No.12 顔のない男

 小学校に入る前、幼稚園児だった頃、俺は時々顔のない男を見た。顔のない男というのは、成長した俺が後になって勝手につけた名前だ。幼稚園児だった俺がその男をなんという名前で認識していたのか、今となっては思い出せない。あるいは、名前などつけていなかったのかもしれない。

 夕暮れの街角で、公園で、ショッピングモールで、俺は顔のない男を見つけた。背の高い、細身の男だ。その男の顔には、どういうわけか霧か煙のようなものが常に纏わりついていて、俺はその男の顔を見ることができなかった。その男の周囲にいる別の人間の顔は、はっきりと判別できるのに、その男の顔だけ見えなかったのである。

 俺は異なる場所で、何度も顔のない男を見ているが、それらの顔のない男が全て同一の存在であったのかはわからない。もしかしたら複数人の顔のない男がいたのかもしれないが、確かめようがなかった。

 顔のない男について、両親や幼稚園の友人に話したこともあったと思うが、どのような反応が返ってきたかは覚えていない。多分まともに相手にされなかったのではないだろうか。当時の俺の語彙では、顔のない男についてうまく説明できなかった可能性も高い。

 小学校に上がってからも、俺は何度か顔のない男を見たが、その頻度は幼稚園児だった頃と比べて、確実に減っていた。そして小学三年か四年になる頃には、顔のない男を見かけることは全くなくなってしまった。

 高校生に上がり、俺に生まれて初めて恋人ができた。俺はゲイで、一つ年下の恋人も、多分ゲイだった。

 高校二年生の夏休みのことだ。俺と恋人は二人で夏祭りに出かけた。焼きそばや焼きイカを食べたり、花火を見て過ごした後、俺たちは手を繋いで家路についていた。普段は手など繋がないのだが、夏祭りのせいで俺たちは浮かれていた。

 小さな公園の前を通りかかった時、急に恋人が足を止めた。手を繋いでいた俺も足を止め、なにかあったのかと恋人に訊ねるが、恋人は何も答えなかった。彼はただ、じっと公園の中に立つ自動販売機のあたりを見つめていた。俺も目を凝らして、恋人が見つめる先を観察してみた。

 よく見ると、自動販売機の前には一人の男が立っていた。全身黒ずくめの、細身の背の高い男。その男の顔には、霧か煙のようなものがまとわりついていた。

 顔のない男だ、と俺は思った。

 次の瞬間、恋人が俺の手を引っ張って、恐ろしいほどのスピードで走り出した。恋人と一緒に走りながら、彼の手がまるで氷のように冷たくなっていることに、俺は気がついた。

 ある程度の距離を走ってから、俺たちは足を止めた。

「大丈夫か」と俺は恋人に訊ねた。

 彼は俺の質問には答えず、「先輩も見ましたか、あれを」と早口で訊ね返した。

「見た」と言って、俺はうなずいた。

「何なんですか、あの恐しいは」

 俺は真っ青になった恋人の顔を見つめた。そして、「顔はよく見えなかった」と正直に言った。

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