小説家

白瀬直

第1話

 小説家とは、小説を書く人間を指す言葉である。

 だが、どんな小説家にも筆が進まぬ時というのは必ずある。そんな時は散歩に出るのが良い。本山君がそろそろ来てしまうのでその前に出るとしよう。

 部屋着の甚平のまま玄関でサンダルを引っ掛け、如何にも「ちょっとそこまで」らしい格好で外に出る。扉を開けたその時からもはや夏に近い暑さを感じた。幸い日差しがまだ柔らかく、風も吹いているので散歩には向いている気候であると言えよう。パッと目についた花壇には近くの小学生が植えたらしい朝顔が花を開かせている。時代を超えても変わらぬ習慣とそこに咲く鮮やかな紫に良い心持になる。

 散歩することで体を動かし、世間のイメージである不健康を脱する。かといって走ってしまうと其処彼処にある気付きを見逃してしまう。歩きすぎて疲れ果ててしまっても良くないので、近くの寺まで行く程度にしよう。

 歩くと、様々な花が目に付く。朝顔の紫、葵の赤、紫陽花の青、梔子の白、金雀枝の黄色、浜茄子のピンクと色彩も豊かである。緑に包まれたそれらの花を順に眺めながら黒いアスファルトの舗装を五分も歩けば、山門に至る。参道を眺めれば、石畳は白く、砂利は黒く。脇に並ぶ欅は緑の葉をつけ、空には雲一つない青空が広がる。

 普段白黒の文字しか入らない目に、鮮やかな色が与える刺激は心地よい。あまりの心地よさに空を見上げたまま歩いていたら、石畳に足を取られた。のんびり歩いていた程度なので躓くだけで済んだが、その拍子にサンダルが飛んで行ってしまう。面白いほど速度の出たサンダルは、十数メートル先の石畳に裏返しで叩きつけられた。どうやら、この後は雨になりそうだ。

 サンダルの無くなった右足の所在を数秒悩んだが、いい年の大人が「けんけんぱ」している様ほど滑稽に映るものは無いだろうと、そのまま石畳に下ろすことにした。太陽の熱が十分染み込んだ石畳は直接当てた足の裏にその熱を伝える。火傷しそうなほどではないが、心地よさをほんの少し超える熱さである。僅かな焦りを生むその熱量を受け、首の裏にじんわりと汗がにじんだ。

 サンダルを履いたままの左足を軸にしつつ、右足もしっかりと石畳に付けながら歩く。サンダルを拾い上げ、故障が無いかしばらく眺める。十年単位で活躍したラバー製のサンダルはその網目も幾らか草臥れていた。網目の毛羽立ちを観察し、陽の光に透かして見ると、空より鮮やかな青に目が眩む。

「お前もそろそろ買い替え時かねぇ」

 そんな風に独り言ちると、首を汗が伝っていくのを感じた。日の光を浴びるのももう十分だろう。そろそろ戻らねば。そう意気込んで踏み出した右足は、十分な熱を帯びていた。



 小説家とは、小説を書く人間を指す言葉である。

 だが、どんな小説家にも筆が進まぬ時というのは必ずある。そんな時は昼寝をするのが良い。 本山君がそろそろ来てしまうのでその前に寝るとしよう。

 部屋着の甚平を取っ払い、白いTシャツ一枚で布団に転がる。夏に近い日差しを送る太陽は遮光カーテンの向こう。扇風機は午前から絶賛稼働中だ。腹を冷やさないためのタオルケットに、起きてすぐに水分を補給できるようペットボトルに水を入れて枕元に置いておく。寝汗を拭うためのフェイスタオルも用意し、万全の態勢である。

 体からも心からも活力を取り除き、布団に横になる。頭に掛かる靄をそのまま受け入れ、白いイメージを頭の中全体に広げると意識がだんだんと薄れていった。

 夢の中で、私は真っ暗な闇の中にいることが多い。だがそこは視覚こそ満足に得られないものの、常に何かしらの音が響いていて悪いイメージはあまりない。響いている音というのも様々で、自分の知っている音楽がかかっている時もあれば、聞いたことのある楽器がただ音を鳴らしている時もあるし、耳鳴りや唸りのような音が長く響いているだけの時もある。

 今日はそれらの混合だった。唸るような風の音の中に、ハイハットシンバルとバスドラムが鳴っている。それぞれ一定のリズムではなく、風に揺れるように不規則なタイミングで音を奏でている。

 私は楽器演奏の経験は無いし、音楽の知識も五線譜の上にカタカナで音階を書く程度しかない。それでも、これらの音は私の中で鳴っているのだ。音階を理解する必要も、楽譜が意味していることを推測する必要もない。ただ想像の糧にする。そのためにこの音をただ聞く。それがこの夢の正しい鑑賞法だ。

 耳を澄ませ、音のイメージを掴むために感覚を尖らせる。自分の頭の上からまっすぐ伸びる細い鉄塔が、波一つ逃すまいと振動する。自分の感覚器の延長のイメージがやけに無機質であることは気がかりであるが、この夢の中では子細漏らさず聞こえるようになるので問題は無いだろう。

