは、君は帰りなさい」

 ということだった。

 部長も配慮の行き届いた上司だ。

 改めて謝罪し、お言葉に甘えることにした。



 それから一ヶ月以上が経った。

 部長や主任を通して、足利のことは、徐々に明らかになってきた。

 なぜ倒れたのかは不明とのこと。出勤中にいきなり倒れたようで、駅員の通報で病院に担ぎ込まれたらしい。

 未だに意識は戻らないということだった。

 一ヶ月以上たった今も、である。

 外傷はない。

 それどころじゃない。

 身体からだの内部にも特に異常は見られないということだった。

 原因が全く不明。

 体外にも体内にも異常はないのに、意識だけがない状態だ。

 眠っているのでもない。意識がない。

 だから手の施しようがない、という残酷な知らせだった。

 人工呼吸器や点滴で身体は生きていられるが、自力での日常生活は無理だということだ。

 自力で生きることもできない。


「あとは、意識が戻るのを待つしかないわね」

 そんな主任の沈鬱な一言が、僕の胸に冷たく刺さった。



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