No.23 沼
私の両親は私が小学三年生の頃に離婚している。両親の仲が最悪で、ゴタゴタしていたであろうその時期、私は関東の田舎にある、父方の祖父母の家に預けられていた。
祖父母は優しい人たちで、父は土日になると毎週のように会いにきてくれたし、母とは毎日のようにスカイプで通話したから、あまり寂しさは感じなかった……ような気がする。
実のところ、その一年半のことは詳しく覚えていない。転校先の学校で友達も何人かできたはずなのだが、彼らの顔も名前はほとんど忘れてしまった。
ただ、一つだけやたらと記憶に残っていることがあって、それは沼のことだ。
祖父母の家の近くには小さな沼があった。普通の沼であったはずだが、地元の子供達は、それを底なし沼だと言っていた。
その沼の前を通りかかると、風もないのに水面が揺らいでいたり、ぽちゃん、ぽちゃん、という水音が聞こえることがあったりしたので、幼かった私はその沼のことをひどく不気味に思っていた。
ある日の放課後、私はその沼の前を一匹の小さな亀が這っているのを見た。
一緒に下校していた友人が「あ、亀だ」と言ってその亀を乱暴に持ち上げた。亀は懸命に足をジタバタさせて逃れようとしたが、無駄なあがきだった。名前も顔も覚えていない友人は、それを見てケラケラ笑った。私は「やめなよ、かわいそうだし、ばっちいよ」というようなことを言った。それでも友人はしばらく亀を弄んでいたが、やがて飽きてしまったのか、亀を沼に向かってポーンと放り投げ、まるで何事もなかったかのように、再び足を動かし始めた。私は、なんとも言えない居心地の悪さを覚えながらも、友人について沼を離れた。
それから数日後のことだ。
私は一人で下校していて、再び沼の前で亀を見かけた。私はその亀を、友人が沼に投げ捨てた亀と同一の個体だと思った。そして、先日のことを申し訳なく思いながら、亀に近づいた。その場にしゃがみ込み、甲羅を撫でようかと考えたが、気持ち悪かったし、不衛生な気がしたので、結局触らなかった。
その時、ぽちゃん、という水音がした。
私はハッとして顔を上げた。亀が、私の足元にいるのとは別の亀が、沼から顔を出していた。
ぽちゃん。
さらに別の一匹が、沼から姿を現した。
ぽちゃん。
また別の一匹。
ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。
気がつくと、夥しい数の亀が沼から顔を出していた。百匹か、二百匹か、三百匹か。小さな沼の一体どこにこんな数の亀が潜んでいたのだろうか。亀たちは一様に私の方に感情のない顔を向けていて、非常にゆっくりとした速度ではあるが、こちらに近づいてきていた。
私は恐ろしくなって、すぐにその場から逃げ出した。いくらか走って、息が切れた段階で、また振り向いた。遠方に、無数の亀の影が見えた。私を追いかけているのだ。私はまた心臓が爆発しそうになるのを感じながら、必死で走って祖父母の家になんとかたどり着いた。
家に帰ってから、私は祖父母に沼で見たことを話したが、信じてもらえなかった。恐る恐る家を出て、門の前で、通学路を確認したが、亀の姿は見当たらなかった。
翌日以降、私は登下校のたびに沼を確認したが、百匹どころから一匹も亀を見つけることはできなかった。
やがて私は祖父母の家を離れ、東京で母と一緒に暮らすようになった。父や父方の祖父母とは少しずつ疎遠になり、祖父母の家に行くこともほとんどなくなってしまった。
祖父は三年前、祖母は一年前にこの世を去った。
あの沼はまだ同じ場所にあるはずだが、多分もう二度と近寄ることはないだろう。
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