No.16 シュート
両国国技館の控え室で、二人のプロレスラーが言葉を交わしていた。超日本プロレスを長年支えてきたベテランレスラーである山瀬哲臣が眉間にしわを寄せる一方、超日本の若手で一番勢いがあると目される川岡智樹はひどく疲れたような顔をしていた。
「川岡、俺に負けろってどういうことだ」
山瀬は明らかに怒気を含んだ声を発した。
「……」
「てめえも知ってんだろ、この業界で一度決めたブックを守れねえレスラーは塩以下だって。馬鹿なこと言って先輩困らせんじゃねえぞ」
ブックとはプロレス業界の隠語で、各試合の勝ち負けや展開などに関する取り決めのことだ。
その日の両国国技館興行のメインイベントでは、チャンピオンの山瀬が挑戦者である川岡を、三〇分の死闘の末、メテオダイナマイト(変形のフルネルソンスープレックス)によって倒し、ベルトをそのまま保持することが決まっていた。
しかし、川岡は当日の試合前になって、そのブックを変更するよう、山瀬に願い出たのである。無論、山瀬がそんな提案を認めるはずがなかった。川岡にとって両国国技館規模の会場でメインイベントを務めるのは初めてのことだから気が動転しているのだろうと、山瀬は考えた。
首を縦に振らない山瀬に対し、川岡は「ねえ、山瀬さん」と言った。
「ねえ、山瀬さん。もしも、俺が昨日も山瀬さんと同じベルトをかけて戦ったって言ったら、山瀬さん信じますか」
「はあ?」
山瀬は川岡の言っている言葉の意味が理解できなかった。
「ほら、映画や漫画でよくあるじゃないですか。タイムループって言うんですかね、同じ時間を繰り返すやつ。実は俺、あれに巻き込まれているんです」
「……正気か?」
「もう二十回以上、俺は山瀬さんのメテオダイナマイトで負けているんです。いや、試合だけじゃありません。食ってる飯も、会場にいるお客さんも、俺以外のレスラーが取る行動も、毎回全部同じなんです。同じ光景を何回も見ている。俺が言ってる意味、わかりますか」
「言いたいことはわかるよ。信じられないが。それで、俺に負けてくれと言ってるわけか。お前が勝てばそのタイムループとやらから抜け出せるかもしれないと」
「そうです。お願いです山瀬さん、どうか俺の頼みを……」
川岡は重々しく頭を下げたが、山瀬はそれを鼻で笑った。
「アホか。そんなSFみたいなことがあるわけないだろ。大事な試合を壊すようなことを言うんじゃねえ」
「でも」
「でもじゃねえ。いいか、お前は確かに才能がある。若いし体力があって顔もいい。お前が勝って喜ぶファンもいるだろうよ。だがな、今日はお前が勝つ日じゃない。今日は俺が勝つべき日なんだ。プロレスっていうのはそういうもんだ。わからねえとは言わせねえぞ」
「……」
それから、川岡も山瀬も、試合が始まるまで互いに口をきくことはなかった。
その日の両国国技館のメインイベントは、プロレスの歴史に名を残す試合となった。名勝負としてではない。ショッキングな不穏試合としてだ。
試合開始直後から、川岡は投げ技や関節技をほとんど使わず、ひたすら山瀬に打撃を加え続けた。山瀬が技をかけようとしても川岡はそれを受けず、ひたすらキックやパンチを繰り返した。ダメージの蓄積した山瀬が倒れると、川岡はすかさず彼に馬乗りになり、その顔面を殴りまくった。
山瀬を殴る川岡はなぜか号泣していて、観客はその異様な光景に戦慄した。
試合は結局、審判が
後日、川岡は超日本プロレスに辞表を提出した。超日本プロレスの役員や選手の中で、ただ一人山瀬だけが、川岡を引き止めようとした。しかし、結局川岡はプロレス界から完全に引退し、二度とリングの上に戻ってくることはなかった。
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