 風の唸りが強くなると、順にトムトム、スネアドラム、フロアタムが追加された。これらはハイハットとバスドラムとは違い一定のリズムで鳴り続けている。細かい刻みで代わる代わる音を鳴らし、それを通してハイハットとバスドラムの不規則さがより際立っていく。交互のリズムがどんどん短くなっていくにつれそれは一つの音の連なりになり、風の唸りと同化していく。

 ドラムセットが順に登場してくるパターンの夢では最後に必ずクラッシュシンバルが追加される。それまでの過程はまちまちであるが、クラッシュが最後であることはいつも変わらない。それまでに鳴り響いた音はどんどんその間隔を縮め、不規則に思えたものもいつしか一つの音に混ざっていく。最後に、アタックの強い大きなシンバルの音が一つ響き、全ての楽器と音が消えて静寂が訪れた。

 夢が明ける。扇風機の回る音だけが聞こえる。目を閉じたまま脳内に響いた音のイメージを反芻し、逃がすまいと左手を強く握る。体と心に活力が戻るとともに、深い音の響きが全身に満ちるのを感じた。



 小説家とは、小説を書く人間を指す言葉である。

 だが、どんな小説家にも筆が進まぬ時というのは必ずある。そんな時は本を読むのが良い。 本山君が持ってきた本が積んであるのでそれを読むとしよう。

 作業用の机から離れ、チェストの上に積まれた本を2冊手に取る。部屋の隅に置かれている機能性のみを重視した安楽椅子に深く腰を下ろし、サイドテーブルに置いた2冊から片方を見ないまま開く。以前読んだところに挟んである栞で指を止め、今日はこっちか、と軽く独り言ちて、言の葉の森に踏み入っていく。

 本という物には、もちろん文字が記してある。そして、そこに描かれているのは人間の歴史と感情だ。文字には感情が込められ、書いた者の想いは書いた者の生き様から生まれ、そこには人が辿ってきた歴史がある。最新の書物というのは、文学史だけでなく、人類史の先端に立っているのである。

 本には必ず読者が必要である。読むものが居なければ本は本として成り立たず、聞くものが居なければ物語は物語足りえない。本を本として維持するために「読者のために作られた本」というのはどの時代も一定数存在したことだろう。

 だが私は、読者の期待に応えることを念頭に置いていない物語こそ、至上であると思う。

「読者の期待の上であるとも、下であるとも判らぬ。だが私は人類の先端に立つ者として、これこれこのような感情を以ってこの本を歴史の先端に置く」

 そのような覚悟を、ある種の独善すら感じられる物語こそ、価値があると感じられるのだ。

 人の歴史とは文学の歴史である。数多くのキャラクターが生まれ、数多くの表現が選ばれ、数多くの物語が紡がれた。それらは例外なく人を描いた物語であり、人の感情を描いた物語である。物語を描く者として、人の感情をどのような言葉で描けばどのように揺さぶれるのかを考え、その実現に苦心する年月はこの先死ぬまで続くだろうという確信がある。だからこそ、

「ぐぅぅぅぅぅ」

 感嘆に値する表現を見つけた時、素直に喜ぶことができない。いや、そも私はこの作者のファンであるし、この作者がそういった表現に長けていることは承知の上だ。だがしかしこれは無いだろう。登場人物のキャラクターの感情をそのまま叙述するのではなく、行動と、それによって起こる物事の変化の観測を表現することで描いている。私の目指す「感情の表現」そのものだ。私が辿り着きたい先端が、今ここにあるのだ。しかもよりによって発行は昨年である。最新刊ですらない。

 胸中に起こる感動を自覚する。この物語を読めたことへの歓喜が膨れ上がる。それとともに、仄暗い感情がその後ろに隠れていることにも気付く。そのおこがましさに、笑いが浮かんできた。

 あとがきまで読み切ったとき、この本がほんの少し分厚くなっているように錯覚した。確かめるように書店のブックカバーを外して指で挟み持ってみる。美麗なイラストやタイトルより先に、著者名が目に飛び込んできた。

 絶対にペンネームだなと判るそれが、えらく挑戦的に見えた。



 どんな小説家にも筆が進む時というのは必ずある。そんな時は、思うが儘に筆を走らせるのが良い。

 色彩も、熱量も、音響も、活力も、歴史も、感情も、全て文字という一つの道具で表現する。言葉は、自らの内から湧き上がるものをそのまま使う。最適でなくてもいい、それを選ぶのは今ではないのだ。書くときはただ、自らの衝動と感覚に任せてキーを叩く。溢れる脳内の想像を余すことなく文字にする。そういった機械になる、という表現をしたいが私には不可能だ。機械であればもっと上手く言葉を紡ぐ。それこそ想像を余すことなく表現することができるだろう。そんなことが私にできないのは判っている。それでも、それでも私は文字を紡ぐ。自らの想像を、自らの思う言葉で、拙くとも、十全でなくとも、表現せずにはいられない。

 扉が開く音が聞こえる。画面から目を離すことは無い。叩く指も止まらない。画面に増えていく文字とその速度に、ほんの少しの苛立ちとそれ以上の恍惚を感じる。

「先生。原稿をいただきに上がりました」

「ああ」

 小説家とは、

「少し待っててくれ」

 小説を書く人間を指す言葉である。

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小説家 白瀬直 @etna0624

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