No.20 野球

 私の母が投げたボールが大きく曲がり、俊哉兄さんのバットが空を切った。

 審判役の弁護士が、ストライクバッターアウト、と大声で宣言する。一塁を守っている瑞季さんや左翼手の祥子さんが、黄色い声をあげながら嬉しそうにピョンピョンと飛び跳ねた。彼女たちの様子を見た真太郎くん(瑞樹さんの息子だ)は赤面し、辰美姉さん(祥子さんの娘)は「マジありえねえ」と呟いた。

 見ての通り、私たちは野球をしていた。

 九人の母親と、その九人の子供達で。

 母親の年齢は三十七歳から五十歳、子供たちの年齢は十歳から二十五歳だった。子供の内訳は男が五人で、女が四人。母親の方は、一応言っておくが、全員女性である。

 思春期か、あるいは思春期を経験した子供にとって、母親と一緒に野球をすると言うのは、かなり恥ずかしい行為である。裸を衆人に晒すとか、スマホの検索履歴を他人に見られるとかよりはマシかもしれないが、恥ずかしいことには違いない。

 それではなぜ我々は、恥を忍んで野球などしているのか。それを説明するには、升畑由紀也という男の話をしなければならない。

 升畑由紀也の名を知らぬ者はこの国にいないだろう。知らなかったらウィキペディアか何かで調べて欲しい。彼は伝説的なプロ野球選手であった。弱小高校を自らの才能によって甲子園優勝に導いて以来、約三十年間野球界の話題の中心にいた男で、日本球界史上最大の天才との呼び声も高い。

 その升畑由紀也は四十七歳でこの世を去るまでの間に、一度も結婚しなかった。しかし、九人の女性と関係を持ち、九人の子供を作った。一般的な価値観で言えばクズみたいな男で、私もクズみたいな男だと思う。

 そして、そのクズみたいな男の九人の子供というのが我々であり、クズみたいな男と関係を持った九人の女性というのが我らの母親だった。

 我々九人の異母兄弟は、それぞれの母親によって、別々に育てられた。異母兄弟の中には、私と俊哉兄さんよ辰美姉さんのような、ずっと前から顔見知りの関係の者もいれば、今日初めて会うような者もいた。

 そんな私たちが集まって野球などしているのは、升畑由紀也の遺言のためだった。

 自分が死んでしまったら、自分の愛する女たちと、自分の愛する子供たちが、自分の愛する野球で勝負するところを天国で見たい、と、彼は願った。升畑由紀也が天国に行けるかは疑問だが、とにかく彼はそう願った。

 升畑由紀也の死の一ヶ月後、彼の子供とその母親がとある運動場に集められ、弁護士の立会いのもと、野球をすることとなった。もしも正当な理由がなく、子供やその母親が参加を拒否した場合、子供に与えられるはずであった升畑由紀也の遺産は剥奪されることになっていた。

 だから、我々は野球をしている。

 子供たちの半数以上は、莫大な遺産欲しさに、仕方なく野球をしているという感じであったが、母親たちの方は全員やたら乗り気だった。さらに、母親たちが全員野球経験者である一方、子供たちの中には野球のルールすらろくに知らない者がいるという有様で、勝負の行方は火を見るよりも明らかであった。

 こんな試合を見て、日本球界史上最大の天才こと升畑由紀也は面白いのだろうか、と私は思う。

 実際、私の母の好投と、母親チーム全体の堅実な守備により、子供チームは凡打と三振の山を築き上げていった。それに対し、母親チームはコンパクトで鋭いバッティングにより、前半戦が終わるまでに四点を上げることに成功していた。

 六回表になって、私に二回目の打順が回ってきた。

「三回みたいなやる気のないバッティング見せたら承知しないよ」

 と言うマウンド上の母に対して、

「どうでもいいから、さっさと終わらせよ」

 とバッターボックスの私は返す。

 母が振りかぶり、ボールを投げる。私はバットを振る。空振り。

「真剣にやらなきゃダメだよ」

 と母はいい、次のボールを投げる。大きく曲がるカーブ。二球目も、やっぱり空振りだった。

「ほらほら、ちゃんとボール見て」

「うるさいなあ、もう」

 そして三球目。ストレート。私はどうせ当たらないだろうと思いながら、バットをフルスイングする。

 驚いたことに、手応えがあった。ボールは遠くへ飛んでいく。遠くへ、遠くへ、飛んでいく。やがて、ボールは運動場のフェンスを越える。

「面白くなってきたじゃない」

 と母が笑った。

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