第5話 ホッブズ



「あ、あの~、足利あしかがくぅん。もし、その、さ……よかったら、ら、来週の週末にでも、その……飲みにでも、行かないか? なんて、思うんだけど。いや、無理にとは言わないよ? 僕の同期が――あ、君にとっても同期になるわけだね、こういう場合。……じゃなくて、とにかく、そいつが足利も誘ったらどうだい、的なことを言うもんだからさ。いや、足利が忙しいなら別に――」

「いいぞ」

「……あ、だよね。ごめんね、無理に誘って。それじゃあ――え? 今なんて?」

「だから、飲みに行ってもいいと言っているんだ。なんだ、鬱陶しい話し方をして」

「……マジで?」

「マジだ」


 僕は社員食堂でひとり黙々とA定食を食べている足利を見つけ、倉木との飲み会に誘ってみた。

 気味が悪いほどバランスの良い三角食べだった。並んでいる焼き魚やごはんやみそ汁がほぼ同じ割合で減っている。サラダも豆腐も、水に至るまでが残り3割くらいと言ったところだった。

 順番に摂った方が吸収にもいいし栄養のバランスも良くなる、というのは後でこの男に聞いた話だ。食事にまで効率どうこう考えているのかこいつは。頭働かせるのにカロリー使って、かえって効率悪いんじゃないかと思うのだが。


 閑話休題。

 とにかく、飲み会に誘うことには成功した。

 それにしても足利……。

 あんなことがあり気まずいと思いつつ話しかけたが、足利は何の違和感もないように僕に言葉を返した。


 なんだよこいつは本当にもう。

 あんなに「部屋を見られるのは嫌だ」的なオーラを出していたくせに。

 これじゃあ気を遣って思い悩んでいた僕がバカみたいじゃないか。

 ひょっとするとあの時の足利と今目の前にいる足利は別人なのではないだろうか。そんなバカげた妄想を頭の中で両断しつつ、僕たちは週末、会社近くのチェーン居酒屋に来ていた。


 僕と、足利と、倉木くらきの3人だ。

 ああ、華がない。

 別に同期3人、気兼ねなく話もできるだろうし、こうして語り合う時間もいいものだろう、と少し思ってはいたが、やはり綺麗どころがないと僕のテンションも上がらないというものだった。


 さらにテンションが下がる要因。

 それはズバリ彼らの語り合っている内容だ。



「では足利、お前はデカルトではなくホッブズの思想を推すわけだな?」

「無論だ。『世界に存在するのは神と精神と物体』というデカルトの話を信じたい気持ちはわからないでもないが、オレは『物体とその運動だけが存在する』だけに過ぎないと考える」

「では、人間にも心なんてないと?」

「そんなことを言うつもりはない。だが、心も人間という物体が行動運動した時に伴う感情というだけなのではないかと、一つの考えとしてはあるのだよ。そして人間の生きる目的は、自己保存という利己的な欲求のみだ」

「『万人の万人に対する闘争状態』か、なるほど即物的だな。お前らしいと思える。あ、悪いな、即物的なんて言い方をしてしまった。はっはっは」

「いや構わんさ。オレも、人間はみな即物的だと思っている」


 理解できなかった。

 話の内容もそうだが、一体彼らは飲み会の席で何を語っているのだろうか。『飲み会』というものは、もっと楽しくバカみたいな話をして盛り上がるってことだと思ったのだが。

 何かの論文でも発表するつもりなのだろうかこいつらは。



 そういえば、倉木が大学時代に書いたレポートを見させてもらったことがあったな。あれのタイトルは何だったか、確か――『殺人の定義』だっけか。

『人間はエゴ(利己主義)の塊である。

 自分の目的を達成するには周囲の協力が必要となる。人間はそのために他人にストレスを与え続けている。自分もまた、他人からのエゴを受けてストレスを感じながら、精神を摩耗させながら生きている。

 精神を摩耗させた結果、人間は死に至る。これは私見だが、人間の寿命がある一定の年齢から延びないのはこのストレスによって限界を迎えているからではないだろうか。

 さておき、人は互いにストレスを与え続けている状態であり、そのせいで、遅かれ早かれ死を迎える。そう言った面では、人間は全員殺人者ということではないだろうか。』

 だっけか。

 昔から倉木はそういう難しいことに頭を悩ませるのが好きだったらしい。



白井しろい、君はどう思う?」

 突然話を振られた。飲んでいたビールを少し詰まらせてから答える。

「ホップなら知ってる。ビールの原材料だ」

「ホッブズだ。“自然権”、“社会契約説”――高校の授業で聞いた話だろう」

 足利はボケをスルーしつつ、真面目に聞いてくる。

「覚えてるわけあるかそんなもの」

「はっはっは。ダメだなあ、白井は! 社会人たるもの、このくらいは覚えておかないと」

「高校生でも覚えてねえよ」

 世の高校生を敵に回すような悪態を吐きつつ、僕はビールをあおる。


 なんだかなあ。

 なんとなく居心地が悪いこの気分はなんなんだろう。

 一応二人とも、今まで仲良くやってきたんだが。その二人が仲良くなって僕の入れない話をしているこの疎外ハブられた感は。

 …………小学生みたいだな、僕は。



「それより! プロジェクトの話だよ、プロジェクトの話!」

 僕は少しいたたまれなくなって強引に話題を変える。いやそもそも、この話をするために集まったようなもんだ。本題に入ったと言えよう。うん。予定通りだ。


「そうだな。この話はこれくらいにしよう。俺はハイボールにするかな。白井、足利、何にする?」

 倉木はメニューを僕らに見せつつ訊いてくる。

「じゃあ、オレは続けてビールを」

 そういえば、足利がビール以外を飲んでいるところを見たことがない。前回の飲みの席でもビールしか飲んでいなかった。

「ふとした疑問なんだけど、足利、お前ビール以外だと何を飲むんだ?」

「ビールしか飲んだことないが」

「マジか」

 ビールが好き、じゃなくて飲んだことがないと来たか。

 飲み会にはしれっと参加してくるくらいだ、酒が嫌いということではないのだろう。それはそれはもったいない話だ。

「じゃあ、僕は日本酒をもらうから、それもちょっと飲んでみろよ」

 と提案すると、彼は少し渋い顔をする。

「だが、飲むものをころころ変えると、血中アルコール度数を正確に計算できなくなるからな」

「計算したことねえよ……」

 そうだった……。

 この男は飲むときだろうが食事のときだろうが計算や効率を考えながらする人間だった。息抜きの場なのに息がつけないというかなんというか。

 この男は好きでそういうことをしているのだろうけど、そういうさがを見ていると少し可哀想に思えてくる(彼からすれば余計なお世話だろうけど)。


 それでも僕は、注文して出てきた熱燗を強引に勧めた。

「少しでいいからさ、ほら」

「ううん……」

 眉間に皺を寄せる足利。

 おずおずとおちょこを持ち、口に酒を含んだ。

 瞬間、彼の目は見開かれ、

「うまいな」

 と思わず言葉をこぼした。


 まるでワクワクドキドキの科学実験を眺める子供のような目で、おちょこを見つめていた。


 なんだ。

 こういう顔もできるのか、こいつ。


 今まで、あくまで事務的だった『効率マン』に“人間性”を見た瞬間だった。



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