第10話 隣を歩けぬ二人



 その日、僕はうまく仕事に集中できなかった。

 なんでかは僕にもわからない。

 ただ、足利あしかがを休憩ルームに見かけたあの時からか。

 それとも蓮実はすみさんとぶつかったあの時からだろうか。

 なんとも言えないポーッとした空気が頭の中に充満していた。高校の頃にもこんな感覚があった気がするポーッとして授業に集中できなかったこと。あれはたしか、隣のクラスの子を好きになった時のことだと思うが……。


「…………」

 ……まぁ、いいや。

 とりあえず熱はないし、寝れば治るかな。

 なんて頭を掻きながら帰宅準備をした。


 そこでやっと、足利のことを思いだした。

「なぁ、おい足利……」

 彼はもう支度を済ませて席を立ったところだった。

「お前今日、休憩ルームにいたよな。すごい美人な女性とさ。どこの誰なのかなって思ってな」

「ん。ああ……あれか」

 足利は何事もなさそうに話す。

「あれは私の妻だ」

「へぇ、奥さんかーなるほどなぁ」

 どうりで仲良さそうに話していたわけだ。夫婦なら納得できる。

 夫婦か。

 ……え?

「同じ会社だったの?」

「ああ。知らなかったのか?」

「知らなかったよ!」

「部長や主任は知っていたぞ」

「ウッソ、そうなの!?」

 言えよ!

 いや「俺、社内恋愛なんだ~」とか、別に積極的に言う必要はないし聞かなかったこっちも悪いけどさ。

 そんなこと、自然に耳に入ってくることじゃないか、普通の生活の中で。なぜ足利の件に関してはこう、普段の生活が見えないのだろうか。彼が多くを語らないからというのもあるのだろうが。


 あ、でも部長ボス主任チーフは知っていたんだっけ。

 あれ?

 知らないの、僕だけ?

倉木くらきも知っているぞ」

「追い打ちをするなぁ、足利くぅん」

 死者に鞭打つ行為をされた。

 というかガチで僕だけが知らない事実らしかった。


 聞けば、別に社内で知り合ってそのまま付き合い始めたということではないらしい。


 以前、足利は「休みの日は図書館か、ジムに行っている」と言っていた。

 その図書館で出会い、話し、のちに同じ社内の人間だとわかったのだという


「俺が本を読んでいると、みどりが話しかけてきたんだ。面白そうな本ですねって」

 奥さんは翠さんというらしかった。

「へえ、なんて本?」

「あれはたしか『非効率な真実』だったか」

「そ、そそられねぇ……」

 面白そうだろうか、そのタイトル……。

 僕とは違うセンスの持ち主たちのようだ。


「奥さんの方から話しかけてきたんだ。積極的だな、意外と」

 意外と、というのは僕の見た感じの印象に過ぎない。

 遠くから見ても、足利と同じような仕事人間という感じだった。

 ビジネスウーマンというかクールビューティーというか、恋愛に興味がありそうなタイプには見えなかったのだ。もちろん、人は見た目によらないし、僕の観察眼が間違っていたというだけの話ではあるのだろうが。

 なんにしても、そういう経緯があったからこそ、今の足利の夫婦生活があるということなのだろう。


「付き合おうかと言ったのも彼女の方だったし、結婚の話をしてきたのも彼女からだ」

「え……そうなの?」

「プロポーズもとられて、男としては不甲斐ない限りなのだがな」

 奥さんがそこまで積極的だったとは。

 女性の恋愛観、僕には考えが及ぶべくもないな。

 というか、そこまで一方的に話を進められている彼にわずかながら疑問が起こった。

「お前、ちゃんと奥さんのこと好きなんだろうな」

 断る理由がなかったから付き合った。

 合わなかったら後で別れればいいと思ってとりあえず結婚した。

 そんなことも起こり得る現代だ。

 ましてや効率を人生の目的に掲げている男――相手の女性と気が合うかどうかは一定期間過ごテストして決める。あとは結婚トライアンド離婚エラーでいいと考えても不思議じゃない。


 だが。

「ああ。愛しているさ。だから結婚したんだ」

 効率マンから発せられた言葉は、そんな普通の夫の言葉だった。


「俺に恋愛なんて――そう思ったのは、誰よりも俺自身だ。だが、彼女は俺と似ていてな……仕事に対する考え、人生に対する考え、共感できたからこそ、共に行こうと決めた」

 恥ずかしげもなく言う足利を僕はかっこいいと感じた。

 誰かを愛することは人間としてあることだろう。

 だがそれを他人に伝えるのはかなり気恥ずかしさがあるものだ。僕ならちゃんとできる自信がない。

 でも足利はそれを言ってのけた。

 さも当然のことのように。

 “効率マン”などと揶揄ばれるには、足利あしかが迅人はやとは人間味があり過ぎた。足利は僕にとって、人間として尊敬できる人物のように思えた。


「だけどさ。今のお前の生活を見ると、奥さんも心配しているんじゃないか? 食事をろくにとらないなんて」

「ああ、そうだな。だが彼女にはそのことは言っていない」

「言っていないって……一緒に暮らしていたら、食べる量が激減していることなんてすぐわかることだろう」



「一緒には、暮らしていない」



 なんだって?

 一緒には暮らしていない?

 奥さんと?

 結婚しているのに?

 職場で会うくらいなのだから奥さんが単身赴任しているということもないだろう。

「どういうことだ? 別居しているのか? 新婚なのに?」

 さっきこの男は「奥さんを愛している」とまで言ってのけた。その足利と奥さんが話している姿を思い出しても、彼女の方も足利を悪く思っていないことは明白だった。


 そんな二人が、別居……。


「別居といえば、そうなのだろうな。だが、これは二人で決めたことだ。お互いのことは悪く思っていない。一緒に暮らすことに不満はない。だが、一人でも十分に暮らせる便利な世の中だ。家族が一つの家で過ごすことよりも、別々に住んだ方が、効率的に仕事ができるそう結論を出した結果だ」



 僕とは違う感覚センスの持ち主たち。

 足利を尊敬するといった言葉は撤回しない。

 だが。

 お互いの考えに同調できるほど、僕と彼の感覚は並び歩いているものではなかった。



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