No.07 紙魚
冷たい空気と墨色の闇が漂う書庫の中で、ひとりの男がランプの灯りを頼りにして、質の悪い紙に筆を走らせていた。木製の机の上に広げられた紙と、男の眼球の間の距離は、擦れそうなほどに近い。
男がお世辞にも上手いとは言えない筆跡で紙に書いているは物語だった。男は毎日書庫に来て、朝から晩までずっと物語を書き、それによって給金を得ていた。男が書くのは長い物語ではなく、ひどく短い無数の物語だった。それぞれの物語の間に繋がりや関連はなく、なにか一貫したテーマがあるわけでもなかった。
男は物語を書くが、小説家と呼ばれるような存在ではなかった。本を出版したことなど一度もない。男の職場は図書館の書庫で、男の肩書きは司書であった。
図書館の書庫には、紙魚と呼ばれる生物が生息している。魚という字が入っているが、魚類ではなかった。見た目だけなら猿に似ているが、成長しても栗鼠ほどの大きさにしかならない。
この紙魚という獣は物語を食べる。紙に書かれた物語を、ザラザラした舌で舐め、鋭利な牙で齧る。物語を食べる際に、書物にできる歯型が、ちょうど魚のような形をしていて、それ故にこの害獣は紙魚と呼ばれるのだった。
図書館にとって、紙魚の対策をすることは重要な課題の一つだった。紙魚を放置して、その旺盛な食欲の為すがままにしておけば、図書館の蔵書はあっという間にズタボロにされてしまう。
男は物語をひとつ書き上げると、足元に置いてあった小さな籠の中にそれを入れて立ち上がった。そして、書庫の暗闇の中を歩き、適当な書架の脇にその籠を置いた。
作られたばかりの物語は、書籍に掲載されているような時間の経過した物語と比べて、匂いが強い。物語を入れた籠には仕掛けがしてあって、匂いに誘われた紙魚が籠の中に忍び込むと、蓋が閉まるようになっていた。この仕掛けを使って紙魚を捕まえ、首を絞めて殺すことが、男の仕事だった。
毎日新しい物語を生み出すことは、決して楽な仕事ではなかった。男は過去に書いた物語と同じ物語や、似たような物語を書くことは決してしなかった。紙魚は新鮮な物語を好むからだ。自分が書いた物語の二番煎じでは、紙魚をおびき寄せることができない。
男の書いた物語は紙魚を殺すためだけに用いられ、誰かに読まれることはなかった。それどころか、男自身が読み返すこともない。先ほど籠の中に入れた物語も、紙魚によって食い散らかされて、永遠にこの世から消え去るだけの運命だった。
罠を仕掛け終えると、男は暗闇に向かって細く息を吐き出した。
遠くの方で微かに何かが動く音が聞こえた。紙魚の足音かもしれない、と男は思った。その音はすぐに消え去り、書庫の中はまたすぐに静まり返った。男は息をゆっくりと吸い込んだ。
それから、男は机に戻り、また新しい物語を書き始めた。
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