第9話 見知らぬ人 見知った人



 勘違いしないでいただきたい。

 確かに、僕はまだ3年目の社会人初心者ヒヨッコだ。だが、「仕事できません、助けてください」ピーチクパーチクと鳴いているだけの甘えん坊ヒヨッコではない。

 他の同期に比べて仕事ができないというわけでもなければ上司に見放されているだけでもない。

 あくまで。

 あくまでも、僕は一般的であり平均的な能力のヒヨッコに過ぎない。

 ただ、足利あしかがの方がほんの少しだけデキる同期ヒヨッコだというだけである。だから僕よりほんの少し多く仕事を任されているというだけ。だから僕よりほんの少し忙しくて仕事にかける時間が多いというだけだ。何も大変な差ではない。僕らの仕事の量なんて大差ないのだ。

 足利が休憩時間を抜くほどに頑張る理由はない。

 彼はただただ自分の身体に変化があり、食事を減らしても健康的に生きていられると判断したから、そうしているだけである。


 長々と綴ったが、要するに僕が言いたいことは、足利の時間が仕事に圧迫されているのは、僕に非があるわけではなく彼自身の問題なのである。

 そういうことなのである。

 以上。

 この話は終わりだ。



 とはいえ、傍目はためから見れば足利が無理をしているような風に見えるだろう。実際、賀城部長ボス鑑主任チーフも心配して声をかけているようだった。

「心配ありません」

 と相変わらずぶっきらぼうな口調で話す足利だったが、僕から見ても少し異常事態に見える。そんな様子を近くで見ながら、大丈夫だろうか、なんて何も手伝えていない僕は心配するくらいしかなかった。


 何日か過ぎた日のこと――まとまりきっていない書類の山を抱えながら廊下を移動していた時のことである。

 ガラス張りの休憩ルームに座ってくつろぐ足利あしかが迅人はやとの姿が見えた。


 そしてその横に座っているのは……見覚えのない女性だった。


 艶やかな黒髪の日本美人だった。肩まで位の髪をうなじ付近で一本にまとめている。切れ長の目に細いフレームの眼鏡。

 主任でないことは確かだ。

 だってタイトスカートじゃないもの。パンツルックのスーツに身を包んでいた。

 あ、でもこう見るとパンツスーツも悪くないなぁと思えた。健康的な脚線美がすごく綺麗に見えるのだ。

 ……じゃなくて。

 足利の隣にいる女性、なんだか足利と似た雰囲気を醸し出している。足利がビジネスマンなら彼女はキャリアウーマンだろうか。彼女の経歴キャリアは知らないが、良い家柄で育ったんじゃないかというのがここから見てもわかる。

 姿勢がいい。

 足利も姿勢がいいのだから、遠くから見るとマネキン二体が会話しているようにも見えてしまう(とてつもなく失礼な表現だが)。

 僕は断然、かがみ主任派だが、少し目を奪われた。

 なにせあの“効率マン”足利迅人が、女性と会話していて、しかも少し楽しそうに見えたからだ。

 あった当初、仕事のための機械人形ビジネスマシーンくらいに見えた足利にも人間性を感じてきたこの頃だったが、あんなに人間らしいというか、男っぽい顔を見たのは初めてだ。

 あの女性に対する慈しみというものを感じる。

 そんな彼を見て少し戸惑ってしまった。


 だからだろうか、僕は誰かにぶつかった。わき見運転ならぬわき見歩行中だったので当然である。

 書類をまき散らし、ぶつかった相手は尻もちをついてしまった。

「あッ、すみません!」

「いえ! こちらこそごめんなさい」

 とお互い謝ってから、相手の顔を見て


「あ……」


 と息をのんだ。

 僕が異動する前の、隣の部署の女の子だった。

「ごめんね、よそ見しちゃってて」

「いえ、私の方こそごめんなさい。資料を見てたもので……」

 見ると、彼女の手には携帯端末タブレットが握られていた。僕は女の子に手を差し出す。おずおずとその手を取り、彼女はスカートをパッパッと払いながら立ち上がった。

 こうして近くで見ると、ほんと小柄だなあと感じた。

 直接的な接点はなかったからか、僕はこうして彼女と対面する機会はなかったのだ。


「あ、資料……!」

 慌てて僕の散らばせた書類を拾ってくれる。僕も彼女を見るのをやめて拾い始めた。

 なぜかしばし見つめてたようだ。


白井しろいさんが異動してから、少し静かになっちゃいましたよ、隣の部署おとなりも」

 と、書類を集めながら彼女は口を開く。


「お、覚えていたんだ、僕のこと……」

「はい。白井さん、ムード―メーカーでしたからね」

「そうなんだ。自分じゃそんな風に思ってなかったけどな……」

 お互い、目を合わせずに話す。手は黙々と書類を集めていた。

 その間、僕は女の子の名前を必死で思い出していた。彼女が僕を覚えているのにこちらが「君の名前知らない」では失礼過ぎるし、彼女に幻滅されるかもしれなくて嫌だった。


「…………」

「…………」


 沈黙のまま、書類を集めた。

 やっとまとめて立ち上がる僕に、彼女は書類を重ねてくれた。


「はい、どうぞ」

「ありがとう、蓮実はすみさん」


 そう。

 彼女の名は蓮実はすみ千草ちぐささん。

 一度「なんて綺麗な名前なんだ」と打ち震えておきながら忘れていた、僕の恥の一部だ。

 名前を呼ぶと、彼女はなんだか恥ずかしそうに目を逸らしながら、

「じゃ、じゃあ……また……」

 と小走りに行ってしまった。

 名前で呼ばれたことに違和感でも持たれただろうか。隣の部署だっただけだしな……ストーカーなのかこの人とか思われていたら嫌だな……と不安になりつつ、僕は初めてそこで、鼓動が高鳴っていることに気づいた。

 落ち着け、僕。

 落ち着かないとまた書類を落としそうだ。

 深呼吸してから「あ!」と叫んだ。

 連絡先を聞いておくんだった、と後悔した。


 ガックシと肩を落としつつ視線を休憩ルームへ戻すと、そこに座っていた人影はすっかりなくなっていた。



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